泡沫の忘却
『食満留三郎』
その名が私のものであると人に教えられた。
私は自分が誰であったのか、そういう記憶というものを失ってしまったらしい。
その所為か、常に自分の体の中がぽっかりと空洞になっているような錯覚に捕らわれてしまう。
まるで、大切なもの全てを失ってしまったかのような、そんな感覚に似たような虚無感が常に付きまとってくる。
全ての記憶が消えてしまったはずなのにこの息苦しさは何なのだろう。
「留三郎、お早う」
体を起こすと既に起きていた同室の善法寺伊作がそう声を掛けてきた。
「…伊作、お早う」
そう笑いかけると彼は満足そうに頷く。
初めは「善法寺」と呼んでいたのだが、彼はそれが気になるらしくわざわざ「伊作」と呼んでくれと懇願してきた。
記憶を失う前の私と彼は六年もの間同じ部屋で寝起きしていてそれはとても仲が良かったらしい。
「らしい」としか言えないのは、どうしてもその記憶を思い出せないからだった。
親しく接してくる彼と私とでは持っている記憶の量が違いすぎて、私は彼に対して自然な返しが出来ないでいる。
私のその姿勢に気付くと、彼はやり場のない悲しみを瞼を閉じることで表現した。
きっと彼の瞼の裏には記憶を失う以前の、彼と親しく話せる私がいるのだろう。
「僕は少しやる事があるから朝食先に食べておいでよ。食堂の場所は覚えただろう?」
記憶があった頃の私なら此処で彼を待つのか、それとも先に行くのか。
そんなことを幾ら考えても思い出せなければ意味のないことだった。
「…ああ、じゃあ先に行っている」
私の言葉に、伊作は少し悲しげに瞳を伏せて「いってらっしゃい」と呟いた。
どうやら今の選択は間違いだったのだろう。きっと以前の私なら此処で伊作の用が終わるのを待っていたのかもしれない。
しかし言葉を取り消すことも出来ず、そのまま部屋を出て襖を閉める。
部屋の中で伊作は何を想っているだろうか、そんな事を考えながら食堂へと向かった。
学園内の大まかな建物の場所は伊作から教えてもらい、更に「使わないに越したことはないけど」と学園内の地図まで持たされている。
学園内はどうやら相当の広さがあるようで、伊作だけではなく先生方からも注意を受けた。
けれど昨晩地図に目を通しておいたからか、渡された地図を開かなくとも食べ物の匂いと賑やかな声がする方向へ足を向けると迷うことなく食堂に辿りつくことが出来た。
食堂は元気な生徒で溢れていて、机は全て埋まっていた。席が空くのを待つしかないのだろう。
廊下では既に数人の生徒が立って席が空くのを待っていた。
その列に加わり、後ろへと並ぶと前に並んでいた生徒が振り返って私を見上げた。
「あの…食満先輩、記憶失くしたって本当ですか?」
目の前で悲しげに眉を寄せられてしまえば、その問に頷くことがとても悪い事であるかのように感じてしまう。
目を覚ましてから常に罪悪感が付いて回るのは、以前の『食満留三郎』を慕っている人が多く、その人達を私が傷つけているからなのだろう。
「…本当のことだ。自分自身の事も何も覚えていなくてな。すまないが君の名を教えてもらってもいいだろうか?」
「…本当に覚えていないんですね…おれは、三年の富松作兵衛です」
「作兵衛…もしかして私の事を知っているのか?」
目の前で俯いた顔はすぐに顔を上げたが、その唇は硬く結ばれて開かれない。
「知っているなら何でもいいから教えてほしいんだが、」
「…何でも…」
「あぁ、ほんと何でもいいんだ。なるべく早く思い出したいんだが、それが出来ないから今はなるべく早く色々覚えようと思っていてな」
なるべくその場を和ませたくて笑ってそう言うと、目の前で作兵衛は「あの、」と口を開く。
「先輩は用具委員の委員長でした。おれは先輩と同じ用具委員です」
委員会が一緒ならそれなりに長い付き合いだったのだろう。
