大食いの吸血鬼
あの夜から二ヶ月。留三郎の貧血もすっかり良くなり、宣言した通り、竹谷は留三郎の血を吸おうとはしなかった。そして留三郎も約束通り、セックスに乗じて嗾けたりはしない。約束したのだから、と自分に言い聞かせてはいるものの、あの強烈な快楽が懐かしくて留三郎は悶々とした時を過ごしていた。
明日は休みなのでひとりで晩酌をしようと風呂上りに冷蔵庫を開けたらビールのひとつも入っていない。昨夜レポートしながら飲んでしまった事を今更思い出し、留三郎は濡れた髪をタオルで簡単に拭いただけでそのまま財布を手に取った。深夜には少し早い時間だが、スーパーなどは閉まっているので近くのコンビニへと留三郎はひとり向かう。
コンビニまでは徒歩十分ほどの道のりで、途中で道が二つにわかれた時に留三郎は少し迷った挙句、大きな公園を突っ切る道を選んだ。その公園は敷地が広い上に木が覆い茂っていて暗く、外灯も少ないので普段なら避ける道だ。けれど風呂上りの一杯を求める今の留三郎は暗さや怖さよりも早くコンビニへ辿り着く方を選んだ。
風が吹く度に木々が大袈裟に揺れ、その度に辺りを見回す。外灯は切れかかっていて点滅しているものが多く、目に痛い。浮浪者などの人間も多く、やはりいつもの道を選べばよかったと涙目になっているところでようやく公園の出口が見えた。足元は暗く、何があるのか判別は付かないし、出入り口の街灯もやはり切れかかっていて黒と白の点滅を繰り返している。外灯が一瞬ついた時、出入り口の近くにある背の高い大きな木の下に全身黒尽くめの人間がいるのが見えた。が、外灯が消えるとその姿をすぐに見失う。じっと立っているだけのその人間の前をなるべく視線を合わせないまま通り過ぎようとしたのだが、はやり視線を向けてしまい、目が合った。
そこにいたのは留三郎よりも少しばかり背の高い男で、吊り上った瞳は留三郎のものと良く似ている。まだ秋だというのに異様に着込んだその男は口元を赤いマフラーで隠している。さっさとこの場を立ち去ろうと思っていたのに体は全く動かなかった。男の瞳を見た瞬間から金縛りに合ったようだ。
ジャリ、と音を立てて男が動いた。そして一歩また一歩と留三郎に近付いて来る。本能的に逃げなければと思っているのにも関わらず体は動かない。男から目を逸らす事も出来ず、男の黒い瞳が赤に変わる瞬間を見た。それは欲望に飲まれた竹谷と同じ色の瞳だ。
マフラーを外した男は竹谷のものと良く似た鋭い歯を見せ、留三郎の肩を掴む。そして留三郎の首筋へと噛みついた。
血を吸われる時に襲ってくるものは快楽。留三郎はそう認識していたが、竹谷に吸われるのと目の前の名も知らない男に吸われるのでは全く違った。首筋から入り込んでくるのは恐怖や孤独、苛立ち、僻みなどの負の感情で、それらが首の傷から入り込んできては体中を蝕む。血を吸われている時間は一分にも満たないが、留三郎には永遠の責め苦のように思えた。
「こら、陣左」
いつの間にか背後に立っていた人物が留三郎の首筋へと噛みつく男を引きはがす。陣左と呼ばれた男は口を血で赤く染め、どこか虚ろな目でぼんやりと留三郎を見ていた。
「…あーあ、駄目だと言ったのに。お前は我慢が出来ない子だねぇ」
目の前で人が血を吸われているというのに呑気な声でそんな事を言った男は、力が入らず倒れ込みそうな留三郎を受け止め、顔を覗きこんだ。悲鳴を上げなかったのは声が出なかったからだが、声を上げていたら多分殺されていた。そういう目をした男が留三郎を覗き込んでいるのだ。
ようやく我に返ったらしい男が血に濡れた顔に気付き顔を青くする。いつの間にから外灯は完全に切れてしまい、月明かりが留三郎やその男を照らしていた。
「全く。何の為の罰だと思っているの。まぁ、一ヶ月我慢出来たんだから褒めてあげたいところだけど、また面倒な子選んだねぇ」
顔の殆どを包帯で隠した男は黒いスーツに身を包んでいた。段々と意識がはっきりして金縛りが解けた留三郎だが、今度は恐怖と貧血で動けない。背後から支えられてようやく立っていた。
