愛を模倣した劣情
休日の街中は人でごった返していて、あまりの喧騒に思わず踵を返して家に帰りたくなり、唐突に足を止めたら追い抜いて行ったギャルがぎろりと睨みつけてきた。心の中で「南無阿弥陀仏」と唱えた留三郎は目的の駅に着いたにも関わらず、平日に出直すべきなんじゃないだろうかと本気で考える。
けれど結局はまた人混みへと歩き出す。来週の月曜から学校が始まるので修理に出していた眼鏡を今日中に取りに行かなければならないのだ。
留三郎が利用している店は駅前に新しく出来たビルの五階に入っている。以前オープンセールの時に貼りだされていた50%オフの文字に釣られて店の前で足を止めたのが運の尽きだった。足を止めて数秒もしないうちに仕事が出来る風の眼鏡を掛けたお姉さんが店の中から出てきて、店内へと留三郎を促し、何にも考えずに見るだけにしようと足を踏み入れたはずが、店を出る時には手にはしっかりと眼鏡を持っていた。
おかしいと思ったのは店を出て、飯を食べて本屋へ寄り、コンビニでお茶とカップラーメンを買って家に帰ってからの事だった。その事を同じ大学の一学年下の恋人である竹谷に話すと「留先輩、運気が上がる壺とか就職先が絶対に見付かる花瓶とか買わされそう」と漏らしていた。正直後者の方があるなら少し欲しいと思ってしまう所である。そんな留三郎の反応を見た竹谷は「二本目買わされないか心配だから今度その店行く時は俺も一緒に行きますね」なんて笑っていた。
「…まぁ、用事なら仕方ねーよな」
留三郎はポケットから携帯を取り出し、一番新しい受信メールを開く。そこには竹谷から届いた断りのメールが映し出されている。予定が入っていてそれを断れないというのは何とも竹谷らしい。そのメールを閉じ、留三郎は携帯をポケットへともう一度仕舞う。別に眼鏡を受け取るくらい竹谷がいなくても出来る事だ。
ビルの入口はどうやら改装工事をしているようで、回転ドアからしか入れないようになっていた。地面へと視線を落して留三郎は回転ドアがこちらへと開くのを待つ。すると男女の靴が視界に入り、その男の方の靴に見覚えがある様な気がした。けれどそれは留三郎が好むような靴ではなく、どこで見たのか思い出そうとじっと見ていると唐突に声が落ちてきた。
「はっち?」
人の足が目の前で止まり、女の人のその声にふと顔を上げるとそこにいたのは黒髪ストレートの小さく華奢な女と留三郎の恋人である筈の竹谷八左エ門、その人がいた。
「…留先輩」
竹谷はそう言って顔を引き攣らせて足を止めている。顔を隠すように一度だけ右手で顔を覆う様にしたけれどこの近距離で顔が見えていない筈もなく、留三郎にはばっちりと狼狽えている竹谷の顔が見えていた。
「はっち?誰?知りあい?」
繋いだ手をぎゅうと握りしめて黒髪の女は竹谷の顔を覗き込む。竹谷は俯いたまま「え」とか「あぁ」とか「うぅ」とかしか言わず、女は竹谷の態度に不安を覚えたのか「はっち?どうしたの?」なんて腕を絡めた。それでも竹谷は視線を泳がせて青ざめたままで、まるで死刑宣告を待つ囚人のような顔をしている。そんな態度の竹谷を見ていると同じく動揺を覚える筈の留三郎の心の中は恐ろしいほど静かになった。だから本当ならば何も言わずに逃げ去りたいのに気が付けば「あ、俺、コイツの大学の先輩なんですよ」なんて言っていた。
「…え?」
竹谷は驚いたように目を丸くして顔を上げる。そしてまじまじと留三郎を見つめた。
「あ、そうなんですか?はっちの先輩だったんですか」
「今日こいつと遊ぶ予定だったけど断られてて、見付かったから気まずいと思ってるんだと思いますよ。つーか竹谷デートならデートって言えよな」
「…留、先輩、あの、」
「じゃあ俺もう行くから。またなー」
留三郎は笑顔を顔に張り付けて、通り過ぎる際に竹谷の肩を気さくに叩いてさえ見せた。そしてタイミング良く回ってきた回転ドアに入り、ビルの中へと逃げ込む。
