愛しさで傾けた世界にて
夕闇が漂い、薄暗い道を歩いているのは黒の小袖に木蘭色の袈裟を着た質素な格好の虚無僧だ。頭には天蓋と呼ばれる深編笠を被り、腰には刀、手には尺八が握られている。辺りに人気はなく、もうすぐ訪れる夜を待つかのように梟などの鳴き声が耳に届いた。
一度足を止めた虚無僧は天蓋外し、ふぅ、と息をついた。天蓋の下から現れたのは何とも穏やかそうな若い男の顔だ。髪は短く切られてはいるが、剃られてはない。少し太く垂れ眉と同じく垂れがちの瞳は優しげで髪と同じく黒い睫毛が縁取っている。年の頃は十八辺り。とても人の良さそうな青年だ。
穏やかそうなこの青年の名は平太と言った。虚無僧の格好をしているが、実際に修行をしている訳ではない。この格好をしていれば関所を難なく通過することが出来るので変装しているのだ。彼の本職は僧とは程遠く、忍者として生きている。
山へと入るのは明日にした方がいいと麓の町で何度か言われた。その言葉は正しかったなと思いながら平太は空を見上げる。木々の枝や葉で空はほんの少ししか見えないがその色はもう黒に近かった。辺りには村はおろか、人影すらない。野宿する以外方法はなさそうである。
山に生きる虫や動物の声に混ざって微かに水音が聞こえ、平太はその音の方向へと歩き出した。飲み水を確保するのは野宿する際にとても大切な事であり、汗をかいたので顔も洗いたいと思ったのだ。
山道はどうやら水場の方へと伸びているようでどんどん水音が近付いてくる。そして暫く歩くと川のほとりへと出た。川は小さいものではなく、それなりの大きさだったが橋などは見当たらない。
顔を洗おうと水際で屈んでいると不意に背後に気配を感じた。動物でも虫でも人でもないその気配にぞっとして振り返るとそこには闇を背負った若い男がひとり立っていた。
結われた髪は短く綺麗に揃えられていて、長めの前髪は平太のものと似ている。はえさがりが幾つか落ちていて顔に掛かっているのが印象的だ。平太とは違い、つり眉つり目のその男は平太と目が合うと笑みを浮かべた。
「君、お坊さんかい?」
「…修行の身です」
「修行中か。そうかそうか」
男は何故か楽しそうにしていてゆっくりと近付いてきた。人間の形をしているのに気配は人間のものとは全く違う。相手がどう出るのか分からず、平太は緊張したまま男を見つめていた。
「私は…そうだな、留三郎と呼んでくれ。君の名は?」
留三郎と名乗った男に名を教えていいものかどうか思ったりもしたが、教えないほうが怖いと思ったので平太は自分の名を口にした。
「…平太、と申します」
「平太か。いい名だな。うむ、良く似合っている」
男は満足げに頷き、平太に今夜はどう過ごすのか尋ねてきた。どう過ごすと問われても野宿以外の選択肢がある筈もなく、そう答えると男が「うちに泊まっていけばいい」と笑った。
「…この辺りに住んでいるのですか?」
「すぐそこだ」
男は林の向こう指したが、平太はにわかに信じ難かった。ここまでの道のりで廃村を見かけていたのだ。雨風に晒された家々は随分と傷んでいて人が住めるようなものは見当たらず、以前は畑だったと思われる土地も随分と荒れ果てていた。かなり昔に見捨てられた村と見受けられ、人が住んでいるような気配は全くと言っていいほど無い。それなのにこの男は麓の町まで一刻半も掛かるこんな山奥に一人住んでいると言うのだから平太が疑ってしまうのも仕方がなかった。
「こんな時間から山を歩くと大変だぞ。私の家に泊まっていけばいいよ」
男は平太へと手招きをして歩き出した。
二人で夜道を歩いているのに足音はひとり分。平太の分しか聞こえない。妖怪の類か、はたまた幽霊か。留三郎と名乗った男の正体が何か分からないまま平太は後に続いた。用心深い平太の手は刀の鞘にずっと触れている。この男の正体が妖怪だったとして果たして刀などで斬れるのだろうかと思案しているうちに男の家とやらに辿り着いた。
男が住んでいるという家はあまりに普通の民家だ。怪しいところと言えば、山道の途中に一軒のみぽつんと立っている事くらいだ。
「どうぞ」
彼はにこやかな笑みを浮かべて平太を家の中へと招いた。家の外観と同じく中も普通の民家で平太はほっとした。
