雨に香る恋の花





夏の終わりの夕暮れになると思い出す声がある。
大人に近づいた、けれど幾らか幼いその声は不意に蘇っては留三郎の足を止める。

「好きです」

いつもの声だと分かっているのに、留三郎はやはり足を止めて振り向いた。けれどそこにあるのはただの夕暮れの赤が漂うばかりで誰の姿もない。
誰もいないことは知っていた。
けれど、誰かにいて欲しいとずっと思っていた。
そして、そんな自分の甘さが留三郎はずっと嫌いだった。

(くそう)

留三郎は心の中でそう呟くと前を向いて走り始める。
今は任務中で他の事に気を取られている場合ではない。それでもあの声が聞こえてくると留三郎はやはりまた足を止めてしまうだろう。そんな自分を理解しているからこそ、留三郎はぎりりと奥歯を噛みしめて森の中を駆け抜けた。

声の主の姿はまだ覚えている。
後輩のくせに身長が高く、ぼさぼさな髪を気にも留めず、いつもまっすぐな視線を向けてきた。
学園にいたのは随分と昔のことだ。けれど自分のことを好きだと告げてきた後輩、竹谷八左ヱ門のことを留三郎は未だ忘れられないでいた。



*:*:*



竹谷が初めて留三郎へ想いを伝えてきたのは留三郎が5年の頃だった。
夏の夕暮れに井戸で顔を洗っていた留三郎へ声を掛けてきた竹谷は、夕日と同じくらいに顔を真っ赤にしながら思いを告げてきたのだ。しどろもどろに繰り出される言葉たちはどれも幼く、彼が一生懸命伝えようとしているのが分かる。けれど留三郎は竹谷のその告白を断った。「何故」と聞かれると、留三郎は丁寧に理由を説明してさえ見せた。
でも、それらは全部嘘だった。
そしてそれを竹谷は知らない。

竹谷に想いを告げられる3日前、留三郎の元に父から文が届いていた。
その手紙には学校を卒業すると結婚するようにとだけ書かれており、相手は同じ郷に住む一つ年上の女性で留三郎はその人をよく知っていた。休みで郷に帰る度に楽しげに土産話に耳を傾け、よく留三郎の家に差し入れを持ってきてくれる。穏やかだけれど芯のしっかりとした、結婚相手には十分すぎる相手だ。それなのに留三郎の心に広がったのは悲しさだけだった。

体格が良く、年下である筈なのに既に背を抜かれていた。感謝の言葉は必ず大きな声で伝えるし、甘いものが好きだと知られてからはたまに土産を買ってきてくれたりする。武闘は雑さが目立つものの、これから伸びるだろうというのが留三郎には見えていて、そしてその伸びしろの大きさが羨ましかったりもした。
何より、話していると自分の心が無意識に弾んでいた。
そんな相手に心を傾けていただけに唐突に届いたその文の内容は留三郎の心の自由を奪うようなものだった。

手紙を受け取ってからその日で承諾の返事を送ったが、心は未だそれらを呑み込めないでいた。想いを伝えようと思ったことはなかったが、それでも殺さなければならないと思うと想像以上に辛かったのだ。
そして留三郎が諦めかけようとしているその時、皮肉にも竹谷の方から告白してきた。
もう少し早ければ、と何度思ったことだろう。せめて1週間、いや、3日。それだけ早くしてくれれば、恋人の真似事を1日でも出来たかもしれないのにと強く思った。
そしてそこまで考えて首を横に振る。竹谷は何も知らないのだから悪くはない。悪いのは断られるのが怖くて動けなかった自分なのだと自分を責めた。
けれどこういう事になると知っていたとしても留三郎はきっと自分からは動けなかった。恋仲として一度でも過ごしてしまえば尚更失うのが辛いだろうことは目に見えている。
どう考えても、結果的に留三郎は竹谷と一緒にはなれなかった。

全てはもう諦めなければならないのだからと心を決めようとする留三郎をよそに、竹谷は諦めようとはしなかった。何度も何度も想いをぶつけてきては、説得しようとする。どれだけ惨めに見えようとも竹谷は留三郎を諦めなかった。
それを嬉しいと思う留三郎もまた、竹谷を諦められないでいた。
そしてこのままではだめだ、と考えていた留三郎は不意にあることを思いつく。
それは竹谷に条件を出すことだった。
条件を出して相手が諦めればそれはそれで一つの結果だ。そして相手がその条件を越えてきたら「仕方ない」と留三郎は自分の心と葛藤せずに居られる。 どう考えてもそれは留三郎にとって都合のいいものであったが、その条件を竹谷は呑んだ。

その日から竹谷との追いかけごっこが始まった。
授業の合間、休みの合間に互いに本気でぶつかり合った。勘の悪い竹谷も、さすがに長いこと留三郎を追いかけるうちに武闘が様になってくるようになり、留三郎はそれが嬉しかった。 自分とこんな風にしていることで、彼が強くなるとしたらそれはきっと彼を守る。そう思うと彼が上達していく事がとても嬉しかったのだ。
長い長い追いかけごっこは留三郎が6年になっても続き、そして冬が終わり、春が近づく日に留三郎が敗北するという形で終わりを告げた。
落とし穴があることは知っていた。自ら彼の罠にかかった。そんな浅ましい自分自身に嫌気が差したが、それでも何も知らない竹谷は好きだと言ってくれる。