「先輩!」
竹谷がそう言って振り返ったのが分かったが、留三郎は返事をせずにそのままエスカレーターへと向かう。そして二人の姿が見えなくなったら、エスカレーターを駆け上がり、トイレへと駆け込んだ。
あまり人が来ない三階の端の個室トイレの中で、切れた息を整えながら壁に背を預けた留三郎はずるずると屈んで頭を抱え込んだ。先ほど見た光景が、目を瞑っても甦って来るのだ。
竹谷より頭三つ分くらい小さい女は竹谷の隣りにいるのが当たり前の様な顔をしていた。誰かに祝福されないなんてこと一度も考えた事ないというように、当たり前に手を繋いで笑っていた。華奢な体も可愛いワンピースもヒールの靴も薔薇色の頬も竹谷の隣りも、あの人は何でも似合っていた。
「…つーか、浮気ならばれないようにしろよ。俺が今日このビル来るってメールちゃんと読んでれば分かるだろ、あいつ馬鹿なんじゃねーの。何で浮気されて俺がお前のフォローしなきゃなんねーんだよ」
ぶつぶつとそんな事を呟いてみたけれど、もしかしたら自分からのメールなんてちゃんと読む事なんて無かったかも知れないと思うと心の中がシンと冷えて静かになる。どんなに考えても竹谷がどういうつもりなのか全く分からなかった。そもそも、本当に付き合っていたのだろうか。俺が勝手にそう思い込んでいただけで、実はそういう事実はなかったんじゃないだろうか。そう思うと怒りも静かに消えていった。
三十分程その場に座り込んで頭を抱えて待ってみたが、竹谷から言い訳や謝罪の電話どころかメールさえ一向に来ない。
「…付き合ってると思ってたけどやっぱり俺の思い込みだったんかな」
そう口にしてみると本当にそうなんじゃないかと思えて来る。留三郎は携帯の電源を切り、そしてようやく腰を上げた。いつまでもトイレに籠っている訳にはいかないし、眼鏡を引き取りに行かなければならない。
トイレから出ると六十代くらいの男性が鼻歌を途中で止めてしまった。いつもならもう少し気を利かせられるけど、今は人を構っていられるだけの余裕がなかった。
寄り道すらせず、一直線に店へと行って眼鏡を引き取り、その足で自宅へと直行した。本当なら新しく出来た駅前の大きな本屋へ寄るつもりだったし、いつものラーメン屋で昼飯も食べるつもりだった。けどあの場面に遭遇してから何もする気にはなれず、ただひたすら家に帰りたかった。
家へと辿り着くと、取りあえず留三郎はベッドで丸くなってみた。留三郎は嫌な事があると不貞寝するタイプであり、寝ていれば大抵の嫌な事を忘れる事が出来る。けれど今回はどんなに寝ようとしても目を瞑るとあの光景が甦り、その度に心臓が痛くてとても寝付けなかった。
結局はベッドの上で5時間ほど丸くなっていただけで一睡も出来ず、諦めて体を起こす。辺りは暗くなり始め、留三郎はまるで自分だけが置いて行かれているような不安を覚えた。留三郎の中ではあの時から時間がちゃんと進まず、昼飯を食べてないにも関わらず腹は減ってなかった。
風呂でも入って頭をすっきりさせようと留三郎がベッドから出ると、ベッドの上に置かれていた携帯が音を立てて落ち、フローリングの上を滑る。その時ようやく携帯の電源を落としたままにしていたことを思い出した。
もしかしたら、という期待は正直あった。けれど竹谷から連絡がきたとして、それからどうしたらいいのかは分からない。竹谷は留三郎が初めて付き合った相手であり、留三郎はこんな状況に陥ることが初めてだった。だからこういう場合どういう態度を取ればいいのか、何を言えばいいのかが分からない。
ぴっという音共に携帯のディスプレイは光り始めた。そしてしばらくすると電源が切れていた間にかかってきた番号を表示する。それはすべて竹谷からだった。
風呂に入るつもりだったが、もうそれすらどうでもよくなってしまう。留三郎は床へと腰を下ろし、ベッドへと背を預けると携帯のディスプレイをじっと見つめた。
