愛しのアルペジオ
竹谷が深夜にバイトから帰宅すると部屋の前で人が座り込んでいた。部屋の真上にある蛍光灯はチカチカと不快な音を立てて点滅を続けている。その灯りに照らされていた人物は竹谷に気が付くとゆっくりと顔を上げた。
「…竹谷遅い」
「食満さんまた酔ってるでしょ」
「酔ってねーよ」
食満はそう言いながら竹谷へと手を伸ばす。それに気付いた竹谷は左手に持っていたビニール袋を右手へと持ち直して食満の手を取った。そして勢いよく彼を引き起こす。
「お前の分もビール買ってあるから」
「…どうせ温いんでしょ?それ冷やして前買ってきた奴飲みましょう」
玄関のドアを開けると慣れた手付きで食満が玄関の灯りを付け、そして温くなったビールを冷やす為に冷蔵庫の前で腰を下ろした。
冷蔵庫の灯りで照らされた食満の顔は既に紅潮していて手付きも危なっかしい。もう既に大分飲んでいるようだ。
「食満さん、俺がやるんで奥行ってていいっすよ」
竹谷の声に食満は顔を上げてはにかみ、「頼むなー」と竹谷の肩を叩いて奥の部屋へとよろよろの足取りで進んでいく。
竹谷が温くなったビールを冷やし、冷えているビールを取り出して部屋へと行くと食満はベッドの上で横になりながら足をぱたぱたと動かしていた。顔は布団に埋もれていて呼吸しているか怪しいところである。
「食満さーん」
竹谷はベッドへと腰かけ、名を呼びながら食満の髪を撫でる。竹谷の痛んで跳ねた髪とは違い、黒い髪はさらさらと指を流れた。
「んー?」
「飲むんでしょ?」
「飲む」
むくりと体を起こして食満はベッドの上に正座して座る。既に眠たげに目を擦ってはいたがまだ眠るほどではないらしい。缶を開けては一気にビールを呷り、そして「うまいなー」と楽しげに竹谷へと笑いかけてきた。
食満が適当に買ってきたつまみを食べながら竹谷は食満を眺めていた。彼は酒を飲んでは竹谷に話しかけ、下らない事で笑ってはベッドでパタパタと足を動かしていた。そして暫くするとぱったり動かなくなる。眠ってしまったのだ。
規則正しい寝息が聞こえてきたのを確認して竹谷は食満を転がして布団を掛けると部屋の電気を消した。
「おやすみなさい」
食満の髪を撫で、竹谷は残った分のビールを飲み干すと床へと横になった。ベッドの方角からは食満の寝息が聞こえ、時たまもそもそと動く。
食満が泊まりに来る時はいつも食満がベッドを使い、家主である竹谷はカーペットの上で横になって眠っている。それでも竹谷は食満がこの部屋に来る事を嬉しく思っていた。
初めて食満がこの部屋に泊まった翌日、アルコールが抜けて素面になった食満はどこか居心地悪そうですぐに帰る支度を始めた。そんな彼が家を出る時、竹谷は「また遊びに来て下さいね」と一言告げた。そしてそれから食満が本当に訪ねて来るようになった。それは竹谷も思いもしなかった事だけれど、問題はそれがいつも深夜だということと、いつも酔っているということだ。
竹谷が目を覚ますと食満はまだ眠っていた。時計は既に10時を指していて、竹谷は朝食を作る為に体を起こす。卵はあったからーと呟きながら腰を上げ、洗面台へと向かって顔を洗い、冷蔵庫を開けて水を取り出していると背後で物音がした。コップ二つに水を入れて部屋へと行くと食満が体を起こしてぼんやりと壁を見つめている。食満は竹谷と違って起きてから動くまでに少し時間が掛かるのだ。
「水、飲みます?」
「…ん」
「置いておきますね。あと、朝食の卵はどうします?」
「めだま」
「目玉焼きっすね?」
「ん」
「じゃあもう少し待っててください」
ぱたりともう一度体を横たえて目を瞑った食満へとそう言い残し、竹谷はキッチンへと向かう。バイト先の居酒屋で厨房とフロア二つを掛け持ちしている竹谷は居酒屋のメニューくらいの料理なら簡単に作る事が出来る。パンをトースターへと入れて食満用に卵を二つフライパンへと落とし、中の黄身へとちゃんと熱がいくようにフラパンに蓋をして蒸す。その間に自分用の卵をかき混ぜ、そして焼きあがったパンを皿の上へと置いた。
