春恋、君日々
自分よりも背が高く、細身なその体で無理をしていることは知っていたのに、倒れてしまうなんて思ったことなんかなかった。
目の前で音もなく崩れたその体を倒れないよう支えることも出来ず、ただ茫然とその光景を見ているしか出来なかった。
三年生である富松作兵衛は一年のしんべヱ、喜三太、そして平太の手を握り締めたり、背を撫でてやりながら保健室で正座をしていた。目の前では彼等の委員会の先輩である食満留三郎が顔を赤くして横になっている。吊り目でキツイ印象を受ける瞳は今は閉じられていて、薄く開いた口から漏れる呼吸は苦しそうに聞こえた。
保健委員長である善法寺の手際は良く、伊達に六年保健委員勤めているわけじゃないことが分かる。学園内で一番医療に詳しいのは新野先生を除けばこの人だ。だからこそ作兵衛は安心して黙っていたのだが、さすがに一年生はまだ不安だったようだ。
「善法寺先輩〜」
手当てに当たっている善法寺へしんべヱが今にも泣き出しそうな声で名を呼ぶ。
それに気付いて善法寺は手を止めて穏やかな表情のまま振り返った。
「大丈夫だよ。疲れが溜まって熱が上がっただけだから」
優しく静かなその声で説明されて一年生たちが安心したのが見て取れる。その声が仕様なのかどうかは知らないが、さすが保健委員長だと作兵衛は思った。
「あとはゆっくり休ませればいいだけだから君たちは部屋に戻りなさい」
「でも…」
「お昼、まだ食べてないだろう?早く食べておいで。富松君、任せていいかな?」
考えてみればもう昼も過ぎたというのに昼食をまだ取っていない。食満先輩が倒れたのが昼前だったというのもあるが、先輩の容態ばかり気になっていて空腹に気付かなかった。それは一年達も同じな様で善法寺先輩の言葉を聞いてから次々に「ぐ〜」と間の抜けた音が聞こえて来る。しんべヱの腹の音なんて、腹の中に何か飼っているんじゃないかと疑うくらいのものだ。
「富松先輩…、」
一年達はまだ目覚めない食満の傍にいたいのと空腹の間で揺れ動いているらしく、作兵衛の袖を引いて困ったように見上げた。いつもはこういう視線の先にいるのは用具委員長である食満であり、作兵衛は後輩からの頼るようなその視線にはあまり慣れていない。
「…善法寺先輩の言う通りだ。まずはご飯食べてそれからだ」
自分まで不安な顔をしてはいけないと作兵衛は強くそう言い切り、そして立ち上がる。作兵衛が立ち上がると一年達も皆ぞろぞろと同じように立ち上がった。まるで鳥の雛だと思ったが、いつもはその雛に自分も含まれている。
「善法寺先輩、食満先輩をよろしくお願いします」
作兵衛に続いて一年までぺこりとお辞儀をして保健室を出た。部屋の中とは違って廊下は随分と寒く、作兵衛は思わず背を丸めた。一年達も寒いと言い、体を寄せ合って暖を取ろうとしている。
「食堂行くぞ」
冷えた空気の中作兵衛は一年を三人引き連れて食堂へと向かった。
他の生徒達は既に食事を終えているらしく、食堂には誰の姿も無かった。ひとつのテーブルで揃って昼食を済ませると一年達を部屋に帰し、作兵衛はまた保健室へと向かった。そもそも保健室はそんなに広くはない。全員で行くよりは代表だけが向かった方がいいと思ったのだ。
保健室までの道のりは長く、作兵衛は背を丸めながら廊下を歩いていた。不意に視界の端で何かが動き、視線を向けると雪が降り始めていた。
「…雪か」
足を止めて空を見上げてみたが、生憎曇り空でついぞ太陽などは姿を見せない。吐く息は白く染まり、視界を汚している。
食満先輩が倒れた時、作兵衛は何も出来なかった。
その体が音もなく崩れるのを見ているしか出来なかった。
何も出来なかった悔しさが、今頃じわりじわりと湧きあがって来る。
作兵衛は空を見上げたまま、「ちくしょう」と悪態をひとつ吐いた。
三学年上の食満先輩は作兵衛がら見たら身長も高く、強く見えた。食満先輩と武闘してみろと言われれば恐ろしさのあまり辞退すると思う。実際、作兵衛は武闘に置いても、勉学に置いても、その他の知識に置いても、用具委員としての腕前に置いても何ひとつとして先輩である食満に敵わない。
