愛しのアルペジオ
※未成年の飲酒の描写がありますが、この話は未成年の飲酒を勧めている訳ではありません。
お酒は20歳になってから!
深夜1時を回ったのを確認して竹谷は「お疲れさまでした」と声を掛けて店を出た。店内はまだ賑わっていて竹谷の声は届いていないが、そこは気にしない。週末の居酒屋の混み具合はまるで戦場なのだから仕方ないのだ。
竹谷のバイト先は若者に人気のあるチェーン店の居酒屋だ。少し洒落た店内と手頃な値段、そしてデザートが充実していることもあって学生からOL等に支持を得ていて週末ともなるとかなり賑わう。また、店の閉店時間が5時と遅いこともあって、週末の集客率は平日と比べると15倍にもなるのだ。
「疲れた」
ぼそりと呟き、竹谷は家路を歩く。居酒屋のバイトだと終電に間に合う筈もなく、竹谷は一駅分の距離をいつも歩いて帰っている。
居酒屋が立ち並んでいる通りは暗く、けれど明るすぎる声で満ちている。酒に酔った青年のはしゃぐ声や、女の子達の笑い声、そしてそんな人達から隠れるように店の影でいちゃつくカップルの声を押し殺したような笑い声まで様々な音が響いている。
信号待ちで足を止めた竹谷がふと視線を向けた先では体を寄せている二つの人影があった。バカップルかとも思ったが、良く見ると二人とも体つきがしっかりしていて、髪も短い。
居酒屋に勤めている竹谷は大抵の事には動じない。修羅場にかち合ったことも何度もあるし、客に絡まれたことだってある。そして店長にそういう店に連れて行かれたことだってあった。けれど男同士の生のラブーシーンに出くわしたのは初めてだった。
(ホモのラブシーンは初めて見るなぁ)
あまり直視するのも悪いと竹谷が視線を逸らそうとした時、前から走ってきた車のライトがその二人を照らした。さっきまで口付けていた二人の顔が、ライトに照らされて闇に浮かび上がる。
「…け、ま、さん?」
「…竹谷」
驚く事にホモのラブシーンをしていた片割れが知り合いだったのだ。竹谷に気付いた食満は顔を青ざめ、震えるような声で竹谷の名を呼んだ。
「え、何、知り合い?」
金髪に近い髪の色をした長身の男が竹谷へと視線を向けながら俯いている食満へと尋ねる。
「知り合いっつーか、大学の後輩」
「へぇ、大学生だったんだ?どうすんの?3人でする?」
食満の黒い髪を撫で、その細い首筋へと唇を落とした男の顔を食満は手で押しのけた。
「しねぇ。つーか、もう帰る」
「あ?こっちをその気にさせてそれはねーだろ」
離れようとした食満の腕を男は掴み、そして捻り上げた。
「痛っ」
「気持ちいいことしようって言ってんだから、大人しくしてろって」
腕を捻りあげられ、そしてそのまま壁へと押さえつけられた食満が縋るように竹谷へと視線を向ける。不安そうに怯えているその瞳に涙が浮かんだように見えた。
「ちょっと止めて下さいよ」
後ろから男の手を止めると、男の意識は竹谷へと向いた。
「あぁ?何だよ。後輩クン」
「人が見てるんで止めた方がいいですよ。見られるのが好きなら止めませんけど」
竹谷は笑みを浮かべ、そして視線を辺りへと向けた。すると遠巻きにこちらの様子を窺っている人達の姿がちらほら見える。彼等は奇異な物を見るかのように視線を向けては「男同士?」「ゲイ?」等と声を潜めて話をしてる。
男は一度舌打ちをして身を引くと、ぎろりと竹谷を睨みつけたが何も言わずそのまま通りの方へと去って行った。
男の姿が闇に消えたのを確かめて竹谷は食満の方へと視線を向ける。
「大丈夫ですか?」
壁に凭れている食満は俯いて顔を上げない。髪で顔が隠れ、表情すら見えなかった。
「先輩の家ってこの近くではなかったですよね?」
「…あ、うん」
「じゃあ、俺ん家来ますか?」
「え?」
食満はそこでようやく顔を上げた。そして竹谷の言葉の真意を測るようにじっと見つめる。
「このまま此処にいたらアイツ戻って来るかも知れませんよ。俺ん家行きましょう」
竹谷は食満へと手を差し出した。すると食満は小さく頷き、手を乗せて来る。
冬ももう終わるというのに彼の手は驚くほど冷たく、そして微かに震えていた。
竹谷の少し後ろを食満は歩く。信号で足を止める時も少し離れたところで立っていた。二人で帰る道はただひたすら静かで、竹谷は自分の後ろを歩いている食満の事を考えていた。
先ほど食満が竹谷を後輩だと言った通り、食満は竹谷の一つ年上の先輩だ。竹谷が今度の春で2年に上がり、食満は3年になる。共通する友人が多い為、学部が違っているのにも関わらずよくつるんで遊んでいて、一週間に一度は会う仲ではあるけれど彼が男も恋愛対象だということを竹谷は今日まで知らずにいた。