一緒に過ごした年月を軽々しく「忘れた」などと本当なら口にしたくないのだが、それでも覚えていないものは仕方ない。
「…済まないな」
「いえ、先輩は悪くないですから」
「…委員会のことも教えてくれると助かるよ」
「はい!おれで出来ることがあるなら、手伝わせて下さい」
作兵衛はぎこちなくではあるが笑顔を作ってくれた。
その頭を撫でていると今度は背後から「食満先輩!」と声を掛けられる。
振りむくと昨日の私の顔を見るなり泣きだした三人のうち一番ふっくらした子が駆け寄ってきた。
「食満先輩、もう頭は大丈夫なんですか?」
「おお、しんべヱ、もう大丈夫だぞ」
屈んでその頭を撫でてやると目をキラキラさせて「思い出したのー?!」と抱きついてきた。
垂れた鼻水を持っていた紙で拭いてやり、その背中を撫でながら、「いや、思い出したわけじゃないんだが、覚えたんだ。喜三太と平太としんべヱと作兵衛も」と言うとしんべヱは少しだけ残念そうな表情になる。
「あ、富松先輩も一緒だったんですか?じゃあ一緒に朝ごはん食べましょう」
しんべヱと並んで立っている眼鏡の子がそう提案し、ちょうど机が空いたから五人で机を取った。
「えっと、君が乱太郎で、こっちがきり丸か。君たちはは組なのか、一緒だな」
懐から取り出した紙に乱太郎ときり丸の名前を書き記す。
それを向かい側から覗くようにしていたきり丸が口元に笑みを浮かべて私の顔を覗きこんできた。
「先輩〜本当に記憶失くしちゃったんですか?演技なんじゃないんですか〜?」
「こら、きり丸、何てこと言うんだ!」
作兵衛が急に鋭い声を出してきり丸を睨みつける。
「こらこら、作兵衛、後輩をいじめるんじゃないぞ」
「…いじめてません!」
隣りに坐っている作兵衛を宥める。
いつの間にか作兵衛達は皆茶を淹れた湯呑みをどこからか運んで来ていた。それが何処にあるのか分からず、まぁいいかと箸を取ると傍から来た人が湯呑みをそっと差し出した。
「茶は自分で淹れなきゃないぞ」
「…そうなのか、それも書いておかないとな。有難う、文次郎。ちなみにどこにあるんだ?」
文次郎は食堂の端を指差した。そこには確かに湯呑みが並べらており、数名の生徒が茶を淹れていた。茶の入った湯呑みを置いた文次郎は無言のまま食堂から出て行き、その背中に私は「有難うな」と手を振った。
「…うわぁ、今の潮江先輩だった」
「うん、潮江先輩だった」
目の前の一年生は顔を見合わせて目を白黒させている。
「食満先輩、潮江先輩は知ってますか?」
「文次郎か?六年の奴らには昨夜顔を合わせたんだが、皆いい奴らばかりだったよ」
「え?!それって潮江先輩も?」
「文次郎はいい奴だろう?茶淹れてくれたし、気がきく奴だよな」
私の言葉に一年の子らは皆驚いたように目をぱちくりさせ、「…うん、こりゃ本当だな」「うん、演技なんかじゃないよ」とこそこそと話をしている。
「何か変なことを言ってしまったか?」
慌てて隣りに坐っている作兵衛に小さな声で尋ねると、作兵衛は「いえ、」と答えた。
「ただ、潮江先輩と食満先輩ってよく喧嘩をしていたので」
「私と文次郎が?」
「はい。顔合わせるといつも喧嘩していましたよ」
「…そうなのか」
「…先輩、それを記録してどうするんですか?」
「いや、とりあえず記録だけしておくよ」
取りだした紙は既に私が忘れてしまったものたちが書かれている。
例えば、同室にいるこーちゃんだったり、六年の名前とそれぞれの特徴などを書き記してあるし、作兵衛やしんべヱなどの用具委員の皆も書き加えられている。
その紙に書かれている文字をなるべく見せないよう、すぐに懐へと戻し、一年の子たちと一緒に手を合わせる。すぐに「いただきまーす」という大きな声が聞え、思わず笑みを漏らした。
「しかしこのご飯は本当に美味しいなぁ」
箸を休めてそう漏らすと目の前に坐っていたしんべヱが「食堂のおばちゃんの御飯は世界一です」と笑う。
「そうだな」
