言葉なんて信用ならない
週末の深夜。時計の短い針が二を差した丑三つ時に二階の入口のドアが開いた。もう既に寮内は静まり返っており、その音は応接間まで聞えて来た。そしてそこから顔を出したのは寮生である竹谷で、その顔はアルコールの所為か赤く染まっている。
「あ、食満先輩?まだ起きていたんですか?」
へらーと笑みを浮かべて楽しそうに笑う竹谷を見つめながら食満は小さく溜め息を吐いて、共同のキッチンへと向かう。まだ酔っている竹谷に飲ませようとガラスのコップへと水を入れて戻ってくると竹谷は床に倒れ込んでいた。
「竹谷、水」
コップを渡そうとすると竹谷はコップではなく食満の腕を掴んだ。そして体を起こしながら食満の体を引き寄せる。
「先輩」
竹谷の声が甘い響きを持った。耳元に寄せられた唇が不意に耳たぶを甘く噛み、もう一度今度は更に甘い声で名前を呼ばれる。ぞくりと首筋に走った感覚に気付かない振りして食満は竹谷の顔を手荒い仕草で遠ざけた。
「お前酔いすぎ」
「酔ってないですよー」
ケラケラと笑いながらぎゅうぎゅうと抱きしめて来る竹谷にコップの水が少し零れて食満の指を濡らす。
「零れるって」
「あ、ほんとだ」
食満の指が濡れていることに気付いた竹谷は濡れたその指へ舌を這わせた。ちゅっと吸いつかれたことにびっくりしてコップを手放してしまい、コップの中に入っていた冷えた水は竹谷のズボンへ全部零れてしまう。
「も、先輩何やってるんですかーそんなに俺を脱がせたいんですか?」
楽しそうにくすくす笑っている竹谷の頭を軽く叩き、食満は立ちあがる。こんな酔っ払いの相手なんてやってられないと思い至ったのだ。
「先輩、置いてかないで」
甘えるように食満の七分丈のズボンの裾を引っ張り、竹谷は食満へと体を寄せて体重を預けてきた。そして頬をすり寄せる。その仕草が可愛いだなんて思う時点で竹谷の思う壺だ、と心の中で呟いた食満だったけれどその表情は優しいものになっている。そしてそれに本人は気付いていない。
「竹谷、部屋で寝ろよ」
「んー」
「ほら、いいから立ち上がれって」
手を差し伸ばし、眠そうにしている竹谷を立ち上がらせるとその体を支えながら食満は竹谷の部屋のドアを開けた。自分よりも大きなその体をベッドへと倒し、竹谷が寝息を立てたことを確認して食満はそのまま部屋を出る。
既に電気が消えたそのフロアには窓から月の光が差し込んでいた。食満は応接間の大きなソファへ体を横たえて三郎のものである布団を被る。
視界に入るのはすぐ目の前にある竹谷の部屋のドアだった。そのドアを思い詰めたような表情で暫く見つめた後、食満は大きな欠伸をして寝がえりを打ち、瞼を閉じた。
ざわざわと何かが煩い。その何かが人の笑い声であると気付いて食満は瞼を開け、体を起こした。すぐそこのテーブルでは文次郎や伊作など寮生たちが朝食を取っており、笑い声はそこで起きていた。
「あ、留三郎が起きた。ね、見てよこれ」
笑い泣きしている伊作が指差したのはびしょびしょに濡れている竹谷の下半身だった。ズボンの色が股間を中心に色が濃くなっており、濡れていることが一目で分かる。
「食満先輩おはようございます」
食満が起きた事に気付いた竹谷は満面の笑みを向けた。
「起きたらこうなってて、寝しょんべんしちゃったのかってまじでビビったんスよー」
「…おねしょじゃねぇの?」
「ち、違いますよ!何か、多分これ、水ですよ、何で濡れてるのかは覚えてないんですけど、寝しょんべんしたわけじゃないんで、引かないでください」
冷めたような食満の表情に竹谷は顔色を変えて慌てたように食満へと近付く。食満が引いたのは濡れている下半身ではなく、またも記憶を無くすほど酔った竹谷自身にだったのだが、竹谷は気付かない様子で「ほんとに違うんです」と何度も繰り返した。
「わかったわかった。さっさと着替えれば?洗濯してこいよ」
「…はい」
しゅんとした竹谷に冷たい態度を取りすぎたかなと食満は思ったが、すぐに自分は悪くないと思いなおす。
カシャというシャッター音がしてその方向へと視線を向けると三郎が携帯のカメラで竹谷を撮っていた。
「何撮ってんだよ。それ、俺の携帯だろ?」
