泡沫の忘却





倉庫の明かり取りから射し込む月の光が目の前の黒い髪を照らす。その髪へと手を伸ばしてゆっくりと梳くと背を向けていた人がこちらへと顔を向けた。

「まだ起きていたのか」

髪を下ろせば幾らか幼くなるその顔へと手を伸ばして頬に触れる。

「竹谷、いい加減にしないと、明日辛いぞ」

いつもは五つ半には同室の善法寺先輩とともに就寝しているというから眠くてたまらないのだろう。
最後の言葉を口にする時には既に食満先輩の双眸は閉じられていた。
強く抱き寄せても素直にされるがままの彼の耳元で「食満先輩」と名前を呼べば彼は律儀に目を開けて此方を見る。
切れ長の鋭い瞳も今は眠たげにぼんやり開かれるだけだ。

「…なんだよ」
「もう眠っちゃうんですか?明日は休みじゃないですか」
「…明日は用具の一年と町へ行く約束してんだよ」

「今、目の前にいる俺よりも明日の一年の方が大事ですか」と、とても詰まらない事を口にしそうになり、慌てて口を閉じると目の前で食満先輩が気付いたように笑う。

「別にお前が大事じゃないってことではないぞ?」
「分かってます」
「嘘つけ。不安だって顔、してただろ」

先輩は顔を近づけ、俺の額へと唇を落とす。
彼は好んでよく額へと口付るが、子供扱いされているみたいであまり好きではない。

「唇の方が嬉しいです」

額から唇を離した先輩にそう言うと、先輩は少し笑って「仕方ねぇな」と唇へと口付けてくれた。

「お前いつもあんまり眠ろうとしないよな」
「先輩とこうやって二人きりで恋仲らしく居られる時間は限られているから、出来るだけ起きて居たいんです」

思っていることを素直に言葉にすると先輩の眉が少し悩ましげに寄せられた。
いつ見てもとても切なげで愛しい表情だと思う。
そしてその表情をさせているのが自分だと思うと苦しく思うのと同時に嬉しくも思うのだ。

「十日後にはまたこうして会えるだろ」
「七日後じゃだめなんですか?」
「…七日後だと見つかりやすい気がしてなぁ…うーん、では十三日後ではどうだ?」
「遠くなるならいつもと同じ十日後でいいです」
「ははっ、拗ねるなよ」

食満先輩が俺の顔を覗きこみ、くすくすと笑う。

「そんなに皆に知られるのが嫌なんですか?」
「…んーやっぱり皆に気を使わせたくないからな。お前には悪いけどあまり他言したいとは思わないんだ」
「いや、俺だってあんまり知られたいとは思っていないけど…」
「たまにだけれどこうやって一緒にいる時間が取れるんだ。それだけでは満足出来ないか?」
「いえ、まさか。十分です」

そう言いながら先輩を抱きしめると「ありがとう」と耳元で囁かれる。
こんな小さな声すらも聞き取れる位置に自分がいることを嬉しく思い、それと同時にずっと近くに居てほしいという慾も湧いてくる。
腕の中にいる先輩はもう限界だったらしく、すとんと眠りに落ちて小さな寝息を立てている。

「好きです」

そう漏らしても、夢に掴っている先輩には届かない。
何度も何度もそう告げても、眠っている先輩は一度も返事をしなかった。
さすがに寝ずにいる訳にもいかず、先輩の隣りへと身を完全に横たえ、すぐ隣にあった彼の指を撫でながら射し込んで来る月光に漂う埃のようなものをぼんやりと眺めていた。


*:*:*


初めに好きになったのは俺の方だった。
後輩にわけ隔てなく優しい彼のその優しさを勘違いをして彼に惚れたのだ。
好きだと告げると彼は驚き、そして困ったような表情になった。
先輩は俺よりひとつ年上だが、人のこうした好意を簡単に笑って流せるほどまでに大人、という訳ではなかった。
今よりも一年以上前の話だし、それは当たり前の事でもあった。
彼へと好意を告げ、何度か断られても俺は諦められず、というよりもはや引くに引けなかった。
曖昧だった想いは、言葉にすると一層現実味と重みを持つ。
その想いを捨てられなかった俺は、どうしても彼に拾ってほしかったのだ。
季節が幾つか過ぎた後、彼はようやく頷いた。
頬を赤く染めて、頷いた彼のその表情は今でも鮮明に思い出せる。

