重ねた日々が繋ぐ明日





出会いは当日に無理やり引っ張り出された合コンだった。近くにある女子大との合コンで友人たちがとても盛り上がっていたのを竹谷はよく覚えていて、その中で一人目を引いた子がいた。
彼女を初めて見た時は付き合っている食満が女の子だったらこんな感じなんだろうかと思った。黒い髪と少しだけきつめの眼元が似ていると思ったのだ。それが第一印象であり、全てで、竹谷は二次会まで行ったというのにその子の名前すら覚えていなかった。
二度目の出会いは竹谷の新しく決まったバイト先だった。初日に先輩として紹介されたのが数日前に合コンで顔を合わせ、竹谷が食満に似ていると思っていた人で、彼女は凄い偶然だねと笑っていた。
単なる偶然。けれどそれは彼女の中で運命と名付けられてしまったようだった。
仕事を彼女から習うようにと言われていただけにシフトはほとんど被っていて、最寄駅も同じで家の方向も同じ上に彼女の家は駅から竹谷の家に向かう途中にあった。一度帰りが一緒になると当たり前のように並んで帰るようになってしまい、そして出会いから一ヶ月後、彼女の部屋の近くにある公園で竹谷は告白をされた。
食満に似ているという第一印象は彼女を知っていくに連れ消えた。彼女は食満とは違って甘えるのが上手で泣き虫な女の子でしかなかった。それでも情が湧いていたのか、彼女の告白をすぐに断ることが出来なかった。そして「彼女はいない」と真実を誤魔化すようなことを言ってしまった。今思えばあの時既に竹谷は食満を裏切っていた。
それからの日々は次第に竹谷にとって重苦しいものへと変わった。どう開き直ろうとしても罪悪感は拭えず、普段と変わらない態度でいる食満に対しても彼女に対してもどこか線を引いたように生活をしていた。
だから正直に言うと、竹谷は食満に見つかった時ほっとした。そして顔色を消した食満の顔を見て、自分が彼にどういう仕打ちをしたのかを理解した。裏切られた人間は何も言わずとも瞳で語るのだということを竹谷はあの時知った。食満は笑っていたけど、瞳がどこか虚ろで、触れると泣き崩れそうな顔をしていた。
そこまで食満を追い詰めて初めて竹谷は自分が犯した過ちの重さを知ったのだ。そしてそこまで手遅れにならないと竹谷は目が覚めなかった。食満が震えた声で「じゃあな、」と告げなければ、隣にいる彼女より立ち去ろうとした食満を追いかけたいという自分の本音に気付けなかった。

「…ねぇ、どこ行こっか?」

何も知らないで笑う彼女に、竹谷は「部屋戻ろう」と告げた。

「え、なんで?今日夜は外で食べるって」
「何でも。とりあえず、戻ろう」

竹谷の声はまるでさっきの食満のように震えていて、竹谷の顔色が変わったことに気付いた彼女はもう何も言わなかった。


竹谷の家の最寄駅から徒歩五分の場所にある彼女の部屋は賑わいがある街の中にある。隣のビルの一階にコンビニが入っている為、二十四時間のうち静かな時間はない。それでも寂しがり屋だという彼女は喧騒が届く部屋の中で少しうるさいのがちょうどいいと笑って暮らしていた。
部屋に上がると竹谷は小さなテーブルの前に座った。そして彼女はコンビニで買ったお茶を開け、それをコップへと注ぐ。部屋の中は静まり返っていて、路上で笑っている若者の声がやたらと響いていた。

「…どうしたの」

竹谷がいつになく真剣だったことで緊張感が芽生えたのか、彼女は竹谷の向かいで正座した。足は崩さず、視線も竹谷から動かさない。
竹谷は暫く黙っていたが、お茶を一口飲むと唇を開いた。

