病は気から恋は過ちから?
食満が目を覚ますと既に太陽が昇り始めていて、部屋の中に眩しいほどの光が差し込んでいた。
「…腹減った」
結局一度も起きることなく朝まで寝ていた為、先ほどからぐーとなんとも情けない音が食満の腹から聞こえてくる。寝癖がついた髪を掻きながら食満は自分の腹を撫で、その時にシャツのボタンが全部外されていることに気付いた。
「…夜暑かったもんな」
寝ぼけて自分が外してしまったのだと早合点した食満はそのシャツのボタンをまたひとつひとつ留めていく。そして時計の短い針が6より少し手前を差していることを確認してクローゼットを開ける。
寮の部屋はどれも同じ作りで、備え付けの机、クローゼット、ベッドの3つで小さなその部屋はほぼ埋まってしまう。
あと数年で壊されると決まっている上、これから新しく寮生が増えることはない為かこの寮に入っている学生達は各々部屋を改造しているのである。食満は備え付けられていた机と椅子を同じ階の三郎に譲り、知り合いから譲ってもらったガラスのテーブルを置いている。三郎は机を3つ程設置し、代りにベッドを排除してハンモックをぶら下げているがそれで三郎が寝ているところを見たことがある人はいない。3階に住んでいる食満と同学年の中在家長次は床を畳に取り換えているし、院生で同じく3階にいる山田利吉はソファーベッドを運んでいる。また同じく3階にいる後輩の不破雷蔵はベッドを排除してマットを運んでおり、それを万年床のようにしていた。それらの部屋と比べると食満の部屋はまだまだ改造と言えるほどのものではない。
クローゼットを開けてバスタオルや下着などを取り出した食満は部屋を出て辺りを窺う。応接間で三郎がミノムシのように布団を被っている以外には人影はなく、三郎を起こさないようにと静かに食満は一階へと下りた。
風呂場などは共同であり、ほとんどシャワーのみである。広い脱衣所とこれまた広い銭湯のような風呂場があり、富士山の絵まで描かれている。広い湯船にお湯を沸かすこともあるのだが、それぞれが自由な時間に入る為にあまりお湯に浸かる人はいない。
食満が人目を気にしているのには理由があった。脱衣所の前に置かれている大きな鏡にシャツを脱いだ食満の身体が映る。白い肌の上に無数に残っているキスマークが鏡に映し出された。これを寮の誰かに見られたら根掘り葉掘り聞かれてしまうだろう。白を切ることもできるのだが、誰かに知られることを避けることが出来ればそれが一番いい。だからこそこんな早朝に食満は風呂に入るのである。
風呂場のドアに鍵なんてついているわけもないし、誰がいつ来るか分からない状況ではゆっくり入ることも出来ず食満はさっさと風呂場から出る。元々長く湯を浴びることが出来ない体質だった為、そのことを不快に思うことはなかったが、それでも人目を避けなければならないことに少々うんざりしていた。
「でも今更竹谷に文句言ってもなー」
髪をバスタオルで拭きながら漏らした言葉が食満の本音であった。酔った勢いでなんて巷ではよく聞く話しだし、たまたまそれが男同士だっただけでそれは一夜限りの話なのだから今更文句言ったところで仕方ないのだろう。不意に顔を上げると鏡に映ったキスマークがやはり目に留った。
「…これだけ色濃くねーか?」
食満は脇腹に残っている跡を指先で撫でる。薄れ始めている他の箇所と比べるとこの跡だけが色が濃い。首を傾げてその跡を撫でている留三郎の背後で風呂場の引き戸が開かれた。
「あ、留三郎、早いねー」
声を掛けて来たのは同じ年の善法寺伊作だった。
「あれ、これ建てつけ悪くて、閉まん、ないけど」
ガタガタと引き戸を引いている伊作が振り向く前に素晴らしい早さで食満はTシャツに袖を通した。
「あ、お、閉まった」
ようやく引き戸を閉め終えた伊作がくるりと食満の方を向く。
「留三郎が朝に風呂なんて珍しいね」
「昨日疲れて夕方から寝ちまってたから入ってなかったんだよ」
「そういややけに静かだと思ってたけど寝てたんだねー」
伊作は笑いながら服を脱ぎ、服を着終えた食満は使い終わったタオルなどの洗濯物を脇に抱えて「お先―」と風呂場を出た。洗濯機や干場は一階にあり、食満は洗濯機へと自分の服とタオルを突っ込んでボタンを押す。
窓の外は朝が始まったばかりでまだ薄い水色とオレンジが混ざり合って綺麗な色が広がっている。ぼんやりとその景色を見つめて、洗濯機がぐるぐると唸りだした頃に食満は「散歩でも行くか」と大きく伸びをした。
食満が散歩から寮へと戻ってくると寮生もぞろぞろと起き出していた。応接間では文次郎が朝の番組を見ていてその傍らで三郎がテレビの音をシャットダウンするように頭まで布団を被って丸まっている。
「あ、おかえりなさい」
