愛しのアルペジオ
授業の後に一度別れ、バイトを終えて自宅へ帰る時、竹谷は食満が以前話してくれた事を思い出していた。
食満が3回目に泊まりに来た時、いつになく饒舌で色んな事を話してくれたのだ。食満が自分の事を喋ったのは後にも先にもあれが最初で最後だ。
「食満さん学校と違いすぎません?そんな甘えたでした?」
いつもあれが食べたいこれが食べたいなどとわがままを言っては竹谷を困らせる食満に竹谷は正直に言葉をぶつけてみた。
竹谷の部屋に来るとこんな風にわがままで甘えたな癖に学校では何でも一人で出来ますというように他人をあまり寄せ付けない空気を醸し出すのだ。ギャップに驚かない筈が無かった。
「…んー」
「んーじゃなくて、俺もっとしっかりしてる人だと思ってましたよ」
竹谷の言葉に食満は何が楽しいのか悪戯っ子のように目を細めた。そしてビールを飲みながら「だって竹谷は特別だから」と短く告げたのだ。
「俺さ、女の人は怖いし、男の大半には気持ち悪がられるし、残りの人は恋愛対象だし、友達っつーか、自分の性癖知った上で仲良くしてくれる人いた事なかったんだ。居ても大抵すぐ寝ちゃったし」
「…今何気に爆弾発言してますよね?」
「だから竹谷は奇跡なんだ」
「…奇跡」
「そう。だから甘えてんのかもな」
食満のその言葉が夜道に甦る。
自分の事を奇跡だと言った食満の気持ちを測ろうと色々想像してみたけど、結局何も分からないまま家に辿り着いてしまった。
「食満さん来ないんじゃなかったんですか?」
部屋のドアの前で座り込んでいる人物に竹谷は少し笑いながら声を掛ける。廊下の蛍光灯はとっくに切れてしまったのでドアの前で座り込んでいる人の顔なんて見えなかったが、食満以外の人がいる筈もない。
「竹谷、遅い」
「だから来るなら連絡してくれれば鍵渡せるのに」
竹谷は食満へと手を伸ばし、その腕を掴んで座り込んでいた食満を立たせた。
「…来るかどうかは直前まで分かんないから」
食満はそう言って、寂しそうに笑う。
また何か嫌な事があったのだろうか。竹谷は食満のその悲しげな笑みにそんな事を思った。
食満は部屋に上がるとそのまま冷蔵庫の前に座りこみ、冷やしていた缶ビールを取り出した。そして「竹谷も飲む?」と振り返って見上げる。竹谷は食満の言葉に頷き、部屋の奥へと進んだ。
ベッドへと竹谷が凭れ、その隣りへと食満は腰を下ろした。そして二人分の缶ビールをテーブルに置き、コンビニの袋からつまみを取り出す。
深夜番組を見ながらいつものように酒を飲んでいると不意にいつもとは違う匂いがした。その香りの元を探すとそれはどうやら食満の様だった。その香りは食満が動く度に、空気中に微かに漂う。竹谷は顔を近付け、くんくんと食満の髪を匂ってみた。
「…何だよ」
食満は煩わしそうに竹谷の顔を遠ざける。
「いや、何かいつもと違う匂いしたんで。何かつけてるんですか?」
食満の体から僅かだが香水の匂いがするのだ。
「え、匂う?」
食満は驚いたようで、自分の服やらを匂うと髪をぐしゃぐしゃに掻きながら「シャワー借りていい?」と聞いてきた。
「いいっすけど」
竹谷が許可すると食満はすぐに立ち上がって風呂場へと急ぐ。あまりにも慌てているので竹谷は面喰ってしまった。
「服、適当に貸して」
「分かりました」
着替えを待たずに食満はすぐ風呂場へと入ってしまった。竹谷はシャワーを浴びている食満へクローゼットから出した部屋着とタオルを風呂場の前に置いたことを教え、そして部屋に戻る。
部屋で座っているとテレビの声と声の合間にシャワーの音が聞こえてくる。気が付けば竹谷の意識はその音に集中していた。
竹谷の家を訪ねて来る時、食満はいつもべろんべろんの一歩手前まで酔っていた。竹谷の帰りを待ちながらビールを飲んでいる事もあるが、きっと誰かと飲んだ帰りなのだと竹谷は踏んでいる。そして食満が告げなくても、食満が竹谷の部屋に寄るのはいつも決まって嫌な事があったり、寂しい夜だという事も竹谷は察していた。
利用されていると思わなくもない。けれどそれよりも必要とされていると竹谷は感じていた。何より彼は竹谷のことを「奇跡」だと言ってくれたのだ。
誰かに抱かれて来たんだろうか。
ふとそう思うと、何だか悲しくなってきた。あの匂いは食満を抱いた誰かの移り香なんだろうと確信のように竹谷は思う。
昼間の事と、今夜の事が竹谷には無関係に思えない。昼間のあのやり取りで少なからず傷ついて、その傷を癒そうと誰かを求めて夜の街へと繰り出し、そしてたまたま出会った人と体を重ね、そいつに何か嫌な事をされたり言われたりしたのだろう。だから昼には「来ないかも」と言っていた食満が来たんだと竹谷は思う。香水の香りがすると言った時、食満は泣き出しそうな顔をしていた。
シャワーの時間がこの前より長い。泣いているんだろうかと思うと、「馬鹿だな」と呟かずにはいられなかった。
暫くするとシャワーを終えた食満が竹谷の高校時代のジャージを着て戻ってきた。
「裾余るのがムカつく」
そう言いながらズボンの裾を折り曲げて食満は「シャワーありがとう」と笑った。
目元が赤く見えるのは、シャワーのお湯が熱かった所為だろう
じゃあ目が腫れているように見えるのは?