「俺、嘘吐いてた」
「嘘?」
「…いや、嘘ではないけど、本当のことずっと隠してた」
「…何を、隠してたの?」

竹谷の声が緊張しているからか、既に彼女は身構えていた。どんな言葉が出てきても傷つかないようにという準備をしている顔をしていた。

「…彼女いないって言ったこと、」
「え、それって、ねぇ、彼女がいるってこと?」
「いや、違う。それは嘘じゃない」

身を乗り出して憤りを露わにした彼女は竹谷のその言葉に一瞬、ほっとしたような表情を浮かべた。けれど竹谷が次に続けた言葉は彼女の顔からその表情を奪った。

「彼女はいない。けど、付き合ってた人はいる。さっき会った食満先輩、俺、あの人と付き合ってる」

竹谷は一息でそう言い切った。目を瞑り、大きく息を吐き出す。ここ数ヶ月言えずにいた真実をやっと口に出すことが出来た。この一言が目の前にいる人をどれだけ傷つけるか分かっていても、口に出来たことで竹谷は少なからずすっきりしていた。自分が楽になっただけで、それは喜ばしいことではない。竹谷は深く深呼吸して目を開けた。
目の前にいる彼女は疑問をまだ顔に浮かべていた。目が合うと「え?」と首を傾げて見せる。

「だって、あの人男だったよ?」
「うん」
「竹谷くんって、そういう人だったの?」
「…うん」
「じゃあ、どうしてあの時すぐに断らなかったの」

いつの間にか「竹谷くん」と以前の呼び名に変わっている。それをどこか冷静に受け止めながら竹谷は「ごめん」と頭を下げた。

「ごめん、じゃないよ、顔上げなよ」

いつもより低いその声に驚いて顔を上げると、目の前で彼女は竹谷を睨みつけていた。

「私にこういう話するってことは、向こうに戻るつもりなんでしょ?」

湧きあがる怒りからか、彼女の声は震えていた。低い声と相まって竹谷は目の前にいる子が本当にさっきまで隣で笑っていた彼女なのかと疑ってしまう。それくらい、普段からは想像も出来ない声だった。

「…信じられない。私のところに戻るならいいけど、私振って男のとこに戻んの?ねぇ、どうしてよ、その理由言いなさいよ!」

怒りに任せて彼女が思い切り腕を横に払い、テーブルの上に置かれていたコップが二つ床へと落ちて割れる。入っていたお茶が飛び散ってフローリングの床を濡らしたが、彼女は竹谷から視線を動かさない。竹谷がコップへと目を奪われていると彼女は強くテーブルを叩いた。手を痛めそうな音に竹谷は思わず顔を顰める。

「何よそ見してるのよ、私は、アンタと話してんのよ!」

そう言ったかと思うと身を乗り出してきた彼女は竹谷の横面を叩いた。今までとは全く違う一面に竹谷は驚いて声も出ない。そして、こんな風にさせてしまったのは自分だと思うと何も言えなかった。

「本当にあの人のとこに行くの?なんで、だってあの人男じゃない!男同士って普通じゃないわよ、汚らわしい」

さっきまでかっこいい先輩だねって言っていた癖に、まるで食満に憎悪すら抱いているかのようにそう言い捨てた彼女を見つめ、竹谷は頷いた。

「普通じゃないから。俺もあの人も。だからごめん」
「何よ、それ」
「ごめんな。でもお前料理上手だし、可愛いし、すぐにいい人見つかるよ。でもあの人には俺しかいないんだ。俺、それを忘れてた」

竹谷のその言葉を聞くと彼女は黙り込み、そして俯いた。「もう帰るよ」と腰を上げた竹谷に対しても何も言わない。竹谷が床の上に置いていた鞄を拾い上げ、そして肩に掛けた時にようやく彼女は顔を上げた。

「竹谷くん全然分かってない。だってさぁ、やっぱりさぁ、そんなだけじゃ許せないよ」

彼女はそう言って笑った。それは穏やかにさえ見える笑みで、驚いた竹谷は足が止まってしまった。こんな状況で笑って見せた彼女のその表情と言動が一致しない。
足を止めた竹谷を尻目に彼女は玄関へと走ると竹谷の靴を拾い上げた。そして彼女は竹谷の前通り抜け、閉めていた窓を開けると限定モデルのその靴を道路へと思い切り投げ捨てたのだ。

