泡沫の忘却
記憶がないといっても見た目には何も変化はなく、そこに居るのは以前とは何ひとつ変わらない食満先輩で、それだけではなく声も笑い方も触れる指さえも以前のままで、もう少しで自分から手を伸ばしてしまいそうになった。
記憶がない先輩に自分の気持ちを告げたところで動揺させるだけだと分かっているのに、触れてきた指を掴んで離したくない衝動に駆られたのだ。
自分の手が先輩を捕まえてしまう前に、俺が先輩を困らせてしまう前に、俺は黙って先輩の部屋を後にした。
告げられない、そう思っているのに無意識に唇は開きそうになってしまう。
告げられる先輩の身になって考えると迷惑この上ないと分かっているのに、それでも記憶をなくす前の関係を持ち出したくなってしまう。
「我儘だな、俺」
溜息と共にそう呟き、空を見上げた。
今は誰にも会いたくなくて、まぁ、先輩が記憶を失くした日からずっとこんな感じなのだけれど今は無性にひとりで居たかった。
ひとりになるには学園内は賑やか過ぎて、俺は裏山にある一番高い木に登り、その天辺付近の枝に腰を下ろして山の向こうを眺める。
木々の多くは葉を落としている為、視界は夏場よりも開けていて遠くまで見渡せたが、それにも関わらず俺が見つめていたのは記憶の中の先輩だけだった。
風は冷たく、頭巾を外しているため耳が凍えて痛かったけれどそれよりもずっと胸の方が痛む。
この冬が終われば春が来る。そうすれば食満先輩はこの学園を去ってしまうのだ。
食満先輩が記憶喪失になったことで職員会議が開かれたというのは三郎から聞いていた。卒業まであと数ヶ月しかなく、本来ならば記憶を失った食満先輩の卒業は延期になるはずだった。しかし記憶喪失といえど先輩は体術や知識などの記憶は失っていなかった上、情に厚い彼の事を考えると忍者としては記憶が戻らずともこのまま卒業させてもいいのではないかという判断が下りたというのだ。
だから記憶が戻らなくても彼はこのまま学園を去っていく。先輩は俺の事を何ひとつ心に留めることなく、ここを出て生きていくのだ。
その事実が昨日からうまく飲み込めないでいる。
薄い水色に白い雲の端の色が消えて行く、その曖昧な境界ばかりを見つめていると木の下から「竹谷」と俺を呼ぶ声が聞えた。
「竹谷」
その声に意識が呼び戻され、視線を木の根へと落とすとそこに立っていたのは食満先輩だった。
自分の眼が映し出したその情報が信じられなくて、反応が遅れる。
先輩は枝に坐っている俺を見上げて「そこまで行ってもいいか?」と尋ねてきたけれど驚き過ぎて声が出ないし頷くことも出来ない。食満先輩は黙っている俺を見ると苦笑して返事を待たず登ってきた。
「竹谷?」
相変わらず目を丸くしている俺に先輩は苦笑したままですぐ隣りに腰を下ろした。
「あの、どうして、名前」
疑問に思っていることをたどたどしく質問すると先輩は「鉢屋三郎から聞いたんだ」と笑う。
「いつも名を聞き忘れていたから見掛けても呼び止められなくて困っていたんだ。竹谷、虫籠直すの待たないで帰ったろ?直したから渡そうと思ったんだけど何処にいるのか皆目見当もつかなくて取りあえず同じ学年の奴なら知っているだろうと鉢屋に聞きに行ったんだ。すぐに竹谷だって教えてくれて、あと、お前が居そうな場所も何箇所か教えてもらったんだ。でも二ヶ所目で見つかるなんて運良かったなぁ」
先輩はそう言いながら広がる景色へと視線を向けた。
「綺麗だなー最近は冬なのに天気がいいから、ほら、海が青い」
先輩が指差した海は確かにいつもよりずっと青の色が強かった。
その海をぼんやり眺めていると、俺と先輩が登っている木の傍を潮江先輩が通り過ぎて行く。
きっとまた鍛錬でもしているのだろう。
食満先輩と潮江先輩が仲良くなったという噂は数日前から学園中に流れていて俺も耳にしていた。だからてっきり声を掛けるのかと思っていたが、食満先輩は「あ、文次郎だ」と小さい声で呟くだけで声を掛けず、消えて行く潮江先輩の背中を黙って見送るばかりだった。
