言葉なんて信用ならない





バタンと目の前でドアが閉まり、竹谷は部屋にひとり取り残された。ぽつんと立ち尽くしている竹谷の手は伸ばされたままで空を掴んでいる。空しいったらない。

「…け、ま先輩」

竹谷の唇はそれだけ呟くと固く結ばれ、黙り込んだまま伸ばしたままの手を下ろす。
絶対に怒っていた。竹谷は先ほどの食満の態度をそう判断した。表情はなく、声も静かで冷静だったけれど食満があんな態度を取ること自体がもう既におかしいのだ。

竹谷は大学に入学したと同時に食満と同じ寮へ入寮した。なので食満との共同生活はかれこれ3年以上になる。少し目付きが悪い食満に竹谷が抱いた第一印象は「怖そう」の一言に尽きるのだが、話すとすぐにそれは消えた。涼しい目元は笑うと印象を変え、笑顔は人懐っこささえ感じる。面倒見がよく、よく気が付くタイプの食満に竹谷が懐くのにそう時間は掛からず、酔った勢いで食満へと手を出すまではいい関係を保っていた。というか、手を出した後ですら食満は竹谷に対して怒ったりする姿を見せなかった。この3年間で竹谷があんな態度の食満を見たのは初めてだった。

「やべぇ、絶対怒ってる」

何が逆鱗に触れたか、薄々は気付いていた。というより、気付かない方がおかしい。
恋人同士であれば浮気だと問い詰められてもおかしくはない。ただ、今現在、竹谷と食満の関係は恋人ではなかった。好きだ好きだと告白のようなものを繰り返す竹谷に食満はちゃんとした答えを未だくれないでいる。けれども名前を呼ぶことや触れること、恋人達の真似をすることを食満は竹谷に許していた。きっとその内いい返事が貰えると竹谷は思っていたし、そんな竹谷を食満が牽制する様子はなかった。それなのに、それなのに竹谷はやってしまったのである。自分の気持ちを疑わせるようなことをしてしまったのだ。

「…やばい。これは、やばい」

ベッドへと倒れ込み、頭を強く左右へと振った。食満に振られる想像が、とても自然に出来てしまったのだ。このままではそのうち告白せずとも遠回りに拒絶されてしまうだろう。そう思った竹谷は思い切り足をばたつかせた。

「言い訳させてくれたらきっと分かってもらえるけど、でも言い訳するのもなぁ…」

ぽつりと呟いて竹谷は寂しげに天井を見上げた。


竹谷が連日の飲み会をひとつも断らなかったのには理由があった。
学科全体や研究室の歓迎会に顔を出すまでは竹谷にも抵抗はなかったし、いつも世話になっているサークルの歓迎会に引っ張られた時も快諾していた。けれどひとつのサークルの歓迎会に顔を出すといろんな場所から声が掛かってしまい、それらを断ろうとした竹谷の携帯に届いたのは「じゃあ竹谷の代わりに食満先輩呼んでくれ」というメールだった。
彼等の言い分はこうだった。ただでさえ女子が少ないサークルで、一年生の女子を逃したくない。それならばカッコイイ男の先輩を数人用意するのが効果的であり、竹谷もその中のメンバーに数えられている。その竹谷が来ないのならば代わりに竹谷の先輩である食満先輩を貸してくれ、ということだった。寮の先輩ならば他にもいるのに何故指名されたのかというと、たまたまその友人が顔見知りであるからという理由だった。
女の子がたくさんいる飲み会に食満を送り出す想像をした竹谷はそれを避けたいと強く思った。竹谷は食満が男女関係なく後輩には甘いということを知っていたし、そんな食満を女の子が気に入らないはずがないということも知っていた。二人の関係が恋人であったのならまだ安心することは出来るのだが、竹谷は一度も食満から好きだと言ってもらえたことはない。不安定な関係の時に竹谷と同じように食満へ片想いする女の子が登場してしまったら、その女の子に勝てる自信が竹谷にはこれっぽちもなかった。だからこそ「やっぱり行く」と返信してしまったのだ。

