正しさが笑う





フローリングの床が冷たくて留三郎は足の指を丸めた。窓ガラスを叩く雨の音が室内にも響く。ふと窓の方を向くと、途方にくれた自分と目が合った。吊りあがった目がいつもとは違って不安げに揺れていて、唇が僅かに震えている。その理由は雨が気温を下げて空気が冷たいからなどではなく、ただ、単に怖いからだ。
留三郎の目の前にいる男が次に何を言うのかが分からない。その恐怖が今、留三郎の体を支配していた。

震えているのか唇だけではなかった。じっと見つめると指先までも小刻みに震えている。留三郎はどうしたらいいか分からずそっと自分の手を握り締める。
その時目の前に座っている男が缶ビールをテーブルの上に置いた。少し乱暴なその音に留三郎はびくっと体を震わせ、そして目の前の男へと視線を向ける。

留三郎の目の前でソファーに腰を下ろしているのは留三郎に似た顔立ちをしている男だった。留三郎は「与四郎、」と彼の名を呼んだが、与四郎は未だ留三郎を強く見つめるだけで固く結んだ唇を開かない。
責めるような視線に耐えられなくなった留三郎は視線を与四郎から外し、自分の足の指先を見つめた。

留三郎と与四郎の二人の顔はパッと見たところは似ているが、よくよく見比べてみると何から何まで異なっている。初対面の人には「似てますね」やら「双子ですか」と聞かれる二人だが、彼らを昔からよく知る人物達は二人を似ていないと評していて彼等自身も似ているとはあまり思っていない。
体付きは顕著に違いが出ていて、骨が細く、細身な留三郎に対し、与四郎は骨格がしっかりとしている。身長はあまり変わらないが、体重や筋力では留三郎は与四郎に敵わない。けれどそんな与四郎に対して足が僅かばかり長い事が留三郎の自慢だった。

与四郎が腰を上げ、冷蔵庫へと歩いて行く。その音に現実に引き戻された留三郎は広いその背中を見つめてもう一度「与四郎、」と震えた声で呼んだ。涙が一粒、ぽたりとフローリングの床へと落ちる。

「…何して留が泣くんだ?」
「…ごめん」
「…ごめんじゃねーよ。いつもはそれで許してるけどそれだけで済む話じゃないだろ」

強い調子の声にはいつもの方言は消えていて、留三郎は体を強張らせるしか出来なかった。与四郎から方言が抜ける時は、彼が本気で怒っている時だと知っているからだ。

「…すまん。今ちっと言いすぎた。許してけーろ」

電気が消えたキッチンの冷蔵庫に手を掛けたまま与四郎は笑ったようだったが、暗過ぎて留三郎には見えなかった。だから笑い返すなんて出来ず、頑なに俯いては体を強張らせる。そうしないとこの場に居られないというくらい留三郎は体中に力を入れ、気を張っていた。
そんな留三郎を与四郎は少し離れた場所から見ていた。留三郎の視線は与四郎の方へは向かず、ずっと落ちたままだ。リビングで突っ立って、叱られた子供の様に俯いている留三郎を見ていると与四郎は段々虚しくなってくる。さっきまで渦巻いていた憤りや怒りも、すべてがもうどうでもよくなってきて、今あるのは裏切られたという悲しさだけだ。その悲しさが段々と沈んで行き、多分今は膝小僧辺りでぷかぷかと浮かんでいる。

暫くの沈黙の後、与四郎が溜め息を吐いた。それはとても重く暗い音をしたものでまるで海の底に沈むようにゆっくりと降下してフローリングの床へと転がる。
留三郎はますます顔があげられなくなった。そして今度は呼吸が上手く出来ない。

「…留、」

先ほどと比べると静かで穏やかな声に留三郎が恐る恐る顔を上げると、ソファーの前で立っている与四郎が悲しげに顔を歪ませる。
昔二人で見た、とても悲しい映画を見ている時と同じような顔を与四郎はしていた。

