夕立、雨宿り





厠から長屋に戻る時に見上げた空は快晴で、薄い水色が広がっていた。風は相変わらず冷たかったが、陽が射しているから昨日と比べると随分と暖かい。
天気が良いからか、休日なのに長屋は静まり返っている。確かに町へ行くにも鍛錬をするにもいい日和である。手を擦り合わせながら廊下を歩いていると、突然襖が開き、にょきと仙蔵が顔を出した。

「留三郎、丁度いいところに来た」

仙蔵は薄い笑みを浮かべながら俺の腕を引く。

「何だよ、何か用なのか?」

別段することがなく、暇を持て余していた俺は仙蔵に腕を引かれるまま部屋へと素直に足を踏み入れた。そこには女装の時に使う女物の着物が広げられており、香まで焚かれている。着物を干すにしても、確かにいい日和だろう。仙蔵の物だと思われるその着物の傍らで俺は足を止めた。

「留三郎、頼みがある。これを届けてくれないか」

仙蔵が懐から出したのは手紙だった。

「何処へだ?」
「町をひとつ越えた向こうに昨年建てられた新しい寺があるだろう、其処だ」
「別にいいが、お前は行かないのか?」

俺は手紙を受け取り、ふと思い浮かんだ疑問を仙蔵へとぶつけた。

「実は学園長からのお使いだったんだが急に予定が入ってしまってな。学園長には誰か代わりの者を寄越せばいいと言われているから、お前に頼みたいんだが」
「それで丁度いいところ、か」
「そうだ」

仙蔵は悪びれもなくそう言い切った。

「まぁ、俺も退屈していたところだし、構わないさ」
「恩に着る。あ、そうだ、これ」

仙蔵は机の上に置かれていた包みを拾い上げ、俺の手の平の上に置いた。白い包み紙を開くとそれは焼き菓子が数枚重ねられている。

「今回のお使いの御駄賃だそうだ」
「俺が貰っていいのか?」
「行くのはお前だろう」

仙蔵は「仕舞えよ」と俺の手の平を軽く押し、俺は頷いてそれも懐へと仕舞う。まだ四つ半なので日も高い。今すぐに出れば日が沈む前に戻ることができるだろう。

「じゃあ、行ってくるよ」

仙蔵に背を向け、部屋を出ようとした俺の腕を仙蔵がまたも引いた。

「何処行くんだ、留三郎」
「何処にって…すぐにでも発とうかと」
「その前に準備があるだろう」
「準備?着替えのことか?」
「そうだ。ほれ、折角用意したんだ。これを着ていけ」

仙蔵が指差したのは広げられている女物の着物だった。

「何で、女物を」
「言い忘れていたが、手紙を届ける際に女装することが条件だ」
「手紙を届けるだけだろう?何故一々女装しなきゃ…」
「仕方ないだろう。そういう条件なのだからな。ほら、さっさと服を脱げ」
「ちょ、やっぱり」

仙蔵は俺の言葉を最後まで聞いてはくれず、「男に二言は無いであろう」と勝手に帯に手を掛けた。


*:*:*


忍術学園内で仙蔵ほど綺麗に女装出来る奴はいない。それは仙蔵程、女装の出来に拘る奴が未だに現れないからであろう。

「留三郎、動くな」

少し瞼を動かしただけですぐに動きを静止させるための言葉が飛んできて、指一本も自分の意志では動かすことは出来ない。まだ出発する準備を終えただけだというのにそれだけでどっと疲れてしまった。仙蔵の「よしっ」の言葉と共に身体の力を抜くと背筋を叩かれる。