けれど先輩が後輩に甘い所があって仕事を何とか自分ひとりで片付けようとする所があるのを知っていた。実習や演習が続いても笑顔で誰よりも動いて仕事を片付ける先輩が、時折疲れた表情を見せるのを一年は見ていなくても作兵衛はちゃんと見ていた。夜遅くまで修繕していて、潮江先輩みたいに隈を作っているのだって見たことがある。集中してしまうと睡眠や食事すら忘れる人だってことも知っていた。
それなのに食満先輩が倒れるまで心の何処かでこの人は何があっても平気だと思っていた。
こんなに無理をしているのを見ていたのにどうしてそんな事を思えていたのか今となっては不思議だが、けれど今日までずっとそう思っていたのだ。
視線を空から足元へと落とし、吐きそうになった溜め息を止めて作兵衛は保健室へと歩き出した。
「失礼します」
声を掛けて障子を開けるとさっきまで眠っていた食満が此方へと視線を向けた。善法寺の姿はなく、他の保健委員の姿もない。
「…善法寺先輩はどうしたんですか?食満先輩ひとりなんですか?」
「二年で風邪が流行り出しててそこに追われてるらしい」
「…先輩、大丈夫ですか?」
その質問を口にした後、間違えたと作兵衛は思った。大丈夫かと尋ねられたらこの人はどんな状況でも笑顔で大丈夫と返す人だと知っていたからだ。
そして作兵衛の予想通り、先輩は「大丈夫だ。心配かけて済まなかったな」と笑う。その笑顔を直視出来ず、作兵衛は視線を下ろして食満の傍へと腰を下ろした。
「一年は?」
「部屋に戻しました。…心配していましたよ」
「…だろうな。悪かったぁ」
後悔しているというように、眉が下げられた。
けれどそれは無理をして体を壊した事ではなく、倒れたところを一年に見せてしまったことだろう。
前々から気付いてはいたが、先輩は自分の体をあまりにも顧みない所がある。そしてその事に気付いていながらも直す様子は見せない。
「…先輩は、どうしてそんなに無理をするんですか?」
作兵衛の言葉に食満は驚いたような表情をした。まさかこんな質問をされるとは思っていなかったのだろう。
一年達は食満先輩が何でも出来ると思っている。眠さや空腹、それら全てを抑えても尚平気で立てる人だと思い込んでいる。そして作兵衛自身も先輩が無理をしている事は知っていたが、倒れることはないだろうと今日までは思っていた。
「無理なんてしてないよ」
「してます」
「してないって」
「…俺はずっと先輩見てるんで知ってるんです!」
まるで子供をあしらうかのように笑みを浮かべたまま「無理してない」なんて言う食満を見ていたら相手にされていないかのようで思わず声が大きくなった。作兵衛の声の大きさに先輩はまた驚いている。怒られるんじゃないかと思って作兵衛は慌てて俯いた。
「…俺は別に無理だとは思ってないよ」
穏やかな声に作兵衛は下げていた視線を上げる。
「出来ることを増やす時ってさ、限界までやれば一度失敗しても次からは少し出来るようになるんだ。力の配分とかそういうの体で覚えるからな。だから今回は倒れたけど、今度からはもう少し出来る様になっているよ」
今回倒れたから次からは平気だと笑う先輩に作兵衛は胸が詰まった。どうしてそこまで、何もかもをこなそうとするのか分からない。
「…そんな命削る様なやり方、」
言葉は半ば無意識で飛び出たが体を酷使する先輩に本当にそう思ったのだ。けれど先輩は作兵衛の言葉に苦笑する。
「命削るか…でも寿命まで長生きするつもりないし、いつまでも出来ないままじゃ使えないしな」
最後に「春は近いんだ」と寂しげに微笑んだ先輩に作兵衛は強く手を握り締めることしか出来ない。
まだ学園で守ってもらえる作兵衛とは違い、春には学園を出る食満には時間がない。子供で居られるのも半人前で許されるのも桜が咲くまでのあと僅かな期間しか残っていないのだ。その現実を作兵衛は改めて突き付けられたような気がした。
世が平和であれば、戦などなく、忍びが必要とされなければ、先輩はこんなに急いで大人へとならずに済んだのだろうか。