「可愛かったなー…今も可愛いけど」

先輩の寝顔に触れたくなったが、さすがに起してしまうだろうか。
少し考えてから寝がえりをうち、彼の方を向く。
すっかり眠りに囚われている先輩は頬に触れてもぴくりとも反応しなかった。


十日に一度、彼が用具委員の委員長ということもあり、その倉庫でこうやって二人で夜を過ごす。
その為にここには布団など夜具一式が隠されているのだ。
この関係を他言したくないという先輩の気持ちも分からないわけではない。
狭い学園内に置いて、恋仲というものは噂になりやすく、また気を使われやすいものでもあった。
だからこそ彼は六年間同じ部屋に暮らす善法寺先輩にすら打ち明けていない。
俺と先輩の関係は二人以外の誰も知らない、密やかなものなのだ。

「…それを不安だと言ったら先輩は困りますよね」

穏やかな先輩の寝顔の眉間へ触れると先輩は「うーん」と言い寝がえりを打ってしまった。
もう顔は見えず、彼の髪と背中ばかりしか見えない。
誰にも知られる事のない、まるで秘め事のような関係がいつまで続くのだろうか。
もう最上級生になってしまった先輩がこの学園で過ごす時間はあまりにも短い。
その残りの時間を考えると少しだけ泣きたくなってしまった。
普段どんなに能天気な俺でもさすがに不安にもなるし切なくもなるのだ。
自分のものとは違い、滑らかな髪へと手を伸ばした時、先輩が「竹谷」と呼んだ声が確かに聞えた。
思わず体を起して「先輩?」と問い掛けたが、返答はない。

「寝言、かな」

寝言で俺の名前を呼んでくれたのなら、それ程嬉しいことはないと思う。

「俺の夢でも見てくれていたらいいなぁ」

ぼそりと呟いた声はきっと誰の耳にも届くことはないのだろう。
それでも口にせずにはいられなかった。


もうすぐ月も沈み、そしてやがて夜が明ける。
朝が来てしまえば先輩はいつも通り、誰にもわけ隔てなく優しい食満先輩になるのだろう。
独り占め出来る夜はいつも呆気なく明けてしまうのだ。
夜が終わるのをひとり待つなんて寂しすぎる。
もう寝てしまおうと俺は瞼を閉じた。

どれくらいの時間が経っただろうか。
暖かな人の気配がしてうつらうつらと目を開けると先輩は隣りでまだ眠りについていて、寒いからか体を摺り寄せてきていた。
嬉しいなぁとぼんやり思いながらもまた瞼を閉じる。
まだ日が昇らぬ暗い空に小鳥の囀りが聞えたような気がした。


*:*:*


瞼を開けるとそこは倉庫の中だった。
明かり取りから入り込んでくる眩しい程の陽の光にもう一度目を瞑り、手を翳した。
思いの外高い位置まで昇っている太陽に時刻を気にして体を起こすと既に隣にいたはずの先輩の姿はなかった。
敷布団の上はもうとっくに冷えていて、温もりなどは残っていない。
枕の傍にお茶の入った湯呑みが置かれていたが、それもとうに冷めてしまっていた。
冷めたお茶をすすり、先輩はいつ頃起きたのだろうかと考えてみたが考えたところで答えが出るわけでもないので仕方なく立ち上る。
冬にしては珍しい晴天で、陽の光がぽかぽかと暖かい。
布団を畳んでいると、倉庫の扉が開く音がする。
振りかえるとそこに立っていたのは食満先輩だった。

「起きたか」
「お早うございます」
「今日はいつにも増して遅かったな」
「先輩がいつも早いんです」
「そうか?」

食満先輩は笑いながら倉庫の棚を開け、縄梯子を取りだした。

「委員会かなんかですか?」
「いや、集合時間になってもしんべヱが現れなくてな、おかしいと思って学園内を探したら屋根に登って降りられなくなっていたんだ」
「それで縄梯子ですか」
「そうそう。何故登ったのかはまだわからんがとりあえず助けてやろうと思ってな」
「では町へは今から行くんですか?」
「そうだよ」

