愛しさで傾けた世界にて







忍者という職についている平太はどこかの城に属している訳ではない。なので留三郎のところに暫く滞在してみるもいいかも知れないと思った。一人では何かと大変だろうと気にかかったし、何より自分と一緒にいるのが楽しいと言ってくれるのがとても嬉しかったのだ。
ここに暫く滞在したい。それを留三郎に告げれば平太の想像以上に留三郎は喜んだ。誰かが常にいてくれるのは随分と久しぶりらしく辺りの案内までしてくれる。

「…あの道は?」

平太が足を止め、指した先には細い道が一本森の奥へと伸びていた。不自然なほど静まり返っているその道へ視線を向け、留三郎が珍しく歯切れ悪く「あぁ、あれは」と言いよどむ。

「あそこは近づかない方がいい」

留三郎が表情を暗くしてそう言ったので平太は「分かりました」と返す。けれど視線はそこから剥がさせない。山の中で違和感を覚えるような異様な雰囲気が漂っている。

「次は滝を案内するよ」

平太をその場から引き剥がしたいのか、留三郎は平太の手を握り締め、先に行くように歩き出した。


二人きりの生活はとても穏やかなものだった。昼は留三郎が作っている畑を手伝い、夜は二人で酒を楽しんだ。酒に酔った留三郎に色々と聞いてみようとしたが、留三郎はあまり自分の話はせず、平太にこの山以外での話をねだった。平太が海の話や、南蛮の船の話をしてやるとまるで子供の様に楽しそうに聞き入っていた。

そんな生活が二週間程過ぎた辺りから留三郎の様子が段々とおかしくなってきた。と言うのも、夜になると衝立の向こうでぼそぼそと誰かと話す声が聞こえてくるのだ。留三郎の声とも違う声とも取れるその声は確かに気になったが、それでも平太は衝立の向こう側を覗こうとはしなかった。こんな山奥に他に人がいる筈もなく、人間ではない留三郎が会話をするものがどういう類のものか、何となく察することが出来たのだ。そしてそれに首を突っ込んでしまうのは止した方がいいだろうという判断から、平太は衝立の向こうを覗かない事に決めた。
予想外だったのは、あの声が聞こえ始めて三日もすると留三郎が体調を崩すようになってしまった事だった。熱が下がらずに臥せってしまう為、畑仕事などは平太がやらなければならない。人間ではない筈の留三郎がこんなあっさり体調を崩すなんて、平太は意外でならなかった。

「…ごめんな。平太に仕事ばかりさせて」

熱の為に涙を浮かべた留三郎は平太のことを気に掛け、一日に何度も謝る。そんな留三郎を平太は「気にしないでください」と宥めては面倒を見ていた。
薬草を採りに行こうと山道を歩いていると、分かれ道に差し掛かって平太は足を止めた。細い道が伸びている先は暗い山の中だ。その道の先に何があるのか無性に気になって仕方ない。この道の先の話になると留三郎が急に歯切れが悪くなるのも気になっていた。だから平太は少し覗くだけと決めてその細い道へと一歩踏み出した。

昼間だというのにどこか薄暗く、森の中の筈なのにひっそりと静まり返っている。最近鳴き出すようになった蝉の声もこの場所では一切聞こえない。

「…これは、」

平太が足を止めた先には小さな古い社があった。もう長い間人は訪れてないようで、杯は干からび、供え物も見当たらない。
この場所の雰囲気が何かに似ていると気付いた時、大きな気配が近付いて来る気配を感じた。良く知る気配が背後にまで迫り、振り返ればそこには留三郎が裸足のまま立っている。今にも泣き出しそうな留三郎の表情を見て、平太はようやく真実に気付く。この場所の空気は留三郎の気配ととても良く似通っているのだ。

「…貴方、神様なんですね」

平太の問いに留三郎は少し躊躇った後に静かに頷いた。多分、この社が留三郎の本当の家なのだ。だから見つかりたくなかったのだろう。どうして人間の姿をしているかは知らなかったが、彼は悪い類のものではなく、もっと高尚な存在なのだと知れて嬉しかった。

「この山の神なんですか?本当の姿、見せてください」

留三郎は平太の言葉にもう一度頷き、服の帯を解いた。まばゆい光を発したので目を瞑り、もう一度目を開くとそこには龍になった留三郎の姿があった。淡い水色の龍は大人しく平太の前でじっとしていて、平太の顔を窺うようにじっと見つめてくる。平太が龍の顔を撫でてやると嬉しそうに目を細める。それは留三郎が良くする仕草だった。