「それも記録するんですか?」
「…何だよ、作兵衛。記録しちゃ悪いのか?」
作兵衛や一年の子たちが楽しそうにくすくす笑う。
「私が勝手に忘れてしまった、だから尋ねるのは一度きりにしたいんだ。聞かれる身も辛いものだろう?」
湯呑みへと手を伸ばしてそう漏らすと、隣の作兵衛は眉を少しだけ寄せて俯いてしまう。
「大丈夫です!」
突然大きな声でしんべヱがそう告げ、驚いて顔をしんべヱの方へ向けるとしんべヱだけでなく、乱太郎もきり丸も、そして近くにいた一年は組の子たちまで集まっていた。
「僕たちがちゃんと今までの食満先輩との思い出、全部お話します!」
しんべヱと一緒になって皆も声を揃えてそう言ってくれ、また作兵衛までもが頷いてくれた。
「ありがとうな」
嬉しいことを言ってくれた子たちの頭をそれぞれ撫でてやり、お礼を言っていると鐘の音が聞えてきた。
「あ、授業が始まっちゃう」
しんべヱ達が勢いよく立ち上り、その場にいる皆が一斉に食器が乗った盆を片付け始めた。
「これが始業の鐘なのか」
「そうですよ、急がないと…あ、食満先輩は六年の教室分かりますか?」
「大体の場所は伊作から聞いて覚えているから大丈夫だ」
盆を戻し、食堂にいる皆が「食堂のおばちゃん」と呼ぶ人に「ご馳走さまです」と声を掛けると「あらあら、食満くん、話は聞いているわよ。大丈夫、美味しいもの食べたらすぐ治るわよ」と肩を強く叩かれた。
「ははっ、有難うございます…!」
「さぁ、頑張ってらっしゃい!」
「はい、ほら、行くぞ」
一年の子たちの肩を叩いて食堂を出ると、皆教室の方向へと一斉に走り出した。
六年の教室は一年の教室とは反対方向なので一年を見送ってから一人教室へと向かう。
窓の外は晴天で、薄い水色の空が広がり、白い雲が時折浮ぶ。「いい天気だな」等と呟くと、食堂の裏を歩く学園長の「そうじゃのー」という声が聞えて来た。
*:*:*
六年の今日の授業は午前中だけで終わり、午後の授業は自習という形を取っていた。
伊作は医務室で今日中に終わらせなければならない仕事があると言うので早々と教室を後にしていたし、一人教室に残ったところで奇異な眼差しで見られる以外に何もない。
一定の距離を置かれ、外側からじろじろ見られるとさすがに息が詰まりそうになる。
本を読んでも集中は出来ず、青い空に誘われてすぐに伊作を追うように教室を抜け出した。
記憶を失ってから一度も訪れていない場所を確認しようと地図を片手に学園内を歩いていると井戸の前で見知った人物に遭遇した。
「…水を汲みに来たのか?」
「いや、ただの散策だ。学園内を確認しておこうと思ってな。文次郎は自主練か?」
「そんなとこだ」
文次郎は井戸に凭れ、汲んだばかりの水を飲んでいた。
「お前も飲むか?」
「…いや、先程茶を飲んで来たばかりなんだ」
「そうか、なら要らないな」
文次郎は汲んだばかりの水を飲み干し、残った水で顔を洗った。
黙ってその動作を見ていると文次郎が訝しげに「何だよ」と此方を睨む。
「いや、何でもないんだが…そうだな、喧嘩でもするか?」
そう提案すると目の前の文次郎の顔が気の抜けたような間抜けなものになった。
「…は?」
まぁ、そうなるのも仕方ないだろう。
喧嘩とはそのように提案されてするものではないと私でさえ思う。
「今朝一年は組の子らに聞いたんだ。私とお前は仲が悪かったと…」
「んで、お前は俺と喧嘩してぇと思ったのか?」
「いや、それが全く。逆にどうして今まで喧嘩をしていたのか分からなくてな」
「さぁな、俺もお前の考えていることなんて知らねぇよ」
「そうだよなぁ、済まない」
文次郎は井戸の傍に腰を下ろして空をぼんやりと見上げ、私も釣られて空を見上げた。
空を滑るように飛んだ小鳥が井戸の縁に止まり、可愛らしい声で鳴く。
このままじっとしていると文次郎も動きにくいだろうし、と立ち去ろうとすると文次郎に呼び止められた。