少し機嫌が悪くなったような声で竹谷は三郎へと告げたが三郎は聞えませんというように竹谷の携帯をいじっている。はぁ、と諦めたように竹谷が溜め息を吐いた時、食満の携帯が鳴りだした。食満だけではなく新聞を読んでる文次郎、朝からデザートを食べている伊作の携帯も鳴った。メールを開くと竹谷の濡れたズボンの写真と共に「ハルンケア急募」という短い文がディスプレイに映る。どうやら三郎が竹谷の携帯から寮生へと一斉送信したらしい。
「あ、馬鹿、三郎っ」
慌てたように三郎を捕まえようとした竹谷の腕からひらりと逃げて三郎は笑う。
「竹谷はほんと面白いよなぁ」
しみじみと、竹谷の携帯でメールを打ちながら三郎は笑い、それを肯定するように入口から入ってきた仙蔵が「竹谷はいるか?」と顔を出した。
「竹谷、ほらこれが欲しかったんだろう?」
ひょいと仙蔵から竹谷に手渡されたのはハルンケアのケースだった。重いその箱を受け取った竹谷は「え、っていうか、何でこんなすぐケースで届くのか聞いてもいいっすか?」と戸惑っている。
「いやぁ、この前の学科の飲み会のビンゴで当たったんだよ。使い道がないと思っていたところにお前からのメールが届いたんだ」
「…メール送ったのは俺じゃなくて三郎っす」
「まぁ、どちらにしろ使うのはお前だろ?」
ケラケラと仙蔵が笑う傍らで滝夜叉丸と三木衛門が笑いを堪えている。その耐える姿が一番こたえたらしい竹谷は肩を落として苦笑した。
「これは、ただ水を零しただけなので使いませんよ」
「竹谷は酒飲むたびに伝説作るなぁ」
しみじみと文次郎がそういい、伊作が笑いながら同意するように頷く。
「あ、竹谷、電話来た」
竹谷の携帯を弄っていた三郎が竹谷に聞えるように言い、竹谷はまだハルンケアを抱えたまま「え、誰から?」と三郎に尋ねる。
「えっと、園島ってだけ書いてある」
「…ソノジマ?え、知らない」
「知らないって、登録されてるぜ?」
「えーソノジマだろ?そんな知り合い居たかなぁ」
ソノジマソノジマとまるで呪文のように繰り返す竹谷に三郎は「出てみるぜ」とだけ告げて勝手に電話に出てしまった。
「もしもし?」
疑問形の三郎の言葉を置き去りに、応接間ではまた竹谷のハルンケアへと話が戻る。伊作や仙蔵が竹谷を弄り倒しては笑い転げているその輪の外で三郎は暫くソノジマと会話をしていた。
大きな笑い声がピタリと気持ち悪いほど一瞬で止んだのは、三郎が「園島、女だけどまじで心当たりねぇの?」と竹谷に告げた時だった。さっきまで好き勝手笑っていたメンバー全員の視線が三郎へと釘付けになったのだ。
「え、女?女でソノジマ?」
竹谷はまだ分からないというように首を傾げながら考え込んでいる。
「そ、何か飲み会の時に交換したって言ってる」
「…いつの飲み会?」
さっきまで携帯を抑えて会話していた三郎が、携帯へと「えっといつ竹谷と一緒に飲んだの?」と普段より優しい声で尋ねた。女相手の電話だと声が柔らかくなってしまうのは何も三郎だけではなく、この年代の男子ならほぼ全員に当てはまるだろう。電話は直接会うことと違って相手へといく情報量が随分と少ない。表情が見えない分、声を優しくでもしないと「機嫌が悪そう」とか「怖い」とか思われかねないのだ。
「一昨日だって」
「あっ…三郎、代われ」
ハルンケアのケースをテーブルの上に置き、竹谷は三郎から携帯を奪うとそのまま自室へと消えて行った。からかい対象である竹谷が消えた応接間はさっきまでの騒々しさとは打って変わって静かになっており、視線は全て竹谷の部屋のドアへと向かっている。
「…竹谷先輩ってほんとモテますよねぇ」
溜め息と共に羨ましそうな声を出したのは三木衛門だった。そしてその言葉に隣りにいた滝夜叉丸、そして近くにいた伊作や文次郎も同意するかのように頷く。
「まぁ、あいつは喋りやすいからなぁ。とっつきにくさは恋愛には邪魔なだけだろう」
仙蔵は斜め前で座っている文次郎を見下ろしながら楽しそうにそう言い、その視線に気付いた文次郎は眉間に皺を寄せた。
「…俺を見ながら言うんじゃねーよ」
「お、ようやく自分がとっつきにくい事に気付いたか。まぁ、お前がモテない理由はそれだけではないがな」
仙蔵の言葉に思わず吹き出してしまったのは滝夜叉丸だった。そしてそれが合図になったかのように伊作や三郎まで笑いだす。
「…す、すみません」
顔を強張らせて滝夜叉丸は文次郎へと謝罪したが文次郎は「別に、モテなくてもいいしな」と負け犬のような言葉を続けている。そしてその言葉にまた一同は笑いだした。
