病は気から恋は過ちから?
「竹谷くん、お客さん」
声を掛けられて慌てて視線を上げると目の前にスーツ姿のサラリーマンが立っていた。
「あ、いらっしゃいませ!」
慌てて頭を下げて目の前に置かれているパンとコーヒーを手に取る。
朝のコンビニは学生とサラリーマンが入れ替わり立ち替わり訪れる。いつもは深夜にひとりでぼーとしている時間が多い分、人の多さに竹谷は面喰ってしまった。ようやく客足がまばらになり、ほっと一息ついた時、朝のバイトに入っている与四郎さんが声を掛けてきた。
「竹谷、大丈夫かぁー?すっごいテンパってたけどもよー」
「あ、すみません」
「まぁ、夜中は3分の1も客も来ないだろーし、仕方ねーべな」
与四郎さんは髪を掻きながら笑い、竹谷の背中を叩く。
「え、あ、はい」
バイトの先輩である与四郎さんに本当は考え事ばかりしていましたという訳にもいかないので竹谷は愛想笑いを浮かべて相槌を打った。先ほどから同じことばかり思い出してはぐるぐる考えていて、本当に仕事に集中が出来ない。気を抜いたら、昨夜、自分の下で声を上げていた食満を思い出してしまのである。
「竹谷さぁー」
「え、何すか?」
「昨日もしかして彼女と一緒だったりすんべ?」
「はい?きゅ、急に何言い出すんすか!」
「お前ぇ、分かりやすいなぁー。首、トイレの鏡で見てくるべ」
与四郎が自分の左首筋を指差して笑い、竹谷は「れ、レジお願いします」と言いながら慌ててトイレに駆け込んだ。
トイレの鏡の前で首筋を見ると、薄っすらと赤い跡がひとつだけついているのが見えた。その跡を見て、昨夜、竹谷が食満の体にいくつものキスを落としている最中、一度だけ食満が竹谷の首筋に吸いついたのを思い出した。それは吸われているというより、舐められている感覚で食満が自分をつまみか何かと間違えているのではないかとその時の竹谷は思っていた。けれど、それは違ったのだ。自分が食満へとしたように、食満も竹谷へとキスマークを残していたのである。
「え、え、何で赤くなんの、俺」
鏡で見る自分の顔がみるみる赤く染まっていくのが分かる。そしてその色に気付くと心臓が一気に激しく鳴りだした。気を抜くと本当に昨夜のことが脳裏に過り、顔に熱が昇って熱くて仕方ない。息を切らして涙声になりながら自分を呼ぶ食満の姿を思い出したところで自分の体の違和感に竹谷はようやく気が付いた。
「え、まじで、うそ、だろ」
軽く勃起してしまっているのに気付いたのだ。
(嘘だろ嘘だろ嘘だろ!確かに可愛かったけども!確かに気持ち良かったけども!思い出して勃起だなんて、そんな、童貞じゃあるまいし!っつーか一度ヤった奴は童貞じゃないけど、いやそういうのはどうでもよくて、つーか、食満先輩で勃起って、え、まじで、俺ってホモだっけ?)
血の気が引いたのにも関わらず、結局竹谷は昨夜の食満の様子を思い浮かべて抜いてしまった。そして更に肩を落としてレジ前に戻ったのである。
「竹谷、お前ぇー顔色悪いぞぉ?」
「え、あの、ちょっと体調悪くて」
へらっと笑いながら適当に嘘を吐くと目の前で与四郎さんが心配そうな顔をした。
「大丈夫か?もう忙しいのは終わったしよぉ、先上っちまいな?店長には俺から言っておくべ」
与四郎さんがポンポンと肩を叩いてそう言い、竹谷はその言葉に甘えて早めに帰らせてもらうことにした。帰り際、昼飯と一緒に食満が好きなプリンを3つほど購入し、ついでに少し値段の高いハーゲンダッツのアイスも購入した。
「…こんなんで、許してもらえるはずねーよなぁ」
アイスが溶けてしまわないようになるべく早く歩きながら竹谷は溜め息を吐いた。そして目の前の寮を見上げる。寮は3階建ての小さなものであり、一階は食堂や風呂などや空き部屋だけで、2階と3階に寮生が住んでいた。竹谷は2階のほぼ真ん中の部屋で、食満はひとつの部屋を挟んだ隣りの部屋だった。ひとつ年上の食満は割と面倒見がいい先輩であり、そして竹谷と結構気が合う方であった。なので応接間で耐久ゲーム大会を開催したり、休日食い倒れコースと称して焼肉食べ放題へ出掛けたりと一緒に馬鹿騒ぎをすることが多かった。なのにどうしてこうなったのだろうか。そんなことを考えながら、寮の共同冷蔵庫へプリンとアイスを冷やして食満の部屋の前へと立つ。竹谷は少し躊躇いながらそのドアをノックした。
