黄色い花と、香りにかけた幼稚な呪い





風が強く吹いて木々が枝を揺らす。
まるで生き物の声のように聞えるその音に耳を澄ましていると不意に懐かしい匂いが鼻腔をつついた。

(なんだっけ、この匂い…)

この匂いの正体が山の中に自生している薬草だと気付いた時、忘れていたはずの記憶が傾れ込んできて思わず足を止める。
数年ぶりに思い出した記憶に、言葉が出なかった。
敢えて思い出さないようにと何重にも蓋をした記憶が目の前で再生される。
涙が零れそうになったのは、気の所為だと思うことにした。

(…ちくしょー)

悔しさのあまり、心の中で毒気づく。
今回の任務で予想外の追手に追われたり、落ち合うはずの仲間が既に死んでいたりと本当に散々だったのに、記憶までもが裏切ってくるなんて予想外だ。

(…あぁ、月は見えない)

枝の合間から見える空に浮かんでいるはずの月は分厚い雲で隠れていた。
追手はやっと撒けたらしく、周囲に人間の気配はない。
どうやら生き延びたらしい。
しばらく体を休めようと木の幹へと腰を下ろした。
目の前で風が吹く度に黄色い花を揺らす薬草を一本手折り、くるくると指で回した。

強い風が吹いても分厚い雲は流れない。
ぽつりと雨粒が手の甲へと落ちるのに気付いた。
雨が降れば匂いも消える。
傷口から流れる血の匂いも消してくれるだろう。

(俺はまだ生きている。あの人は、生きているだろうか)

瞼を閉じて花の匂いを嗅ぐ。
そうすれば記憶の中であの人に会えることを俺は知っていた。

(―食満先輩、貴方は生きていますか?)


―*―*―*―


西日が山の方へと沈みかけ、空を流れる雲はどれも朱色を帯びている。
雪はもうすべて溶けて、もう少しすると梅と桜が咲き、鶯が春を告げる時期である。

「うわっ、せん、ぱ、いっ」

突然の飛び蹴りを体を反らせて避けると次は蹴りあげられそうになって慌てて先輩を呼んだ。

「ちょ、っ、タン、マって!」

慌ててそれも避けて取りあえず一旦引こうと焙烙火矢を取り出したらその腕を払われる。
ころころと転がった焙烙火矢を先輩は蹴りあげて、頭上で爆発が起こった。

「たまや〜」

頭上を見上げて笑う食満先輩はとても楽しそうに笑っていて、その笑顔が可愛いなあなんて思う。
こんな風にぼろぼろにされても、可愛いなんて思うのだから欲目とは恐ろしい。

「で、竹谷。今日はもう終わりか?」

先輩はにやっと笑いながら俺を見下ろした。
涼しい目元だけれど額には薄っすらと汗が滲んでいる。
俺は地面に座り込みながら「…ほんと手加減しないんですねー」と楽しげな食満先輩を見上げて苦笑した。

「当たり前だろ」
「いいじゃないですか、一回くらい」

俺の言葉に食満先輩が呆れたような顔をした。
あぁ、眉間に入った皺すら好きだと告げたら、先輩は気持ち悪いと思うだろうか。
自分の思考を隠すようにいつもの爽やかだといつか先輩に言われた笑顔を浮かべた。

「一回くらいって、お前なーそんな簡単に俺を抱けると思うなよ?」
「簡単なんてこれっぽっちも思ってないですよ」

本当に簡単だとは思っていなかった。
好きになったのはほんともう思い出せないくらい昔の話で、初めて想いを告げたのは1年以上も前のことだ。
先輩は丁寧に俺の告白を断った。
それはそれは馬鹿丁寧で、そんな先輩に馬鹿な俺はまた惚れてしまったのだ。
毎回懲りずに先輩へと真っすぐに想いをぶつける俺に、さすがに根を上げた先輩はある日唐突に告げた。