「声、掛けなくてよかったんですか?」
そう尋ねると食満先輩は俺へと視線を移して「うーん」と苦笑した。
「私は文次郎はいい奴だと思うし、話したいとは思うんだけど、どうやらこうなる前は仲が悪かったらしくてな。文次郎は過去の自分に囚われないで自分がやりたいことをすればいいと言ってはくれたが、仲が悪いということは何かしら原因があったのだろうし、それを私は忘れいてるからいいかもしれないが文次郎はきっと覚えているだろう?話しかけてもいいのか分からなくてな。それに、私が文次郎に話しかけると皆が驚くし、やはり話し掛けづらいものがあるな」
先輩はそう告げると申し訳なさそうに笑う。
そんな顔は今までも見た事がなかった。
悲しげに視線を落とし、俯いた先輩の瞳は前髪に隠れてしまう。
「…そんなこといつも考えているんですか?」
「…そうだな。記憶がないから今何をしても間違っている気がして…難しいなぁ」
先輩はそう言い終わると立ち上り、俺の膝の上に虫籠を置いた。
「これを渡しに来ただけなのに長居して済まないな。それに変な話聞かせてしまった」
「…いえ、あの」
「ひとりで居る所を邪魔して済まなかったな」
先輩はそれだけ残すと引きとめる間も与えずに木を下りてしまった。
俺は追いかけることも出来ず、木の上から去っていく先輩の悲しげな背中をただ眺めていた。
自分が被害者だと思い込んでいた。
先輩が記憶を失くして、一番悲しいのは俺だと思っていた。
けれどそうでなかったことに今気付いたのだ。
忘れたくて忘れてしまった訳ではないのに、先輩はずっと記憶を失くしてしまった自分を責めている。なるべく誰も悲しませないようにと、記憶もないのに必死に考えているのだ。
「…先輩らしいな」
優しくて、そしてとても強い食満先輩らしい。
やはり記憶を失くしても先輩は先輩なんだと気付かされた。
自分が一番傷ついたと思いこんで、先輩の前ですらその態度を隠そうとせず、名前も告げずにただ遠くから恨めしげに眺めてばかりいた俺でさえも気に掛けてくれる先輩の優しさに涙が零れそうになる。
好意的には思えない態度でいる俺ですら後輩である限り、先輩は気に掛けてくれるのだ。
「やっぱり食満先輩だなぁ」
俺が好きになった食満先輩はこういう人だ。
しみじみそう思った。
一番大切に思っていた時間を忘れられてしまったことの悲しみは拭えないけれど、それでも先輩も同じように、いや、俺よりもずっと苦しんでいる事を知る事が出来た。俺ばかり甘えてはいられないし、こんな女々しいところを先輩にこれ以上見せたくない。格好が悪いにも程がある。せめて次に会う時は何もなかったかのように笑顔で接する事は出来るだろうか。
昔の話を持ち出さなくても、先輩は先輩で、俺は俺なのだ。
せめて穏やかに話をする事が出来ればいい。
思い出せなくても笑っている俺の事を覚えて貰えれば、それを心の何処かに留めて貰えれば、幸せだと言えるのではないだろうか。
虫籠はすっかり綺麗に直っていた。直そうと思えばこれくらい先輩に頼まなくても自分で直す事は出来る。けれどここまで綺麗には仕上げられない。やはり先輩は器用だなと思った。
自分で直せるにも関わらず少し壊れただけでわざわざ先輩に頼むのは、これが会いに行く口実になると思っていたからだった。先輩は一度も「自分で直せ」とは言わなくて、いつも丁寧に直してくれる。
その作業を隣りで見るのがとても好きだった。
先輩の細く長い指が器用に動き、どんどん籠を直していくのを隣りで見ているのが好きだった。
彼の事が本当に好きだったのだ。
先輩が忘れたからといって、俺まで忘れようとする必要はない。
先輩が忘れたというだけで幸せだった記憶の全てが悲しいものになってしまうはずがないのだ。
どうしてもそれらの記憶を俺は忘れたくないし、そしてなかったことにしたいとは思えない。
