星棲みの夜
不意に視線を空へと上げると細く白い三日月が空へ浮かんでいた。
周りの星たちはチカチカと小さく点滅を繰り返しているように見え、そういえば今日が七夕だったことを思い出す。
「今夜は誰も会いに来ないといいのだけれど」
ひとりぽつり呟いて家の戸を閉めた。
深い山奥にある小さな村の外れに住み付き始めてもう二年の月日が経っていた。
此処は人に出会うことがまずないと言い切れるほどの辺鄙な場所で、近所に住んでいるのは人間ではなく兎や狼などばかりだ。
昔、と言っても二年前までだが、忍として働いていた頃には今よりも多くの人とやり取りをしていた。けれど辺鄙な場所にあるこの家に住み始めてからというもの、訪れる人といえば忍術学園に居た頃に同室だった善法寺伊作や後輩だった富松作兵衛くらいで音信が不通になった者の方が多い。
いや、逆だろうか。俺の方が音信不通になったのかも知れない。
山の一日というものは太陽が昇っている時間がとても短く、やたらと夜が長かった。
いつもいつも最低限の野菜を育て、最低限の食事を取り、ひとり山の向こうへ消えていく夕陽を見送りながら酒を飲んでいた。日が沈むと空に浮かぶ星を肴に、または囲炉裏で燃える火を眺め、昔を思い起こしながら一人で酒を飲んでいる。
今夜は誰も来なければいいのだが。
囲炉裏の火を見つめながら先ほど呟いたことを心の中で繰り返す。
こんな夜中に山へと入ってくる愚かな人間はそうそういないのだが、俺が心配しているのは生身の人間ではなかった。
『七夕の日に命が尽きると一番大切な人の元へと星が運んでくれる』
それは俺が生まれ育った村へと語り継がれている言い伝えのひとつだった。
七夕の日に絶命すると星がひとつだけ願いを叶えてくれるというもので、大切に想っている人にもう一度会えるのだそうだ。
忍者という職業についていた俺はどちらかというと伝説やお伽噺を信じてない方だったが、二年前の七夕の夜に遠く離れた郷に居るはずの母親が会いに来た時にその言い伝えが本当に起こり得る事を知った。
そしてその日を境に忍者を辞めたのだ。
去年は誰も来なかった。
だから今年も来ないで欲しい。
パチパチと音を立てて燃える赤を見つめながら酒を一口飲むと戸を叩く音が聞こえたような気がした。
一瞬、風の音かとも思ったが、暫くするとやはり誰かが戸を叩く。
風が強いわけでもないから木の枝が飛んできたとかではないのだろう。
「…誰だ?」
そう声を掛けながら戸を開けると懐かしい人が立っていた。
「お久しぶりです」
そう言ってぺこりと頭を下げたのは俺と同じく忍術学園に通っていた一学年後輩の竹谷八左エ門だ。
「…久しぶり」
返事を返すのに少し時間が掛かったのはうまく現実を呑みこめなかったからかも知れない。
「今夜は月も綺麗ですし、一緒にお酒でもどうかと思いまして」
「…そうか、入れ」
竹谷はぺこりとお辞儀をして家へと足を踏み入れた。
竹谷が持って来てくれたのは上等な酒で俺はすぐに竹谷へと客人用の杯を出した。これは以前伊作が置いていったもので白く丁寧に造られた物だ。
「これは良いものですね」
「その酒飲むには十分だろう?」
竹谷はその器を珍しそうに眺め、そしてそこに注いだ透明な酒を乾杯した後にぐいっと呷った。
「…お久しぶりですね、食満先輩」
杯を床へと置いた竹谷が瞳を優しく細めてそう告げる。
「あぁ、本当に久しぶりだ。来てくれて嬉しいよ」
俺の言葉に竹谷は満足そうに頷いた。
学園を卒業して以来、幸か不幸か竹谷とは一度も顔を合わせた事はなかった。
だからと言って仲が悪かったわけではない。どちらかと言うと、仲は良い方だったと思う。
少なくとも、竹谷が俺に好意を持っていることを俺はずっと知っていた。
俺の記憶に残っている竹谷はまだ俺より身長が低かった。
ただ、身長は低い癖に俺よりもずっと手首が太く、子供ながらにこいつはもっと大きくなるんだろうなと思っていた。
そして昔の自分が想像した通り、今目の前にいる竹谷の体は俺よりもひと回り大きく逞しい。
それに比べると俺はあの頃からちっとも変っていなかった。
「身長伸びたんだなぁ」
「先輩はあの頃のままですね」
竹谷のその言葉に「馬鹿にしてんのか?」と返すと竹谷は慌てたように「いえいえ、記憶と全然変わらなくて安心しました」と告げる。竹谷があんまり怯えた顔をするものだから「冗談だよ」と返して俺は竹谷が注いできた酒を飲む。
「よかった」
本当に安心したように竹谷はそう言って笑った。