「俺が卒業するまでの間に一度でも俺を捕まえられたら、一回くらいは相手してやろう」

その時の感情を俺はうまく説明が出来ない。

先輩のことが好きで好きで大好きで、だから触れたいと思っていた。
その肌や髪に触れたいと思っていたのも、口付けたいと思ったのも本当のことで、でも、俺の気持ちはそれだけじゃなかったのに、先輩はそれらに応えようとはせずにすり替えようとしたのだ。
それが悔しくて悲しくて、でも、目の前で挑戦的に笑った先輩に欲情したのも確かで、ぐちゃぐちゃになった頭と心で俺は頷いていた。
それは先輩が6年生になった初夏のことだった。

あれから追いかけっこの日々が始まった。
6年になると演習が増えるし、5年の俺だって実習などで忙しい。
それでもその合い間を縫っては俺は食満先輩に会いに行き、そして先輩も本気で俺の相手をしてくれた。
こう何度も手合わせをすると、先輩が武闘派だと言われるのも仕方がないくらい身体能力を持っていることを身を持って知らされる。
そして何度目かの手合わせで、先輩は負けるつもりがないということも分かってしまった。
最初から全てをすり替えて、そして俺の実力不足という自業自得な結果で持って俺に先輩のことを諦めさせようとするやり方は誰も傷つけない賢いものだと思う。
それでも、それだからこそ俺は諦めきれなかった。

本当なら先輩が俺に「お前のことを一生好きになることはない」とたった一言告げるだけで終わったというのに、後輩が大好きな食満先輩は後輩を傷つける自分が嫌いで、だからこそこんなまどろっこしい手段を選んだのだ。
俺の心にも、そして先輩の心にも深い傷が残らないようにとこういう手段を取る先輩が好きだから憎かった。
先輩がこんな手段に出たことを俺は先輩に後悔させたかった。
だからこそ、絶対に先輩を捕まえなくてはいけなくて、たった一度勝つためだけに俺はあまり良くない頭を使って長くてそして確実な作戦を練っていた。

「先輩、俺の手裏剣拾ってくれませんか?」

先輩の後方の地面へと落ちている手裏剣を差すと、先輩が「ああ」と笑って手裏剣に歩み寄る。
手裏剣を拾い上げようと手を伸ばした時、その地面が音もなく崩れた。
「あ」という口を開けた先輩はすぐに見えなくなる。
先輩が穴から逃げ出す前に俺は左手に隠し持っていた網でその穴を塞いだ。

「先輩、捕まえました」

穴の上から覗きこむと、結構深い穴の底で先輩は尻もちをついていた。
そして俺の声に気付いて顔を上げる。
穴の底は暗くて先輩の表情は見えなくて、それにほっとしたような残念のような複雑な気持ちになった。

「…汚ぇーぞ、竹谷。お前今までいっつも正攻法で穴なんて使ったことねーじゃねーか」
「はい、これも作戦だったので」
「…まじかよ」
「だって今日が最後のチャンスって言うので全力出させていただきました」
「…その言い方むかつく」
「でも、約束は約束でしょ?」
「…わかったよ、俺の負けだ」

負けを認めた先輩の声が悔しそうだったのが嬉しくて切なかった。
網を退かせて先輩へと手を伸ばす。先輩は一度俺の手を強く叩いた後に強く握り締める。
先輩を穴から引き上げ、服についた土を払ってあげると「もういいって」と手を払われた。

「…じゃあ、今からするか?場所は、倉庫とかでいいか?」

先輩は視線を合わさず勝手に時間と場所まで決めてしまおうとする。
俺はあくまでいつも通りに笑いながら「え、嫌っすよ」と答えた。

「え、」
「だってもう今日はくたくただし、風呂入りたいし、腹も減ってるし」
「そりゃ、俺もそうだけど、」
「あ、そういや週末の夜に善法寺先輩が出掛けるって言ってましたよね?じゃあその日、俺が先輩の部屋に行きますよ。それとも俺に決定権はないんですか?」
「…そんなことはないが、」
「なら、週末の夜に先輩を抱きに伺いますよ」
「…」

先輩は黙ったまま一度だけ頷き、視線を俺から逸らした。
無表情に保っているけど、でも表情を殺すということが逆に動揺を伝える。
少しでも意識して欲しかった。
少しでも、俺のことを意識して、そして先輩の中へ刻めばいいと思っていた。