「ごめんね?うちの子に罰を与えていたんだけどさすがに一ヶ月は辛かったみたいで。でもね、君、慣れてるから平気よね?こんなの慣れっこでしょ?もう少しだけ君の血を分けてくれない?」
顔を青白くしたままの男は俯いたまま動かず、包帯男は留三郎の顔を覗き込んで笑う。竹谷に吸われる時とは違い、目の前の若い男に血を吸われる時の感覚は二度と味わいたくない最悪なものだった。負と思われる全てのものが首筋から入り込み、体の中で暴れる。それらは表現しようにも表現できず、いっそ狂った方がマシだとさえ思えた。
「…な、慣れてるわけ、」
留三郎は顔を青ざめながら否定し、首を横に振った。
「…え?だって君、もうマーキングされてるじゃない?」
「…マーキング?」
「いわゆる吸血鬼に血を分けた事あるでしょ?」
その問いに留三郎は思い当たる事が多すぎて素直に頷いた。留三郎が頷いた事を確認し、包帯男はまた口を開く。
「一度でも吸血鬼に血を吸われると吸われた人には印が残るようになってるの。認識出来るのは仲間だけなんだけど、まぁ、私たちも縄張りがあるからね。印がある人には手出ししないようにしてるのよ。最近の子は大抵すぐ狂っちゃうから中々生かせてあげられないんだけど、君は割とまともそうだし、随分気丈な子だから分けて貰えたらと思ったんだけど」
血が足りない今、男が話す内容の半分も理解出来ず、留三郎はぐるぐると考え込んでいた。耳鳴りが煩いし、目の前がすぐに暗くなってはもとに戻る。包帯男に体を預けなければすぐにでもその場に崩れ落ちてしまう。
「…あー…多分何も分かってないのかなぁ?マーキングされてるのも初めて知ったの?」
男の言葉に留三郎は頷いた。くらりと視界が揺れたがちゃんと意思を伝えなければまたさっきのように血を吸われてしまいかねない。また同じように吸われてしまえば生きていられる保証はない。
「…そうかーでも気丈だよね。だってマーキング強いって事は何度も血をあげてるんでしょ?良くもまぁ耐えられるねえ」
「…それは、違うから」
「ん?」
留三郎は自分の声が思ったよりも小さかったことに驚いた。どうやら本当に体が参ってるらしく、声すらまともに出せない。
「…そいつに吸われるのと、竹谷に吸われるのは全然違うから」
「ふうん?君の主は竹谷という名なんだね」
「…あっ」
「…大丈夫。喧嘩売ったりしないから安心して。私たちねぇ、そりゃ長生きだけど仲間は随分と少ないからね。減らすようなマネはしたくないのよ」
男が嘘を吐いているような気配はなく、それが本当なのだと分かると留三郎はまた口を開く。
「…竹谷の時は、気持ちいいから」
「…へえ?血を吸われる時に気持ちいいってこと?」
男の問いに留三郎は頷く。そうすると男は楽しげににやりと笑った。
「相性がいいんだね。それはいい事だ。」
「…相性?」
「陣左に血を吸われた時、散々だったろ?」
目の前で俯いている男へと視線を向け、強く頷くと男は「そりゃそうだ」と笑う。
「大抵はああいう感じなんだよ。だからこそ私たちは肩身狭い思いして生きている。でも君は良かったね。時々いるんだよ、相性がいい相手が。生涯で会えるとは限らないけれど確かにいるんだ。そんな相手がいるなんて竹谷って奴は幸せだ」
包帯の男はぽんぽんと留三郎の頭を撫でた。優しい手付きにほっとし、そして体中の力が抜けた。崩れ落ちるように倒れそうになった留三郎を陣左と呼ばれた男が支えてくれる。
「…陣左、お前吸い過ぎたね?」
「す…すみません、雑渡様」
雑渡と呼ばれた男はため息をひとつ落とすと「君は主がいるのだから跡が残るとばれるねぇ。少し眠っちゃってていいから」と微笑み、留三郎の目を手で覆った。視界が暗くなると唐突に眠気が体を襲い、意識が遠退いて行く。
暗い闇の中で「この子陣左に似てて可愛かったからちょっと欲しかったけど主いるんじゃ駄目かな?」と陣左に告げる雑渡の声と「少ない種だからこそ殺し合わないんじゃないんですか?」と窺うようにしている陣左の声が聞こえてきて、その直後に留三郎は意識を手放した。
*:*:*
「食満さん!」
耳に届く懐かしい声に顔を上げると涙を零している竹谷の顔が合った。留三郎は自室のベッドの上に眠っていて竹谷が顔を覗き込んでいる。