先輩は縄梯子を手に持ち、棚を閉めると俺の方へを見て「お前も一緒に行くか?」と笑いかけた。

「え?いいんですか?」
「お前昨日拗ねてただろ」
「拗ねてなんかいないです」
「お守をしなければならない子供が三人も一緒だがどうする?」
「…本当に俺何かが一緒に行って大丈夫なんですか?」
「大丈夫も何も…行きたくねぇか?」
「…行きます!」

そう答えると先輩は嬉しそうに笑ってくれた。

「さっさと支度して来いよ?俺はしんべヱ達と門の前で待ってるぞ」
「分かりました。なるべく早く支度します」
「じゃあな」

先輩が倉庫を出て行き、俺は夜具を畳んでいつもの場所へと仕舞ってから倉庫を出た。
どうやらしんべヱが降りられなくなっているらしい場所とは中庭に近い場所のようで先輩の声が聞えて来た。
早く支度しなければ、としんべヱに声を掛けている先輩に声も掛けず、俺は五年長屋へと急いだ。


*:*:*


支度を終えて、待ち合わせ場所の門の前へと向かう前に中庭に通りかかった。
そこでは一年や二年だけではなく五年や六年の姿も見え、生徒でざわめいている。
何かあったのだろうか、と近くにいた雷蔵に声を掛けると雷蔵は神妙な顔で「食満先輩が落ちて頭を強く打ったらしいよ」と告げた。

「え?食満先輩が?!」
「うん。しんべヱ抱えていた上に下には平太と喜三太がいたみたいでね、下でパニックになっている一年にも怪我がないようにと気を配った結果、受け身取らないで落ちたみたい」
「それで、食満先輩は?無事なのか?」

慌てて人混みをかきわけてみたが、中心にいたのは泣いている喜三太と平太としんべヱのみで食満先輩の姿は見えない。

「食満先輩は善法寺先輩と兵助が医務室に運んだからここにはいないよ」

肩を叩かれ振りかえるとしんべヱの顔をした三郎がそこに立っている。

「一年に怪我させまいという気持ちは分かるけれど、そこまで身を呈さなくてもと思うんだがな。そこはさすが食満先輩というところか」
「あの人、後輩大好きですもんね」

苦笑してそう口を挟んだのは三年の富松だった。
少し苛立たしげに眉間に皺を寄せている。

「あの人いっつも無茶するんですよ、心配するこっちの身にもなってほしいです」
「富松は厳しいなぁ、優しい先輩じゃないか」
「食満先輩が無茶して怪我でもしたら、一年の三人を見るのはおれだけなんですよ?」

目の前で泣いている一年の頭を撫でながら富松は苦い顔をしている。

「いや、食満先輩がいなくなっても、俺らもいるよ」

三郎はさっと顔を食満先輩に変えて「ほら、食満先輩だぞー」とにこやかに笑う。
しんべヱたちは三郎の顔を見るなり、さらに大粒の涙をぽろぽろと零して泣きだしてしまった。

「三郎、今の今で食満先輩の顔はまずいんじゃない?食満先輩を恋しがって更に泣いちゃったよ」

雷蔵が呆れたように三郎の肩を叩くと三郎は「うーん、失敗したか」と言い、今度は「富松が二人はどうだ!」と富松の顔になる。
三郎や富松たちがしんべヱを泣きやませ、宥めていると後方から医務室に行っていたはずの久々知がこちらへと歩いてきた。
そして久々知は俺の袖を引き「ちょっとまずいことになった」と耳打ちする。

「どうした?」
「いや、待て、広めるわけにもいかないか」
「なんだよ、気になるだろ。学園内のことはどうせ広まるんだから」
「そうだな。…食満先輩のことなんだが」
「…食満先輩がどうしたんだよ」
「いや、意識は取り戻したんだが…」

