プールサイド・ラブサイド
太陽が昇るまでもう少し時間あり、月が沈んだ空は暗い。
大きめのビニール製の鞄を自転車の籠へと突っ込んで、車も歩いている人も全くいない道を全速力で駆け抜けた。
周りの皆がかっこいい自転車に乗り換えても俺は中学校からの相棒であるママチャリ『アンドレ号』から他の自転車に乗り換える予定はない。ちなみに『アンドレ号』という名前を付けたのは二つ年上の姉だ。断じて俺ではない。
高校の校門を通り抜けて自転車置き場にアンドレ号を置き、鍵を掛けたのを確かめて鞄を抱きかかえながら部室へと走る。
夏の大会が近いこの時期は朝練の時間も早くなるのだ。学校から家の近い俺が部室の鍵を開ける係りに任命され、こうやって毎日一番早く部室へと向かう。ちなみに部員の中で学校から一番家が近いのは同じ学年の鉢屋三郎なのだが、遅刻魔&さぼり魔ということもあって鍵係りには家が一番近いはずの三郎ではなくて俺が任命された。
元々爺ちゃんと一緒に早起きする癖がついているからこの時間に学校に来る事は苦ではない。それに誰もいない学校が俺は結構好きなのだ。
学校内はとても静かで、電線にとまった小鳥たちが朝の訪れを知らせるように囀りはじめた。
東の空がやっと白んできたばかりで太陽が昇るのはまだまだ先のことだろう。
幾つかの星もまだまだ瞬いていて、黒が薄められたような空に光るその色が淡くて綺麗だ。
部室に入って一番最初にすることといえば扉と窓を開けることだ。
男だらけの部室はやはり臭いし汚い。顔をしかめながら窓を開け、目の前に広がったプールを見つめる。
この学校ではプールの隣りに部室棟が建てられていて、窓の鉄格子が壊れている俺らの部室からはブールサイドへ簡単に侵入することが出来る。バレたら処分ものらしいので先輩や後輩たちも頻繁に忍びこむことはないけど、今のような早朝ならばれることもないだろう。俺は時たま早く来てはプールサイドで寝転がりながら空の色が代わる様を観察しては楽しんでいるのだ。
「誰も見てないしいいよな?」
確かめるように呟いて鞄をベンチへと置いた。まるでくっついているかのように設置されている鉄格子を外し、そこから頭を覗かせる。きょろきょろと誰もいないことを確かめているとブールサイドで横たわっている人影が視界に入った。
制服のままピクリとも動かないその人影に一瞬幽霊かと思って冷や汗が流れる。けれどどんなに瞬きしてもその人影は消えないし動かない。
「…し、死んでる?」
もしかして死んでいるのではないか。
慌てて確かめるようにプールサイドへと降りてみたが着地する時に出た大きめな足音にもやはりその人影は反応しない。そろそろとへっぴり腰になりながら人影に近付いてそっと上から顔を覗き込むとその顔には見覚えがあり、知っている人物だった。
「け、ま先輩?」
そっと名前を呼んでその頬に触れてみる。生きているかどうか確かめるために口元に顔を近づけてみると規則正しい寝息が聞こえる。
死んではないようでほっと胸を撫で下ろし、食満先輩とプールの間に腰を下ろした。先輩は穏やかな表情のまますーすーと寝息を立ててよく眠っている。
ひとつ年上である食満先輩は同じ部活の先輩だ。いつもは遅刻ギリギリな時間帯に駆けこんでくるタイプでこんなに早く来たりはしない。
(どうしてこんなとこで寝てんだろう。)
疑問はあったが、あまりにも穏やかに眠る食満先輩を起そうとは思えなかった。
こんなにまじまじと先輩の顔を見る機会なんて今までなく、よくよく観察してみるとやっぱり綺麗な顔していると思う。先輩が綺麗な顔をしていることは随分前から知っていた。そして先輩が優しくて可愛い人だということも知っている。
県大会の出場を決めた時、先輩が隠れて泣いているところを偶然見つけてしまったのだ。
そっと息を殺して先輩が涙を拭う様子を見ていた。
綺麗な瞳から零れた涙がパタパタと床へと落ちる様子が随分とスローモーションに見え、濡れた睫毛は窓から入り込んでくる光を反射させてキラキラ眩しくて、俺は何だか上手く息が出来なくなった。心臓がやたら煩くなって、先輩に聞えてはしまわないかと慌てて両手で押さえこんだりしたくらいだ。
先輩は涙が完全に乾いてから部室を出ると、県大会出場を決めた事でうっかり涙してしまった潮江先輩を全力でからかっていた。
潮江先輩をからかっていた食満先輩も泣いていたことを知っているのは俺だけ。
その事実に心臓やら顔やらが熱くなって、まだまだ夏を終わらせたくないと強く思った。