ふわぁと大きく欠伸をしながら食満の二個下である田村三木衛門が笑い掛ける。
「おう、ただいま」
靴を脱いでそのまま冷蔵庫を開けて「腹減ったー」と食べ物を探す食満の背中に三木衛門が「あ、食満先輩の分の朝ごはんありますよ」と声を掛ける。
「え?」
思わず冷蔵庫の扉を開けたまま振り返ると三木衛門がキッチンにあるテーブルの上を指差した。
「竹谷先輩が食満先輩にって置いて行きましたよ?」
三木衛門のその言葉に食満は「あ、そう」とだけ返して冷蔵庫を閉めた。三木衛門が言った通り、テーブルの上にはコンビニのおにぎり二つとインスタントみそ汁、それからゆで卵と書き置きが残されている。
「食満先輩へ、どうぞ食べて下さい、か」
ルーズリーフに雑に書かれたその文字を食満は静かに読みあげる。
「で、竹谷は?」
隣りでトーストを齧っている三木衛門に尋ねると「牛がどうたらって出掛けてました」と返ってくる。
「ふーん、まぁいいか、いただきます」
食満は手を合わせてそう言い、おにぎりの袋を破る。
「お、イクラだ。あ、こっちは塩カルビ」
どれも食満が好きな具で少しだけ高いものだった。どうして竹谷が朝ごはんを用意してくれたのかをしばらく考えていたのだが、結局それはどうでもいいかと食満はおにぎりに齧り付く。
その日の朝ごはんのことを食満はすぐに忘れたが、冷蔵庫に残っているプリンを見る度に竹谷の事を思い出した。そしてその日から、竹谷による差し入れが増えた。以前はコンビニで賞味期限ぎりぎりなものをお裾分けしてくれる程度であったからその増え方は少々異常であった。
食満が新しい商品好きなのを知っているからなのか、新商品が出る度に冷蔵庫に「食満先輩へ」と書かれたビニール袋が入っていたし、食満が好きなバンドのライブチケットも食満がうっかり逃していると竹谷が押さえてくれていたりした。それだけでなくCDの初回限定版など、どれも竹谷の方が先回りしていてくれた為に食満は手に入れることが出来た。
しかし肝心な竹谷はバイトが深夜ということもあってかすれ違いな生活が続き、同じ寮に住んでいるというのに十日ほどちゃんとした会話をしていない。
「留三郎、もう竹谷を許してやったら?」
食満が竹谷の買ってきてくれた塩ゴマアイスを食べていると隣りに坐った伊作がそう言った。そしてその言葉に目の前にいる仙蔵も頷く。
「そんなに買ってきてくれるんだからそろそろ許してやれよ」
「そうだよねー留三郎大人気ないよー」
伊作と仙蔵は互いに視線を交わしながら頷く。
「だから別に喧嘩とかしてねーって。あいつが勝手に買って来るんだよ」
まるで食満が悪いというような会話をする二人に慌ててそう言うと、二人は「だから何なの」と返した。
「え?」
「だからさ、後輩が気使ってるの見たら気使わなくていいよくらいは留三郎も普段なら言うでしょ?」
「…そうだけど。でも竹谷とは先輩と後輩としての付き合いはしてねぇし。どっちかというと友達っつーか」
「友達なら尚更なんじゃないのか?そういう一方的に物をもらうってどうなのか?」
仙蔵の言葉に食満はうまく返す言葉が出て来なくてアイスを掬っていた手を止めた。
「でも、あいつが会おうとしないんだって。何か避けられてるし」
「だから、それが何なの」
伊作と仙蔵は溜め息を吐きながらそう言う。
「仮に、竹谷が避けているとして、それでも何とかして顔を合わせて許してあげるのが先輩である留三郎がすることでしょ」
「最近の竹谷をお前は見てないだろうけど何か悩んでいるように見えるぞ。それを聞いてあげるのはお前の役目なんじゃないのか?」
「何で俺が、」と出かかったけれど食満はそれを言うことはなかった。確かに最近の竹谷は食満に金を使い過ぎだと食満自身思っていたのだ。それに、先ほども言ったように竹谷との付き合いは後輩先輩というよりも比較的友達関係に近いものだった。だからこそ竹谷が話すというのであれば食満はどんな話だって聞いてやりたいと思っている。
「…わかったよ、今度話してみる」
食満のその言葉に満足したのか、伊作と仙蔵はそれぞれ部屋へと戻って行った。もしかしたらこの話をする為だけに集まっていたのかもしれない。そう思うと竹谷が悩んでいる様子を二人とも相当心配していたのだろうと分かる。確かに今まで長い間同じ寮で過ごしているが、竹谷が悩んだり落ち込んだ様子を見せたのは実家で飼っている犬が亡くなった時くらいだった。
その竹谷が落ち込んでいたり悩んだ様子を見せたら寮の皆は心配で気が気じゃないのだろう。
そこまで考えた食満は溶けかけたアイスを口へと運びながら「新作アイスは外れが多いな」とどうでもいいことを呟いて竹谷の部屋の方をちらりと複雑そうな顔で見やった。
(2010/04/29)