その笑顔は何ひとつ変わっていなかった。
笑うと八重歯が覗くところも、笑うと目尻に小さく皺が出来るのも何ひとつ変わっていなくて、目の前の人間が本当に竹谷なんだと改めて思い知らされる。
記憶の中の竹谷はいつも笑っていた。
故意的に残したのだとも思えるくらい、思い出の中の竹谷はいつも笑っているのだ。
例えば、脱走した虫の捜索を手伝った時も「手伝ってくれてありがとうございます」と竹谷は笑顔を残していたし、二人で遠くの町へ遊びに行った時も散々迷子になった癖に「いい思い出になりました」と笑っていた。
竹谷が俺へと恋心を抱いているのは知っていたが、だからといってどうすることもしなかったし、竹谷も何も言わなかった。
そういえば他の奴となら一度や二度くらい通じたことはあったが、竹谷とは一度もそういうことはしていない。男同士だからといっても子を作る以外のことは大抵出来ると知っていたのにも関わらず、竹谷とは口吸いだってしていない。
一度くらいそういう雰囲気になってもおかしくなかった筈なのになぁと思っていると目の前で竹谷が俺の名前を静かに呼んだ。
「何を思い出しているんですか?」
「学園にいた時のこと」
「あぁ、懐かしいですね」
「お前はまだ俺より小さかったよな」
「でも今は先輩に勝っているんでいいんです」
「生意気なことを言うようになったな。昔はそんなこと全然言わなかった癖に」
俺の言葉に竹谷は無言で微笑んだ。
その柔らかい視線を向けられると何故だか苦しくなる。
その視線を、俺は昔一度だけ向けられた事があった。
確か、俺に許嫁が出来た時だ。
郷の娘と結婚する事が決まった夜、竹谷は俺を呼びだした。
あの日も確か、七夕だった。
河原を歩こうと言い出した竹谷の後ろを俺は黙って着いていった。
夏の夜風はとても涼しく、風が吹く度に長めの前髪が揺れて、視界が狭くなる。それでも目の前の竹谷の姿は見失うことはなかった。
「見て下さい、まるで天の川ですよ」
竹谷はそう言って河原を指した。
河原の草は露で濡れ、草の根元で沢山の蛍が光っていた。
夜空の星が落ちたかのように光るその光景は、まさしく天の川のようで俺は静かに一度頷いた。
許嫁の事を聞きたいんだろうと思ってはいたが、自分から言い出すのも不自然な気がして黙っていた。
竹谷は思い出したようにぽつりぽつりと言葉を紡ぎ、俺はただそれに応えていた。
風は優しくも穏やかで、とても静かな夜だった。
意味のある話はなかったように思う。
けれどその時に郷に残る七夕の言い伝えを竹谷に教えた。
伊作はそんなの信じられないと言い、人が死ぬという事をコーちゃんを使って説明してきたりしたが、竹谷は伊作とは違い「へぇ、夢がありますね」とだけ言った。
俺も全く同じことを思っていたから頷いて返した。
竹谷の口数はとても少なく、ただ視線だけが熱かった。
その視線にどう返していいのか困って、俺は何度も空を見上げて星を探す振りをしていた。
その夜、竹谷は結局許嫁のことについては何も聞いてこなかった。
ただ帰り際に「また散歩でもしましょう」と言ってぺこりとお辞儀をして、俺は「そうだな」と手を振った。
結局のところ口約束は叶わず、二人で肩を並べて歩く日が来ないまま俺は卒業した。
竹谷は最後まで俺へと特別な言葉を告げることもなく、何事もないように俺を見送っていた。
*:*:*
「何を伝えに来たんだ?」
俺の問いに目の前の竹谷は苦笑した。
柔らかく細められた目元と優しく弧を描くその口元を見つめながら、あぁ、本当にいい男になったもんだと思う。
忍者の学校という特殊さから、学園内では同性での色恋が密やかに繰り広げられていた。
それでもやはり卒業すると子を残す為に多くの者が嫁を貰って家庭を築く。家庭を持たぬ者はそのまま戦場で死んでいった。
俺も一度は家庭を持ったが、嫁と子が相次いで流行病に命を落としてからは後妻を貰うことなくこうやって独りで静かに暮らしている。
あの文次郎でさえも家庭を持ったと聞く。それでも竹谷が妻を貰ったという話は一度も聞いたことがなかった。
「お前、嫁さん貰わなかったのか?」
これほどの男を女たちが放っておく筈がないというのに、竹谷は目を細めて笑うだけだ。
「先輩が話してくれた七夕の話、覚えていますか?」
竹谷のその声はやけに凛と響いた。
それは完全に人の声で、目の前の竹谷の肉体がもうないだなんてとてもじゃないが信じられない。
「…あぁ、覚えているさ」
今まさに目の前にある奇跡だろうとはさすがに言えなかったが、それでも竹谷には伝わったようだった。