「平太はもう夕食は済ませたのか?」
「…いえ」
「なら一緒にどうだ?私もまだなんだ」
留三郎は平太の返事を聞く前にもう一つの食器を用意している。あまりにも嬉しそうにしているので断るわけにはいかないだろうと平太は「世話になります」と頭を下げた。
適当に切った野菜を煮込んだ煮物と白米、漬物が夕飯として出された。それらはどれも美味しくそれを伝えると留三郎は嬉しそうに笑う。野菜は裏にある畑で自分で育てているらしく誇らしげでもあった。
留三郎はとても楽しそうにして平太へと幾つか質問してきた。何処から来たのか、何処へ行くのか。好きな食べ物の話や麓の町の様子など、色々と聞いてきては平太の答えを興味深そうに聞いている。にこにこと笑みを浮かべている顔はどこからどう見ても人間で、自分が意識し過ぎているのかも知れないとさえ思った。それでも彼の気配の独特さに眠気は下りては来ない。
「酒もあるんだ。飲もう」
そう言って留三郎はお猪口を二つ持ってきたが、平太はそれを丁寧に断った。さすがに酒はまずいと判断したのだ。はじめは悲しそうにしていた留三郎も修行中の身だと一言告げるとそっか、とあっさり諦めた。
「やっぱり誰かと一緒にいるのはいいなぁ」
酒を飲み、そんな言葉を呟いた彼の顔がどこか寂しげで、平太は下手に声を掛けられなかった。彼の持つ影は深すぎて容易に近付いてはいけない気がしたのだ。
間に衝立を挟んで布団を用意し、その晩はそのまま就寝することになった。衝立越しに男の寝息が聞こえてきたが、平太は衝立の向こうを覗こうとはしなかった。気配は相変わらず人間のものとは違う。下手に首を突っ込んでしまうと引けなくなる。それを恐れていた。
任務のために都入りを目指す平太は翌日の朝には男の家を後にすることになった。男は別れを惜しみ、昨夜とは違って静かに平太を見送った。途中で食べろと握り飯を用意してくれたりするところなど人の良さを感じたが、それでも恐怖心は消えなかった。
平太が振り返ると男は手を大きく振る。平太が見えなくなるまで見送ってくれた男の事が平太の心に何故か引っかかっていた。
都での仕事を終えて引き返す時、平太はあの山を通るかどうか悩んだ。山道は一本しかなく、間違いなくあの男の家の前を通る。人間だと思えない男に再び顔を合わせるのを怖いと思うのと同時に、彼がひとりでいるのかと思うと可哀想な気もしてきた。あの山から離れて十日以上も経てば恐怖心はどうしても薄らいでしまう。結局平太は帰りも同じ道を通る事にした。
太陽が西に傾いた頃に山を登り始めれば途中で日が暮れる。それを分かって平太は山へと足を踏み入れた。そして以前のように川のほとりに立ち尽くす。
ざわりと空気が変わったような気がして振り向くとさっきまでは誰もいなかった場所に留三郎が立っていた。
「平太、また来たのか!都まで行ってきたんだろう?思っていたよりずっと早かったな!今日ももう遅い。私の家に泊まっていけよ」
パタパタと駆けよって来て嬉しそうにしている留三郎を見ていると恐怖を感じる方が失礼のような気もする。帰ろうとすれば帰してくれるのだから悪い類のものではないのだろう。
「ぜひそうさせて頂きたいと思って立ち寄りました」
平太がそう答えると留三郎は満面の笑みを浮かべ、平太の手を取った。肌に触れたのは初めてだが、人間のものと違いはない。体温は暖かく、手は平太より少し小さいくらいだ。ぎゅっと握りしめると留三郎も握り返して笑った。
「平太が帰りに寄ってくれれば嬉しいなってずっと思ってたんだ」
平太の方をちらりと見上げ、留三郎が微笑む。月明かりが留三郎を照らして闇から浮かび上がらせている。睫毛に月の光が留まってきらきらと輝いていた。
「平太?」
思わず見惚れていると留三郎が不思議そうに瞬きをしながら平太を見上げていた。
「え、いや、なんでもありません」
「そうか。なら行こう」
平太の手を引いて先に歩き出す。自分より少し低い位置にある後頭部を眺めながら平太は別れ際に彼が寂しそうにしていた事を思い出していた。
留三郎は平太へと夕食も振る舞い、以前の様に酒を出してきた。
「…あ、平太は飲めないんだよな」