メールはひとつもなかった。そもそも竹谷はメールがあまり好きではない。留三郎からメールを送ってもすぐに電話をかけてくるような奴だ。そこまで考えたところで留三郎ははっとして携帯のメールの受信ボックスを開いた。
「…やっぱり」
竹谷から届いたメールを開いてみるとどれも留三郎の誘いを断る時のものだった。それらのメールを開いて見ているとどうして気づかなかったのかとさえ思うほど、断りのメールのみだった。きっと電話でだとうまく嘘を吐けないと踏んだ竹谷は断る時だけメールを寄越したのだ。こんなに分かりやすいのに気付かなかった自分に留三郎何だか呆れてしまった。
ため息をひとつ落とし、留三郎は竹谷のメールを開いては過去を辿る。たまに指を止めて電源ボタンを押そうか迷ったが、結局最後まで辿ってしまった。一番はじめの断りのメールの日付は三ヶ月前だった。それは竹谷が新しいバイト初めて一ヶ月経った頃で、きっとあの子はバイト先の子なんだろうなと留三郎は思う。留三郎は竹谷と同じ授業を多く取っているが、あんな子は大学構内で見たことがない。だからきっと留三郎が知らない場所で出会ったのだろうと踏んだのだ。
竹谷のメールを更に遡っていき、ぼんやりとディスプレイを見ていると、たった一言「好きです」とだけ書かれたメールを開いてしまった。途端に体が固まり、携帯が手を離れてもう一度フローリングへ落ちて転がった。
「…風呂、入るんだった」
まるで自分に言い聞かせるようにそう呟いて、留三郎は腰を上げる。足が携帯を蹴飛ばしてしまい、携帯がベッドの隙間へと入っていってしまったが、視線をちらりと向けただけで拾い上げようとはしなかった。
クローゼットの中から着替えを取ろうとして引き出しを開けた時、また留三郎の手は止まった。そこには明るい色した、留三郎なら絶対に買わないようなシャツなどが溢れている。どれもこの部屋へよく泊まりに来る竹谷が置いて行ったもの達だ。
クローゼットの扉に頭が軽くぶつかる。留三郎は数回頭をぶつけてみたが、鈍い痛みでさえも思考回路を止めてはくれない。留三郎が頭をぶつけるのを止めると部屋はまたシンと静まり返る。その静けさが更に留三郎を落ち込ませる。
留三郎が静寂に耐えているとそれを破るようにノックの音が微かに聞こえた。インターホンはあるけれどちょうど壊れていて音が鳴らないのだ。留三郎はゆるりと顔を動かし、玄関の黒いドアを見つめる。するともう一度少し大きめにノックが響く。
もしかしたら郵便局の人かも知れない。そう思ってはじめて留三郎は体を動かした。そして一歩一歩、ドアへ近づき、ドアノブを掴んだ。指先が震えている理由はたくさんありすぎて、どうしてもひとつには絞れなさそうだった。
黒く冷たいドアを開けるとドアの隙間から痛んで銀色に似た色をした髪が見えた。俯いているのか顔は見えなかったがドアが開いたことに気付くとすぐに視線があった。竹谷は泣き出しそうな顔をしていて、まるで自分が責められているように感じた。
「…留先輩、」
沈黙の末にようやく口にされた名前を遮るように留三郎は無意識で「何」と聞いていた。その声は自分でも驚くほど冷たく、そして感情がなかった。
「…電話、したんですけど繋がらなくて」
「電源切ってたから…で、何」
冷たい声に竹谷はますます泣き出しそうになる。でもその声以外留三郎は出せなかった。精一杯に虚勢を張らなければ今竹谷と会話することなんて出来ないからだ。
留三郎がドアから手を離すと竹谷は悩んだ末に玄関へと上がった。留三郎はそんな竹谷を見ようとせず、部屋の奥へと進み、そしてベッドの上に腰かけた。
「…あの、本当にごめんなさい」
目の前までやってきてぺこりと頭を下げた竹谷を見つめ、ちらりと玄関を見やるとあの靴が視界に入る。竹谷が欲しがっていた限定モデルのその靴を買うのに留三郎は付き合わされたのだ。そしてそれが二人の初デートだった。