「あ、」

血相を変え、別れの言葉もなく玄関から走り出て行った竹谷の背中に彼女は「ざまあみろ」と呟いた後、泣き崩れた。彼女にとって運命だったはずの出会いはとても呆気なく、そして運命の人の裏切りという悲しい結末で終わってしまった。

「いい人すぐ見つかるってなによ、私はアンタがよかったのに、ほんと、ムカツク」

涙をぽろぽろ零しながら彼女は開いている窓の外を見上げた。
夏の終わりが近づく空は心の中で誰かの不幸を願ったって相変わらず綺麗な青で、自分ひとりだけが汚れてしまっているように思え、彼女はもう一度「ムカツク」と呟いては涙を零した。



*:*:*



女の人はどうしてこうも簡単に一番大切にしているものを見抜くんだろうか。

歩道へと出て辺りを見渡すと二車線の道路の端に竹谷の靴の片方が落ちていた。もう片方は街路樹の根本辺りに転がっていて、竹谷はその二つを捕獲すると靴下の裏を払って履いた。歩道では一部始終を見ていたらしい人たちがちらちらと竹谷の方を見ている。それに気付かない振りして竹谷は首を上げた。見上げた先にあるのは彼女の部屋の窓で、その窓はもう既に固く閉ざされている。
食満だけでなく、彼女のことも裏切ってしまった。彼女を傷つけたという罪悪感は消えないが、彼女と別れるという選択を取ってしまった以上、竹谷が出来ることはこの場を離れることの他にない。竹谷は自分へと何度も言い聞かせ、彼女に別れの言葉をもう一度告げに行くこともせずにその場を後にした。
もう一人、傷ついている人がいる。そして、その人を失いたくない。竹谷は自分の家には戻らず、直接食満の家を目指して駅へと急ぐ。
何度電話をしても食満の携帯は繋がらず、終いには不安が大きくなる。彼は今、部屋で一人泣いているのだろうか。そう思うと居ても立ってもいられない。竹谷は電車を降りるといつの間にか走り出していた。


結果を言うと、食満は泣いてはいなかった。泣いたら死んでしまう、という風に思いつめた顔をして暗い部屋で座っていた。だけど泣いてはいなかった。
何を言っても言い訳にもならず、竹谷が口を開く度に食満は苛立ったように声を荒げた。そしてそれらの全てが正論であり、竹谷は自分がどれだけ愚かで、その行いが目の前の食満をこんなにも苦しめたのだと目の当たりにした。

「…なぁ、俺はお前があの女に突っ込んだものを突っ込まれてたのか?」

その問いに竹谷は体が凍りついたような気がした。そしてその答えを口にしてはいけないと思った。自分が思っている以上に真実は残酷だったのだという事が食満の現状を目の当たりにして分かったのだ。だから食満に蹴られても黙っていた。それが捌け口になるのなら足の一本や腕の一本折ってもらったって構わなかった。けれど食満はそこまではしなかった。竹谷を廊下へと放り出すと、靴とTシャツを投げ付け、そして「しばらく顔も見たくもない」と告げた。
目の前で閉じた黒いドアはもう何度名前を呼んだって開かなかったが、それでも食満は「二度と顔も見たくない」とは言わなかった。それが、唯一の救いのような気がしていた。



*:*:*



人生において一番最悪な日から一週間が経った今も食満からの連絡はなかった。あんな風に追い出された手前、食満の気が済むまで連絡してはいけないように感じ、竹谷は自分からは連絡出来ないでいた。けれど一週間も経つと嫌でも冷静になってしまい、食満が自分を許す理由が何ひとつないことに気付いて死にたくなった。そして竹谷は食満と付き合うまでや付き合ってから今までの日々を思い返しては罪悪感に苦しんでいる。