卵焼きの隣りでベーコンを焼くと朝食の匂いが鼻腔をくすぐり、猛烈に腹が空く。
「竹谷ー」
ひょっこりと部屋から顔を出した食満の目はもう覚めているようで「運ぶの手伝う」とキッチンへとやってくる。狭い部屋のキッチンは大の男二人が並ぶとそれだけでもう動けない。
「醤油」
「あ、そこ」
「竹谷は?」
「俺はケチャップ」
「あ、じゃあ俺がアヒルさん描いてやるよ」
竹谷の分の皿まで受け取ると食満は楽しげに部屋の奥へと消えて行く。竹谷はフライパンを水に浸してから食満の待つ部屋へと向かった。
先ほど言っていたように食満は竹谷の卵焼きにケチャップでアヒルの絵を描いていた。そして満足そうに「うまく描けた」と笑っている。
「食満さん今日は授業は午後からですか?」
「竹谷と一緒の奴だけ。5限」
「来週テストですよね」
「でも簡単らしいぞ?」
朝食を食べながらテレビを付けると「3月下旬並みの気温で暖かいでしょう」とお天気のお姉さんが告げていた。
「食満さん今日は5限だけなんすよね?」
「ん」
「どっか行きません?天気良いみたいだし」
「んー…」
「風呂なら入っていいっすよ。服も貸しますし」
「…じゃあお好み焼きでも食いに行くか。奢る」
「え、まじっすか?」
「いつも世話になってるし」
「あ、自覚あるんですね」
「うっせー」
テーブルの下で食満が竹谷の足を蹴る。そんなに痛くもないのに竹谷は「イタタタ」と大袈裟に笑った。
近くのコンビニで下着を購入し、食満から風呂に入る事になった。その間竹谷は少し溜まっている洗い物をすることにした。食満が訪ねて来る以前ならば3日放置くらい当たり前だったが、食満が訪ねて来るようになって驚く程改善している。
キッチン周りを片付け、ベッドの上に腰かけてテレビを見ていると風呂から上がった食満がひょっこりと顔を覗かせる。上半身は裸のままで下は既にジーンズを穿いている。
「あ、終わりました?」
「使ったタオルは、どうすればいい?」
「洗濯機の中放り込んでいいっすよ」
「シャワーありがとな」
「いえ。じゃあ俺も入るんで、ゆっくりしててください。服は適当に選んでいいですから」
「おー」
食満がテレビの前で腰を下ろしたのを見て竹谷は風呂場へと移動した。
軽くシャワーを浴びて着替えて出ると食満がクローゼットの奥から小さめの長袖のシャツを取り出していた。
「お前の服なんかでかい」
竹谷が持つ服の中で一番小さめのシャツを着た食満は「これくらいしか合わない」と顔を顰めている。
「身長差10センチくらいありますからね。今度から何着か置いていけばいいじゃないっすか」
使ったタオルを洗濯機へと投げ込み、コップの中で温くなった水を飲む。そして「出ますか」と食満を見ると食満は既に上着を羽織って玄関に向かっていた。
昼食を取るには早く、食満と竹谷は仕方なくボーリング場で暇を潰すことにした。3ゲームほど投げればいい時間になるだろう。
「負けたら今度飯奢るってどうだ?」
食満のその言葉にさっきまでお遊び気分だった竹谷は給料前という事もあって本気にならざるを得なかった。
3ゲーム全て競う事になり、一瞬たりとも気が抜けない。
3ゲーム目のラスト、食満が最後の一本を残してしまったことで勝利が確定し、ぎりぎりではあるが食満に勝つ事が出来た竹谷は勝利が決まった瞬間、思わず「よっしゃああああ」とガッツポーズを決めながら叫んでいた。
残った一本を倒そうとジャンプしていた食満は諦めたように「はぁ」と溜め息を吐く。そして「何食いたいか考えておけよ」と携帯を開きながら言った。
それから昼飯に食満が良く行くというお好み焼き屋へ行き、授業へ出る為一緒に大学へと向かう。
食満と竹谷が授業のある研究棟に足を運ぶとちょうど入口から竹谷と同じ学年である三郎と雷蔵と勘右衛門、そして兵助が出てきた。
「あ、ハチ。食満さんも」
手を上げて笑いかけた4人に竹谷も片手を上げて合図をする。食満も「おー」と軽く会釈をしていた。
「一緒に来たの?」