一度だけだからと心に決めて、留三郎は想い人である竹谷に抱かれたのだ。

竹谷は何度も求めてきたし、留三郎がもうやめろと言っても聞かなかった。本当はやめてほしくなんてなかったのだからどこまでも自分はずるい。
竹谷には余裕がなく、だからこそがむしゃらに求められている気がして嬉しくて、多少乱暴な行動にも目を瞑れた。
そして気を失う寸前、このまま死んでしまいたいなんて愚かなことを留三郎は本気で思った。


朝が来れば、もう終わりなんだと留三郎は知っていた。
もうこんな風に体を重ねることもないし、心すら寄せ合えない。こういう風に仕向けたのは自分だったので父も誰も恨めなかった。
その日から卒業までの間、留三郎は竹谷の名前を一度も呼べなかったし、竹谷に名を呼んでもらえることもなく、そのまま留三郎は学園を去った。
そしてその春、郷に戻った留三郎は父の決めた相手と結婚した。

仕事は郷から近い城に決まり、結婚生活は順調だった。 結婚相手はとても優しい人で仕事で長い間留守にすることに文句も言わずに帰ってくるととても盛大に迎えてくれるが、幸せなのだと思い込もうとするときに限ってあの夜が脳裏を過っては忘れさせてくれなかった。
留三郎は自分が竹谷を思い出すことが裏切りなのだと思っていて、竹谷のことを思い出すたびに償うように簪や帯、小物などを彼女へと買って贈った。けれど償いで贈ったはずのもので彼女が身を飾れば飾るほどにますます竹谷を思い起こしてしまうのだからもうどうしようもなかった。
どう足掻いても留三郎は竹谷の影から、あの夜から逃れられないでいたのだ。


結婚してから2年目。冬のよく晴れた夜だった。
留三郎が仕事で留守にしている間、村で大きな火事が起こった。留三郎が駆け付けた時には既に遅く、ほとんどの家が焼け落ちて妻である人も命を落とした。 灰へと消えてしまった家を呆然と見つめていたら、隣の家の人が留三郎へと真実を告げた。
逃げようと思えば逃げることが出来た筈なのに彼女は留三郎から贈られた品々を取りに戻り、そして帰らぬ人となったのだ。
その話を聞いて留三郎は目の前が真っ黒になった。
自分の竹谷への想いが彼女を殺してしまったのだとしか思えず、村の人や父、そして上司らにどんなに再婚を勧められても留三郎は首を縦には振らなかった。
周りからは亡くなった妻を思い続ける心優しき若い夫、として映っているようでその認識の違いがまた留三郎を苦しめた。
そして留三郎は仕事に熱を入れ、だんだんと郷に戻らないようになり、仕事から仕事までの短い期間に妻であった人の墓を訪ねては花を添え、そしてまた仕事へと戻る。そんな日々を繰り返していた。

留三郎にとって、苦渋の選択をしたのはその先に守らなければならない人がいたからだ。
けれどその人が亡くなり、ひとりになってしまった今、思い起こすのは学園で過ごしてきた日々だった。
たった数年で失うのであれば、はじめから竹谷を選んでいればよかったのではないか。
そうしていれば彼女は自分ではない誰かと結ばれて、あの若さで死ぬことはなかったのではないか。
後悔とよく似た悔しさと諦めが何度も留三郎の中をよぎる。
そんなことばかり考えている間に幾年が通り過ぎていた。そして未だ留三郎は独り身だった。





(仕事だというのに、思考がまるで駄目だ)

今日だけで竹谷の声に3度足を止めた。
いつもより回数が多いのは、思考がそれに囚われているからだと留三郎は知っている。
特に今夜はいつもよりも酷く、竹谷の面影とあの日々が陽炎のようにちらついて消えないでいた。
今回の任務は同盟国である城の忍者が任務に失敗したらしく、まだ生きている者たちを助け出すことである。自分の城ではなく、同盟国の忍びだからいつも以上に気を張らなければならないのにこの様だ。
留三郎は自分自身に舌打ちをし、そしてもう一度走り出す。

日は既に落ち、森の中は暗い闇に覆われているが、風が吹くとどこからか懐かしい香りがした。
雨が降ってきて尚強く香るその匂いに誘われるように留三郎は足を止める。

(これは、何の香りだ)

足を止めた留三郎は目的地を変え、香りが強くなる場所を探した。
香りが強くなっていくにつれ、黄色い花が幾つも足元に咲き乱れていく。

(これは、伊作がよく摘んできていた薬草、)

懐かしい香りの正体に気付き、留三郎はふと足を止めて花を一輪摘んだ。くるくると指先で回すとより一層花は匂いを振りまく。懐かしさに涙さえ零れ落ちそうになったが、留三郎の左手前にある木の陰から不意に物音が聞こえ、すぐに意識は其方へと向かう。
先ほどの留三郎のように花を手折るその音に留三郎は木の陰にいる者が同盟国の忍びなのだろうかと、花を捨てて歩み寄った。


その木の陰にいるのが未だ断ち切れずに恋い焦がれる相手だということを、この時の留三郎はまだ知らない。



(おわり)







(2011/10/10)

あとがき

「黄色い花と、香りにかけた幼稚な呪い」の留三郎視点です。
このお話はここで終わりで続きはありません!!!
というのも、再会を果たす二人がどんな風になるのかを妄想して頂くのが一番なのかもしれないと思ったので…。
すっごくお待たせしたんですが、楽しんで頂ければ幸いです^^