病は気から恋は過ちから?





風が強く吹いてまだ残っている桜の花を躊躇うことなく攫って行く様子を竹谷はベンチで座りながら見つめていた。陽はとっくの昔に落ち、空には白い月が昇っている。目の前にある公園の古い時計は既に十二の方へと短い針を向けていた。
深夜0時を過ぎれば公園に人影があるはずもなく、ジジジジという音を立てながら点滅を繰り返す外灯の光は冷たい風が吹くのも手伝って物々しい雰囲気を感じさせ、それでも竹谷は腰を上げずに、はぁと重い溜め息を吐いてベンチへと凭れ空を仰ぐ。
視界に入った細く白い月を見つめ、その月が食満が背を反らせた時の首に色も細さも似ているとふと思った。そしてその細い首に落とした自分の欲望の赤とそこから漏れた声を思い出し、はっと我に返って首を横に振る。

あの日から竹谷は今のように事あるごとに食満との情事を思い出してはうっかり欲情なんてしてしまう日々が続いていた。
はじめは何もなかったように振る舞った方が大人であると竹谷自身思っていたのだけれど、あまりにも近すぎる距離にそれが不可能だと思い知らされた。何より、竹谷の先輩である食満は寮の中で無防備なのである。それこそキスマークがすっかり消えた上半身を晒したままゲームをしていたり、応接間でうたた寝をしていたり、ズボンを全て洗濯しているからとシャツと下着だけの姿のまま応接間で本を読んでいたりする。
そして何より、竹谷を見つけるとまるで何もなかったかのように普段通り笑い掛けて来るのである。本当に何もなかった頃はその笑顔を何とも思っていなかったけれど、意識し始めた今となってはその笑顔を向けられるだけで顔が熱くなるし心臓が痛くなった。だからこそ竹谷は反射のように食満を避けるようになってしまい、気がつけばあの夜の謝罪もそこそこのまま既に日が経ってしまっていた。さすがにこのままじゃいけない。そう思った竹谷は謝罪の気持ちを御詫びの品に託したのである。

深夜の公園に竹谷の大きなくしゃみが響き渡り、竹谷は鼻の下を指先で擦る。春の終わりといえどもさすがに日が沈むと体が冷えてくる。さすがに先輩は寝ただろうと竹谷はようやく腰を上げた。顔を合わせないように徹底して避けているのは、それだけ竹谷が食満へと惹かれていることを表わしていたが、それに竹谷が気付いている様子はなかった。


外から見た寮の窓にはまだちらほらと電気が点いていたけれど食満の部屋の電気は消えていた。いつも日付が変わる前には眠ている食満のことだから既に眠っているのだろうと竹谷は肩の力を抜いてドアを開けた。
二階のドアを開けると応接間の豆電球の光がついているのが見える。そっと忍び足で自室へと向かおうとしたが、応接間にはまだ人影があり、その人影が竹谷の気配に気付いて振り返った。

「竹谷!」

タオルケットを体に巻きつけながらソファに座っていた食満は竹谷の顔を見るなり先ほどまで眠そうにしていた目を見開いた。

「け、ま先輩」

よりによって一番会いたくない人に見つかってしまったと思わず足を止めてしまった竹谷に対し、食満は竹谷の方へと歩み寄り、そしてのその腕を掴んだ。

「おかえり」
「た、ただいまです」

食満が竹谷へと視線を合わそうとしても竹谷はふいっと視線を逸らして食満を見ようとはしなかった。そのことに対して不満に思ったのか食満の眉間に皺が寄る。けれど自分の右腕へと視線を落としていた竹谷はそれに気付けない。

「あの、俺部屋に戻りますね」
「あ、お前んとこ今日三郎が寝てる」
「え?俺今日バイト休みだって三郎にも言ってたんですけど」
「俺が寝ていいって言ったから」
「え、なんで…」

竹谷は思わず食満の顔を見てしまい、そして真剣な食満の目から視線を外すことが出来なかった。

「話、あるから。俺の部屋来いよ」

食満は竹谷の腕を掴み、ぐいっと引っ張って歩きだす。

「え、でも、あの、俺、」
「皆寝てるから、静かにしろよ」

少し大きな声を出してしまった竹谷へ食満は苦笑を浮かべる。そしてそのまま自室のドアを開けて竹谷を先に部屋へ押しこんだ。
食満の部屋へと押し込まれ、振り返ると部屋に入った食満がドアに鍵を掛けているのが窓から差し込む月明りの中で見えた。

密室にふたりきり。それだけでなく、この部屋にいると竹谷は否が応でもあの夜を思い出してしまう。どうしたらいいのか分からず立ち尽くしている竹谷へと食満が向き直り、ベッドサイドのライトを点灯させた。暖かいその灯りを見つめながら食満は「蛍光灯今切れててさ、灯りこれしかねーんだけど」と笑う。
淡く暖かな光は蛍光灯とは違ってとてもいやらしく食満を照らしているように竹谷は感じていた。よりによって何で今日はノースリーブなんだよとか、胸元開き過ぎだろうとか決して口に出せないことばかりぐるぐると真面目な顔して考えている竹谷の顔を見て、食満が俯く。