思い出したように少し悲しげに眉を下げた留三郎に平太は「頂きます」とはにかむ。
「…え、でも修行がって」
「その事なんですが、あれは嘘と言うか…任務が終わるまでどうしても言えなくて」
平太が申し訳なさそうに眉を下げる。
「任務?」
留三郎は不思議そうにぱちぱちと瞬きをしている。
「修行している訳じゃないという事です。虚無僧の格好をすれば関所を簡単に抜けられるので変装していたのです」
平太が詳しく説明すると留三郎はぱあと顔を明るくした。
「へぇ、そういうものなのか!私はこの山から出た事がないから世事に疎くて…よく分からんが酒は飲めるって事だろう?」
そう言った留三郎は平太の前にもお猪口をひとつ置いた。それを手に取って平太は「はい」と頷く。以前は酒に酔って寝てしまえば食われるかもしれないと思っていたが、今となってはそれが杞憂だと分かる。この人はただ単に誰かと酒を飲みたいのだという事が今の平太にちゃんと伝わっていた。
「飲もう!誰かと酒を酌み交わすのは随分と久しぶりだ」
留三郎がお猪口にとくとくと酒を注ぎ、平太も彼のお猪口へと酒を注ぐ。器を軽くぶつけ二人はぐいっと一気に酒を呷った。口に入れた瞬間ふわっと甘く香り、深みとコクがあって風味もいい。あまりに美味しくて驚いていると留三郎が「美味いだろう?」と笑っていた。
「…はい、とても美味しいです」
「この酒は特別なんだ。滅多に飲めないから平太はついてるよ」
お猪口へとまた酒が注がれ、平太はもう一度ぐいっと飲み干した。やはり今まで飲んだどの酒よりも美味しい。
「いい飲みっぷりだな」
留三郎も二杯目を飲み干して笑っている。
「これ、どこの酒ですか?」
「ん〜…秘密だ」
留三郎は唇の前に人差し指を持ってきて目を細めながらそう告げた。その一挙一動に見惚れてしまうのは酔っているからか。平太はごくりと酒を飲み込んで留三郎を見つめた。
「秘密ですか」
「そう。秘密。でも飲む分には全然いいから、ほら、飲め!」
もう一度注がれ、平太はそれをぐいっと飲み干す。そうすると負けじと留三郎も三杯目を飲み干した。
「…結構いけるんですね」
「平太には負けんぞ」
二人は既に頬や目元を赤く染めていたが、酒を飲む速度は落ちず、月が段々と傾いて東の空が白く染まる頃には酒に酔い潰れて寝てしまっていた。
平太が目を覚ますと辺りには既に太陽に光が落ちていた。平太の隣では留三郎が未だ眠っている。酒の所為か寝汗が酷く、体がべたつくような気がする。いつもの朝よりずっと不快感を強く感じ、やはり酒は飲みすぎるのはいけないなと平太は思った。顔を洗おうと体を起こし、留三郎を起こさないよう気を付けながらそっと家を出る。近くの川で顔だけでなく体も洗ってしまいたい。
外に出ると家の中にいた時より鳥の声が多く聞こえ、動物たちの声も聞こえてくる。朝はとっくに過ぎ、太陽の位置を見るともう昼前くらいの時間だ。久しぶりにこんな時間まで眠ってしまったなぁと平太はひとり苦笑していた。
川の水は気温よりも冷たく、顔を洗うと頭がすっきりする。川の深さは平太の腰より少し深いくらいだ。ついでにと服を脱ぎ、川へと入って汚れを落としていると「平太!」と平太を探す留三郎の声が聞こえてきた。
「…こんなとこに、いた」
はあはあと息を切らせて留三郎が駆けてくる。そして平太を見つけるとほっとしたように笑みを浮かべた。
「朝起きたらいないからびっくりした」
「眠っていたんで起こさないように出てきました。顔を洗おうと思ったんですが、どうせなら体も洗おうと思って…」
平太が体を洗っているのを見て、留三郎は「気持ちいいだろ?家から手拭い持ってくるよ」と笑う。持っているからと断ろうとしたが大きい方がいいだろうと言い残して留三郎は去って行った。
手拭いを取りに行った筈の留三郎は中々戻って来なかった。そうしてようやく戻ってきたと思ったら手拭いの他に色々用意してきたようだった。
「朝も昼もまだ食べてないだろ?握り飯持ってきた!あと手拭いに着替えと、お茶もあるぞ」
留三郎は籠から色々取り出して嬉しそうに見せてくる。他にも色々あるんだと見せてくれるその姿が可愛く思え、平太はいつの間にか微笑んでいた。そして留三郎の手を取る。