「ハチは付き合いもいいし、飲み会呼べば絶対顔出してくれて、盛り上げてくれる。それに無駄に爽やかだし、ちょっとズボラだけどそれが男らしく見えるから女の子がハチに惚れちゃうのは仕方ないことだと思いますよ」
不意にその場になかったはずの声がして皆が一斉に振り向くとそこにはスープ鍋を持っている不破雷蔵が立っていた。
「どこにいたんだ?」
「話し声、キッチンまで聞えてましたよ。出るタイミング掴めなくて…。あ、味噌汁作りすぎちゃったので、食べませんか?」
雷蔵がテーブルの上に鍋を置き、その蓋を開けるとなみなみとみそ汁が入っていた。
「…作り過ぎってレベルじゃねーぞ」
「話聞くのに夢中になってたら、いつの間にかこんなに作ってたんですよね」
雷蔵は恥ずかしそうに笑い、皆の意識は鍋の中の味噌汁へと注がれていた。
そんな中、食満は一人だけその場から離れようと立ち上がる。そしてそんな食満へと雷蔵が「食満先輩は食べないんですか?」と声を掛けた。
「ありがとな、帰ったら食べるよ」
食満は笑顔でそう告げ、三郎は「残しておきますね」とすぐに食満へと背中を向ける。応接間からは誰が具を多く取っただとかで揉めている声が聞えて来る。きっと帰って来た頃には一滴すら残ってないだろう。そんなことを考えながら食満は一階へと下りた。
一階へと下りて靴へと履き替えた食満へ、通りかかった久々知兵助が挨拶をしてきた。久々知は三階の住人で二階の連中よりは顔を合わせる機会が少ない。三郎や竹谷より態度が固く思えるのは階が違うこともあるのだろう。
「二階で皆が味噌汁食べてるぜ。豆腐入ってたよ」
「え、本当ですか?」
「俺の分取っとくって雷蔵言ってたけどすぐ戻れないからお前食べていいぜ」
「ありがとうございます!」
バタバタと階段を駆け上がっていく久々知の背中を見つめる食満の表情は、先ほどまでの笑顔とは打って変わって暗いものだった。
「…はぁ」
無意識に溜め息を吐き、それに気付いてた食満は自分の顔を軽く叩く。そして表情を引き締めた。
「情けねぇーなぁっと」
靴へと履き替えた食満はそのまま寮を出て空を見上げた。五月晴れの空は明るい水色が広がっている。
「川でも見て来るか」
周辺に人影はなく、食満は自分自身へとそう声を掛けた。
一度だけ竹谷の部屋の窓をちらりと振り返ったけれど、すぐに首を振って視線を剥がした。そしてそのまま川へと向かって走り出した。
昨日の夜から、いや、本当のことを言えば二週間ほど前から食満は苛立っていた。苛立ってることに気付き、そんな自分に呆れたけれどそれでも苛立ちは消えない。
事の始まりは、二週間ほど前の土曜日だった。学科での新入生歓迎会に出ていた竹谷が0時を回った頃にべろんべろんに酔っ払って帰って来たのだ。酒を飲むと竹谷は気が大きくなるタイプで、そんなに強くない癖に記憶を飛ばすほど飲んでは潰れるのである。
そんな竹谷を起そうと手を取った時、「…ちゃん?」と竹谷が口にした。名前までは聞き取れなかったがちゃん付けしている時点で呼んだ名前は女の物だろう。酔っている竹谷は今目の前にいるのが食満だということがまだ認識出来てないらしく、「俺、メール返すの遅いけど怒んないでね?」と更に笑い掛ける。どこの女と間違えてるんだと怒りが湧いてきたけれど、そんな怒りを竹谷へ向ける方がおかしいと気付いて食満は竹谷を殴ろうとした手を止めた。
好きだと言われた。セックスもした。けれど、付き合っているわけではない。竹谷と食満の関係は、所謂、体だけの関係だった。
結論を出そうとする竹谷に対して、食満はいつも笑ってそれを誤魔化した。竹谷ほど簡単に腹を括ることが出来なかったのだ。好きだと言われると嫌な気はしなかったし、男同士でも気持ちいいもんは気持ちよかった。けれど、すぐ答えを出せるほど気持ちが固まっていたわけでもなかった。流されていると思う時だってあったのだ。
けれど、自分を女だと間違えた竹谷に対して抱いたのは、怒りだった。そして「俺が居る癖に浮気してんじゃねーよ」とも思った。食満と竹谷は付き合っているわけではないから浮気も本気もないはずなのに、それでもやはり怒りは消えなかった。
竹谷に対して同性の後輩以上の感情を抱いていると気付いた時、食満はようやく自分が思ったより本気で竹谷を好きなのかもしれないと思った。けれども人生はそう上手く行ってはくれない。