付き合うまでの数ヶ月は互いに探りを入れながら何とか先輩後輩という関係から飛び出さないようにしていた。互いに気があることは何となく分かっていたけれど互いに男相手は未経験という事もあって、どう始めていいのかが分からなかった。だから付き合うまでの数ヶ月は週のほとんどをどちらかの家で二人きりで過ごしながらも当たり障りのないことばかりしていた。
始まりは冬で、鍋ばかり食べていた季節だった。共通の女友達が食満へと告白をして、そしてそれを竹谷も事前にその友達から聞かされていた。結局食満はその子を振った。どうやら好きな人がいるらしいと竹谷は事後に聞かされたが、その相手が自分なのか、違う誰かなのかの答えが無性に知りたくてしょうがなかった。だから竹谷は飛び越えた。いつもと同じ様に二人で鍋を食べて食満が帰宅した後、竹谷は食満が家に着く時間帯になる頃にメールを送ったのだ。今までの関係を打破するべく、決定的な一言をメールに書いて送ってしまった。
たった一言書いただけなのに、こんなにも緊張するのかと竹谷は思っていた。緊張で心臓はうるさいし手のひらは汗ばんでいた。返事が来なくてずっと携帯を握りしめてソファに座って、ただ返事が来るのを待っていた。けれど一時間経っても返事は来なかった。
食満が自室の部屋の鍵を開ける時、絶対に携帯を開くことを竹谷は知っていた。食満がメールを見ていないわけはないのだから、きっと食満は今頃困惑しているに違いない。後輩の男に告白されたんだがどうすればいいか、と仲の良い善法寺にでも聞いているかもしれない。
時間が経てば経つだけ自分が勘違いをしていたんだと思い知らされ、全ては自分の見込み違いだったのだと竹谷はついに携帯を手放した。
顔を洗い、気晴らしにコンビニでも行こうかと財布だけを手に取る。自分の過去最大の勇気が木端微塵になったことをどうやって慰めようか考え、手っ取り早く酒を飲んで酔い潰れてしまおうと思ったのだ。ボロボロの靴に視線を落とし、その靴を履きながら明日は新しい靴を買おうとも思った。高いからと悩んでいた靴を思いっきり奮発して買ってしまおう。失恋できっとこの先しばらく立ち直れないんだから、自分を甘やかしてやろうと竹谷は思っていた。

竹谷がそんなことを考えてドアを押すととドアが何かにぶつかった。何だろうか、と顔を出すとそこには食満がいた。寒い中ずっと立っていたのだろうか、頬は真っ赤でその手は震えていた。

「食満、先輩。いつからそこに?」
「俺、何書いていいか分かんなくなって、そんで…」

食満の言葉はそこで止まった。竹谷が腕を伸ばすと食満はそれだけで体をびくつかせる。それでも気にせず竹谷は食満の手を取った。氷のように冷たく冷えてしまった手に思わず顔を顰めた。

「食満先輩は馬鹿だ」
「な、なんだよ」
「こんな冷たくなるまで、寒かったでしょ」
「…そうだな」
「入ってください。コーヒー淹れます」

食満は素直に竹谷の言葉に頷いた。そして竹谷に腕を引かれるまま部屋へと上がった。
ソファに座った食満は未だ寒いのかコートは脱がなかった。さっきまで切っていた暖房のボタンを押し、竹谷はコーヒーを沸かす。
キッチンで立っているのは、今食満の隣に座ってどうしたらいいかが分からなかったからだった。人生最大の勇気を出した結果は、多分悪いようにはならないと思う。けれどだからと言って上手くいくのかは分からない。上手くいったとして自分と食満のが何処へ行こうとしているのか竹谷はよく分からなかった。
分からないことだらけで全てが手探りで、正直竹谷は参っていた。疲れていた、と言ってもいい。そしてそれは多分食満も同じで、それを知っているから竹谷は無理に答えを聞き出そうとはしなかった。
コーヒーを淹れ、マグカップをテーブルの上に置いた。直接差し出さなかったのは指が触れたら困るからだ。もちろん触れたいとは思っている。けど、触れていいのかは分からない。でも隣に座るくらいはいいだろうとは思っている。それが今の二人の距離感でもあった。
食満の隣に腰を下ろし、竹谷もコーヒーを啜った。食満と出会った当初は黒くて苦い水と認識していたコーヒーを竹谷はまずいとは思わなくなっていた。それもこれもコーヒー好きの食満に合わせて飲んでいるうちに自分の舌が変わったのだ。
そういうものは沢山ある。たとえば、食満に会う以前だったら聞かなかった洋楽や、興味なかった筈の作家。食満が好きだっていうだけでいつの間にか自分も興味を持ち始めていた。そういう風に食満は竹谷を内側から変えた。そしてそれは食満も同じなんだと竹谷は思いたい。