「じゃ、先輩。夕飯食いに行きましょ」

立ち上って先輩へと手を差しだすと先輩はちらりと俺を見上げて少し躊躇った後に手を取った。
夕焼けが山の向こうへと沈みゆく。赤い光が先輩の頬まで赤く染めていて、まるで照れているみたいに見えてかわいくて仕方がなかった。


週末を選んだのには理由があった。
先輩はきっとすぐ済ませて忘れるつもりだろうと分かっていたからだ。
だからこそその日でも次の日でもなく時間を置いた。
俺に抱かれる日がくることを嫌でも意識して欲しかった。
そして先輩の部屋を選んだのも、先輩の記憶に少しでも残ってほしいと思ったからだった。
俺の部屋で先輩を抱いてしまうと、きっと学園にいる間中俺だけがその記憶に囚われ続けるのが分かってた。
だからこそ先輩の部屋を選んだ。先輩が6年も過ごしたあの部屋で、俺に抱かれたことを先輩の記憶に刻みつけてしまいたかったのだ。


週末はあいにく雨だった。
空気が湿って俺の髪がいつもより暴れてる。
けれどそんなことを考える余裕はなかった。
6年の長屋に足を踏み入れ、ひとつの部屋の前で足を止めた。

「先輩」

部屋の中へ声を掛けると暫くの沈黙の後に「入れ」という先輩の声が聞える。
その声に緊張が見て取れた気がしたのは俺の思いこみだったのだろうか。
襖を開けると先輩は寝巻のままで正座をして待っていた。
既に布団は敷かれていて、時間を持て余していたのか俺を見るなり「遅い、寝るとこだったぞ」なんて言う。
でもその頬は既に朱を帯びていて、そんなことは口だけだと分かる。

「すみません。待ってる先輩見たくてつい」
「…うるせえよ。十分待たせたろ、もうさっさとしろ」

絶対に合せないようと視線を逸らす先輩の顎を捕らえて口付ける。
吸うだけでは足らず、舌を捻じ込んでは口腔内を好き勝手になぞった。
先輩の手が俺の肩を弱々しく掴む。その手を掴んで布団の上へと組み敷くと先輩が驚いたように少しだけ目を見張る。

「ふっ…ぁっ」

どちらとも取れない唾液が糸を引き、先輩の口元へと落ちる。
先輩の口元を舐め、そのまま首筋へと滑らせる。

「ね、先輩。この一週間俺のこと考えてくれました?」
「…な、に」
「俺はいつも先輩のことばかり考えてましたよ。先輩は?」
「…別に、んっ」
「…耳、弱いんですね」
「ちが、ぁっ」

舌を捻じ込んだだけでびくっと体を震わせた先輩が愛しい。

「今日は俺が好き勝手しますんで、先輩はただ感じてればいいですから」

俺の言葉に先輩は何か言いたいことがあるような顔をした。
首を傾げると先輩は視線を少し逸らして「俺、一方的なの嫌いなんだけど」と拗ねたような声を出す。

「そんなん俺の知ったこっちゃないっすよ」

俺がにっこりと笑ってそう言うと、先輩は眉間に皺を寄せてまた何か言いたげな顔をする。
けれどその言葉が放たれることはなくて、本当に好き勝手触る俺に先輩の手は縋りついてくる。

寝巻を脱がして乳首ばかり弄ぶ俺を睨みつけるように先輩は見て来たけれど欲に溺れたその瞳はそそられるだけで少しも怖くなかった。

「そこ、ばっかり、すんな」
「え、だって先輩気持ちよさそうですよ?」
「ちがっ、あっ…はっ」

歯を立てると背を反らせて先輩は気持ちいいということを伝えてくる。
その癖に口では「嫌だ」というんだからほんと天邪鬼で可愛いったらなかった。
胸だけの刺激ではイくことは出来ないらしく、腰を押しつけてくる先輩がいやらしい。