まだまだこの人と同じ場所で呼吸をしていたい。そう強く思ったのだ。
長めの前髪が風に吹かれて目へと掛かる。それが何となく気になって先輩の前髪を掻き上げてみると先輩の眉間に少し皺が入って「ん…」と寝がえりを打った。
寝がえりを打った先輩が俺の膝へと手を置いて、その手の熱に心臓がまた煩くなる。ドクドクドクと早まった鼓動は顔へも熱を運んで、きっと首まで赤くなっているだろう。
ぎゅっとズボンを握りしめられた時は変な声が出そうになって慌てて口を抑えた。
こんな風に無防備で可愛い先輩を見る機会なんて滅多にないからこの時間を少しでも長引かせたいのだ。
「んー…」
先輩がまた寝がえりを打って今度は体ごと寄せてきた。
そしてもう一度小さく声を出したあと、その瞼がゆっくりと持ち上げられる。
「ん?・・・あれ、たけ、やぁ?」
開いた瞳はまだ虚ろで瞬きがとても遅い。
先輩が俺に気付いてその状況を飲み込むまでは結構時間がかかった。
その間は息をするのさえ躊躇ったほど静かな沈黙で、先輩は自分の置かれた状況に気付くと勢いよく起き上がって照れ隠しか俺を突き飛ばした。
…そう、俺は先輩に突き飛ばされてしまったのだ。
「ちょ、ま、あっ」
後ろは水が張ったプールであり、背中から倒れ込むのを阻止しようと伸ばした指先がプールの淵に触れた。しかし折角届いたはずのプールの淵はやけにつるりとして俺の指をあっという間に滑らせる。
「あ、竹谷!」
先輩が慌てたように俺の名前を呼んで手を伸ばしたけれど、その前に俺はプールへと落ちてしまった。水温はまだ冷たくて、一気に涼しくなる。水面へと顔を出すと先輩は膝をついてプールの中を覗き込むようにしていた。
「竹谷、ごめん、まじごめん!」
慌てたように手を合わせている先輩に「大丈夫っす」と返すと先輩は「…ごめん」と小さくもう一度謝った。
プールサイドへと歩み寄ってプールの中からプールサイドに座っている先輩を見上げる。先輩は少し困ったような顔をしていた。
そして俺の髪へと手を伸ばし「びしょびしょ」と笑いながら髪を軽く撫でる。
「…冷たくて気持ちいいんで、大丈夫っす」
「…俺んとこ、今日からプールの授業あるんだぜ」
「いいっすね!俺んとこは明日かなー」
いつもより至近距離で目が合い、先輩が目を細めて声もなく笑った。
その瞳の動きに、弧を描いた唇に、あぁ、この人が好きだと強く思って、気がついたら顔を寄せて唇を重ねていた。
ちゅ、という音に我に返って慌てて顔を離すと先輩は固まってしまっている。
突然キスなんてして、先輩に殴られるかもしれないと俺が蒼ざめていると先輩は暫く固まったあと、自分の唇を指でなぞる。指先が触れたその唇に一瞬でも触れていたのかと思うとまた心臓が煩くなって顔が熱かった。
「…お前、やっぱりプールに落としたこと怒ってんじゃねぇか」
先輩は唇を擦るのではなく、押さえてそう言った。
「え、怒ってないっすよ」
「じゃあ今のなんだよ」
「な、何って、き、」
「言わなくてもそりゃ分かるよ!馬鹿!」
先輩が俺の頭を軽く叩き、俺は頭を擦りながら「い、嫌でしたか?」と尋ねた。
先輩に強く拒絶されて怒られるだろうと思っていたのにそんな様子を見せない先輩にもしかして脈があるのか、と期待を持ったのだ。
「ん…どうかな。突然でわからんかった」
「じゃ、じゃあもう一回!!!」
「するわけないだろ!何でお前とキスしなきゃなんねーんだよ!」
先輩の「なんで」に、思わず自分の気持ちを告げてしまおうかと思った。
だって先輩は「何で」って疑問を持っただけで俺とのキスが気持ち悪いとか嫌だとか言わなかったのだ。これは、少しくらい期待してもいいんではないだろうか。ひょっとするとひょっとするのではないか。
告げようかどうか悶々と俺が考えていると先輩がため息をひとつ吐いた。
「あーもうお前の所為で賭けに負けるだろ」
「え、賭け?」
「三郎と賭けしてんだよ。どっちが早く部室に来れるかって。勝った奴が負けた奴に命令ひとつ出来るから俺アイツにPSP貸せって言おうと思ってさ」
先輩が俺へと手を伸ばしてくれ、その手をとってプールから上る。
水に濡れたシャツやズボンは重く、肌にぺたりと吸い付いていて気持ちが悪い。
先輩は俺の姿を見て少し考え込むように黙り込んだ。そして「ジャージ部室に置いてるから今日はそれ着ろよ」と言ってくれる。先輩の気遣いがうれしい。
「助かります」
「…いや、俺が悪いんだし。部室の鍵は開けたんだろ?」