「あの、さ、竹谷」

気まずそうに口を開いた食満に、竹谷は外していた視線を食満の顔へと向けた。

「お前が、あの夜のことを気にしてるのは分かるんだけど、あの、さ、もし、責任感じてるんなら、そんなん感じなくていいから、な?」

食満よりも身長の高い竹谷を見上げて小首を傾げるようにして食満は告げた。

「…え?」
「つまり、あの、お前が気にしてるんだったら、気にしなくていいってこと。お互い酔ってたんだし、それに、その、ちゃんと俺も気持ち良かったし、つーことは同意ってことで和姦だろ?だから謝る必要もないし、そんな風に俺を避けなくてもいいんじゃねーかって思って…」

隣りには聞こえないような小さな声で早口言葉のように素早く食満はそう告げる。
予想外なその言葉達に竹谷はすぐに言葉が出なかった。竹谷はずっと、食満にあの夜のことを責められると思っていたのだ。けれど食満は竹谷の想像とは全く違った言葉を目の前で紡ぐ。

「あー…お前が忘れたいっていうなら、蒸し返すべきじゃないとは思うんだけど、そうだ、そう、あれは、なかった。お前と俺は何にもしてないってことでどうだ?」

いい提案が閃いた、という風に人差し指を出してそう言った食満の顔を竹谷はぽかんと見ていた。

「…やっぱりだめか」

竹谷の反応がないことで食満は肩を落とす。食満の吐いた溜め息にようやく竹谷は頭が廻り始め慌てて食満の肩に手を置いた。

「え、あの、先輩の話ってそれですか?」

竹谷のその言葉に食満は苦笑しながら頷いた。

「え、いや、でも、あの事で謝るのは俺の方ですよ、俺、酔って意識がほとんどない先輩を無理やり、その…」

ずっと心に張り付いている後ろめたい気持ちを口に出すのは勇気がいることであった。それでも竹谷はちゃんと言葉にする。

「謝るのは俺の方です」
「いや、お前は悪くないよ、つーか、ほんと気持ち良かったから大丈夫、無理やりじゃない」

食満はきっぱりとそう言った。その頬が赤く染まっているように見えるのは灯りの所為だろうかと竹谷は思う。

「つーか、本当に無かったことにしよう。だからさ、俺を避けんなよ。あと、笑って」

食満は右手を竹谷へと伸ばし、その頬へ触れた。そして軽くその頬を叩く。

「お前が笑ってないと寮の空気変わるんだよ。仙蔵と伊作にお前の事いじめんなって俺が怒られたんだぞ?」
「え、怒られたって…」

食満は竹谷の言葉に笑い、竹谷の頬を軽くつねる。

「お前が元気なくてみんな心配してんだよ。それに俺にばっかり土産買ってくるから、みんなは俺とお前が喧嘩してて俺が竹谷を許してないって勘違いしてんの」
「皆が、心配…」
「そ。心配してるよ。だからさ、竹谷は能天気に笑っていればいいんだよ。もう、何も考えんなって」

食満はぽふっとベッドへと腰を下ろして笑みを浮かべたまま竹谷を見上げた。
自分を犯した男をどうしてそんな簡単に許すことが出来るのだろうか。竹谷は食満が何を考えているか全く分からない。ただ、ふたりきりで見つめ合っているというだけで心臓が馬鹿みたいにうるさくて、手を伸ばせば簡単に触れられる距離というだけで理性がもうどこかへ飛んで行ってしまいそうだった。

「まぁ、ほんと色々ありがとうな。ライブチケットとか俺すっかり忘れてたから助かった。お前に貰ってばっかりで悪いから竹谷が俺に何かして欲しい事ってないか?」

首を傾げてはにかむ食満の顔を見つめて、竹谷はごくりと唾を呑む。

「あ、の」
「何だ?」
「そ、の、キス、してもいいですか?」

どもりながら告げたその言葉に目の前で食満が驚いたような顔をする。その顔を見た瞬間、あぁ、絶対断られると竹谷は思った。掘り返さないようにしてくれていた食満にこんなことを言ってはいけなかったのだ。

「あ、だめなら、いいんで」
「…いいよ」

竹谷の言葉を最後まで聞かずに食満はそう答えた。その答えに竹谷は少し驚いたけれど、キス出来るのならとベッドに腰掛けている食満の肩へと手を伸ばす。
顔を近づけた時、食満が困ったような表情をしているのには気付いていた。けれど、どうしても触れたくて、自分へと気を使っている食満の優しさに甘えて唇を重ねた。





(2010/05/02)