だから、せめて、俺が先輩のことを大切に思っていることだけは伝わってほしい。
記憶の片隅にでもいいから、俺のことを留めていてほしい。
先輩が直してくれた虫籠を撫でながらそんなことを思っていた。
*:*:*
逃げ出したよし子を見つけだし、一息ついて木陰に入って休んでいるとその木の上には雷蔵が居た。
「あ、雷蔵、何してんだ?」
「休憩」
「そっか」
雷蔵は俺を見下ろすとふんわりと笑った。
「はち、元気出てきたみたいだね」
その言葉に驚きを隠せず、雷蔵を見上げたまま「え?」と返すと雷蔵は「最近元気なかったから」と笑う。
「俺ってそんなに分かりやすいか?」
「はちは全部顔に出るからね。嬉しいも楽しいも悲しいも」
「…忍者としてだめだよなぁ」
溜め息を吐きながら肩を落とすと雷蔵がくすくすと笑いながら「忍者としてはどうか分からないけど人間としてなら僕は好きだよ」と答えてくれる。
「人間としてか、有難うな」
首を上げて雷蔵を見上げてそう告げると、雷蔵が懐から何かを取り出してそれを投げてきた。
受け取るとそれは小さい包みに入った羊羹だった。
「三郎から五つも貰ったんだ。はちに一つあげるよ」
「有難う」
雷蔵にそうお礼を言って、羊羹の包みを破ろうと手元に視線を落とした時、遠くの方に食満先輩の姿が見えた。
委員会の帰りなのだろうか、用具委員の一年の平太と一緒に歩いている。
声を掛けたいな、とうずうずしていると頭上から羊羹がぱらぱらと二つ落ちてきた。
頭を押さえながら雷蔵の方を見上げると雷蔵は「食満先輩と平太にも渡してきたら?」と笑いながら言ってくれた。
「いいのか?」
「うん。ほら、早くしないと行っちゃうよ」
雷蔵のその声に背中を押され、俺は立ち上って食満先輩と平太の元へ駆け寄った。
「お、竹谷」
食満先輩は片手を上げて挨拶をして、食満先輩の後ろに尻ごみして隠れた平太を前へと呼んだ。
「平太、お前甘いもの好きか?」
平太の視線に合せるように屈んでそう尋ねると平太は小さく頷く。
「ほら、羊羹。おやつに食べな」
小さなその手の平に羊羹をひとつ乗っけてやると平太は嬉しそうに笑った。
「よかったなぁー」
食満先輩は平太の頭をぐりぐりと撫でて、平太も嬉しそうに食満先輩を見上げていた。
俺は立ち上って、今度は食満先輩の顔を見て「先輩も甘いもの好きですか?」と笑い掛けるると食満先輩はとても驚いたような顔をした。
「先輩?」
そのまま少し固まった先輩の顔を覗きこむと、先輩の黒目が動揺したように揺れ動く。
「あ、あぁ?甘いものの話だっけ?」
「あ、はい」
「うん、好きだよ」
「じゃあ、これ、先輩も食べて下さい」
先輩の手の平へと羊羹を乗せても先輩の視線は俺の顔をから外れず、「ああ」とだけ返される。
視線はずっと俺の顔に貼り付いたままで思わず「俺の顔に何かついてますか?」と尋ねると先輩は慌てたように首を横に振った。そして羊羹をぎゅっと握りしめながらもう一度俺の顔へと視線を戻す。
「いや、竹谷がよく笑う奴だっていうのは見ていて知っていたんだが、まさか私に笑いかけてくれるとは思ってなかったからびっくりして…」
先輩はそう言いながら照れたように笑った。
「…え、何でそんなこと思ったんですか?」
先輩の言葉は予想外のもので、俺は慌ててそう尋ねた。
食満先輩は俯き、手の平の羊羹を眺めながら遠慮がちに口を開く。
「竹谷はきっと私のことを恨んでるのだろうと、嫌われているとばかり思っていたから。君は私に笑ってくれないだろうと思っていた」
「…何で、そんな」
そう言いかけて言葉を止めた。
確かに先輩が記憶を失ってからというもの、どちらかと言えば恨めしげに視線を送ることが多く、好意的な態度を示すようになったのはつい二日前程からだった。
先輩が勘違いするのも無理はない。
「…嫌われてないみたいで良かったよ」
先輩は本当に安心したようにそう言い、足元でじっとしている平太の頭を何度も撫でつけている。