「…綺麗ですね」

平太の言葉に留三郎はもう一度人型に戻ったが、額から角が出たままだ。瞳も人間のものとは違い、瞳孔が縦長に開き、瞳は赤い。

「…人が、好きなんですね」
「…うん。好き、だった」

留三郎は俯きながらゆっくりと口を開く。そしてかつての話をしてくれた。以前はこの山にも小さな村があり、人が住んでいた事。彼らの前に姿を現すと彼らも喜んでくれた事。そこでは「留三郎」と名乗っていた事。どれも初めて聞く話だった。

「皆俺の子供みたいなもんだったんだ。童はすごく懐いてくれてな、遊びに行く度に留三郎って呼んでくれたんだ。遊んでやるとそりゃ喜んでくれて。皆が迎え入れてくれたんだ。懐かしいな…」

留三郎はもう誰もいない村の方向へと視線を投げかけ、そして悲しげに佇んでいた。あまりにも悲しそうなその姿にどう声を掛けてやればいいのか分からない。平太が留三郎の姿を見つめていると、留三郎の影からにょこっと真っ黒な生き物らしいものが姿を見せた。そいつらは首をカタカタと鳴らしながら黄色い目玉をぎょろぎょろ動かしている。ひと目見て物の怪の類だと分かったが、その物の怪らは首をカタカタと動かしながら耳障りな声で「コロセ」と告げた。

「コロセコロセ 寂シイナラコロシテ連レテケ」

カタカタと笑い声のようなものを上げながら物の怪は耳障りな声を上げる。留三郎はただただ耳を塞ぎ、耐えるようにじっとしていた。物の怪の声は聞き覚えがあった。衝立の向こうから夜な夜な聞こえてきた声ととても良く似ていたのだ。
物の怪は留三郎の影からにょきにょきと姿を現して数を増やす。彼らは留三郎の足元でコロセコロセと繰り返していた。物の怪は留三郎を神から引き摺り下ろそうとしているのだ。神が私利私欲のために人を手に掛ければ神から物の怪へと堕ちてしまう。そして幾ら神であっても信仰してくれる人がいない留三郎には物の怪をはね除けるだけの力がもうないのだ。
平太は持っていた苦無を物の怪へと放った。三つの苦無が突き刺さると物の怪は姿を煙のようなものに変えて消えていく。森はさっきまでの静けさを取り戻し、留三郎が静かに呼吸する音が耳に届いた。

「…おんな神であれば移動出来たのに。そうすれば平太の行くところが何処だって着いていけた。けど俺は男神だから。男神は移動できないんだ。俺はここでずっとずっとひとり…寂しい。ひとりは寂しい」

留三郎は平太をまっすぐに見つめ、涙を一筋零した。透明な涙は人間のものと変わらないが、それが足元へと落ちるとそこから芽吹いた。神である留三郎の涙にはそれだけの力があるようだった。

自分より小さく、細い留三郎の体を抱き締めると留三郎も平太の服をぎゅうと掴んだ。自分よりも明らかに力を持つはずの留三郎に頼りになるのは平太だけだと言って貰えたような気がした。この人を守りたいだなんて、身の程知らずなのだろうか。

「僕が…僕が貴方と一緒に行く方法はないんですか?」

留三郎の耳元でそう尋ねると彼は驚いたように体を離し、平太の顔を見上げた。真意を図るかのようにじっと見つめられる。赤い瞳に小さく平太の姿が映り込んでいて、微笑みかけると留三郎の唇が震えながら開き、平太の名を呼んだ。

「…俺と来てくれるのか?」
「はい。僕にはもう身内はいませんし、それに、貴方をひとりにはできません」

そう答えれば留三郎の方から再度抱きついてくる。

「ほんとか?俺と来てくれるのか?婚姻してくれるのか?」
「婚姻…僕は男なんですけれど大丈夫なんでしょうか?」

平太は不意に心配になってそう告げたが留三郎は平気だと言った。神はそういうところが緩いんだと笑っている。

「俺は平太がいいんだ。今までも旅人が通り過ぎる事は何度もあったけど、帰したくないって思ったのは平太だけだ。平太がいないと寂しいんだ」

そう言って微笑んだ留三郎がが本当に愛しくて平太はそっと顔を寄せ、そして口付た。そうすると春一番のような強い風が吹きつける。思わず目を瞑った平太が次に目を開けたら世界がまるで変わっていた。

