いつかへと消える日常





放課後の学校は水底のようにひっそりと静まっていて、ペタペタと廊下を歩く足音が窓や壁に響く。片手には英単語の参考書を開いて持ちながら学生服を身に着けた少年がひとり廊下を歩いている。視線は手元の本に落ち、唇はせわしなく、音無く動いていた。
一階の玄関にたどり着くとページの間に指を挟んで本を閉じ、靴を履くとまた本が開かれる。広い靴箱には他の生徒の姿はない。妙に重いドアを体で押し開けながら少年は鞄を肩に掛け直した。

「食満先輩!」

そう呼ばれて顔を上げると玄関の出入り口前でサッカーボールを転がしている生徒と目があった。

「竹谷」

そう言って食満と呼ばれた少年は懐かしそうに眼を細めて微笑んだ。

「食満先輩まだ残ってたんですか?」
「あぁ」
「模試遅かったんですか?」
「いや、模試は三時には終わったけどその見直ししてた」

食満は玄関のドアから手を離す。すると重いドアはゆっくりと閉まっていく。時たま鳴る奇怪な音に竹谷が顔を顰める。

「予備校行ってないんですか?三年生だと予備校行く人多いって聞きますけど」
「んー俺は行ってないよ。そんな余裕ないし、それに勉強だけだったら正直学校のだけで十分だし。あと、そんなところ行く時間ねーよ。みんながどうやりくりしてるのかほんと不思議」

食満のその言葉に竹谷は笑った。
よくよく見ると竹谷はサッカーの練習着を着ていた。それに頬には泥がついている。

「それよりお前は何してんだ?二年の模試は午前中だけだったろ」
「あー俺は自主練です」
「え、何で?!」

竹谷の言葉に食満は食って掛かるように表情を大きく変えた。それもその筈である。食満や竹谷が通う高校は自称進学校と名乗っていて、その宣言通り、一に勉学、二に勉学であり、部活などは隅に追いやられていて二年の夏が終わると容赦なく部を引退させられてしまうのだ。三年生は受験勉強だけしていればいい。それが学校側の考えだった。
食満と竹谷は同じ部活に所属していたがそれも去年の夏までで、そして今竹谷は二年である。

「俺、体育大行こうと思ってるんです。なんで校長の許可取りました!」

そう言って悪戯小僧のように笑った竹谷とは反対に食満ははぁ、と大きくため息を吐いた。

「いいなぁ、俺もあと一年部活したかったな…」
「へへ、あ、少し遊びません?本当は他にも自主練するって言ってた奴ら居たんですけど来ないんですよねー」

そう言って竹谷は足元で遊んでいたサッカーボールを食満の方へと軽く蹴った。そして食満はそれを受け止める。ズボンの裾にボールの跡っぽいものが付いたが、それを気にする様子もなく、鞄や参考書を隅に置いてはリフティングを始める。それを竹谷は少し離れた場所から見ていた。

「やべースゲー楽しい!」

そう言ってパスを出した食満は満面の笑みを浮かべている。

「たまには気分転換もいいと思いますよー」

食満から転がってきたボールを竹谷はまた食満へと蹴り返した。そうして二人は玄関前でパスを繰り返す。徐々に二人の間は開いていき、二人の話し声は大きくなる。
取るに足らない会話が受験生の食満を癒すようで、かなり長い時間を二人はボールを蹴りあいながら大した内容もない会話を続けていた。

「三年ってやっぱり勉強大変ですかー?」
「大変に決まってるだろ、言っておくけど三週間連続学校だからな!」
「うへー…嫌だなぁー夏休みはどこに行っちゃったんですかね」
「お前らは夏休み十日あるんだろ?」
「ありますけど、少なすぎませんか?」
「まぁな、でも無いよりはマシだぜ」
「…来年が怖いっすよ!…あ、それと本見ながら歩くの危ないんで止めた方がいいっすよ!」
「あー…五組で車に轢かれた奴いるって聞いたなー」
「危ないんで止めてくださいよー」
「んー…あ、お前部活続けるってことは来年も試合出るのか。三年連続レギュラーだな」