新入生が入ってくる季節は飲み会が多いのは当たり前で学部や学科の歓迎会、それからサークルの歓迎会とほぼ一ヶ月に渡って週末には飲み会が詰まってしまう。食満は学科の歓迎会にだけ顔を出して他は全部断ったのだが、人付き合いのいい竹谷は呼ばれる飲み会には全て顔を出していた。
昨日は確かサークルの歓迎会だったはずである。竹谷がサークルに入っていること自体初めて聞いたのだが、竹谷曰く、「名前だけの幽霊部員なんですけど、毎年飲み会だけ呼ばれるんですよね」とのことらしい。竹谷が名前だけ所属しているサークルはひとつだけではなく、きっと来週末も歓迎会や飲み会で埋まっているのだろう。
竹谷に酒が入れば、饒舌になってやたらと人を口説くことを食満は知っている。実際に口説かれた結果、こんな関係になってしまったのだ。男同士ですらこんな風に道を外すことがあるのだから男女なら尚更だろう。
冷静に考えているはずなのに段々と腹が立ってきてしまい、ガードレールを力一杯に蹴飛ばしてしまった。すぐ近くをジョギングしていた男の人が怯えるように視線を向けて来たが、それに気付かない振りして食満は川を見つめる。小川のせせらぎに耳を澄ませてみても食満の中の苛立ちは消えてはくれない。結局着いたばかりだというのに食満は寮へと引き返した。
寮へと戻って「ただいま」と声を掛けるとすぐに竹谷が飛んできた。そして食満の腕を取って自室へと引っ張り込む。
竹谷の慌てたよう表情に、先ほどまで燻っていた怒りが弱まって行くのを食満は感じていた。結局のところ、食満は後輩である竹谷に弱いのである。
「あの、先輩、あの」
「竹谷、手ぇ痛い」
「あ、すみません!」
竹谷はすぐに手を離した。自分から言いだした癖に、竹谷が手を離したことが少し気に入らない。竹谷が自分を見つめているのを知っている食満は、わざと視線を合わせないように自分の手の平を見つめた。
「あの、さっきの電話ですけど」
「それがなんだ?」
自分でも驚くほど冷たい食満の声に、竹谷は驚いたように言葉を止めた。それでも暫く黙った後に口を開く。
「…あの、女の子っていうのは、単にサークルの後輩なんです。どうやら番号交換してたみたいで、今日の電話はサークルの時間を聞く為だったんで、そんなに仲がいいわけじゃないんです」
竹谷はしどろもどろにいい訳を口にした。
そんなどうでもいいことを電話を掛けて聞くあたり、相手の女の子は竹谷に気があるのだろうと食満はすぐに気付いたが、それでも口にはしなかった。
口にして竹谷がその気になってしまうのを避けたかったのだ。だから嗾ける代りに黙って竹谷を見つめた。
「あの、なので、誤解しないでください。俺が好きなのは、食満先輩です」
その言葉を鵜呑みに出来るほど馬鹿ではないつもりだった。だからこそ食満の口からは「俺もだよ」なんて言葉の代わりに溜め息が漏れた。
この数週間で竹谷はどれだけの女の子に優しく話しかけ、口説いたのだろうか。そして竹谷の携帯にはどれくらいの女の子の番号が登録されたのだろうか。そして、その女の子たちの何割がこの男を好きなのだろうか。その中に竹谷の好みの女の子はどれくらい居るのだろうか。
それらを考えると、竹谷の言葉なんて信じられるはずがない。
信じたところできっと馬鹿を見るだけだと食満は思っていた。
「あの、先輩」
不安そうな竹谷を見ぬ振りして、食満は笑った。そして「別にどうでもいい」と言い捨てる。そしてそのまま竹谷へと背を向けた。
竹谷はきっと傷ついただろう。それでも自分の方が傷ついている自信が食満にはあった。こんなことを言う資格くらいあると思ったのだ。
「食満、先輩」
まるで泣く寸前のような竹谷の声に足を止めることなく食満は竹谷の部屋を出るとドアを閉めた。ドアを絞める音が少し大きかった為か、応接間に居たメンバーがちらりと食満を見たけれどすぐに視線はテレビへと戻る。食満は自室へと戻るとドアの鍵を掛けてベッドへと倒れ込んだ。
昼過ぎの寮は朝よりも静かで、応接間のテレビの音や時計の針の音が狭い部屋へと静かに落ちる。
「…泣きたいのはこっちだっつーの」
弱々しいその声は応接間から聞える「鑑定団だろ!」と「新婚さんいらっしゃいだろ!」というチャンネルを争う声に掻き消されていた。
(2010/05/20)