「いい女がそんな姿勢では勿体ないぞ」
「…はいはい」

まともに取り合う気にもなれず、そう流していると「仙蔵、留くんそこにいる?」という声が襖越しに聞こえてきた。

「ああ、いるぞ」
「ちょっと開けるよ?留くーん」

襖を開けて顔を出したのは伊作で、伊作は俺を見るなり目を見開いたまま固まってしまった。

「伊作?何変な顔してんだよ」
「いや、だって、留くんが…」
「美しいだろう?」

仙蔵は勝ち誇るようにそう言い、その仙蔵の言葉に伊作は勢いよく首を縦に振った。

「どうしたの、いつもの授業の時とは全然違うよ、留くん」

薄紅色に白等の小花が散っている着物と、同系色で纏められた帯やらに手に触れた伊作は「留さんいつも藤色だとか翡翠色とか選ぶけど、こういう色も似合うんだねぇ」と笑う。

「そんなに変わるか?」

伊作が「綺麗だよ」と褒めてくれても鏡を見ていないので自分ではどんな姿に仕上がっているかが分からない。仙蔵が鏡を手渡してくれたが、それを覗きこむと伊作が驚くのもよくわかった。髪は元より、化粧まで丁寧に仕上げられており、普段の女装とは全く別物の顔になっていたのだ。

「私の手に掛かればこれくらいお手の物さ」

驚いて声も出ない俺の様子を見た仙蔵は、随分と満足したようである。

「手紙を届けるのはただの女装ではいけないのだ。美しさ、それも条件だ」
「…本当に変なお使いだなぁ」
「まぁな。この寺に手紙を届ける役割は去年からずっと私がしていたんだが、今度からは留三郎でもよいかもしれんな」
「文次郎とかにしろよ、同室なんだし」
「あやつの女装に美しさの欠片でもあると思うのか?」

急に鋭い眼光で俺を睨みつけてきた仙蔵の迫力に反射で「すみません」と答えてから、机の上に置いていた手紙を帯へと仕舞った。

「では、もう発つけどいいな?」

振りかえり仙蔵へとそう問うと、仙蔵は黙って頷く。

「伊作、そこの焼き菓子を部屋に持っていっておいてくれないか?あと、食べていいからな」
「分かったよ」

伊作は焼き菓子の包みを手に取り、俺の隣りへと並んだ。

「一緒に行きたいけど、僕もやらなきゃいけないことあるから」
「別に一人でも構わないさ」
「そう?気をつけてね?」
「おう」

俺は頷き、伊作と別れて門の方へと歩き出す。門の前にいた小松田さんがやたらと驚いていたし、たまたま門前にいた綾部も「おやまぁ」と珍しく近寄って来た。

「作法委員に入りませんか?」
「俺は用具委員長だ」
「おやまぁ」

綾部はそれだけ言うと、また黙々と穴を掘りはじめる。門前だと学園外の人が来訪した時に落ちる可能性があるから危険だと綾部に言ってみたが、聞いてるのか聞いていないのか、返事は返ってこなかった。


*:*:*


お使いの内容は簡単なものだ。ただし、気は乗らない。

「女装するよりは、くの一に頼んだ方がいいのではないか」と、着付けの時に仙蔵に聞いてみると、くの一だとダメなのだと返ってきた。その寺は女人禁制であり、本当の女では入る事は出来ない。しかし女装なら大丈夫だというのだ。

「要するに目の保養だ。まだ線の細い男子に女物の着物を着せて喜ぶ、そういう嗜好の奴らがわんさかいる寺なんだよ」

仙蔵の言葉に思わず「げぇ」と漏らすと仙蔵は耳元に口を近づけた。

「留三郎、隙を見せるなよ?隙あらば何されるか分かったもんではないぞ?尻撫でられても毅然とした態度を取らねば手を出されるぞ」
「…何でそんな場所へ行かなきゃいけないんだよ」
「仕方ないだろう、そこのお坊さんの一人が学園長の古くからの友人らしいからな」

その言葉に俺はぐうと黙り込むしかなかったのだ。


「遠いところからわざわざすまなかったね」

目の前の和尚は人の良さそうな笑みを浮かべて茶や菓子を勧める。今回は仙蔵の都合が悪く、代わりに来たことを告げると襖の向こうの廊下でひそひそと声を潜めて会話する声が聞こえてきた。品定めされているようで良い気はしない。廊下へと視線を向けていると、和尚は「すまないね」と俺へ声を掛け、廊下にいる人に向かって「騒がしいぞ、客人に失礼であろう」と厳しい口調で告げた。水を打ったように静かになった廊下では、足音ひとつも聞えなかったから立ち去った訳ではないのだろう。