好きで好きで独り占めしたくて、だからこそ食満がそういう場へと行かないで済むならば竹谷は律儀に歓迎会へと顔を出した。
何も知らずにいてもらえるならそれがきっと食満にとっても良くて、自分にとっても良いと竹谷は思っていて、だからこそ竹谷はこの話を食満へちゃんとしなかったのだ。それがこの結末を招いてしまったのだから、竹谷にとっても食満にとっても皮肉なことだった。


その日から翌週まで、竹谷は食満とちゃんと話をしようと何度も食満の部屋を訪れたが居留守を使われたり、たぬき寝入りされたりと話しあう機会すら与えてもらえなかった。そしてその中でも一番ショックを受けたのは普段は喧嘩ばかりしているはずの潮江の部屋へと逃げ込まれたことだった。
話を聞こうとすらしない食満の態度に竹谷は日に日に塩を振りかけられた青菜のようにしょんぼりしていった。

平日の午後、午前中しか授業が入ってなかった竹谷が応接間でごろごろと転がりながら三郎がゲームしている画面を眺めていると三郎が溜め息を吐くように竹谷の名前を呼んだ。

「…何?」

ごろごろと絶えず動いていた体を止めて三郎を見ると三郎はテレビ画面から一切視線を逸らさずに口を開いた。

「お前さ、最近うざい」

辛辣な三郎の言葉に竹谷は「知ってる」とだけ返してまたごろごろと転がり始める。

「あー!もう、ゲームに集中出来ねーだろ。自分の部屋行け!」
「…部屋狭いから転がれない」
「つーか、転がるなよ。気が散る」
「…なぁ、三郎ぉー…人間は話し合えば分かりあえるっていうのは幻想でしかねぇーのかなぁー」
「何の話だよ。まぁ、話合いで分かり合えればこの世に戦争やテロはねーんじゃねぇの?」
「…だよなぁ。でもなぁ、愛の戦争はいいとしても愛のテロは自分勝手すぎるよなぁ」
「…お前まじで何の話してんの?全然理解出来ないんですけど」

さすがに気になったのか三郎はメニュー画面を開いてから竹谷の方へと視線を向けた。その視線は少なからず竹谷を心配しているもので、竹谷は体を起して笑う。

「ま、独り言だから気にすんな」
「気になるって。最近テンション低いから雷蔵とかも心配してたぞ。失恋でもしたのか?」
「んーどうかな」

三郎の言葉に竹谷は曖昧に返事をした。確かに今現在うまくはいっていなけれど失恋してしまったとは思いたくないのだ。
きっと食満が竹谷に対して怒ってくれているうちはまだ失恋していることにはならない。本当に怖いのは食満の中で竹谷がその他大勢のどうでもいい人達と同列になってしまうことだった。

「まぁ、でも明日も飲み会なんだろ?そこでいい子捕まえればいいんじゃん。メアド聞くくらいお前なら楽勝だろ?」

三郎の言葉に竹谷は「…そっか、明日土曜かー」と呻くように言い、もう一度ソファへと転がった。そしてそのまま窓の外の空を見上げる。朝は曇りがちだった空も午後になると晴れ間から青が覗く。

「三郎―」
「…なに」
「気持ちは伝わるもんだと思うか?」
「…伝えようとしなきゃ伝わらないだろうけどな」
「そうだよなぁー」
「…まぁ、がんばれ」

体を丸めて眠る姿勢になった竹谷に三郎はその背中を軽く叩いてそう声を掛けた。
暫くすると竹谷は寝息を立てて本格的に眠ってしまった。そしてその時、食満の部屋のドアが少しだけ開いて応接間の様子を窺うように食満が顔を出した。
本来なら午後から授業であったのだが教授が出張に行っているため休講になり、朝からずっと部屋に居たのである。そしてそれを竹谷は知らなかった。