「…よしろ、」

与四郎の表情に留三郎は動揺を隠せず、目を見開く。
そして次の瞬間、与四郎の目から透明な涙が溢れて落ちるのを見た。

ドサっと音を立てて与四郎はソファへと座り、そして大きく厚い手で顔を隠した。

与四郎が、泣いている。
その事実にさっきまで留三郎の体を支配していた恐怖はふっと消えて行った。そしてざわざわとまるで虫が這う様な音を立てて罪悪感が体を食んでいく。

「よし、ろ」

さっきまで、まるで棒の様に突っ立っていることしか出来なかった留三郎の足がようやく自分の役割を思い出したように一歩進んだ。まるで頼りない砂の上を歩くように自分の歩みを確かめながら、留三郎はゆっくりと与四郎へと近付く。その間も視線はずっと与四郎の見えない涙に釘付けだった。
そしてようやく与四郎の前に立った留三郎は何度も躊躇いながら、与四郎の手へと触れた。与四郎の手は触れてきた留三郎の手を払ったりはせず、その手を掴んでぎゅうと握り締める。
顔を上げた与四郎の瞳はまだ濡れていてそれを見た途端、留三郎の涙腺がようやく泣くことを思い出した。溢れた涙はポタポタと与四郎の顔へと落ちては与四郎の顔を濡らした。

「与四郎…ごめん、なさい」

与四郎の手を握り返しながら留三郎は小さな声でそう呟く。
与四郎の目から零れていた涙は既に止まっていた。彼の顔を濡らしている涙の大半は留三郎のものだ。与四郎は「うんうん」と短く頷いて、もう片方の手で留三郎の髪へ触れた。与四郎のものとは違って柔らかいその髪を何度も梳き、そして何度も大袈裟なくらい撫でる。
彼の瞳にはまだ悲しい色が残っていたが、ずっと俯いて目を閉じながら涙を零す留三郎はそれに気付けない。

「ん。もういいべ」

与四郎は留三郎を抱き寄せ、まるで子供をあやすように留三郎の背中をポンポンと優しく叩く。

「もう怒ってねーべ。ちゃんとごめんなさい出来たから全部全部水に流すべーよ。雨降ってるから、あれに全部流してしまえば全部消えるけー」

与四郎の視線の先、窓ガラスを越えた向こうには黒く塗りつぶされた様な夜があった。それを睨みつけながら与四郎は何度も何度も泣いている留三郎の背を撫で、そして細く熱っぽい身体を逃がさない様に強く抱き寄せる。

室内はとても静かで、時折留三郎がしゃくりあげる声と激しい雨音しか聞こえない。与四郎はじっと、窓の向こうで隙を窺う様に漂っている闇を睨みつけていた。雨音に混じって、ざわざわと不快な音が近付いてくる。
その音を与四郎は知っていた。
少し前から気を抜くと聞こえて来るのだ。

不安を煽るようにざわついた胸に悲しく残酷な予感が過る。
それはまるで天啓のようにいかにも正しいという顔をして、二人の近い未来を嘲笑っていた。


(おわり)






あとがきという名の言い訳。

怒った時に与四郎が標準語になるのいいなぁと思ったんです。
だから怒らせてみたんですが、留三郎がしゅんとして俯いて泣くくらいしかしてない…やっぱりフィーリングだけじゃダメっすね!
…しかしこんなに与四郎が追い詰められてるなんて、留三郎は一体何をしたんでしょうね…浮気とかかな。そして別れとか切りだしたんだろうか。いや、もしかしたら与四郎が大事にしていたお皿割っちゃっただけかもしれない!
…それくらい何も考えないで書いたんデス。
方言は、一応がんばってみたけど、もう適当です。いいじゃん。正しくなくても雰囲気で伝わればいいじゃん。言語なんて相手に伝えるツールだもの!と開き直る。

書きたいシーンだけというのもアレですが、たまには文章書かないと狂いそうになるので!


(2011/6/8)