「留三郎さんも水浴びしませんか?」
平太の誘いに留三郎は驚いたように固まったが、彼が二人分の着替えを用意しているのを平太は知っていた。
「水は少し冷たいですけど、すぐに慣れますよ」
そう言って手を引くと留三郎は嬉しそうに頷き、その場で服を脱いだ。紺色の服の下から覗いた肌は白く、平太は少し視線を逸らし、留三郎が川へと入るのを待った。服を脱いだ留三郎は勢いよく川へと飛び込む。水飛沫が飛び、平太は思わず目を瞑っていた。
「少し冷たいかな」
「すぐに慣れますよ」
「そうだな」
留三郎は結っていた髪を解き、頭まで水に浸かる。そして暫くして水面から顔を出した。
「気持ちいな!」
髪をぶんぶんと勢いよく振り回されると水が飛び散り、平太の方までと飛んでくる。
「あ、ごめん!」
平太の方まで水が飛んでいてる事に気付いて留三郎は慌てて謝る。けれどどうせ濡れているからと平太は気にならなかった。不意に足元をぬるりとした感触のものが触れ、思わず小さな悲鳴をあげると留三郎が笑いながら「魚だよ」と言った。川には確かに魚が泳いでいて時々それらが足を掠めていく。
「…こうやって見ると魚多いですね。昼食用に獲りましょうか」
平太は足の間を泳いでいく魚へ視線を落としながらそう声を掛ける。そうすると「そうだな」と留三郎の返事が返ってきた。
じゃあ釣り道具でも作りましょうか、と声を掛けながら平太が視線を上げた時、思わず目を疑った。留三郎の周りに数多の魚が群がり、彼の周りだけ水が黒く見える。多くの魚が留三郎の周りを泳いでいて、何かを告げたそうに口をぱくぱくと開けていた。
「平太、どれくらい必要?」
「…に、二匹くらいでいいんじゃないですか?」
「そうだな。じゃあ、二匹。お前達おいで」
留三郎が水の中に手を差し入れると魚が二匹手の平の上に並んだ。そしてそれを掴み、留三郎が「獲れたぞ」と告げる。さっきまでぐるぐると彼の周りを泳いでいた魚たちは蜘蛛の子を散らすように去って行き、川はいつも通りに戻った。
「火を起こさなきゃな。先上がるな!」
留三郎は先に川から上がって手拭いで拭き終わると紺色の服へ腕を通した。そして川から少し離れた場所で火の準備を始める。留三郎だけに準備させるわけには行かないと、平太も同じように留三郎が用意してくれた服で身を包んだ。
「平太にはその服、少し小さいかな」
「いや、大丈夫です」
確かに少し短いが、深い緑色の生地は上等なものでとても肌に優しく、丈が少し短い事など気にならなかった。
川から少し離れたところで留三郎が火を起こし、魚を焼いている。平太は握り飯や茶が入っている籠を持って留三郎の方へと移動した。
「髪、まだ濡れてますね」
座っている留三郎の後ろに立ち、平太は留三郎の髪へと触れた。髪も普通の人間とそう変わらない。平太が手拭いを上からかけて留三郎の髪を拭いてやると留三郎は嬉しそうに笑った。
魚も焼け、二人で並んで昼食を食べる。見上げた空は青く夏がすぐ近くまで来ているのが分かった。二人しかいない静かな空間。平太は視線を空から留三郎へと向けた。目が合うと照れたように微笑む留三郎の事をもう怖いだなんて思えなくなっている事に気付く。
「…留三郎さんはどうしてこんな山奥にひとり住んでいるんですか?」
平太の言葉に留三郎は手を止めて少しだけ俯く。
「山を下りれて暫く行けば栄えている町がありますよ。そこに住まないのですか?」
留三郎は平太の言葉を最後まで聞き、寂しそうに笑った。
「見上げれば青々とした山、山から清流が流れ、東側には竹林もある。確かに不便な場所だけれどどれも美しいだろう?」
留三郎のその言葉に平太は強く頷いた。
「美しいですね」
そう言ってくれた平太に留三郎は嬉しそうに微笑み、「だから、離れられないんだ」と告げる。慈しむような優しい目で山を見つめる留三郎に平太は何も言わず、ただ同じように視線を山へと向けた。
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(2012/06/17)
忍FES.3用に書いたペーパーですが、長くなったのでWEB上に上げました。
まだ続きます。