泡沫の忘却





午前中に一回、昼食後に一回、そして夕暮れに一回。
一日に何度も会いに来ると宣言した通り、竹谷は一日に三回私に会いに来てくれる。
記憶を失くしてからというもの、自分という人間に替えがきくのではないかと思っていたからわざわざ私に会いにきてくれる竹谷の気持ちがとても嬉しく思えた。
本当に意味のないくだらない会話をしていても、竹谷は嬉しそうに「先輩と話しているから特別だ」と言ってくれるのだ。
伊作や委員会の子たちも私を好いてくれていることは知っていたが、竹谷ほど隠すことなく表現してくれる者は他にはいなかった。
彼の隣りでお茶を啜り、穏やかな時間を過ごすことがここ数日の日課となっていて、それは記憶を失くした私が今持てる、唯一といえるほど大切な時間だった。

「じゃあ、また明日会いに来ます」

帰り際に用具倉庫の鍵を借りて行った竹谷は背中に白い月を背負ってそう言った。
竹谷の背後でまるで睨んでくるような白い月がどうも好きになれなくて、視線を足元へ落とす。

「おう、じゃあまた明日」

何とか竹谷に手を振って部屋に戻ると、ひとりきりの部屋はとても静まり返っていた。
先程まであった温かい空気は消えてしまっていて心なしか寂しく思う。
さっさと寝ようと布団を取りだすとやっと風呂から戻ってきた伊作が「あれ、竹谷は?もう帰ったの?」と尋ねてきた。

「帰った」
「最近よく来るよね」
「そうだな」
「…留くんが嬉しそうだから僕も嬉しいな」

髪を丁寧に拭いている伊作のその言葉に俺はぱっと伊作の方を見た。

「…嬉しそうか?」
「嬉しいんでしょ?」
「そうだけど…顔には出さないように気を付けているんだがなぁ」
「六年間も一緒にいるんだ。それくらい分かるよ」

伊作は不敵な笑みを浮かべてそう告げる。

「…そうなのか」
「そうだよ。しかし明日で留くんが記憶失くして十日も経つんだなぁ。早いね」
「…十?」

伊作が十日と言った瞬間、何か忘れてはいけないものがあった事を思い出した。
それはぼんやりと靄がかかった向こう側にあって、何であったか中々思い出せない。
人だったのか、それとも時間だったのか、その形すらぼんやりしていてはっきりしないのだ。

「留くん、どうしたの?!」

頭を抱えて蹲っている私を心配したのか、伊作が驚いたような声で私を呼んだ。

「いや、何か大切なことを忘れている気がして…」

心配させてはいけないと手をこめかみから離して顔を上げる。

「…留くんは大抵のこと忘れてるよ」
「そうだよなぁ、もう少しで思い出せそうなんだが…」

無理して思いだそうとしても頭の中の霧は濃くなるばかりで、考える事を中断して布団を敷くのを再開した。
隣りでは伊作がもうすっかり冷めている茶を啜り、「何が引っかかったの?」と尋ねてくる。

「伊作が十日って言った時」
「留くんは十より三に反応すべきなんじゃない?『留三郎』なんだし」
「そうだよなぁ、何で十日が引っかかったんだろう」
「…そういや前は十日毎に毎回用具倉庫で夜中まで点検してたとは思うけど」

伊作は思いだしようにそう告げたが、それでも靄の向こうにある記憶は中々鮮明にはならない。

「委員会か?」
「多分そうだと思う。留くん真面目だからね」
「でもそんなに大切なことだとは思えないな」
「…無理して思いだそうとしないで、きっと大切なことならいつか必ず思い出すから」
「…そうかな」
「ほら、早く寝なよ」
「伊作は?」
「ちょっと半刻程薬煎じなきゃいけなくて」
「…早めに寝ろよ?」
「うん、分かってる」