「お前はどうして喧嘩しようなんて言い出したんだ?」
「え、あぁ、何て言うか、『食満留三郎』らしくない事をしてしまうと周りを傷つけている気がして、だから私らしいことをしようかと思ったんだが…中々上手くいかないな」
笑ってみたのだが、文次郎はにこりともせず、難しい顔をしたまま黙っている。
「私はもう行くよ、鍛錬の邪魔したな」
そう言い、今度こそ立ち去ろうとした時にまた呼び止められた。
「何だ、まだ何か、」
「お前が食満留三郎だろ」
私の言葉を遮り、文次郎はそう告げた。
「お前自身が食満留三郎なんだ。お前らしいだとからしくないとか、そういうのは犬にでも食わせておけばいい」
文次郎はそう言い捨て、さっと立ち上るなり木々の方へと歩き出す。
木々の葉に隠れて見えなくなりそうな背中に「文次郎!」と声を掛けると文次郎の足が止まった。
振り返りまではしなかったが、その背中へ私は「有難う、お前やはりいい奴だな」と声を掛けた。
文次郎は私の言葉に何ひとつ返事をせずにそのまま裏山の方へと消えて行く。
先程まで井戸の縁に止まっていた小鳥の姿はもう消えていて、この場所にいるのは私一人になっていた。
北側の方から、下級生たちの騒ぐ声が風に乗って聞えて来る。
確か、今朝食堂で一年は組の午後の授業が実技だときり丸が言っていた気がする。
「覗いてみようか」
ふとそんな事を思いつき、くるりと踵を返して校庭へと足を向けた。
*:*:*
「記憶がないというのはどういう感覚なんでしょうか?」
そう問われ、「空っぽで、井戸の中を覗きこんで底が見えない時に感じる感覚と似ているものがあると思う」と答えると「それは、何とも」と目の前で苦い顔をされてしまった。
そしてその質問をしてきた人は「突然失礼しました」と頭を下げて去っていく。
私は遠ざかっていく背中を眺めてから、また箸を動かした。
記憶を失くしてから二、三日の間は、遠巻きにこそこそと何か言われているだけであったが、それが四、五日もなると直接質問に来る人も増えてきた。
風呂や食事中に質問されることもあるし、一人でいたら誰かしらに声を掛けられる。
伊作は「そういう質問してくる奴らをいちいち相手にしなくていい」と私に言い聞かせたが、質問してくる人の中には親しくしていた人もいるんではないかと思うとあしらう訳にいかなかった。
私を見る人達の瞳は、大抵憐れみだとか、そんな類のものが多い。
これに当てはまらないものとなると、それは忘れられた人の念が籠ったような瞳だったりする。
これは人混みの中でそうそう向けられるものではなく、二人きりで会話している時などにふとした拍子で向けられるものであった。
それを向けてくる相手は伊作であったり文次郎であったりと同じ学年のものが多く、更には同じ委員会の作兵衛などもその瞳を時折私へと向ける。
それは親しくしていた間柄の人から向けられることが多いものなのだろう。
珍しい生物のように見られることにも慣れてきた私は、人々の瞳に籠っているものを無意識で分類するようになっていた。
食堂を出て廊下を歩いていると誰かが小さい声で「食満先輩だ」と漏らし、その瞬間に近くにいる人々の視線が私へと集まる。
初めの頃は視線が集まる一瞬が気持ち悪く、とても圧迫感を感じていたが、最近では割と冷静に視線を合わせられるようになった。
これが「慣れ」というものだろう。
視線を向けてきたのは数人で、その中の一人に見覚えがあった。
私が目が覚めた時に集まった人の中にいて、皆が帰った後に一人だけ残り泣いていた彼だった。
どうして泣いていたのか、彼は何も答えず姿を消し、無表情のまま涙を零した彼のことが未だに気にかかっている。
たまに彼の姿を見掛けることはあったが、声を掛けるタイミングをいつも見失っていたのだ。
「君は、」
声を掛けようとしたが、それよりも先に彼は視線を逸らして去っていってしまった。