さっきまで忘れていたけれど、あの靴をもう一度見るとその時の思い出が蘇る。冬の寒い時期で、まだ付き合いたてだったから手を繋ぐなんて出来ず、悴んだ指先だけ触れていた。自分のものより暖かい竹谷の指先に触れる度、ジンと心まで震えたような気がしていた。
「…怒って、ますよね?」
ちらりと留三郎を見る竹谷に「怒ってないと思ってんの?」と言うと「そうですよね」と竹谷はまた俯いた。
「あの、本当に出来心だったんです。なんかそういう流れになっちゃって、うまく断るつもりが…言い訳に過ぎないって知ってるんですが、でも、先輩を裏切るつもりはほんとなくて」
必死に続けようとする竹谷の「裏切り」という言葉が胃の中に落ちるようにずぶずぶと沈む。浮気とかそういう言葉よりもそれが一番的確だと留三郎は思った。この痛みにはその名前がぴったりと合う。
「裏切り、だろ」
留三郎が微かに震える声でそう告げると竹谷は言葉を止めて留三郎を見つめた。さっきまでは無表情だった留三郎だったが、今は眉間に皺を刻み、泣くまいと必死に噛みしめている。そしてそれを見られないようにと俯いていた。
「…先輩、」
竹谷はそれだけ呟くともう何も話さなかった。言い訳も何もかも止めて、ただ留三郎の方をじっと見つめる。そしてついには耐えられなくなったのか同じように視線を逸らして俯いた。
「…あの子、誰だよ。なんだよ、はっちってさ。言い訳でもしてみろよ」
黙り込んで立っているだけの竹谷を睨みつけながら留三郎はそう吐き捨てたが、でもそれはそうでもしないと泣き出してしまいそうだったからだ。
「…あの子、バイト先の子だろ」
留三郎の言葉が核心を突いていたのか尚も黙っていた竹谷はハッと顔を上げる。
ビルの入り口であった時にうまく誤魔化して、ただの女友達だと笑って取り合わなければきっと留三郎は怪しいと思いながらも納得した。けれど竹谷はそういうことができない。嘘が吐けないのだ。だからきっと本当のことを話す。隠せばいいことも、全部正直に話す。竹谷はそういう、馬鹿な男なのだ。
「…告白されて、でも付き合っている人がいるって言って詮索されたら先輩が嫌な思いするかもって思ったら、言えなくて…」
「…お前のことだから最初から気があったんだろ?だから付き合ったんだろ?」
「え」
「だってお前、好きな人じゃねーと付き合わねーって言ってたじゃんか」
唇を噛みしめる。付き合いはじめに言われて嬉しかった言葉がこんな皮肉になるなんてまさか竹谷だって思いもしなかっただろうに。
「…でも別れてきました。あいつに先輩のこと話したら、もう顔も見たくないって」
それは俺もだよ、とは嘘でも言えなかった。それが留三郎は悔しい。
「俺、今まではよく分かってなかったけどあの時やっと分かったんです。俺、先輩が好きです。ミナより先輩に嫌われる方が怖いんです。お願いします、こんなこと言える立場じゃないってのは分かってるんですけど、別れるなんて言わないでください」
そう言って床に手を付いて謝る竹谷を留三郎はどこか遠い目で見ていた。
「へー…あの子ミナちゃんって言うんだ」
留三郎のその声に竹谷は頭を上げたまま何も言わない。
竹谷が嘘を吐けないことは知っている。だから今の言葉も多分本当のことだろう。それでもすぐには許せる筈もない。そして気掛かりなことがひとつあった。
「…お前さ、あの女とヤったの?」
声が掠れていたのは、簡単に聞けることではなかったからだ。竹谷の場合は浮気はあり得ない。あり得るとするならば、二股だった。だからこそそこが気になった。勘が正しければ相手とも三ヶ月は続いている。
竹谷は体が石になったかのように動きを止めた。そして息まで潜めていて、じっとまるで嵐が去るまで岩陰に隠れている蛙のように見える。
「…なぁ、俺はお前があの女に突っ込んだもの突っ込まれてたのか?!聞いてんだから答えろよ!」