「触ってほしいんですか?」

耳に舌を捻じ込ませて問い掛けると先輩が小さく首を縦に振った。
案外簡単に快楽に落ちてしまったらしく、ぼんやりとしたその瞳から零れる涙を舌で掬う。
先走りをだらだらと零している先輩のものを触ってあげて、イく前に今度は後ろの方へと手を伸ばす。
刺激が足りないのか先輩はやっぱり腰を押しつけてきて「お願い」なんて言うもんだから俺が逆らえるはずもない。
一度手の平の中に射精させ、その白濁を指に絡めたまま今度こそ後ろの入口へと指を伸ばす。
すんなりと二本の指を飲みこんだそこに驚いて先輩を見ると、先輩は顔を真っ赤にしながら視線を逸らす。

「準備、してくれたんですか?」
「…今日、するって言ってたから」
「…先輩が慣らしてるとこ見たかったのになぁ」
「うるさぁっ、あっ…たけ、やっ」
「もう指三本入りましたよ?気持ちいいですか?」
「んっ…たけ、前も、」

足りないと体を猫の様に擦りつけてくる先輩の下ではなく胸の方へと唇を寄せた。
完全に硬くなったそれを口に含んだり舌で転がし、指で中を掻き混ぜてばかりいると先輩が俺の名前を呼ぶ。

「た、けやっ、挿れ、ねぇの?」
「んー、もう少し遊んでから」
「…も、いーかげんにっ、あっ」
「挿れて欲しいんですか?」

先輩は腰を揺らすけどその質問には答えない。
仕方ないので俺は指を引き抜いて先輩の上から退いた。
俺が挿れてこないことに気付いた先輩が薄っすら目を開けて体を少し起こす。
座ったままの俺を見て抗議するような視線を送ってきた。

「先輩さっき一方的なの嫌だって言ってたから、先輩が自分で挿れてみてくださいよ」

顔を寄せて下唇を甘く噛んで、耳元へ息を拭きかけるようにしてそう言うと先輩は悔しそうな顔をする。
さっき自分が言った言葉を後悔しているのだろう。
けれどもう後の祭りで、先輩は仕方なく膝立ちして俺の首へと腕を回した。
腰を下ろす先輩があんまりゆっくりなのでもどかしい。
思い切って全部突っ込んでしまいたくなったけれど、それじゃこんな風な形をとった意味がない。
先輩の胸を指で弄りながら、耳元でなるべく優しい声を掛けた。

「先輩入ってませんよ?さっきは3本も指咥えてたのに、入るでしょ?」
「っつ…はいん、ないっ」
「しょうがないなぁ、手伝ってあげるから後でご褒美くださいね、いいでしょ?」

先輩の返事を待たずに先輩の腰を力任せに落とすと、衝撃に耐えられずに背を逸らせて声をあげた先輩はあっけなくイってしまった。
しがみついて来る先輩の腕が震えていて、強すぎる快感を伝えて来たけど俺は気付かない振りをして先輩の腰を揺らす。

「ぁっ…やぁっ…ま、って…たけ、」

どろどろに汚れている前も擦ってあげると先輩が零す声はもはや意味すらなくなった。
涙を零しながらしがみついて来る先輩が可愛くて愛しくて、俺もすぐに達してしまう。
はぁはぁと呼吸を耳元で呼吸を整える先輩の声がどうしようもないほどえろくて、まだ若い俺はすぐに元気になってしまった。
片手で乳首を掴むときゅうと締めつけられて気持ちいい。

「ぁっ…やっ…かた、くっすんなぁっ」
「や、だって、さっきの御褒美貰っていいでしょ?」

そう言いながらも腰を揺らすのを止めない俺に先輩はしがみ付く力もないのか凭れかかるだけで首筋に顔を埋める。

「あっ…もっ…やだ…やっぁっ」

鈴口を弄ってあげると先輩はまた簡単にイってしまった。
その時、首筋に思い切り噛み付かれてその痛みに一度顔を顰めたけれど、その痛みすら先輩がくれたのなら気持ちいいと思える。
どうやら先輩はもう色々と限界らしくそこはどろどろとだらしなく零してばかりで耳元で「も、むり。許して」と懇願してきた。
そんなことを言われて欲情しないはずがないのに、先輩は舌足らずな声で俺の名を呼ぶ。