その久々知の声にしんべヱが「食満先輩目を覚ましたの?!」と大きな声で聞き返した。

「…あぁ、」

久々知はしんべヱの方へと向き直って頷いた。

「よかったぁー!!」

安心したのか、またその目には涙が浮かぶ。

「よし、じゃあ食満先輩のお見舞いに行こう!」

喜三太がそう言いだし、平太も大きく頷く。
そして一年生の三人は走り出してしまった。その後を富松が慌てて追いかけていく。
それを五年の皆は暖かく見守っていたのだが、久々知が「おい、止めろ!」と俺たちを促した。

「何故だよ、あんなに先輩になついてんだ。会わせてやれよ」

三郎はようやく顔を元に戻してから笑う。
しかし久々知の顔は未だに暗いままだった。

「食満先輩、意識は取り戻したんだが、その、記憶が全部なくなっているんだよ」

久々知のその言葉に俺は声も出なかった。
言葉を理解するのにも時間がかかったし、それを上手く飲み込めずにいたのだ。
驚いて目を丸くしているだけの俺を押しやり、久々知は三郎たちへと向き合った。

「俺の事はともかく、善法寺先輩の事も、自分の事も何にも覚えていないらしいんだ」
「え、それは頭を打ったからか?」
「ショックで記憶が混乱しているだけかもしれないから暫く様子を見るってことになってるんだが、一年が行ったところで覚えてるとは思えん」
「だから止めろと言ったのか…でも、会わせないとなるとあまりにも酷だ。あの子たちがきっかけで記憶も戻るかも分からん。会わせてやってもいいんじゃないか?」
「食満先輩を混乱させないようにと新野先生と善法寺先輩の案だったんだが、まぁ、止めたところでどうせ避けられないことでもある」

久々知は溜め息をついて心配そうにしんべヱたちの後姿を眺めていた。

「八左エ門、」
「…え、あ、何だ?」
「いや、さっきからずっとぼうっとしてるから、どうしたのかなって」

自分の頭の中の言葉をそのまま口にしてはいけないことくらは分かっていたから、穏やかな勘右衛門のその言葉にも何も答えられない。

「ちょっとびっくりしたんだろ、食満先輩にはお前も虫籠とか直してもらうのでお世話なっているんだし」

三郎が少しだけ笑いながらそう言い、俺は小さく頷く。

「はちは優しいからね。ところで、はちはどこか出掛ける予定でもあったの?私服じゃないか」
「え、ああ。…でも、やっぱり止すよ」
「そうだね、僕もちょっと町まで降りようと思っていたんだけど、そんな気分じゃなくなっちゃったよ」

雷蔵はにっこりと笑って歩き出す。

「僕達は医務室行こうと思うけど、はちはどうする?」

その雷蔵の言葉に顔を上げ、「俺も行くよ」と告げると三郎と勘エ門が肩を叩いて俺を追い越した。

「どうせすぐ良くなるさ。あんまり気にしてると疲れるぜ」
「そうそう。食満先輩なんて武闘に関しちゃ俺だってまだ敵わないんだ。こんくらいきっと平気さ」
「あの人たまにどうしてあんなに動けるのかっていうくらい動く時ないか?あれ怖いよ」

三郎が軽口を叩き、それに久々知と勘エ門が賛同する。
それでも俺は何も言えず、四人の後ろを黙って歩いた。


*:*:*


医務室はちょっとした騒ぎになっていて、廊下まで人が溢れていた。
廊下にすら入れず、庭から部屋の中を覗くと、布団の上で身体を起こした食満先輩が此方を見ている。
頭には包帯が巻かれており、驚いたような表情のまま固まっている。
先輩は医務室を覗いている生徒の顔をひとりひとり凝視していたが、俺の顔を見てもその表情に何ひとつ変化は生まれなかった。