耐えきれず足で竹谷を軽く蹴ると思ったよりもあっけなく竹谷が吹っ飛んだ。顔面蒼白とはこのことかと思うくらい血の気が引いていて、何も言わずに竹谷は留三郎を見上げている。留三郎は動かない竹谷のシャツを掴んで立ち上がらせるとそのまま歩かせて玄関の外へと突き飛ばした。竹谷はアパートの廊下の壁へとぶつかり、そのままずるずるとしりもちをついていた。留三郎はすぐに部屋の中へと戻るとクローゼットの中にあったシャツや玄関に残っていたあの靴を拾い上げるとまだしりもちをついている竹谷へと投げつける。留三郎が背を向けるとまるで縋るかのように竹谷の手が留三郎の手を掴んだ。
「先輩!」
竹谷のその声に一度は足を止めた留三郎だったがすぐに手を払うと部屋の中へと戻った。そして疲れたように力なく「しばらく顔も見たくない」と言い残すと部屋のドアを閉めた。ガチャリと音を立てて鍵が閉まる。
もう開かれない黒いドアを廊下に座り込んだまま竹谷は見つめていたが、隣人の人が帰ってきて、訝しげに視線を向けられたのでようやく立ち上がった。留三郎が投げてくれた靴を履き、そして廊下に散乱しているTシャツを拾い上げる。隣人はすぐに部屋の中へと消え、竹谷は一度は離れようとしたドアの前にもう一度向き直ると、黒いドアにそっと額を付けた。唇は何か言葉を発そうと動いたが、結局は声にはならず、諦めたように力なく項垂れて去っていく。竹谷の足音がやけに廊下に響いていた。
竹谷の足音が遠ざかり、聞こえなくなると、留三郎は体の力が抜けてその場へ座り込んだ。何だか頭がうまく働いていない。そしてぽたぽたとズボンを濡らすものが涙だと気付いてようやく留三郎は自分が泣いていることに気付いた。そして気付いてしまうと涙はもう止まらなかった。
「…くそっ!」
そう言ってドアを肘で叩いたのは怒っているからではなく、悔しかったからだ。二股をかけられていたのに、裏切られたはずなのに、それでも別れるとは言えなかった自分自身に嫌気が差す。こんなに一方的に傷つけられたのにそれでも別れるとは言えなかった。甘すぎるというよりは、自分だけが一方的に惚れているような気にさえなる。いや、きっとそうだったのだろう。それに今まで気付かなかった自分が幸せすぎて笑えてくる。
「…今更好きだとか、ほんと…」
嗚咽の合間に酸素を吸い込み、涙で滲んだ視界の先には竹谷に返しそびれたオレンジ色のTシャツがフローリングの床の上に落ちていた。その色があまりにも鮮やかすぎて、留三郎はゆっくりと目を閉じる。
そしてひとつ大きく息を吸うとゆっくりと目を開けた。その視線の先でまだオレンジ色のTシャツは自己主張をしていて、終いにはまるで竹谷の分身がそこにいるかのように思えてきた。やたら明るいその色は竹谷にとてもよく似ている。
玄関の自分の靴の上からようやく立ち上がり、転がって主張しているオレンジを拾い上げる。Tシャツは洗われたばかりで、それを知っているはずなのに留三郎は匂いを嗅いでいた。
柔軟剤のフローラルな香りの中から竹谷の匂いを探すことは到底無理で留三郎はそのTシャツを握りしめたままベッドの上へとダイブした。安物のスプリングはギシギシと悲鳴を上げ、埃が舞い上がる。
ベッドの上で留三郎は一人項垂れて帰る竹谷の情けない後姿を想った。
「…それでも俺のところに来てくれて嬉しいなんて、バカみたいだ」
その掠れた声は通りを走る救急車のサイレンの音に掻き消され、留三郎はそのままぼんやりと涙を滲ませながら部屋の中よりも明るいカーテンの外を眺める。
朝はまだまだ遠く、幸せだった筈の昨日もまた遠かった。
あとがき
8/10がはちとめの日だって聞いて書いた話がまさかのだめ男竹谷。
竹谷はいつだって本気の男なので浮気も本気故、二股になりそうだなーという妄想しています。
いや、多分あの竹谷は浮気とかしないだろうと思うけどね!!!
竹谷視点も、書きたいと、思います。
(2011/08/14)