「ここは女人禁制の寺でな、居るのはむさ苦しい男ばかりなのだよ。町へ降りることもないから女人を見ることすらなくての、わしはそれでも良いが、さすがに若い者にはきつかろうと思って、時々学園長に頼んで女装が上手な子に手紙を持ってくるように頼んであるのだが、そういう事情は知っていたかの?」

仙蔵が言っていた通りの事を説明され、その問に頷くと和尚は「知っておったか、それならよかった」と安堵の笑みを浮かべていた。

「しかし、仙子も美しかったが、そなたも十分引けを取らぬ美しさよの」
「いいえ。お…私なんかは、仙子の足元にも及びません」
「ほほっ、その控えめな態度は仙子とは全く違うの」

和尚は暫く笑っていたが、寺内を案内させようとまだ若い坊主を呼んだ。俺より三つばかり年上らしい坊主がちらりと俺を盗み見たその目に浮かんだ色は同性に向ける類のものではなかった。


*:*:*


行きの道より早足で山を降りる。時刻はもう七つ頃で、陽はかなり低い位置に降りていた。風が耳元を吹き抜けた時、帰り際にあの若い坊主に耳元で囁かれた声を思い出して鳥肌が立つ。行儀よく綺麗に掛けられていた耳元の髪を少し乱暴に掻き、更に足を早める。すぐにでも学園に戻ろうかと思っていたが、疲れているのか無性に甘味を口にしたくなり、行きの時に見かけた団子屋にでも入ろうと急ぐと、団子屋の店先の席に見知った人物の姿があった。

(…竹谷だ)

そこに居たのは五年の竹谷八左エ門だった。一人で来ているのか、他に見知った人物の姿はない。声を掛けようか、そう迷っている時に竹谷の視線が此方に向いた。気付いてくれたならすぐに挨拶をするつもりだった。そして先程の寺での愚痴を言ってしまいたいと思っていた。けれど竹谷の反応は、俺の予想外のものだった。俺を視界に収めた竹谷の頬は赤くなり、団子を食べる動きも止まったのだ。じぃっと凝視され、不審に思って首を傾げると今度はぱっと視線を逸らされる。

(そういえば、俺、女装してたんだっけ)

目の前の竹谷の反応は上級生を見つけたというよりは、単に若い娘に身惚れている男の反応だった。いつもの手抜きの化粧でもないから竹谷が俺だと気付かないのも仕方ない。目の前の竹谷は一度逸らした視線をまた此方へと向けていた。

「御一緒して宜しいでしょうか?」

仙蔵にきつく言われた通り、声色まで変えて竹谷に話しかけると竹谷はきょろきょろと挙動不審な動きをする。俺が誰に声を掛けたのか確認しているのだろう。しかし生憎、腰を下ろしているのは竹谷だけであった。

「あ、はい、どうぞ」

さっと身を横へ滑らし、出入り口に近い場所をあけてくれた竹谷の傍へと腰を下ろし、竹谷の方を振り向いて微笑めば、その頬はまた一層朱を帯びた。

(面白い…)

俺の小さな動作一つにも頬を染める竹谷が何故か好印象に映り、男であり、先輩であることを隠してみようと思い至る。店の主人に団子を頼み、手持無沙汰で手に息を吹きかけていると「どうぞ」と竹谷が湯呑みを渡してくれた。そういえば、竹谷は気が利く方であったか。