「留三郎、どう?誰か覚えている人は一人でもいるかい?」

食満先輩の傍らに坐っていた善法寺先輩が優しく問い掛けると食満先輩は表情を曇らせた。

「集まってくれた皆には、その、悪いんだが、私はどうも誰も覚えていないようだ」

食満先輩のその言葉に、心臓が止まってしまうかと思った。
先輩の一人称が「俺」ではなく「私」になっていたのだ。
そして、一度は俺へ視線を向けたにも関わらず、先輩は俺も含めて「皆」とまとめ、そして「誰も覚えていない」と言ったのだ。動揺しない訳がなかった。隣の三郎の声も、久々知の声も全部がちゃんと聞えず、やけに大きな心臓の音ばかりが耳に響く。
食満先輩の一番近い場所で正座していた一年のしんべヱや喜三太、平太がまた涙を零しはじめ、食満先輩は慌てたように「すまない、がんばって思い出してみるから泣かないでくれ」と近寄り三人の背中を撫でていた。その手付きはいつも通りに優しいものなのに、それでも彼はその三人を覚えていないのだ。

「ほら、皆帰った帰った!留三郎は怪我人なんだ、疲れさせないでくれ。しんべヱ達も今日はもうお帰り」

善法寺先輩が両手を叩いて皆を立ち上らせた。
ぞろぞろと医務室に集まっていた皆が医務室を去りはじめ、三郎や雷蔵たちもそれにならって去っていく。
俺はどうしてもそこから動けずに、ただ立ち尽くして医務室にいる食満先輩を見ていた。
善法寺先輩はまた泣きだしてしまったしんべヱ達を一年長屋まで送りに行った為、医務室には新野先生と食満先輩しか残っていない。
ずっと立ち尽くしている俺を不審に思ったのか、食満先輩が廊下の方までやってきて「君、」と声を掛けてきた。

「どうかしたのか?どこか痛むのか?」

食満先輩はそう言いながら手拭をそっと俺の方へと差し出した。
手拭を差し出した先輩のその真意が分からず、廊下から俺を見おろしている先輩の顔を黙って見上げていると、先輩はその手拭で俺の頬を拭く。

「泣くほど何処かが痛むのか?」

その言葉に初めて自分が泣いていることに気付いた。
大粒の涙がぽろぽろと無意識に零れ落ち、手拭だけではなく先輩の手まで濡らしてしまっている。

「いえ、怪我をしたわけではないので」
「…じゃあ何故、」

食満先輩は分からないというように小首を傾げ、そしてまだ涙を止めずにいる俺に手拭を持たせた。

「食満先輩」

そう呼ぶと目の前の人は「何だ?」と答えてくれる。

「食満とは私のことなんだろう、どうした?」

微笑を浮かべたままそう口にした彼に、何も告げることが出来ずにまた黙り込んでしまう。
何を言えるのだろうか。
俺の事を覚えていない先輩に、俺は何が言えるのだろうか。

俺と貴方は恋仲だったんですと告げたところで証明してくれる物や人はどこにもいない。
二人しから知らぬ仲だったからこそ、そのどちらかが否定したり忘れたりしてしまえばこんなに呆気なく終わってしまうものなのだ。
全ては簡単に途切れてしまう。
彼が全てを忘れてしまえば、どんなに俺が彼を想ったところであの日々すら、もう返らない。

口にするだけ無駄なのだと思い至り、俺は唇を固く結んだまま困った表情をした彼の顔を眺めていた。


*:*:*


「留三郎、横になっててって言ったのに」

その声の方を向くと、一年長屋から帰って来た善法寺伊作が廊下を歩いてきた。

「どうしたの、留三郎。庭に何かあるのかい?」
「え、いや、この子が…」

ふと視線を庭に戻すと、そこにはもう誰の姿もなかった。

「何、猫でもいたかい?」
「いや、泣いている子がいたんだが」
「怪我でもしたのかな、それは誰だい?」
「…それが名前を聞くのを忘れてしまった…」
「そうか、それは仕方ないね。怪我だったら後で来るだろうから君は気にしないで横になりなよ」

善法寺はそう言い、少々強引に食満の腕を引いた。
布団の中へ押し込まれた食満は言われた通り大人しく横になっていたが、気が付くと無意識に視線が庭の方へと向いてしまう。

「…何故泣いていたのだろうか」

ふと思い浮かんだ疑問に答えてくれる人はいなかった。






(2010/01/18)