「明日、」

竹谷の言葉に食満はマグカップに口を付けたまま少し視線を竹谷に向けた。

「明日、靴買いに行きたいなーって思ってて。食満先輩も一緒に、行きませんか、なんつって」

竹谷は項垂れながら後ろ髪を掻く。冗談風にしなければこんな風には誘えない自分が嫌になってくる。

「…いいよ」
「え?」
「明日だろ?」
「はい」
「明日、バイトも休みで一日空いてるから」
「そうですか」
「ん」

そこで会話は一度途切れた。さっきまでの混乱が嘘のように頭が静まり返っていた。食満がマグカップをテーブルへと置き、そして空いた手が竹谷の手に少しぶつかる。逃げて行かないその手に竹谷は自分の手を重ねた。あれだけ冷たかった手はコーヒーの所為か暖房の所為か、既にいつもと同じ温度に戻っていた。
食満がコートを脱ぎたいと言い、一度は手を離したが、コートを脱いだ食満の手はまた竹谷の手の上に戻ってきた。片手だけ触れたまま、結局ソファで二人は朝を迎えた。そしてそのまま朝の街へと繰り出す。

平日の早朝。ラッシュの数時間前の街は驚くほど静かだった。電車にも人影はあまりなく、二人が乗り込んだ車両には疲れた顔をした女の人だけが乗っていた。席は幾らでも空いていたのに二人は座らず、ドアに凭れて立っていた。一人だけど車両には人がいて、部屋のようにちゃんとは手を繋げない。それでも二人は指先だけを絡め、何にもない振りをして窓の外を見ていた。
好きだとは言われなかった。けど、その指先が何よりも食満の心を代弁している。竹谷はそれを信じていた。

中学生のカップルのようにどうしたらいいか分からず、いつも手探りで、だからこそ相手にぶつかれたような気はしていた。キスをした時は互いに緊張して歯がぶつかったし、舌をいれるようになれたのはひと月程経ってからだった。部屋でキスをするようになってからは抱き着いたりするのも当たり前になったけれど、それ以上先には中々進めず、足りないとはいつも思っていた。
最終的に体を繋げるまでにはたくさんの努力と失敗があったし、だからこそ初めてちゃんと最後まで出来た時は互いに泣いた。



こうやって思い出すと、どうしてこの人を裏切ることが出来たのか、数ヶ月前の阿呆な自分に聞いてみたい。そしてそいつの横面を殴ってやりたい。そう思ってはみても後悔は先に立たず、後に立つから後悔なわけで、竹谷はあれから一人鬱屈した日々を過ごしていた。
寄り道することなく学校が終わってから直接家に帰り、部屋の鍵を開ける。片手にはコンビニで買ってきたカップラーメンが三つほど入っていて、それらが暫くの間の食糧な筈だった。

「え」

竹谷はドアを開けて玄関先で足を止めた。自分のではない靴が一足、綺麗に並べられていた。そして部屋からとてもいい匂いがする。
この部屋にいるのが誰なのか、それが分かると竹谷は慌てて靴を脱いで家に駆けこんだ。

「あ、おかえり」

そう言ったのは包丁で野菜を切っていた食満だった。
合鍵を渡していたのは食満だけなのでそれは当たり前のことなのだが、それでもこの部屋にいるのが誰よりもあり得ない人のように思えたのも確かだった。

「食満、さん?」
「なんだ?」
「いや、あの…」

何と言っていいか分からず竹谷は押し黙り、状況を把握しようときょろきょろと辺りを伺った。
テーブルには土鍋が一つ置かれていて、周りにはキノコや肉、白滝などの具材が置かれている。食満が今切っているのは白菜で、その隣にはまだ切られていない葱が転がっていた。
鍋をするのだとさすがの竹谷も気が付いた。まだ夏の終わりで、今日の最高気温は30℃だったけれど食満は鍋をする気なのだ。