「有難う御座います」
「いえ、冷えますからね」

湯呑みの茶からは白い湯気がのぼる。その暖かな湯気に顔を近づけて冷めるのを待っていると、「あの、」と竹谷が話しかけてきた。

「名前は、何と仰るんでしょうか、」
「留子です」
「留子さん、俺は、竹谷八左エ門と言います」
「竹谷さん」
「八左エ門でいいですよ、あ、団子が来ました」

竹谷が言うとおり、団子の乗った皿が竹谷と俺の間に置かれた。

「お一人ですか?」

竹谷の質問へ頷き、団子へと手を伸ばす。竹谷は俺が取りやすいように、と棒の方を俺へと向けてくれた。気を使われることに慣れていないので、少々驚いたが、思い返せば竹谷はこんな奴だった。虫籠を壊して修理を頼む時もいつも菓子やらを一緒に持ってくるような奴だ。
団子を食べる間に竹谷は幾つかの話を振ってきた。今年の冬は例年より暖かいということや、彼の飼っているペットの話など他愛のないものばかりではあったが、彼が好青年であるということは話の節々やその人懐こい笑顔から感じ取れる。女相手に分かりやすく、優しげに話せる男という点で言えば、竹谷は女に不自由しないタイプなのだろう。

「留子さんはどちらまで行かれるんですか?」
「山を下りて町まで」
「この山を一人で下りるんですか?」
「そうですが?」

すると竹谷は、ここら辺りは陽が沈むと野犬がうろつき危険だと身を案じてくれ、一緒に山を下りますよとまで言い出してくれた。

「俺も丁度山を下りるんです。町までご一緒しましょう」
「御迷惑では?」
「迷惑なんてとんでもない」

竹谷は頬を染めながらも真っすぐ目を見てそんなことを言うのだ。その頬の赤に、何故かこっちまでも恥ずかしくなってくる。竹谷のように真っすぐ目を見ることが出来ず、俯いて頷くと竹谷は店内に向かって「勘定」と声を掛けた。

「俺が出しますよ」

そう言って聞かない竹谷に俺も折れたくはなく、受け取って貰おうと金を取り出そうとすると空を見上げていた竹谷が「夕立が来ます。早く山を下りなければ」と告げた。つられて空を見上げると、確かに北の方の雲が分厚く、暗かった。これは半刻もしないうちに一度は降りだしてしまうだろう。

「行きましょう」

そう言った竹谷に頷いて、団子屋を後にする。受け取って貰えなかった金は、後で学園に戻ってから返せばいいかと考えながら歩いていると、竹谷が「結構歩くの早いですね」と笑いかけてきた。

「雨、降られたくないですし」
「そうですね。少し急ぎましょうか」

木々は北風に強く吹かれ、ざわめいている。もうすぐ雨が降ることを知っているのか、土はもう既に湿り始めているように感じた。ふと、唇に雨が一粒落ち、足を止めて空を見上げると気付いた竹谷も足を止めた。

「雨が、」
「…降ってきましたね」

一粒落ちた途端に大きな雨粒が幾つも降りそそいでくる。着物を汚したら仙蔵が五月蠅そうだな、と考えていると急に竹谷に手を取られた。

「あそこに小さな小屋があります、走りましょう」

竹谷に手を引かれ、山道の傍にあった小屋の軒下へと二人逃れると竹谷は手拭を取りだして俺の手へと乗せて微笑んだ。

「使って下さい」
「…あ、有難う御座います」

竹谷に手渡された手拭で髪や着物に落ちた雨粒を払う。雨粒は大きく、勢いよく降り注ぐ。先程までは風の音や、木々がその葉を揺らす音、まだ冬眠していない動物の声と騒々しかったが、今では雨の音しか耳に届かない。まるで、閉じ込められてしまったようだな、と思いながら視線を竹谷の方へと投げると、竹谷も此方を見ていた。