「あ、竹谷うるさかったですか?」

食満に気付いた三郎がコントローラーから手を離して食満の方へと体ごと向けた。

「うるさい程ではなかった」
「それなら良かった。あ、そうそう先輩」

応接間をすり抜けて寮から出て行こうとした食満の背中へと三郎は呼びかけた。そして律儀に食満は足を止めて振り返る。

「何だ?」
「あんまり竹谷苛めないでくださいよ」
「なっ、何で俺に言うんだよ…」

三郎の言葉に食満は慌て、その反応を見た三郎はやっぱりと溜め息を吐いた。

「飼い主が構ってやらないといくら忠犬の竹谷だって拗ねますよ」
「竹谷が犬で俺が飼い主なのかよ…」
「そうでしょう。ここ一週間ずっと竹谷あんたの後ろを悲しそうにしながら着いて回ってますよ。叱るのも大事ですけどこいつは褒めた方が伸びますよ」
「…だろうなぁ」

口を開きながら寝ている竹谷の顔を見た食満の表情が少しだけ柔らかくなった。こんな風に無防備に眠っている姿を見るとまさしく犬のように見えて来る。それもどちらかというと忠犬というより駄犬寄りだ。

「でも今回は本気でムカついたから気が済むまで俺からは折れない。舐められるのはごめんだからな」
「…先輩をそんなに怒らせるって、竹谷一体何したんですか?」

食満は同学年である文次郎に関しては心が狭くなっていてすぐに喧嘩を始めてしまうがそれは文次郎に関してのみであり、本気で誰かと喧嘩をすることは滅多にないタイプである。その食満が一週間も竹谷を避け続け、冷たく接するのはきっとそれなりの理由があるだろうと三郎は思っていた。そしてあわよくばその原因を知りたいとも思っていた。

「…まぁ、そんな大したことじゃねーよ」
「けど一週間避けても気が済まないくらいのことですよね?」
「…まぁな。じゃあ俺はちょっと出て来る。あ、三郎、風邪引かないように竹谷に何か被せておけよ」

逃げるように足早に立ち去ろうとした食満が最後に三郎へと投げかけた言葉に三郎は「怒ってても愛犬家か」と笑いながら呟いた。


土曜の夕方、自室に籠っていた竹谷の携帯がピカピカと光り、竹谷はタオルケットから顔を出して携帯へと手を伸ばした。

「…もしもし」
「もしもしじゃないですよ、竹谷先輩!」
「あー孫兵…なに、何か用?」

電話に出たのは竹谷の学部の一年生である孫兵だった。孫兵は寮生であり、竹谷との面識は他の一年よりある為か敬語なものの他人行儀を感じさせない口調である。

「今日は先輩も来るって言ってませんでしたか?一年生の皆が先輩はどうしたって寮生に聞いて来るんですけど」
「あー…今日調子悪いから行かないでおこうと思って」
「なら行けないって幹事の人にちゃんと言って下さいよ。先輩数に入ってるんですからね!あ、ちょっと代わってて言われたんで代わります」

孫兵の代わりに電話先に出たのは女の先輩で、既にアルコールが入っているのか言葉使いが普段よりも荒くて竹谷は自分の意見を聞いてもらえないだろう事をすぐに察した。

今すぐ来ないなら他の寮生を呼べ。工学部のプリンス食満がいいけど何なら理学部の若君の立花でも医学部の貴公子の善法寺でもいい。取りあえずお前の代わりになる奴を呼べ。

そんな無理難題を押し付けられ、竹谷は恐る恐る応接間を覗く。そこには話に出て来た善法寺と立花の二人の姿はあったけれど食満の姿はない。そして竹谷はその二人に自分の代わりに飲み会に出てほしいと言えるほどの度胸を持ち合わせてはなかった。
そっとドアを閉め「やっぱり行きます」と告げて電話を切った竹谷は電気が付いていない部屋でひとり溜め息を吐く。出掛けるところを食満に見られないということだけが今のところ唯一の救いだ。竹谷は簡単に身なりを整えるとそのまま寮を出た。


もうすぐ夏を連れて来る空は赤く染まっていて綺麗な夕焼けが広がっている。赤い光を浴びながら指定された居酒屋へと向かっていると前方から見覚えのある人影が駆け寄ってきた。