ちらりと振り返ると食満は顔を強張らせて足を止め、そして俯く。彼のその仕草はあまりにも痛々しい。普段は肩組んで笑っている筈なのに、まるで知らない人のようにさえ見える。
「食満さん」
竹谷はちょいちょいと手招きをし、食満が隣りに並ぶと「コンビニ入りましょ。俺ん家飲み物無いんです」と告げて近くのコンビニへと入った。
「食満さんはお茶何が好きですか?」
「…緑茶?」
「何で疑問形なんすか。じゃあ緑茶と…ビールは?俺は飲むけど食満さんどうします?」
「…飲む」
「じゃあ4つ買っときましょうか。つまみ適当に選んできて下さいよ」
竹谷の言葉に食満は静かにその場を離れ、次に竹谷の前に来た時はチーチクやするめ、そしてチョコレートを持っていた。
「…チョコレート?」
「新商品出てたから買っていいか?」
「勿論いいっすよ」
二人で並んで会計を済ませ、それからまた並んで歩く。コンビニを出て数分経つと竹谷の住んでいるアパートが見えてきた。
「俺の家、此処です」
新しくも古くもないアパートを見上げ竹谷がそう告げると食満は「あの」と声を出した。
「何ですか?」
階段を上る竹谷の後を食満は追わず、竹谷は踊り場で足を止めた。食満はじっと竹谷を見上げている。
「あの、本当に行ってもいいのか?」
「…いいって言うか、食満さんが来たくないなら別に無理に来いっては言わないですけど、でも始発まで結構時間ありますよ?」
竹谷の言葉に食満は一度時計を見て時間を確かめ、そしてようやく階段を上った。
5階建てアパートの3階の端部屋が竹谷の部屋だった。鍵を開けて竹谷が思ったことは、少しは掃除をするべきだったという事だ。ドアを開けて見えた自室は人を上げるには汚れ過ぎている。
「き、汚いんですけど、どうぞ」
そう言って食満を上げると食満はきょろきょろと辺りを見つつ、部屋の奥へと進んでいく。
仲間内の間では竹谷の部屋が一番大学から遠い。だからこそ誰も泊まりに来た事がなかった。
(まさか一番先に泊まりに来るのが食満さんだとはなぁ)
竹谷はそう思いながらビールを冷蔵庫へと冷やす。そして二つの缶とつまみの入った袋を持って食満がいる部屋へと向かった。
「それ、どかせて座って下さい」
座れずにまだ立ったままの食満へと竹谷は言い、ファイルや教科書が積まれている部分を端へと寄せる。
竹谷の部屋を訪れる人は滅多にいない。友達である三郎や雷蔵の部屋に泊まりに行くことはあっても、彼等が泊まりに来る事はないのだから片付けも疎かになってしまっていた。
「座布団、あった」
教科書に埋もれていた座布団を探し出して食満へと渡すと食満は「ありがとう」と座布団を受け取り、ようやく腰を下ろした。
ビールを食満の前へと置き、自分の分の缶を開ける。
「とりあえず乾杯しましょうか」
「そうだな」
「乾杯!」
缶ビールを軽くぶつけ、竹谷は一気にビールを呷る。
仕事中に何度も生ビールを運んでいて飲みたかったがようやく今口に出来たのだ。
竹谷に取って食満はひとつ年上の先輩以外の何者でもなかった。喧嘩は強いと聞いたことがあるし、彼は常に潮江と言い合いしているから怒らせると怖いんだろうなというのがまず最初に抱いた印象だ。勝負事になるといつでも真剣で、そして後輩には甘い。月に一回のビリヤード大会では同じチームの善法寺が足を引っ張ったとしても常に3位内には入っている。酒はそんなに強くなく、二次会の前にはいつも帰ってしまう。今思うと彼は、付き合いが良さそうに見えて、悪かったような気もした。
ちらりと竹谷が食満へと視線を向けると食満は俯いていた。そして「竹谷」と竹谷を呼ぶ。
「何ですか?」
「…あの、その、皆には言わないでくれないか?」
「言うつもりないですよ」
「え?」
自分で言わないでと言った癖に驚いている食満に竹谷は笑みを浮かべた。
「だって先輩は秘密にしたいから誰にも言って無いんでしょう?だから俺から誰かに言う事はしないっすよ。こういう事は本人から言うに限りますからね」
竹谷の言葉に食満は瞬きをしていた。ぱちぱちと何度も瞬きをして、そしてじっと竹谷を見つめる。
「ありがとう」
「いえ…別に礼を言われることでも無いとは思うんスけど…」
「お前いい奴だな」
食満はようやく心からの笑みを浮かべた。嬉しそうに目を細め、唇が綺麗に弧を描く。顔が整っている彼が微笑するだけでまるで花が咲くようにその場が明るくなった。
「…そうっすか?」
「お調子者だとばかり思っていたけど、いい奴」
「お調子者は余計ですけど普通ですよ」
食満は何が面白いのか楽しそうに声を上げて笑う。
それから暫く二人で缶ビールを飲み続け、つまみが半分無くなった辺りで竹谷は「食満さん」と食満に声を掛けた。
「あの、聞きたい事があって、もし答えたくなかったら答えないんでいいんですが」