ふとそんな事を思ったが、結局幾ら考えたところで自分たちの生まれた世と、これから待っている世界を簡単に変えられる筈もない。今まであまり考えないようにしていたが、作兵衛自身、あと三年後には同じ境遇に立たなければならないのだ。
「一日で治すから、それまでは委員会宜しく頼む」
疲労が溜まって倒れて熱まで出した癖に先輩は強気に笑っている。そして挙句の果てには一年達の心配を始める始末で、こんな状態でも強く居られる先輩に作兵衛ははじめて追い付きたいと思った。
あと三年で自分はそこまで行けるのだろうか、と考えたけれどその考えに頭を振る。いや、行ってみせなければならない。今度はその体が倒れる前に、支えになってやりたい。一人無理をさせるなんてこと、もうしたくない。
そう決心して顔を上げると、返事を待っていたのか食満が首を傾げるようにして作兵衛の顔を覗き込んでいた。作兵衛よりも身長が高い食満を上から見下ろすなんて初めてで、勿論食満の上目遣いも初めて見た。段々と顔に熱が昇っていくのが分かる。
「…こっ、これからは俺が頑張るんで先輩は無理しないでください。俺は、もう好きな人が倒れるところなんて見たくないんです」
作兵衛の精一杯な告白に食満は「有難うな」と微笑む。『好きな人』ってところも軽い言葉だと思われているのだろう。何ならきっと『俺も後輩みんな好きだよ』なんて返されかねない。
けれどそれ以上のことを今言う気にはなれなかった。まだ何も始まっていないとすら思う。
「委員会のことは安心してください。春からは俺が委員長代理なんです。二日間くらい先輩抜きでも回して見せます」
「…分かった。じゃあ二日、委員会のこと頼むな」
先輩の言葉に作兵衛は強く頷き、「お大事に」と頭を下げて保健室を出た。
やはり廊下は寒くて吐く息が白く染まる。けれど春は近く、別れも近い。
それでもまだ自分に出来ることはある筈だと作兵衛は思った。
取り敢えず当面の目標は、隣りに並ぶこと。
大きく出ちゃったなと自分自身にツッコミながらも今日までに終わらせなければならない仕事を思い出し、廊下を走り出した。
まずは残された仕事を完璧にこなすことから始めよう。
「こら、廊下を走るなー!」
すぐ後方から飛んできた潮江の声に「ひぃ〜!!すみませんっ!!!!」と叫びながらも作兵衛の顔に浮かんだのは笑顔だった。
*:*:*
「おい、留三郎。お前んとこの後輩、廊下走ってたぞ、ちゃんと叱っておけ」
保健室の障子を躊躇いもなく開いてすぐに苦言を言ってきた潮江に食満は布団の中で「んー」とだけ返す。顔まで布団で覆っているので表情さえ見えない。
「聞いてんのか?」
「聞いてる、いや、聞いてねぇ」
「どっちだよ」
呆れたように溜め息を付いて潮江は食満の近くへと腰を下ろし、そして見舞いにと卵酒を置いた。そこでようやく食満は布団から顔を出した。まだ赤いその顔を見て潮江は「まだ熱高いのか?」と尋ねたが、食満は「もう下がった」と短く答える。
「あ〜〜〜〜〜〜」
「何だよ」
「ちょっと前までは可愛いだけだったのにさ、成長って早ぇな」
しみじみとそう呟く食満へと訝しげな視線を送りながら「…それとお前の顔が赤いのは何か関係があんのか?」と潮江が尋ねる。意味が分からないことばかり話されても困るし、そもそも潮江はそんなに気が長い方ではないのだ。
「あーもううっせぇな、人が思い出に浸ってんだから黙ってろよ」
同じく気が長い方ではない食満が潮江の言葉へ乱暴に返すと潮江の表情が変わった。
「…わざわざ見舞いに来たのにその言い方はねぇだろ、このアホ三郎が!」
「見舞いに来て喧嘩吹っ掛けるとは上等じゃねぇか、この馬鹿次郎め!」
布団を跳ねのけて臨戦態勢を取った食満と同じく卵酒を安全な場所へと移動させてから立ち上がった潮江を止めるのは、しばらく後に帰って来る保健委員長の怒りの一言なのはまた別のお話。
(おわり)
富松→→(←)食満のお話。
まさかよしけまより先に富食満書くとは思わなかったけど、好きなんです。とまけま。
(2011/3/15)