雷蔵のその言葉に「昨日泊まってたから」と食満が返すと4人は「え!ハチん家とか誰も泊まった事無いのに!食満さんずるい」と口々に言い出した。
「…お前らが遠いから嫌だって言うんだろー」
「遠いから行きたくはないけど、何かずるい」
「食満さんのシャツ、ハチのじゃない?」
「あぁ…借りてる。でもこいつのでかいからこれしかなかった」
普段ならば選びそうにも無い黄緑色のシャツを見つめて食満はそう呟く。
「食満さんとハチってそんなに仲良かった?」
兵助の言葉に食満が「最近は割と」と短く返す。
「食満さん3日に1回は来るから」
「そんなには行ってない」
「来てますって」
そう言っては笑いあっている竹谷と食満をじっと見ていた4人は一言「怪しい」と呟いた。
「デキてんの?」
その声には笑いが含まれていた。言ってしまえば単なるからかいだ。けれど、竹谷はその時どう反応するのが正しいのか分からなかった。ただ単にからかいの言葉でも隣りにいる食満の嗜好を知っているから平常心ではいられない。
竹谷が返事出来ずにただ立ち尽くしていると「え、まじでデキてんの?」と更なるツッコミが入る。その時やっと食満が「ばーか」と4人に笑顔で返した。
「何で俺が竹谷とデキなきゃなんねーんだよ」
ケラケラと笑う食満に竹谷は言葉がでない。
「そうっすよね。いや、でも食満さん人気あるんですよ?うちの学年だと一番人気なんで、今週とか飲み会どうっすか?」
「あー俺今週は生理だからパス」
「…これは確実にデキている」
そう言って4人は楽しそうに笑っている。そんな4人に食満は「じゃあ俺ら授業だから。竹谷行くぞー」と笑ってはひらひら手を振って歩きだす。
「竹谷がんばれよー」
そう言って笑う4人に「うっせーよ」と一声かけて竹谷は食満の後を追った。
教室に入るとすぐに教授が教室に入ってきて授業開始のベルが鳴る。来週はテストということもあって、今までにはないくらい生徒の数が多い。竹谷と食満は後ろの出入り口に一番近い席に腰を下ろし、プリントを広げた。板書の間に竹谷がちらりと食満の方を見ると食満は何でもないような顔をしてプリントにシャーペンを走らせている。
先ほどのやり取りは普通だ。ああいった冗談は日常の何処にでも転がっていて、以前の自分も言ったり乗ったりしていた。
でもあの手の冗談を食満はどう思っているのだろうか。
ホワイトボードに書かれた文字よりも竹谷はそればかり気になっていた。
授業も半分が過ぎた頃、ホワイトボードの方ばかり見ている教授の隙をついて食満がそっと腰を上げて教室を出て行く。それに気付いた竹谷も慌ててその後を追った。
教室のある廊下を抜けると渡り廊下に出る。そしてその入口には休憩所のようにベンチが並んでいた。食満はそこに腰を下ろし、ひとりぼんやりと空を見上げている。
「食満さん」
竹谷の声に食満はゆっくりと視線を向けた。そして「ばーか」とだけ告げる。
「え、何で?」
「ん?いや、別に」
「別に何でもないのに馬鹿って言われたんスか?」
「いや、冗談だって」
食満はクスクス笑っていて、食満の隣りへと竹谷は腰を下ろした。
授業中ということもあって、辺りはとても静かだった。風はまだ冷たいが陽射しは暖かい。日溜まりの中で竹谷は先ほどのやり取りをもう一度思い出していた。
「…さっきの」
「ん?」
「さっきの、あーゆー冗談、食満さんはどう思うんですか?」
竹谷は横にいる食満へと視線を向け、じっと見つめた。
「どうって…まぁ、普通だよな」
「普通に応えていたからちょっとびっくりしました」
「いや、それくらい流せないとダメだろ。まぁ、思っている事とは違う事を言えばいいんだから楽っちゃ楽だよ」
食満は楽だと言った。それなのに俯いたその表情には寂しさが覗いている。
「食満さん、俺、今日もバイトなんですけど、泊まりに来ますか?」
「…どうかな」
食満はそう言ってもう一度空を見上げる。
彼が見ている方向へと竹谷も視線を向けてみたが、あまりに眩しさに思わず目を瞑った。
(2011/4/17)