「あ、竹谷もしかして飯食ってきた?」
「いや、じゃなきゃこんなもん買ってきません」

ビニール袋に入っているカップ麺を見て食満は「お前相変わらずだなー」と言い、「俺も手伝います。何したらいいですか?」と竹谷はカップ麺を仕舞い込んでから尋ねた。
手を洗い、それから葱を切っていると食満が「もう具材入れとく」と報告をくれた。葱を切り終わって振り向くと食満は既に腰を下ろして鍋をじっと見ている。竹谷は自分の部屋に食満が来ていることを再確認して思わず泣き出しそうになったがぐっと堪え、「葱、今入れますか?」と尋ねた。

「ん」
「じゃあ入れますね」

食満が葱の為に用意してくれたスペースに葱を四分の一ほど入れ、そして「食満先輩、鍋見ててください、俺少し片付けます」と竹谷はまたキッチンに立った。
その時その時で食満が片付けていたので、そんなに散らかってはなく、竹谷は切り落とされた葉などを拾い上げてはビニール袋へと詰め込む。
食べる時なら喋らなくてもいいが、煮えるのを待つ間はそうもいかない。竹谷は食満と向き合って話ができる自信がなかった。片付けが終わってからは茶を出して、二人分の皿や箸も出した。そうやって竹谷が必死に仕事を探していると、灰汁を取っていた食満が「もう出来たぞ」と声を掛けてきた。

夏日で気温が高い夜に、クーラーも入っていない部屋で鍋を前に二人顔を向い合せ、汗をかきながら黙々と食べた。
食事中の会話と言えば「あ、取って」や「ほら、つみれ」くらいなどで、大した会話はなかった。そして大した会話はないままに食満は帰る支度を始める。

「まだ残ってますね」
「そうだな。竹谷は明日午後からだろ?俺も午後からだから昼飯はこっちで鍋だな」
「いいですね。俺バイト辞めたんで夜も空いてますよ。昼も夜も鍋できますよ」

竹谷のその言葉に食満はすぐには返事をしなかった。

「バイト、」
「はい。辞めました」
「そっか…」
「はい」

食満は何も言わなかったが、それでも一瞬だけ表情を変えた。
それだけで竹谷は十分だった。少しだけ安心したようなその表情だけで本当に充分だった。

靴を履きながら「今日は帰るわ」と言った食満を見送りに玄関先まで出ると、背を向けていた食満が一度振り返った。目が合うと不安そうにしていたが、それでもぎこちなく笑みを作っては「じゃあ、また、明日」と告げる。竹谷は同じように笑顔を意識して「また明日」と返した。けれど実際は泣き出す寸前の引き攣った顔で、そして食満も同じように泣き出しそうにしていた。

夏日に汗をかきながら鍋を食べる。それは食満が一生懸命考えて出した答えなんだろうと竹谷は思った。
きっと、二人がぎこちない笑みから変われるまで何度でも二人で鍋を食べるんだろう。そうやってもう一度日々を重ねていくんだ。

食満の背中を見送りながら竹谷はこれから先、自分たちが幸せになれる方法を食満と共に探していこうとと強く思った。



(おわり)





(2011/10/08)

あとがき

「愛を模倣した劣情」の続き、竹谷視点になります。
アンケートでも続きが気になるとの声が多かったので竹谷視点書きました。
二股かけちゃった竹谷がほんとアホ!って思うんですが、竹谷は二股とかかけなさそうなんで、今回は書いたあたしがバカ!って感じです。
でもね、だからこそ頑張っていく二人がみたいんであって、これでだめになる二人じゃ嫌だったんですよ…。
でもそしたら結果元カノが可哀想なことになりました。
でも女の子はタフだからね、彼女はきっと竹谷よりいい人見つけて「ざまぁみろ!」って言える子なので心配はしてません。
そしてこの二人も、何度も何度も鍋を食べながらがんばっていくんだろうなーと思うので心配してません…!!!!
竹谷くんはもう二度とふらふらしないだろうし、食満くんは次第に以前みたいに信頼していくと思うので、多分もう大丈夫だろうなーと思います。
二人でちゃんと幸せになるんだぞーと念じながら書いたので多分大丈夫です!