伊作は微笑んで衝立の向こうに姿を消した。
私はひとり仰向けになり、天井を見つめながら先程引っかかった十日という言葉を繰り返し考える。
しかしそれを何度繰り返し頭の中で唱えたって答えは見いだせなかった。
気がつけば瞼を閉じており、うつらうつら夢の入口へと沈んでいく。
伊作が煎じる薬の独特な香りが部屋に漂っていて、その匂いにもさすがに慣れたなぁとぼんやり思っていた。
眠りに落ちると思った瞬間に突然「七日後じゃだめなんですか?」と竹谷の甘えるような声が脳内に甦った。
そして瞼の裏に映ったのは、暗い用具倉庫の明かり取りから見える白い月と嬉しそうに覗きこんでくる竹谷の顔だ。
甘えるように首筋に顔を埋め、「先輩、好きです」と何度も睦言を繰り返す竹谷のその声が何度も耳元で繰り返し再生され、目を開けた時にはすっかり全ての記憶や感情が体に戻っていた。
勢いよく起き上がり、右手でこめかみを抑える。
一瞬だけ痛みが走ったが、それ以上の痛みはやってこない。
今まで忘れていた膨大な記憶が甦った為か、思考回路が暴走して今自分が何を考えているのかが分からなかった。
此処は何処で、あれからどれくらいの時間が経ったのか。自分がいる今が中々把握出来ないのだ。

「留くん?どうしたの?」

俺が起きた事に気付いたらしい伊作が慌てたように衝立から顔を覗かせた。

「…伊作、」
「うん」
「今日の日付教えてくれ」
「え、いいけど、えっと」

そう言って伊作が告げた日付は、確かにあの日からちょうど十日経っていた。
先程の竹谷は用具倉庫の鍵を借りて、「大した用はない」と何でもないように笑っていた。
何か必要な道具があるのだろうかと思っていたが、記憶を取り戻すとそういう事ではないことが分かる。
彼は用具倉庫内の道具に用があるのではなく、あの場所で俺を待っているのだ。
勢いよく立ち上ると伊作は「留くんどうしたの?」とまた目を丸くした。

「ちょっと出てくる、気にしないで先に寝てていいから」
「え、うん」

驚いたままの伊作を残して部屋の襖を開け、外に出る。
月はもう随分と高い所へと登ってしまっていた。
その月を見上げ、襖を閉める際に「あと、留くんってやめろって言ってんだろ。今度から呼ぶんじゃねーぞ」と伊作に告げた。
襖が閉まった部屋の中で「え、あ、留三郎記憶戻ったの?!」と慌てふためいている伊作の声が響く。

竹谷はまだ倉庫で俺を待ってくれているのだろうか。
夜風が首筋を撫で、その冷たさに心臓までざわつき、不安に煽られた。
もしかしたらもうとっくに部屋に戻ってしまったかもしれない。
次の十日後にはもうあの倉庫に来てくれないかもしれない。

勝手に忘れた自分の薄情さに眩暈がする。
大事に思っていた人と、その人と過ごす大切な時間を簡単に忘れた自分を呪いたくなる。
竹谷はこんな薄情な俺なんか、もう捨ててしまうのではないだろうか。

気が付くと息が切れるのも構わず走り出していた。
こんなに全力で走るのはこの前の合戦場の実習以来だ。
心臓が痛いほど鳴り、呼吸は追いつかない。
肺はうまく酸素を取り込めなくて、脳みそさえ酸欠で悲鳴を上げる。
それでも一秒でも早く倉庫に辿り付きたかった。
一秒でも早く竹谷の顔が見たかった。


*:*:*


倉庫の戸に鍵が掛かっていないことを確かめて勢いよく開けると部屋の奥で布団に包まりながら坐っている竹谷が見えた。

「留先輩?!」

俺の姿を見つけると、竹谷は明らかに狼狽した表情で「あの、」と口ごもる。
倉庫の戸を閉め、そのまま竹谷がいる倉庫の奥まで進んで竹谷の目の前で膝をつき蹲った。
背を丸め、床へと額を付けながらひゅーひゅーと今にも消えてしまいそうに息を繰り返して呼吸を整えていると竹谷の手がそっと背中を撫でる。