「はい」
「よし、俺が一番乗りだ!」
先輩は部室の窓へと駆け寄り、開いた窓から顔を突っ込んだ。先輩の後を追いかけて俺も近寄るとそのまま部室に入るのかと思っていたのに先輩はへなへなとプールサイドへと腰を下ろす。
「どうしたんですか?」
「三郎もう来てんじゃねーか!」
部室の中を覗くと三郎がベンチに腰掛けてPSPをしていた。
三郎は俺と食満先輩に気付いたようで画面から顔を上げて視線を向ける。
「食満先輩、どうやら俺の勝ちですね」
「何言ってんだよ!俺はな、鍵が開く前からプールサイドでスタンバってたんだよ!」
「でも勝負は『どちらが早く部室に来るか』でプールサイドではないじゃないすか」
さっきまで膝立ちで捲し立てていた先輩は三郎の正論にまたへなへなとプールサイドへと座り込む。
「じゃあ罰ゲームは…はちとチューでもしてくださいよ」
三郎がちらりと俺を見てにやりと笑う。
これは、もしかしなくても俺の気持ちがばれてるのかと青ざめているとプールサイドに座り込んでいた先輩が「それならさっき」と口を開きかけ、俺は慌ててその口を両手で塞いだ。
三郎にばれると絶対ろくな事にならない。言いふらすようなことはしなくてもかき混ぜることくらいはしてくる。絶対してくる。
「え、さっき?何?」
「なんでもない!!三郎、何でもないからな!!」
俺は先輩の口を必死に抑えつけたまま三郎へと大きな声で言い、三郎はそんな俺の様子を「…ふぅーん」と言いながら見ていた。冷静なその瞳に気持ちが見透かされている気がして冷や汗が流れる。
じっと三郎を見ていると手に痛みが走る。慌てて手を離すとどうやら食満先輩が手の平に噛みついたらしい。手の平に赤い歯型がうっすら残っていた。
「…ぶっは!竹谷、お前はさっきからなぁー…!俺に恨みでもあんのか!」
「違いますよ!大好きなんですよ!!!!!!!」
先輩が急に大きな声を出したから、それに負けじと大きな声で言い返したのだけれど、言い終わった時に自分が何を叫んだのか気付く。
もしかしなくても、墓穴を掘ったんではなかろうか…。
「え?」
食満先輩は驚いたように目を丸くして俺を見上げていて、三郎はまたにやりと口元を綻ばせていて、それがまるで地獄の裁判のように思った。
「…お前俺が好きなのか?」
「え、あの、その、やましい意味じゃないんです、あの、ただ、その、じゅ、純粋に、好きなだけで、」
しどろもどろに言い訳をする俺を尻目に先輩は「ま、恨まれてるよりは好かれてた方がいいか」と勝手に結論を出して腰を上げ、窓から部室へと入る。
想いを告げたあととは思えないほどいつも通りの先輩の様子に、プールサイドで立ち尽くしながらその背中へと思わず声を掛けてしまった。
「あの、先輩?」
「あ、お前とりあえず濡れた服はそこで脱げよ、俺のジャージ貸してやっから」
「…あ、ありがとうございます」
「よかったなー竹谷。大好きな先輩のジャージ借りれて」
まだにやにやしながら三郎はPSPの画面へと視線を落としていて、先輩は俺の存在なんか気にもとめずに目の前で部着に着替え始めている。
(えっと、俺、今、先輩に告白したよな?)
思わず首を傾げながらそう考えていると金網の向こうから「プールサイドにいるのは誰だー!」という警備員の声が聞えてきて、警備員がプールへと回り込む間に部室へと逃げ込んだ。
慌てて窓を閉めた俺に先輩が「早く濡れた服脱いでこれ着ろ!」とジャージを投げつけてくれて、警備員がプールサイドを見回っている時には俺は何食わぬ顔で先輩のジャージを着ながら部室のベンチに腰掛けていた。
犯人は逃げたものと結論付けたらしい警備員が去っていくその向こうの空に光が漏れだして朝日が顔をのぞかせている。
「ばれなくてよかったなー」
「ですね!」
隣りに腰かけていた先輩の方へと顔を向けると思ったよりもずっと近くで視線が合う。
もう一度想いを告げてみようかとも一瞬思ったが、にかっと笑い「県大会、最低一勝しねぇとな。がんばるぞ竹谷」と俺の背を叩いた先輩に、今は部活の事以外持ち込むのはやめようと思った。
この気持ちを告げるのはこの夏が終わってからにしよう。
多分、その方が俺にとっても先輩にとってもいい。
「はい!」
勢いよく返事した俺に、先輩が嬉しそうに笑って、やっぱり好きだなぁと思った。
拍手に置いていたお話リサイクル。
竹谷が三郎の存在を思い出すまであと5分 笑
学生パロで夏っぽい話、書いていてとても楽しかったです…!