彼が私へと向けた視線に乗せられたものが全く計れず、彼の背中を見つめたまま廊下で立ち尽くしていた。
そんな私の背中を後輩である作兵衛が軽く叩く。
「食満先輩、どうしたんですか?」
「いや、何でもないよ」
「そうですか、おれは図書館行くんですが、先輩は?」
「私は部屋に戻るよ」
「では、また明日。委員会で」
「また明日な」
廊下の人の群れはいつの間にか半分ほど消えており、足を止めているものも少なかった。
作兵衛と別れてから六年長屋へと向かう。
部屋には伊作が戻っていて「おかえり」と笑いかけてくれた。
「僕は医務室行ってくるよ」
「おう、いってらっしゃい」
「留三郎、無茶はしないでくれよ」
「分かってるよ」
「君はいつも分かっているっていうけど、無茶しないでくれた日なんてないんだからなぁ」
伊作はそうぼやきながらも「行ってきます」と部屋を出て行った。
風を入れたいからと、襖を開けたままにしてもらい、先日図書館で借りてきた本へと視線を落とす。
冬にしては天気の良い陽が続き、陽が当たる場所はぽかぽかと暖かく、本を読むよりは昼寝がしたくなってくる。
集中力が弱まってそんなことを考えていると「すみません」と声を掛けられた。
先程から人の気配はあったがずっと動かないものだからてっきり廊下で誰かが気配を消す練習でもしているのかと思っていた。
ふと顔を上げると先程廊下で声を掛けそびれた彼が廊下に立っていた。
「どうした?」
「虫籠が壊れてしまって、直して欲しいのですが」
彼は馬鹿に丁寧にそう言い、壊れた虫籠をひとつ床の上に置いた。
「どれ、見せてみろ」
本を閉じて彼へと向き直り、虫籠を手に取る。
「直せますか?」
「これくらいならすぐに直せるからそこで坐って茶でも飲んで待っててくれ」
茶を出すと彼は「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げ、彼は手を伸ばせば触れるくらい近くに腰を下ろした。
すぐに必要な用具を奥から取り出してきて虫籠を抱えて手を動かすと「…覚えているんですか?」と尋ねられる。
顔を上げて彼を見ると、彼は廊下で見せたような瞳で私をじっと見つめている。
その瞳が持つものは、憐れみなどという類ではない。
どちらかというと念が籠ったようにも思えるが、でも全く同じものとは思えないものだ。
その視線に乗せられる彼の感情は、どうも計りかねる。
「覚えているんだ。事実、授業に関しても支障はなかった。体術は体が覚えているし、その他も知識としてちゃんと残っているんだ。私が失ったのは『食満留三郎』という人間の個人的な記憶だけのようなんだよ」
視線を逸らし、手元を見つめながらそう答えると「それは、酷いな」とぽつりと呟かれた。
「え?」
顔を上げて彼を見ると彼は先程と同じように視線を向けたままだ。
「いえ、独り言です」
「…君は、私に何か言いたいことがあるんじゃないか?」
手を止めて彼を見つめると彼は少し困ったかのように目を伏せる。
「その服の色は、五年生だね」
「…」
「私に何か恨みごとでもあるのか?」
「いえ、そんなことは」
ぱっと顔を上げた彼はそこで言葉を止めてしまう。
私はそっと手を伸ばして彼の目元へと触れた。
「何もない訳はないんだろ?お前の視線は何処にいても気付くよ」
「…」
「記憶を失くしていてもこの体はすっかりそういうのに慣れていてな、視線や人の気配にはすぐに気付けるんだ。大抵そういう視線の先にはいつも君がいる。君は私に何が言いたいんだ?」
彼は唇を噛みしめたまま俯き、それからは幾ら待っても一言も発しなかった。
仕方なく虫籠を直すことを優先させようと、手元へと視線を向ける。
「あ、そうえいば君、名前は―」
また名前を聞き忘れていたことに思い出し顔を上げると、そこにはもう彼の姿はなく、残された湯呑みから白い湯気がゆらゆらと揺らめくだけだった。
(2010/01/21)