「何?」
「食満さんってその、男しかダメなんですか?それとも両方?」
「…俺がそんな器用そうに見えるか?男しか、駄目なんだ」
「…そうっすか…さっきの人、彼氏なんですか?」
竹谷のその質問に食満がビールを吹き出した。
「うわ、汚っ」
「お前が変な事言うからだろ」
食満はごほごほと咽ていて、ティッシュで机の上を拭く。
「変な事は言ってないっすよ、だってキスしてたじゃないですか」
「してたけど付き合ってる訳じゃないよ。そもそも今日会ったばかりだし」
当たり前だと言わんばかりの食満の言葉に今度は竹谷が驚いてビールを吹き出した。
「汚っ」
「いやいや、だって、キスしてましたよね?」
「…してたよ」
「会ったばかりで?え、そんな展開が早いんですか?」
「だって俺らみたいなもんがお前らみたいに一々手順踏んでたら一生誰とも会えないよ。そもそも結婚は出来ないし子供も出来ないから構える必要もないし」
「…いや、そうかも知れないけど…えー」
初めて知るそういう世界に竹谷は頭がぐるぐるしてきた。
「…お前に見られたって思った時、もう大学辞めるしかねーかなって正直思ってた」
自嘲の笑みを浮かべて食満は笑っていた。寂しげなその笑みに竹谷は視線を向ける。
食満の顔はアルコールの為か既に赤く染まっていて、その瞳もいつもよりぼんやりとしていて潤んでいるように見える。学校で見ている食満と今目の前にいる人が同じ人物だとは思えない。
「お前にバラされたらきっと周りにいてくれた人達も居なくなるんだろうなって。だからお前が言わないって言ってくれて嬉しかった。本当に嬉しかったんだ」
食満は静かに缶を揺らし、残っていたビールを飲み干して缶を潰した。そして近くにあったビニール袋へと入れ、竹谷が飲み干した分の缶までビニールへと片付けてくれる。食満はそういう人だった。竹谷なんかよりもずっときちんとしていて、きっと彼の部屋はこんな風に汚れてはいないだろうと竹谷は思う。ゴミだって毎週ちゃんと出しているんだろう。俺よりもきちんとしている彼が、どうして同性愛者だというだけで肩身の狭い思いをしなければならないのかが竹谷は分からない。
「俺は、食満さんの秘密を知れて嬉しかったですよ」
竹谷の言葉に食満は意味が分からないという様な困惑した表情を浮かべた。
「いや、秘密を握りたかったとかそういうんじゃなくて、皆と騒いでいても食満さんの周りだけ薄い膜があるみたいに思ってたんです。何を考えてるのか分かんないところがあって。でも今俺が膜の中に入れているんなら、嬉しいなって」
竹谷は嬉しそうに笑みを浮かべてそう告げたが、食満は顔を顰めて「恥ずかしい奴め」と竹谷の足を蹴った。そしてそのまま横になる。
「食満さん寝るんですか?」
食満は腕で顔を隠していたが、隠れていない耳が赤く染まっていたような気がした。酒の所為かどうかは知らないが、もしかしたら照れさせてしまったのだろうか。
自分の言葉に照れて不貞寝する食満が微笑ましく思えて竹谷はくっくと喉を鳴らして笑ってしまう。するとまた長い脚が飛んできた。
「痛いっすよ」
「笑ってるからだろう」
「だって食満さんも照れたりするんだなーって」
「照れてねー」
がばっと勢いよく起き上がろうとした食満さんの腹にテーブルの淵が当たって食満さんはまた横になった。そして「寝る」とだけ短く告げる。
「あ、寝るならベッドで寝て下さいよ」
「…お前が家主じゃん。お前が使えよ」
「俺ちょっとレポートやらないといけないんで、食満さんが寝ていいっすよ」
食満さんの顔を竹谷が覗きこむと「ん」と短い返事が聞こえてきた。その割には体が動かない。
「食満さーん、聞こえてますかー?」
「んー」
「んーじゃないですよ。風邪引きますよって」
ぐいっと腕を引くと食満はようやく目を開けた。つり目の瞳が眠たげに細められている。目元はアルコールの所為で赤く腫れていた。
「ほら」
食満の腕を掴んで立たせると食満はのろのろとした動きでベッドへと倒れ込んだ。そしてもそもそとした動きで布団へと潜り込んでいく。
食満が横になってしまうと部屋は静まり返り、窓の向こうから聞こえて来る救急車の音が室内でも響く。
「竹谷、ほんとにありがとうな」
消え入りそうな声で食満はもう一度そう告げ、どう返せばいいか分からなかった竹谷は「おやすみなさい」とだけ返した。
暫くすると規則正しい寝息が聞こえ始める。自分の部屋で食満が無防備に寝ている。まさかこんな日が来るなんて思ってもみなかった竹谷は「慣れないな」なんて言いながら机の上を適当に片してパソコンの電源を入れる。
食満が眠りやすいようにと電気を消した部屋でパソコンのディスプレイだけがぼんやりと発光して眩しかった。
(2011/4/15)