「あの話をしてくれた時なら先輩の元へ行くだろうなと思っていました」
先輩も気付いてたと思うけど、惚れてましたからと、竹谷は照れたように笑う。
その笑みにつられて俺も笑った。
「でももしも大人になって、何年も経った後だったら俺は誰の元へ行くのだろうかと考えたんです。もしかしたら嫁も子もいるかもしれないと」
「…そうだな」
「でもですね、俺はやっぱり貴方の元へ行きたいと思ったんです。もしも行くことが出来ればそれが俺の中で唯一揺るがないものになるだろうと。ま、自己満足ですけど」
竹谷はそう言って笑い、杯に注がれた酒を呷る。
酒を飲み干すその喉の動きに、自然と喉が鳴った。
こんな台詞を言ったことも言われたこともない。
言葉にこんなにも力があるなんて俺は一度たりとも思ったことはなかった。
「…俺は何年経っても貴方の元へ行こうと決めていました。だから今夜それが叶って本当に嬉しいんです」
だから良い酒を飲みましょうと竹谷は俺の杯に酒を注ぐ。
「…お前が嫁を取らなかったのって、もしかして」
「先輩が気に病むことは何にもないんですよ。俺が勝手にしたくてしたんです」
竹谷の笑みが優しくて、責められていないはずなのに涙が零れそうになった。
一緒に過ごした時間はたった五年だ。
彼の生涯におけるその時間はあまりにも短い。
それでもこうやって俺の元へ現われてくれた彼に俺は何をしてやれるのだろうか。
「今日が終わるまで、笑って一緒に酒を飲んで下さい。それだけでいいんです」
俺の思考を読んだように竹谷は告げる。
きっと今更俺に出来ることはないのだろう。
それに彼はそれ以上を望んではいない。
「そうだな、月が沈むまで飲もう」
俺はそう言って竹谷の杯にも同じように酒を注いだ。
*:*:*
思い出話に花が咲き、両手を叩いて笑っているうちに空が白み始めた。
黒がまるで水で薄められていくかのように青くなっていく。
そろそろ帰らなければと立ちあがった竹谷を送る為、戸を開けて二人で空を見上げた。
「先輩、最後にひとつだけ教えます」
秘密ですよ、と声を潜めた竹谷は俺の耳へと囁いた。
「七夕に死んだ者は星に棲めるんだそうです」
「星に?」
「はい。星に棲んで、一年に一度だけ大切な人の元へ行くことを許されるそうなんです」
竹谷の言葉に「…俺の母ちゃんはあれっきり来てないぞ?」と返すと「そりゃあ子供は先輩だけじゃないでしょうに」と返される。
そりゃそうだった。俺は五人兄弟の三番目で上に二人、下にも二人兄弟がいる。
「まぁ、いつかまた会いに来てくれるでしょう」
「そうだといいがな」
「俺もまた会いに来ますから」
竹谷はそう告げるや否や俺の額へと口付けを落とした。
そして悪戯が見つかった子供のように照れたように笑う。
その瞳が細くなる瞬間が好きだった。
大きな手の平も、太い手首も、笑うと覗く八重歯も、どうしても跳ねる前髪も、首筋の匂いも、耳の形も、右胸にあるほくろも、俺の名前を呼ぶ時に優しくなるその声も全部好きだと思った。
「また、会いに来ます」
「ああ、待ってる」
一度だけ竹谷の頬に触れ、瞳を閉じて唇を重ねた。
胸に迫ったのは、まるで星が降る夜のように震えるような感情だ。
今までに一度でもここまで胸を揺さぶられたことはあっただろうか。
こんなにも焦がれるように人から想われたことは、そして人を想えたことはあっただろうか。
触れた唇の感触が消えて瞼を開けると目の前にいたはずの竹谷の姿が消えていた。
かわりに明るくなった空にやたらと眩しいひとつの星が瞬いている。
「…夢、じゃねぇよな?」
振り向くと家の中には盃が二つ転がっていて、あぁ、これは夢じゃないと俺はひとり呟く。
空は一秒ごとに色を替えては段々と青の範囲を広げて行き、まだ微かに光っている星を見上げながら竹谷の名前を呟いた。
「…また来年な」
まるで頷くように星が一段と光って瞬き、そして青に消えていった。
(おわり)
拍手話リサイクル。
8/16が旧暦の七夕なので、スルーしてしまった七夕の代わりに七夕ネタを書いてみました。
とても楽しんで書けましたが、このお話の中身は全て面白いほどフィクションです 笑
こんな言い伝え聞いたことはないんですが、まぁ、広い世界ならどっかに一個くらいあるんじゃないかなーと思って書かせて頂きました。
死にネタなんだけど、幸せというよく分からないカテゴリーだと思う。
後にも先にもこんなカテゴリーないんじゃないかな 笑