「竹谷先輩!」

手を振ったのは先ほど電話してきた孫兵で、もうひとり一年の富松作兵衛を連れてきている。

「おーどうした?」
「迎えに行けって言われたんですよ」
「竹谷先輩来ないって思われてますよ」

二人の言葉に竹谷は渇いた笑いを返す。そしてそのまま歩き始めた。

「食満先輩呼ばなかったんですか?」

顔を覗き込むようにして聞いてきた作兵衛から視線を逸らすようにしながら竹谷は「寮にいなかった」となるべくそっけなく返した。

「そうなんですか。本当は、寮まで行って食満先輩も連れて来いって言われてたんですけど留守なら仕方ないですね」
「そーそー、仕方ない」
「あ、でもあれ食満先輩じゃないですか?」

孫兵が足を止めて反対側の歩道を指差した。

「え?」

孫兵の指につられるように竹谷は車道を挟んだ向こう側へと視線を向けた。そしてそのまま足を止める。車道を挟んだ反対側にある歩道を女の子と並んで歩いているの食満の姿が確かに竹谷にも見えたのだ。

「ね、食満先輩ですよね?彼女はいないって言ってたけど一緒にいる女の人誰だろう」

孫兵は首を傾げながら竹谷へと尋ねたけれど竹谷は唇を固く結んだままそれに答えない。竹谷の代わりに口を開いた作兵衛が「あ、ヒメだ」と呟いた。

「ヒメ?何それ。」
「俺と同じ工学部一年の姫川って子でヒメって呼ばれてるんだよ。どっかの高校のミスだったらしいよ。俺は喋ったことないから詳しくは知らないけど」
「へぇ〜、工学部のお姫様だからヒメなのかと一瞬思った」
「まぁ、実質そんなもんだよ。うちのとこ100人中女子3人しかいない上にあの顔だからな。…でもヒメが食満先輩気に入ってるって話、本当だったんだなぁ。展開早ぇー」

竹谷が立ち尽くしている横で孫兵と作兵衛が交わした言葉を竹谷はうまく飲み込めなかった。自分の目が映し出す情報すら信じられないのだから耳だって信じられるわけがないのだ。

車の音に掻き消されて声は聞えなかったけれど楽しそうに笑っている二人の表情が焼き付いて、これ以上見たくないはずなのに何故か視線が逸らせない。

「まぁ、ヒメの彼氏が食満先輩ならみんな納得すると思うからいいんじゃないかな」
「お似合いだしね。竹谷先輩、そろそろ私たちも行きましょうよ。先輩のこと待ってる子もいましたよ」

竹谷の服を孫兵が引っ張ったが竹谷は返事をしなかった。
遠ざかっていく二人の姿が角を曲って見えなくなった途端にさっきまでアスファルトに縫いつけられたように固まっていた足がようやく剥がれて竹谷は歩きだす。

「先輩早く行きましょうよ」
「…あぁ」

孫兵の言葉に竹谷はやっと二人に並んで歩きだした。
太陽は目の前の西の空を眩しいほどの赤に染めていて、その赤い光が目を刺す。強い光になるべく俯きながら目を庇うように手で影を作っていた孫兵の手の甲に一粒の水が落ちた。

「あれ、雨?」

思わず足を止めたけれど空には雨雲らしきものはひとつもない。

「孫兵?どした?」

孫兵が立ち止ったことに気付いた作兵衛が足を止めて振り返る。

「今、雨が降ったと思ったんだけど…」
「そんなわけないよ、こんなに晴れてるんだぜ?」
「…そうだよねぇ」

孫兵は首を傾げながら一粒の水をシャツで拭いた。そして待ってくれている作兵衛と未だ足を止めずに歩き続けている竹谷の後を追うように走り出す。

「先輩!待って下さいよ〜」

作兵衛と孫兵のそんな言葉をどこか遠くで聞きながら竹谷はさっき見た現実から逃避するように「今日は視界がやけに歪んで見えづらいなぁ、黄砂がもう来たのかなぁ」とどうでもいい事を考えていた。






(2010/05/24)