「…俺も入ろうかな。食満さん眠かったら寝てもいいっすよ」
竹谷は腰を上げ、そしてすれ違いざまに食満の頭を撫でた。濡れた髪に指先が湿る。
「…分かった」
食満は竹谷が触れた髪を撫でて頷き、髪を拭きながらベッドへとごろり横になる。少し長めの袖から食満の細い指先が覗いていた。
*:*:*
竹谷が風呂場へ行き、シャワーの音が聞こえて来ると食満は体を起こし、そして盛大に溜め息を吐く。
「馬鹿だ、あー馬鹿、馬鹿」
そう言っては布団に顔を埋め、ベッドを殴ってみたが手応えはない。暫く息を止めると苦しくなり、我慢が出来なくなるとようやく食満は顔を上げた。
食満が自分の性癖が所謂普通ではないと知ったのは中学の思春期の頃だ。部活に入り、部の先輩やら後輩やらがエロ本の貸し借りをしているのを見たり、ワイ談と言われるものを聞かされたりした時、今まで当たり前だと思っていたものが当たり前じゃないと知った。そしてそれからは誰にも打ち明けぬようずっと秘め続け、何でもないような顔をして日々を過ごしていた。
けれどある日魔が差してしまった。
高校の夏休み、中学から一番親しくしている友人の家に泊まった時に友人が冷蔵庫から父親のビールやらを盗んできて二人で部屋で酒盛りをしたことがあった。初めてのアルコールとこの夜を共有しているということにすっかりのぼせてしまって、食満は誰にも言うつもりが無かった秘密を打ち明けてしまったのだ。
翌日になって酒が抜けるととんでもない事をしてしまったと思ったが、もう後の祭りだった。その場を逃げるようにして去り、休み明けの学校の事を考えると頭も腹も痛くなって気持ち悪くなった。けれど時間は止まってはくれず、夏休みは終わる。
休み明けの学校に登校する時、食満は覚悟を決めた。
きっと学校に行けば苛められる。シカトされたり、荷物を隠されたりするだろう。それでもあと一年半で高校は終わる。それを乗り切って、この町を出よう。
そう覚悟を決めて登校すると、学校は恐ろしいほどいつも通りだった。誰も自分を指して笑ったりはしなかったし、机も椅子も無くなってはいなかった。食満は不思議に思いながら席に付き、静かに辺りを見回した。すると秘密を打ち明けた友人と目が合った。彼は食満と目が合うと静かに視線を逸らして俯いた。それ以来彼とは喋っていない。けれど薄情な人だとは思いもしなかった。誰にも言わずにいてくれただけ彼はいい人だった。
でも彼が秘密にしてくれたからって傷付かなかったわけではない。魔が差したと言っても彼ならば受け入れてくれるのではないかという期待があったから打ち明けたのだ。でもそれは結局のところ食満のエゴでしかなかった。それが分かったから食満は周りの人に自分からは絶対に打ち明けないと決めていた。だから竹谷に知られた事は全くの想定外だった。
竹谷に自分がゲイだとばれた時は人生が終わってしまったかのように感じたというのに、今となってはあの日ばれて良かったとさえ思っている。竹谷は優しい。食満の性癖を知っても尚、当たり前に接して、更に言えば甘えさせてくれる。でもだからといって依存していい訳はない。
竹谷の優しさに甘え過ぎている。
最近の食満の悩みはその一言に尽きる。それくらい甘えている自覚があるのだ。竹谷は気を配る事が出来る人だ。だから酔っ払って現われる食満と一緒にビールを飲んだり笑ったりはするが、どうして訪ねてきたのか等を聞いたりはしない。そんな竹谷の着かず離れずの距離に、自分でも知らないうちに甘えて依存してしまった。
「…馬鹿だ。もう、死ねよ」
食満の唇から零れたその声はか細く悲痛なものだった。