「も、おねがっ…たけ、やぁっ」
「先輩、そんなこと言われたら、もっと啼かせたくなるの、分かってて言ってるんでしょ?」
「ちがっぁっ、ひっ」

布団へと押しつけてぐいっと腰を進めると先輩が小さく悲鳴を飲むのが聞えた。

「気持ち良くてどうしようなくしてあげます。掴んでいてくださいね」

先輩の腕が首へと回っているのを確かめて、思い切り激しく腰を打ちつけると先輩の悲鳴のような声が何度も俺を呼んだ。

「八左って、呼んで、ください」
「っ…はちざっ…ぁっはちぃ」
「そ、大好きです、先輩」

先輩の名前を呼んだときにはもう既に先輩の意識は途切れていた。
好き勝手して、失神までさせてしまったことに少し罪悪感は残ったけれど、これで先輩の中に何か残せるのなら後悔はしなかった。

「先輩」

雨の匂いがこの部屋の独特な匂いを更に強く香らせて、この匂いと共に今夜のことが先輩の中に消えない傷になればいいと思った。
体に付けた傷は簡単に消えてしまうから、消えない心の傷になってしまえばいい。


「大好きです」

呟いた言葉に涙が零れた。
やがて春が来る。
先輩は学園を出て行ってしまう。
もう二度と会うことはないかもしれない。
戦場で会うくらいなら、会わないほうがずっといい。
でも、だからこそ、ずっと忘れないでほしい。

「俺のこと、忘れないで」

呪いをかけるように静かに言葉を口にする。
ずっとこんな風に先輩に呪いをかけるためだけにこんな夜を待っていた。

最後に口付けた時、俺の涙が先輩の頬へと零れ落ちる。
まるで先輩まで俺のことを想って泣いてくれているみたいで思わず笑う。

「…春かぁ」

まだ聞こえる雨音に瞳を閉じる。
やがてその瞼を透かすほどの光が春を連れて来るから、せめて今だけはと先輩の体を強く抱きしめて光の方向へと背を向けた。


―*―*―*―


雨粒が頬を掠め、俺は瞼を開いた。
繁った枝に守られているからずぶ濡れになることはない。
それでも首筋に冷たい雨粒が落ちる。
それは遠い春の思い出であんな傷なんて残っているはずもないのに、先輩が歯を立てたあの日の傷が疼いた気がした。

「完敗だ」

ひとりそう呟いて黄色い花を投げやる。
この匂いを嗅いで、先輩が俺を思い出してくれるはずはなかった。
記憶の量で言えば、この匂いはきっと6年間同室の善法寺先輩を思い出す匂いで、俺のことなど一欠けらも思い出してはくれないだろう。
それなのに俺はというと、この匂いが香るたびにあの夜を思い出すのだ。
先輩の記憶に爪を立てて傷を残したつもりが、結局傷つけたのは自分の記憶だけだった。

視界がぼやけた気がして思わず瞼を閉じる。
こんな風に切なくなったのは、きっとあの夜以来かもしれない。
先輩はあの日以来俺の名を一度も呼ぶことなく俺の目の前から去って、俺も一度も先輩の名を呼ぶことはなかった。
あの日から卒業するほんの短い期間の先輩の後姿ばかりが記憶にこびり付いて今は消えてくれそうにはない。

「…先輩、生きてるかなぁ」

自分より強かった人に対してこういう言葉を投げかけることが出来るほど、時間は流れていた。

「俺を、思い出してくれているかなぁ」

耐えきれず零れ落ちた涙が頬を伝い落ち、黄色い花の上で跳ねるのが見えた。
あの時の呪いは、先輩にはかからなかった。
間違えて自分自身へと掛けてしまった幼稚なその呪いを解く術はなく、また解こうとも思えないからどうしようもない。

「やっぱり完敗だったなぁ」

ひとり呟きながら月のない空を見上げてまた涙を零した。






(2010/03/31)