「…たけ、や?」
「はい!竹谷です!竹谷八左ヱ門です!俺が分かりますか?」
涙を零しながら尋ねてくる竹谷に留三郎は微笑みながら頷く。そして涙に濡れた竹谷の頬を拭った。
「…よかった…食満先輩からの電話に出たら知らない男で…そいつが公園で食満さんが倒れているって教えてくれたんですよ」
「…あ、そうだ!あの男達は?!」
勢いよく体を起こした留三郎を襲ったのは眩暈だった。体の血が未だ足りないらしく、耳鳴りも段々と大きくなる。
「あ、貧血状態なんですから、あんまり動かないでください!」
竹谷は留三郎をもう一度寝かせるとその黒い髪を撫でた。
「…心配しました…何が、あったんですか?公園に行ったら貴方は倒れいているし、周りには誰もいなかったし…」
心配で心配で死んでしまいそうという風に顔を歪める竹谷に留三郎は「お前の仲間にあった」と告げる。
「…仲間、ですか」
「そ、吸血鬼」
「…え?!きゅ、吸血鬼?!俺以外のですか?!」
竹谷のその声があまりにも大きく、耳が痛い。くらりとまた景色が歪むのを瞬きしながら見ていると竹谷が「大きな声出してすみません」とすぐに謝ってきた。
すぐに泣いたり笑ったりする竹谷があの男達と同じなのだと思うと違和感を拭えない。同じ吸血鬼でも夜が似合うあの人達とは違って竹谷には太陽が似合う。どうせ近くにいるのなら竹谷のような吸血鬼の方がいい。竹谷になら、何度血を分けてもいい。そう思えたからこそ話さなければならない事がある。
「…俺さずっとお前に隠していたけど、お前に血を吸われる時、すげえ気持ちいいんだ。セックスなんてするよりもずっと、気持ちいい。お前は知らないだろうけど、血吸われるだけで俺イっちゃうんだぜ?」
突然の告白に竹谷は驚きを隠せないようで狼狽えている。そんなところも留三郎が竹谷を好きな理由のひとつだ。頼りない竹谷がこうも愛しい。
「…けどさ、普通はそうじゃないんだって。俺ら運命だってさ。だから竹谷、血を吸うなら俺だけにしろよ?俺以外から吸ったりするなよ?」
片手を伸ばすと竹谷が体を近付けてくれる。まだ留三郎の言葉を飲み込めずに戸惑った顔をしている竹谷が愛しくて留三郎は竹谷の首へと腕を回した。
「浮気するなって言ってんの」
「…浮気なんてしないです!俺が好きなのは食満さんだけで…血を吸いたいと思うのも貴方だけです」
最後は申し訳なさそうに告げた竹谷に留三郎は笑ってしまった。竹谷は留三郎の血を吸い尽くしてしまうんじゃないかとまだ恐れているのだ。怖がりの吸血鬼なんて可愛いにも程がある。
「…うん。俺もお前に吸われるの好きなんだ。だから時々は吸ってくれる?」
「…食満さんがそう言ってくれるなら」
ようやく頷いてくれた竹谷から留三郎はようやく手を離した。そして軽く痙攣している自分の手を見つめながらため息をひとつ吐く。
「竹谷、プルーンジュース買って来てくれる?とりあえず貧血どうにかしなきゃ」
「…あ、はい!」
強く頷いた竹谷は財布だけを持つと玄関へと急ぐ。そんな竹谷を見つめていた留三郎に竹谷は足を止めると真剣な声で「もう貴方を他の奴らに触らせたりしませんから」と告げた。その声と言葉と瞳がいつもの頼りない竹谷とは違っていて留三郎の心臓が震える。
「俺も、お前だけがいい」
「…では、行ってきます」
照れたようにはにかんで部屋を後にした竹谷を見送り、部屋に誰もいなくなると留三郎は赤くなった顔を両手で押さえた。何だか心臓がうるさくて堪らないし、今すぐ血を吸って貰いたい気分だ。
「…貧血早く治んねぇかなぁ」
血を吸って貰えない状況がもどかしく、留三郎は毛布を頭から被りながらそうひとり呟いていた。
(2012/07/01)
大食いの吸血鬼、これにて完結です。
雑渡さんは竹谷のお爺ちゃんよりももっと古い、真っ当な吸血鬼で、陣左は雑渡さんの部下の割と若い子です。
吸血鬼は少ないので殺し合ったりしないそうなので、時々雑渡さんが食満くんにちょっかいかける以外は大人しそうですね!!
このお話は割と続きを所望されていたので、サイトを本格的休止する前に書けてよかったです。