「あの、食満先輩?」
部屋の中に声を掛けると部屋の中で物音はするものの返事は返ってこなかった。やはり俺の顔も見たくないくらい怒っているのだろうと竹谷は重い溜め息を吐いた。食満先輩が怒るのも仕方ない、そう思っている癖に何故かショックを受けてしまって中々次の言葉を紡げない。すぐ目の前の応接間では竹谷の先輩である潮江がニュースを見ているのを隣りに腰かけた立花がチャンネルを変えてしまってチャンネル戦争が勃発していた。立花に怒号を飛ばしている潮江先輩の隣りに後輩である綾部が腰掛けた辺りから潮江先輩が大人しくなったのが分かった。きっと諦めてしまったのだろう。竹谷はその光景を横目で見ながらもう一度ノックを繰り返す。
「あの、食満先輩、その、体は大丈夫なんですか?」
なるべく周りに聞えないようにと声を掛ける。
「あの、先輩?」
「竹谷?入っていいぞ」
もう一度強くノックすると部屋の中から返事が返ってきた。しかしその声は食満のものではない。竹谷が慌ててドアを開けるとベッドに横になっていたのは同じ年の鉢屋三郎だった。
「え、何でお前が食満先輩の部屋にいんだよ」
「何でってベッド借りてる。俺、昨日応接間で寝ててさ、やっぱりベッドは疲労回復のスピードが違うよなぁ。んで、お前は先輩の部屋に何しに来たんだ?」
三郎はふあっと欠伸をして寝がえりを打ちながら尋ねて来た。
「…俺は、その、あの、先輩にお土産買ってきたからそれを、言いに来ただけで」
竹谷がしどろもどろに言葉を紡ぐと三郎は「ふぅーん」と言いながらもう一度欠伸をした。まだ寝むそうな三郎にこれ以上ここにいても意味がないと思った竹谷は適当に切りあげようと「俺は部屋に戻るわ」と片手をあげた時に三郎が「ハチ」と竹谷を呼んだ。
「食満先輩、やっぱどっか体調悪かったのか?」
三郎の言葉に喉の変なとこから声が出た。
「何だよ、その声」
「え、いや、何でそんなこと聞くんだろうなーと思って」
「ん、食満先輩体調悪そうだったから。あの人弱いくせにいつも飲みすぎるから二日酔いなんだろうけど」
「食満先輩は?」
「バイト行った。体調悪いなら休めばいいのに仕事だからって行っちゃったよ。あの人授業は雨が降っただけで自主休校するのにバイトは真面目だよなー」
三郎の言葉に竹谷は笑って適当に相槌を打ち、すぐにその場を離れて自室へと逃げ込んだ。ちゃんとドアに鍵がかかったことを確かめてからベッドへとダイブする。
「…食満先輩、体調悪いのか。気付かなかった」
竹谷は大きな溜め息を飲みこんでベッドの上で正座をした。本当なら、もっと早く気付くべきだったのだ。突っ込んだ竹谷は痛くはなく、気持ちいいだけだったのだが、突っ込まれた食満はそれだけではすまなかっただろうことは考えなくてもすぐ分かるはずで、竹谷だって最中はそればかり気にしていた。けれど、目が覚めた時には、あまりにも衝撃的な現実にショックを受けてしまって今までそのことを失念してしまったのだ。
「…うわぁ、俺って最低じゃねぇ?」
酔って拒むことの出来ない相手をそのままなし崩しで抱いた上に、相手の体調を気遣うことすらせず逃げるように部屋を出て、しかもバイトに出てたなんて、相手が女の子なら「最低」と罵られても仕方ないし、最悪な噂を構内で流されてしまってもおかしくはない。
「…うわ、まじで俺、先輩とあわす顔ないんじゃね?」
もしも食満先輩と顔を合わせて、食満先輩の顔が俺を見て引きつったら、と考えると竹谷はまた血の気が引いていくのが分かった。
「やべぇ、ちょう怖ぇ」
女の子に最悪な噂を流されるより、食満先輩が俺を見て顔を顰める方が今の竹谷はずっと怖いと思ったのだ。目を覚ました時すぐに先輩の体調に気付けばよかった、そして本気で何度も頭を下げればよかった。いまさらそう思ったところで食満はもうバイトに行っており、夜にならないと帰ってこない。
「死にたい…」
思わず物騒な言葉を呟いてしまうほど、竹谷は気が動転したままで、そのまま眠ってしまった。
(2010/04/12)