食満の言葉に竹谷はボールを止めた。そして離れた場所で立っている食満を見つめる。暑くなってきたのかネクタイを外し、一番上のボタンを開けた食満は風を送るように手で仰ぎながらボールと竹谷の返事を待っていた。

「俺、来年は絶対に一勝するんで、見に来てください!」

竹谷のその声は今までのどの声よりも大きく響く。

「おー行く行く。行くに決まってるだろ。日にち分かったら連絡して」

食満は相変わらず手を動かしながら竹谷へと笑いかけた。その言葉に竹谷の頬が仄かに赤く染まる。けれどそれは離れている食満には見えなかった。

「おい、お前ら今日は部活はない日だぞ!」

唐突に上から声が降ってきたと思ったら渡り廊下から教師がこちらを見下ろしていた。その表情は厳しいもので悪いことをしているわけでもないのに二人は反射的に姿勢を正していた。

「食満、こんなことしてる暇があれば単語の一つや二つでも覚えろ。明日は実力テストだぞ」

その教師は食満の教室の英語を担当している人で見つかった食満は肩を竦めて「はい」と答える。

「それと、君は一年生か?」

教師は今度は竹谷へと話しかけてきた。その声は厳しいものに聞こえる。竹谷はちらりと食満を見たが、食満は竹谷を見て軽く首を横に振っただけだった。

「あ〜…いえ、二年です」
「二年生ならこんなことしてる暇はない筈だ。部活も引退した筈だろ」
「あ、はい。すみませんでした」

竹谷が素直に頭を下げたことで納得したのか、教師はそれ以上何も言わずに渡り廊下を歩いていく。その姿が見えなくなると二人共大袈裟にため息を吐いて体の力を抜いた。

「すげーテンション下がった…」
「怖いっすね」
「あいつ三年の主任だからなー進学率ばっか気にしてて…嫌な野郎だぜ」

食満は首を軽く鳴らし、地面へと置いていた鞄を拾い上げた。本も同じように拾い上げ、砂を落とすようにその表面を軽く叩く。

「俺はもう帰るよ。あいつの言う通り、明日テストだし」
「大変っすね」
「来年はお前もだぞ」
「ほんと嫌っすよ」

竹谷があまりにも嫌そうな顔をしたので食満は思わず吹き出してしまった。「笑うなんて酷いっす」という竹谷もまた笑みを浮かべている。

「たまには気分転換もいいなぁー」
「部活、たまにでいいんで顔出してくださいよ」
「そうだなー…うん、そうする」

食満は本のページを確認しながら竹谷へと返事をしていたが、先ほどの竹谷の言葉を思い出し、本を鞄へと仕舞い込む。

「じゃあな」

その言葉を告げると食満はそのまま歩き出した。残された竹谷はボール抱え上げ、離れていく食満の背中へと大きく手を振る。

空はすでに青ではなく、汚れたような赤が混じり始めていた。切なげとさえ思えるほど必死になく蝉の声が哀愁を漂わせ、竹谷は小学生の頃の帰り道をふと思い出した。何処からともなく誰かの家の夕飯の匂いが流れてきて、夕日の所為で伸びた長い影法師と、一人きりで歩くアスファルトの道。そんなものを思い出して寂しいような悲しいような感情に竹谷が捕らわれていると、数十メートル離れたところで何かを思い出したように食満が振り向いた。

「あ、俺が試合見に行くんだから、絶対勝てよな!」

食満のその言葉に竹谷は一瞬返事が出来なかったが、すぐに大きな声で「もちろんです!」と返す。その声がぐわんぐわんと辺りに響いていた。
食満は竹谷の言葉に満足したのか、すぐにまた前を向いて歩き出す。遠ざかっていくその背中を見つめ、竹谷は「こうしてらんない」と呟いたかと思うとボールを蹴りながら運動場へと走りだした。

食満のその一言で竹谷の頬が赤く染まる理由を食満はまだ知らない。



(おわり)





現パロたけま!!
たけまの日ばんざい!!(遅れたけど許してね!)

(2011/08/10)