「先輩のこと嫌いだなんて思ったこと一度だってないです!だって、俺は、ずっと…!」
そこから先の言葉は声にはならなかった。
唇をぎゅっと噛みしめて、先輩を見ると先輩は手を伸ばして先輩より少しだけ身長の高い俺の頭を撫でる。
「はは、そう意気込んで否定しなくても…ちゃんと分かったから」
「…あの、俺、犬みたいだってよく言われるんです」
「犬?」
先輩の手の動きがピタリと止まって、先輩は小首を傾げた。
「図体でかい癖に懐いたらずっと後付いて来る犬みたいでうざいってよく言われるんです。だから、あの、もしかしたら先輩も前は俺のことうざいって思ってたんじゃないかなって思ったり、して、あの」
「私が竹谷を?」
「…はい」
「それはあり得ないと思うんだが、だって竹谷だろ?私は、懐いてくれてるなら嬉しいと思う。たとえ私より図体でかくてもな。それに犬は好きだよ」
先輩はゆっくりとまた俺の頭を撫で、ようやく手を離した。
「…言いましたからね!自分で言うのもなんですけど、俺、うざいっすよ?一日に何回も会いに行きますよ?」
「いいよ」
「…本当に会いに行きますから!」
「菓子用意して待っているよ」
先輩はそう言って柔らかく微笑んでくれた。
その笑顔に心臓がどくりと波打ち、顔に熱が昇っていくのが分かる。
先輩は「羊羹、大事に食べるよ。じゃあな」と言い、そのまま平太の手を引いて立ち去った。俺は先輩が去ってからもどうしてもその場から動けず、煩い心臓の音を聞きながらしばらくその場に立ち尽くしていた。
先輩は記憶がなくても先輩のままだ。
記憶があってもなくても先輩が先輩である限り、俺が惚れない訳がないのだ。
先程からまるで耳元で鳴ってるかのように心臓の音が煩くて、顔が熱くて熱くて仕方がない。
へなへなと足の力が抜けてその場にしゃがみ込む。
きっと首の後ろまで赤くなっている自信があった。
そして誰よりも一番恥ずかしい顔をしている自信もあった。
「だめだ、やっぱり好きだなぁ…」
言葉は無意識に零れ落ちる。
やっぱりあの人を諦めきれない。
好きで好きで仕方がない。
自分の気持ちを自覚すると取るべき行動はひとつだと思えた。
このひとつしかどうせ俺は選ばない。
「…振り向いてくれるかなぁ」
彼がこの学園を卒業するまであと数ヶ月。
どう考えても無謀だと思えるけれど、やってみなければ分からない。
そう信じたいのだ。
「はち?さっきからしゃがみ込んでどうしたの?」
木から下りてきた雷蔵が顔を覗きこんでそう尋ねてきた。
「雷蔵、俺って格好いいか?」
唐突の質問に雷蔵は少しだけ間を置いて、「男前だと思うけど?」と答えてくれた。
「俺ちょっと頑張ってみる、うん、頑張る」
「…元気出た?」
「おう!羊羹有難うな!」
「はちの元気が出るなら安いもんだよ」
「何かちょっと体動かしたくなったから裏山まで走ってくる!」
「夕飯までには戻って来なよー!」
声を掛けてくれた雷蔵に手を振り、走り出す。
冬の冷たい空気が火照った体に気持ち良く、深く息を吸い込むとやっと心が落ち着いてきた。落ち着いた心の中にあるものは、どうしたって見失えない食満先輩への気持ちだった。
*:*:*
一日に三回は自分から会いに行く。
そう決めて行動すると先輩はかなりの時間を俺の為に空けてくれているのがわかった。
挨拶やちょっとしたスキンシップを二回すると、残りの一回で先輩は俺を部屋に招いてくれるのだ。
宣言した通りにいつも菓子を用意してくれる先輩の部屋に転がり込んで、二人で他愛のない話ばかりをする。
昼食のメニューについてだったり、好きな唄についてだったり、そんな事ばかり話しながら、部屋の中でのんびり菓子を食べて茶を啜るのだ。
たまに用具の一年が加わることもあるし、善法寺先輩が加わることもある。
それでも一日に一度そんな時間を先輩は俺に与えてくれるのだ。
「じゃあ、そろそろ部屋に戻ります」
すっかり月が昇った空を見上げてそう告げると「また明日な」と先輩ははにかんでくれる。