自分の性癖がマイノリティだと知ってからかなり時間が経つというのに未だに食満はその事を自分で受け入れられていない。そしてその秘密を一人で抱えられるほど強くも無かった。だからこそ共有してくれる人を探して夜の街へと繰り出した。食満が求めているものは一晩限りの遊びの恋等ではないけれど、街に落ちているのはそういうものばかりだ。寂しいからと誰かに甘えて、そして全てが終わって一人になると死ぬほど後悔する。それを飽きもせず何年も繰り返していた。
けれどその矛盾の繰り返しをつい最近は止められていた。その理由は間違いなく竹谷である。一人では越せそうにない夜、竹谷は傍にいる事を許してくれた。どんなに頻繁に訪ねても嫌そうな顔をしたりしない。それどころか一緒になって騒いでくれたりする。
竹谷は優しい。今日昼間の様なやり取りひとつにさえ食満を気遣ってくれる。
普段はあんな事何でもないと言い聞かせていたけれど竹谷があんな風に言ってくれたから食満はようやく自分が傷ついていた事を認める事が出来たのだ。
けれど認めたその傷を食満が一人で癒せる筈もなく、竹谷がバイトしている時間に久しぶりに街に出てしまった。
そして今、死ぬほど後悔をしている。何よりもあの後にこの部屋に来てしまったことを後悔している。
「…死んでしまえ」
食満はそれだけ呟いてぎゅうと強く瞼を閉じた。
*:*:*
竹谷がシャワーを終えて部屋に戻ると食満は既に眠っていた。瞼は閉じられ、あの悲しげな瞳は見えない。
竹谷は髪を拭きながらそっと食満の枕元に腰を下ろした。そしてその黒い髪をゆっくりと撫でる。
不意に視線を食満の胸元へ向けるとそこには赤い鬱血が幾つか散っていた。よれよれで大きすぎるシャツは胸元を隠せなかったらしい。
そんなに強くも無い癖に自分から傷付きに行く食満の事を竹谷は愚かだとも思うし、同じくらい愛しいとも思う。一生懸命になって誰かを探す彼の健気さがあまりにも痛々しくて、愚かで、愛しい。そして「俺にしといて下さいよ」と思わずには居られない。
同性愛の嗜好はつい最近まで皆無だった筈だけれど、食満の隣りで過ごすうちに彼が選ぶのが自分ならいいのにと思う様になってきたのだ。誰かに傷つけられて、その傷を見せまいと無理して笑う食満を見ていると俺ならそんなことさせないのにとさえ思う。
「…ほんと馬鹿っすね」
彼の寝顔を見つめ、竹谷はそう自嘲の笑みを浮かべた。そして深く眠っているのかピクリともしない食満の顔へと近付き、その唇にキスを落とす。
男とキスするなんてつい一ヶ月前までは罰ゲームでしかなかった。それでも今の行動は自分の心から生まれた欲求であり欲望だ。
竹谷は食満がまだ眠りから覚めないのを確かめ、床へと転がって瞼を閉じた。
瞼を開けるといつの間にか朝が訪れていた。竹谷は体を起こして辺りを窺って見るが、ベッドの上にいる筈の食満の姿は見えない。布団はまるで抜け殻のように人の形だけを残していた。
「食満さん?」
ふわあと欠伸をしながら立ち上がり、竹谷は食満の姿を探す。トイレにも風呂場にも、ベランダにもキッチンにも食満の姿はない。そして洗濯機の中には昨夜食満に貸したジャージとシャツが入っていた。
「…食満、さん?」
声に出して名を呼んでも返事は返って来ない。部屋は静まり返っていて、竹谷以外誰もいなかった。
「…どうしたんだろう」
心を落ちつけようと独り事を呟いて、そして目を凝らして当たりを注意深く観察する。
いつも鍵を置く場所に鍵の姿はなく、もしやと思って郵便受けを開けるとメモ用紙と一緒に鍵が入っていた。
白いメモ用紙には食満の几帳面な文字が並んでいて『ごめん』とだけ書かれている。食満が何を謝っているのか竹谷には見当もつかない。
「何か予定入ったのかな」
呑気にそう言いながら竹谷は鍵を元の場所へと戻し、もうひと眠りしようとベッドへと向かった。食満が眠っていたベッドは微かに彼の匂いが残っている。甘いその匂いを嗅ぎながら竹谷はもう一度眠りに落ちた。
その日以来食満は竹谷の部屋へと姿を見せなくなった。
(2011/4/18)