「あの、先輩どうしたんですか?そんなに息切らして…大丈夫ですか?」

その言葉に返事をする余裕はなかった。
ふと顔を上げて竹谷の顔を見つめる。
ずっと黙っている俺に責められていると感じたのか、竹谷はしどろもどろに口を開いた。

「あの、此処で布団敷いているのは、その、深い理由がありまして…別に道具を盗ろうなんて思ってないので安心してくだ」

竹谷の言い訳を最後まで聞かずに竹谷に抱きつくと竹谷の言葉はそこで止まった。

「八左、ごめん」

その言葉を口にすると、勝手に涙が零れてくる。
止めようと思っても止められなくて、まるで水が湧いてくるみたいに涙が溢れてくる。

「ごめんな、忘れちまっててごめん」

何度も繰り返し謝罪の言葉繰り返すと、竹谷にしがみついている俺を剥がして竹谷が顔を覗きこんできた。

「先輩、もしかして記憶が…?」

竹谷のその質問に何度も頷くと、目の前の竹谷の瞳からぽろりと透明な涙が一筋零れる。
竹谷が泣く。そう思った瞬間、申し訳なさがこみ上げてまた竹谷をぎゅうっと力強く抱き締めた。
これ以上俺が泣く竹谷にしてやれることなんてない。

「ごめん、八左、ごめんな」
「ど、しよ、涙止まんない、俺、かっこ悪ぃ」

竹谷の腕が俺の背中に回ってぎゅうと抱きしめられた。
その腕の温度と力強さに更に涙が溢れてしまう。

「留先輩、好きです、大好きです」

何度もそう繰り返す竹谷の唇を自分のもので塞ぐと、驚いたような顔をした竹谷の顔がみるみる嬉しそうなものに変わった。
まだ涙を零している俺の頬へと竹谷の指が触れ、「好きです」とまた告げられてしまう。
竹谷に唇を塞がれてしまう前に「俺もだ」とようやく返すことができた。


何度も口付けを繰り返し、竹谷の首筋に顔を埋めて、彼の服で涙を拭いた。
涙が止まるまでは離れないようにとぎゅうと抱きしめあっていて、どちらも何ひとつ言葉にすることはない。
ようやく涙が止まると、腕を緩めて互いの顔を見つめ合った。
視線が合うと竹谷は本当に嬉しそうに目を細めて微笑む。
その顔を見ると無条件で涙が潤んでどうしようもない。

「よかった」
「…」
「先輩が思いだしてくれて、本当によかったです」

俺の前髪へと口付けて、竹谷はそう告げた。
先程から付いて回る罪悪感に負けて視線を床に落とす。

「…ごめん」
「謝らないでくださいよ。そりゃ最初は悲しかったけど、どれだけ先輩の事が好きか知る事が出来たので、よかったです」

俺の髪を愛おしそうに撫で、口付けを落とす竹谷の言葉に嘘はないのだろう。

「先輩も大切なもの気付けたでしょう?」
「そりゃあ、まぁ」

竹谷の指摘する通り、記憶を失った十日間で得たものはとても多かった。
どれだけの人に支えられていたのか、自分が大切にしなければいけないものはどれなのか。
記憶が戻るとそういうものが沢山ある事に気付かされる。
普段は喧嘩ばかりしている文次郎でさえ、俺のことを思っていてくれることを知る事が出来たのだ。
満足そうな竹谷の顔を見つめたまま、俺はそれでも疑問に思ったことを竹谷に告げようと唇を開いた。

「…どうして、その、言わなかったんだ?」
「何がです?」
「…俺に、恋仲だってことどうして俺に告げなかった」

竹谷は俺の質問に驚いたような顔をした。

「…先輩は言ってほしかったですか?」
「…そういうんじゃなくて、」

俺は俯いて言葉を探す。
記憶がない時は竹谷とこんな関係だったなんて知る由もなかった。
だから竹谷が持ち出されなければきっと一生気付くことはなかっただろう。
俺と竹谷の関係や時間は本当に簡単に消えてしまえたのだ。
竹谷はどうして持ち出さなかったのだろう、それはもしかして持ち出したくなかったのではないだろうか。
俺に告げなかったということは、そういうことなのではないだろうか。
そういう不安が先程から心の片隅にあり、どうしようもなく怖く思っていた。