こんな風に毎日時間を作ってくれることなんて、恋仲だった時でさえなかった。
「でも、あの、毎日なんて、迷惑なんじゃ…」
そう言いかけた時、先輩が俺の頬を軽くつねった。
それはあまりにも唐突のことで、俺はその手を払うことすら出来なかった。
「せんひゃい」
「何だ?」
先輩はにこにこと楽しそうに笑っている。
「…いひゃいです」
「すまんすまん」
やっと先輩は頬を離して、「お前が遠慮なんてするからだろう」と言う。
「私は迷惑だなんて一度も思ってない」
「…ならいいんですけど、明日も来ますよ?」
「待っているよ」
その声に少し切ない色を感じたのは俺の思いあがりだろうか。
不意に斜め下へと視線を落とした先輩のその瞳の色が知りたくて顔を覗き込む。
少し動揺したような先輩の瞳が俺の瞳を捕らえて目が合った。
「な、に…」
「え、いや、何となく」
「ばーか、ほら、帰るんじゃないのか?」
「帰りますけど…じゃあ、また明日来ます」
空いていた襖をそのままに先輩の部屋を後にする。廊下は驚くほど寒くて背中を丸めていたら後ろから「八左!」と呼びとめられた。
振り向くと食満先輩が部屋から顔を出していた。
「忘れもん、ほら」
そう言って先輩が投げてきたのは桜色の包みに入っている豆菓子だった。
その豆菓子が放物線を描いていてこちらへ落ちてくるのは見えたけれど、体が反応せず、豆菓子は廊下へと転がってしまった。
「あ、八左、お前何してんだよ」
先輩が慌てたように廊下までやってきて転がっている豆菓子を拾い上げた。
「え、いや、あの、名前」
「名前?あぁ、だって八左エ門って長すぎるからな」
先輩は悪戯っ子のように笑って俺の手の平の上に豆菓子を乗せた。
「『留三郎』だって同じ字数じゃないですか…」
「留でいいよ」
「…え?」
「まぁ、食満でもいいしな。お前の好きに呼べばいい。私も好きに呼んでいるんだし…」
「え、じゃあ、留先輩って呼んでもいいんですか?」
「いいよ。好きに呼べばいい」
「呼びます。留先輩って呼ばせてもらいます」
「おう、じゃあな、八左」
「はい」
先輩は「寒ぃ」と呟きながら背中を丸めて部屋の中へと戻っていく。
「あ…!留先輩!」
忘れてはいけないことを思い出して、先輩を呼び止めた。
先輩は寒さに首を竦めたまま振り返る。
「何だよ」
「用具倉庫の鍵借りたいんですけど、」
「え、今からか?」
「留先輩はもう寝るんですか?」
「…もう寝ようと思ってたんだけど、まぁ、明日の朝返してくれればいいし。ちょっと待ってろ」
食満先輩は一度部屋に戻り、鍵を手にして廊下に出てきてくれた。
「何かあるのか?」
本当に何も思い当たらないみたいに先輩は不思議そうな顔でそう尋ねてくる。
先輩が記憶を失くしてから、明日で十日になる。
本当なら今夜が二人であの倉庫で会う夜なのだ。
「いえ…大した用は、ないですよ。明日の朝、鍵を返しに来ますね」
先輩と別れて廊下を歩く。昨夜より冷えたからか、廊下がミシミシといつもより大きな音を立てる。五年長屋に戻るにはこの廊下を真っすぐ行けばいいのだけれど、俺は左に曲った。
既に寝巻に着替えているし、わざわざ長屋に戻る必要がなかったのだ。
今夜は冷えるだろうか、そんな事を考えながら用具倉庫へと向かう。
いつもなら先輩が早めに来て鍵を開けてくれていたけれど、今日はもちろんいない。
鍵を外して戸を開けると、明かり取りから月の光が入り込んでいるため、暗闇ではなかった。
此処に先輩が来ることはない。
それは分かっていても、やはりどうしても来ずにはいられなかった。
一番大切にしていた時間を、例え先輩が忘れても俺は忘れることなんて出来ないのだ。
「ひとりだと、さすがに寒いかな」
吐く息は白く染まり、空気に溶けて消える。
ひとりで眠るために、隠してある夜具一式を取り出して冷たく冷えた布団に頬をつけたまま、明かり取りから覗く白い月を見上げた。
(2010/01/28)