辺りに木々はなく、足元は土ではなく雲だった。上には青い空が広がっていて太陽が眩しい。

「ここは?」

呆然と辺りを見回す平太に未だ人型のままの留三郎はふふっと笑い、平太の手を取った。

「天ノ原だ。これからはこっちで暮らすんだ。私の家を案内するよ」

二人は手を繋いで歩き出す。果てが見えないほど広く、生き物の影は見えない。

「広いですね」
「神は沢山いるけど天ノ原は広いからあんまり会えないんだ。仲良い奴らもいるけど、それでも広い」

寂しげな留三郎の手を平太が握り締める。留三郎の孤独を拭うように強く握ると留三郎が握り返した。

「でも、でもこれからは平太がいるから寂しくないぞ」

そう言って嬉しそうに笑う留三郎を見ていたら、胸が締め付けられるように甘く痛む。これほどまでに自分を必要としてくれた人を平太は知らなかったのだから、その人の為に生きたいと思うことだって初めてだった。そしてこれでいいのだと強く思う。今までは客に仕えて仕事をしていたが、これからは神の傍にいる事になっただけ。ただそれだけなのだ。

「…僕も同じですよ」

そう言って微笑めば留三郎は顔を真っ赤に染め「一生傍にいてくれ」と俯く。「勿論です」と返せば二人を祝福するかのように頭上を鳳凰が飛んで行った。







*:*:*







山道で毬をついていた童が小さな石に躓いて転んだ。涙を浮かべ、血が出てしまった膝小僧を見つめていた童は、毬がころころと細い道へと入っていくのに気が付いた。

「こら!どこ行くんだべ!森の中に入っちゃいけないって教えたろ!」
「だって、毬が!」

髪を肩で切り揃えた女の童は悔しそうに口を尖らせ、静止の言葉も聞かずに走り出し、毬の後を追った。毬はまるで何かに導かれるかのようにころころと転がっていく。普通なら有り得ない距離を転がる毬を追い掛けて童は森の奥へと入って行った。
毬は小さな古臭い社へとぶつかって止まった。童は屈んで毬を拾い上げながらじっと社へと視線を向ける。

「こらー!何処まで行くつもりだべ!」
「あ、母ちゃん!見て、社があるよ」

童の後を追い掛けてきた子供が社を指したので母親は慌ててその手を下げさせた。

「この山の神様が居られるんだから指しちゃ駄目だ」
「神様?」
「そうだべ。供え物持ってまた来んとな。これからこの山に住むんだから神様にちゃんと挨拶しないと」

母親は社の前で手を合わせ、童も真似をするように手を合わせる。

「…御神酒も必要だね。後で父ちゃんに言って持って来なきゃ。供え物は握り飯でもいいかねぇ」

ぶつぶつと喋っている母を尻目に童は腰を下ろしていた。

「何をしてんだい?」
「お花!お花も供えたら嬉しいでしょう?」

童は満面の笑みを浮かべ、摘んだばかりの桃色の花を見せる。

「そうだねぇ。花も嬉しいだろうね」

母は童の頭を撫で、「後でまた来よう」と先に歩き出した。童は「待ってよう」と言いながら摘んだばかりの花を社に手向ける。そうすると先刻まで誰もいなかった筈の場所にいつの間にか人が立っていた。赤い目をしたその人は花を受け取るとにっこりと笑う。童は驚いてぱちくりと瞬きをしながら男を見つめる事しか出来ない。男の唇が「ありがとう」と動き、そして風が吹くと目の前から消えてしまった。まるで初めから何もなかったように供えた花も消えてしまっている。

「…母ちゃん!」

童は興奮したように走り出し、先に歩いて行った母の後を追う。

「母ちゃん、神様って男の人?赤い目した男の人?わたしのお花持って行っちゃったよ!」

母親が娘の言葉に足を止め、訝しげに振り返った先には先ほどと何ら変わらない社がある。確かに花は無かったが、風で飛ばされたのだろうと母は決めつけた。

「母ちゃん、後で来るのね?わたしもう一回神様に会いたいよ」
「後で供え物持って来るよ。ほら、ちゃんと前向いて歩きなさい」

母の足元にじゃれつくようにしていた娘は母のその言葉に足を止め、もう一度社を振り返る。

「また後で来るね!」

にっこりと笑みを浮かべて大きく手を振った童に応えるように突如風が吹き、葉を揺らしていた。



 (おわり)







(2012/06/17)

忍FES.3用に書いた無料配布ですが、あまりにも長すぎて配布が難しくなったのでWEBにて上げています。
神様の留三郎と、たまたま通りかかった平太のお話です。
短くテンポよくと思ったのに16頁になってしまった不思議です。

神様の設定は、「竜の学校は山の上」という九井諒子さんの短編集から「代紺山の嫁探し」というお話の設定を拝借させて頂きました。
九井さんずっと大好きだったので単行本化本当に嬉しいです…!

そしてこのお話、楽しんでもらえたら嬉しいです。