「告げたからって先輩は俺を好いてはくれないって分かっていたから」

竹谷は指先で俺の髪をいじりながら静かな口調でそう言う。

「証明するものはないし、証明してくれる先輩の俺への気持ちも全部消えちゃってるし。もし先輩に否定されたらさすがの俺でももう立ち直れなかったと思う」
「否定だなんて、」
「でも、もう一度振り向かせるつもりでした」

竹谷は強い口調で俺に微笑みかけながらそう告げる。

「先輩が卒業するまで時間がなくても、もう一度振りむいて貰うために頑張ろうって思っていたんです」

竹谷は一日に何度も会いに来ると宣言した時と同じ顔をしていた。
真っすぐなその視線から俺は目を離せない。
いつも竹谷の視線と言葉は、俺の心臓を射抜くのだ。
その事をきっと竹谷は知らない。

竹谷の肩へ頭を乗せながら「月が嫌いだった」と呟くと、竹谷はその言葉を理解しようと言葉も動きも止めた。

「夕方に部屋に来て、月が出るといつも八左は帰るだろ?」
「先輩は早く寝るって知っていたからそんなに夜遅くまで居たら迷惑かと思って…」
「…お前が帰ってしまうから月が嫌いだった」
「え」
「…振り向かそうなんてしなくても、この十日でとっくにお前に惚れてたよ」

燃えているんじゃないかと思うほど顔が熱い。
熱が出ていると言われても納得出来る程熱くて、その熱に思わず涙が滲んでくる。
竹谷が俺の体を自分の体から剥がし、恥ずかしくて視線を合わせる事の出来ない俺は、斜め下ばかり見つめていた。

「先輩、こっち見て」

静かなその竹谷の声に従うように視線を泳がせながら竹谷の顔見つめると、竹谷はとても真面目な顔をしていた。

「どうしよう、先輩、嬉しすぎて顔が動かない」
「…ばかじゃねーの?」

竹谷の頬へ手を伸ばし、頬をつねると竹谷は「馬鹿でもいい。死ぬほど嬉しい」と抱きついてくる。
竹谷はぎゅうと強く俺の体を抱きしめていて、俺はその背中を撫で、そのぼさぼさな髪へと口付けた。
彼のその髪でさえも、今はどうしようもなく愛しかった。
不意に布団の上に押し倒され、驚いて目を見張ると目の前の竹谷が少しだけ申し訳なさそうな顔で「どうしよう、我慢できません」と素直に告げる。
怒られると思っているのだろうか。
その表情はまるで怒られる前の子供のようだった。

「八左にされて嫌なことなんて、何ひとつないよ」

手を伸ばし、困ったような顔をしている竹谷の頬を撫でると竹谷がその手を取り、口付ける。
竹谷の顔が視界いっぱいになると俺は瞼を静かに閉じた。
優しく触れる唇に、今どうしようもなく幸せだと涙が滲んだ。


*:*:*


後ろから前へと手を回して竹谷が抱きついて来る。
先程からもう半刻もこの姿勢で、俺はずっと目の前の暗闇ばかり見つめている。
竹谷の顔が見たいと思って振りかえろうとすると、それに気付いた竹谷が抱き寄せてきた。

「はじめ、記憶が戻っているなんて気付きませんでした」
「…そうか?一人称も俺に戻っていたろ?」
「そこは戻っていたけど、俺の呼び方が名前のままだったから」

竹谷は嬉しそうに俺の手の平に口付けを繰り返している。

「…竹谷って呼んでなかったか?」
「いえ、ずっと八左のままですよ」

無意識で名前を呼んでいたことに気付き、顔が赤くなった。

「先輩、今まで一度も名前で呼んではくれなかったから」

竹谷の言うとおり、名前で呼ぶことを頑なに拒んだ覚えはあった。
でもそれは二人きりの時に名前で呼ぶ癖をつけていると、普段から間違えて口にしそうだと思っていたからだ。
この関係が露呈してしまう事を恐れていたのだ。

「記憶がないというのは厄介だな」
「どうして?」
「うっかり名前で呼んでしまった」
「嬉しいです」
「…そうか」
「はい、すごく嬉しいです」

本当に嬉しそうに笑う竹谷の髪を撫でると竹谷は顔を近づけて鼻の頭に口付ける。
明かり取りからは月の姿は見えない。もう沈んでしまったのだろう。
もうしばらくすると陽が昇りだし、夜が明ける。
ぼんやり明かり取りから見える暗い空を見ていたら、「先輩、次も十日後って言うんですか?」と竹谷が尋ねてきた。

「…そうだな、毎回同じ期間あけているのは見つかりやすいと気付いたから」
「…から?」
「次は三日後でいいんじゃないか?」

俺のその提案に、きっと竹谷は三日も遠いと駄々を捏ねるだろうと思っていた。
この十日間でお互い焦らされたと思っていたから、竹谷は絶対に明日も一緒にいましょうと言いだすだろうと思ったのだ。
けれど竹谷は予想外にも「え、三日後でいいんですか?」と嬉しそうな声を上げた。

「え、三日後でいいのか?」
「え、先輩は三日後は嫌なんですか?」
「いや、そんなことは、」

否定しようとしても熱を帯びて行く顔は誤魔化しようもない。
顔さえ赤くならなければ、まだ誤魔化しようもあったというのに。

「もしかして、三日は遠いですか?」
「…」
「明日も一緒がいいですか?」
「…」
「ねー先輩、俺も明日も一緒がいいですよ」

恥ずかしさのあまり唇を噛んでしまった俺に竹谷は笑いかけて、「噛んだらだめです」と口付けてきた。
舌が唇を舐め、歯も舐められてしまう。
薄く唇を開くと、狙ってましたとばかりに舌が入り込んで来た。
竹谷が嬉しそうに鼻を鳴らしたのをとても愛しく思う。

「っふ…ん」

長い口付けがようやく終わり、水の膜を張り付けたままぼんやりと竹谷を見つめていると、
竹谷が俺を抱き寄せ、「先輩明日も一緒にいましょう」と耳元で告げる。
その竹谷の言葉に俺は静かに頷いた。

*:*:*


小鳥が囀りはじめ、それからしばらくすると東側の空が明るくなる。
少し体を休めただけでもう朝が来てしまったのだ。
皆が起き出す前に部屋に戻らなければならず、此処に長居することは出来なかった。
服を纏い、体を起こし、部屋に戻るために後片付けをしなければならい。

「…こうなるのが嫌だったんだ」
「え?どうなることです?」

布団を片付けながら竹谷は視線を俺の方へと向ける。

「一緒にいることに慣れ過ぎたら、離れられなくなるだろう。それを避けたいからいつも十日あけていたのに。どうしてこうなるんだよ」

はぁ、と溜め息を吐くと、布団を片付けていたはずの竹谷が後ろからがばっと抱きついて来た。

「こら、何すんだよ」
「だって、先輩が可愛いこと言うから」
「可愛いことなんか、言ってねぇ、八左、離れろ」
「え、だって今、俺と離れたくないって言ってくれたでしょ?」
「そんなこと、」
「言いました。俺も先輩と離れたくないから困らないでいいっすよ」

背後からぎゅうぎゅうと抱きつかれ、その温度に安心なんてしてしまう。
記憶がない間ずっと不安定だった為か、今はどうしてもその温度に触れていたい。
ずっと触れてばかりもいられない事を知っていてもそう思ってしまうのだ。
くるりと体を捻って竹谷の腕に自分から埋まる。
首筋の匂いを嗅ぎながら、今自分が年下の男に甘えていることを実感した。

「あんまり俺を甘やかすなよ」

甘えるような声でそう告げてしまい、あぁ、意味がないなと思う。
こんな声でこんな体勢でこんな事を言ってもそれはまるで意味を為さない。

「俺は先輩を甘やかしたいからそれは無理です」

きっぱりと竹谷はそう断り、にっこり微笑んだ後に優しい口付けをくれた。


fin.






(2010/01/30)