*:*:*


「留子さんには、恋人はいらっしゃいますか?」

沈黙を破った唐突の質問に一瞬言葉が詰まった。目を開いたまま竹谷を見ていると竹谷は「あ、いますよね、こんなに綺麗だから当たり前か」と早合点している。

「い、いないです」
「え、嘘」
「どうして嘘だと?嘘なんて吐きません、本当ですよ」
「だって、こんなに綺麗なのに」

竹谷の目元は優しく細められて、その視線に耐えられず俯く。雨の音は未だ止まず、視界の端で雨に打たれる葉が揺れていた。

「髪、綺麗ですね。ほら、俺のはぼさぼさなんです。羨ましいな」
「…さっきから、徒事が過ぎるんじゃないんです?」
「俺が留子さんをからかってるとでも?」
「そうでしょ?冗談ばかり」
「まさか、俺は冗談とか上手く言えない性質なんです」
「なら、口説いてるとでも言うんですか?」
「はい」

そうきっぱりと言い切られてしまえば此方は二の句が継げない。

「俺、きっと大事にしてみせますよ。俺じゃだめですか?」
「なっ、だめだとかそういうのではなくて、」
「俺みたいな男は嫌いですか?」

竹谷は身体ごと此方を向いて、俺の右手を取った。雨で気温が下がったせいか、団子屋に居た時より随分と冷えた手を竹谷が強く握る。俺の手とは違い、熱いと思うほど暖かい手に、指先からじんじんと痺れていく。どうしてこういう展開になってしまったのか。そもそも竹谷は初対面の女をこうも簡単に口説くのか。色々と整理がつかず、思考回路は完全に止まっていた。言葉を紡げずに視線を竹谷の方へと向けると竹谷と視線がぶつかる。「嫌いだ」と言えば、すぐに手を離してくれるだろうということは分かったが、どうしてもその単語を口に出来なかったのだ。

「き、嫌いではない」
「じゃあ付き合って下さい」
「……」
「頷くだけで、いいですから」

竹谷のその声は何とも切なげで、苦しげだった。こんな声を竹谷が出せるとは思えない程で、耳にはいりこんだその声は、どんどん思考を溶かしていく。

「お願いします」

その声に、竹谷は今に泣きだすのではないかと思った。そしてその声は、完全に俺の思考を止めてしまい、無意識で俺は頷いてしまっていた。目の前の竹谷の表情は、みるみる明るいものへと変わる。近づいて来る顔に思い切り目を瞑ると、唇ではなく額に柔らかいものが触れた。それが竹谷の唇だということは見なくても分かっていた。薄ら瞼を上げると、目の前で竹谷が微笑みかける。その笑みを見つめていると、先程よりも素早く顔が近づいて、今度は唇に触れた。触れるだけですぐに離れていた唇に、驚いてまた竹谷の顔を凝視する。竹谷の唇には俺の唇に塗られている紅が移っていた。その紅が本当に口を吸われたという実感を嫌でも湧かせ、頬が熱くなる。

「…紅が付いている」

そっと空いていた手で竹谷の口元へと手を伸ばし、指で拭おうとするとその手も捕らえられ、今度は指へと唇を落とされた。冷えた手に、竹谷の熱い唇の温度が伝わってくる。そこからまるで溶かされてしまいそうだと思った。

「…食満先輩、好きです」

ざああという心地よいような雨音の中、竹谷の言葉が耳に響く。その言葉の意味を考えている時、不意に違和感を感じた。

「…ん?食満、先輩?」

違和感に思ったことを口に出すと、目の前の竹谷の顔が真っ青になり、さっきまで握りしめられていた手を唐突に離された。

「竹谷、もしかして…もしかしなくても…俺だって気付いてたのか?」

真っ青な顔になった竹谷はその場に蹲り、返事をせずに「…あああああああ」と呻く。

「ああああじゃねぇよ、気付いてたのかって聞いてんだよ」
「…気付きますよ。俺を何だと思ってんですか」
「…だからって、こんなからかい方があるかよ」

後輩に翻弄され、挙句に口まで吸われたとなれば上級生として恥以外の何物でもない。今度は俺が「あああああ」と呻く番だった。

「からかってなんかないです」

その竹谷の声が真剣な色で、思わず竹谷へと視線を移すと竹谷は苦笑しながら「さっきも言ったじゃないです、俺、冗談なんてうまく言えないんです」と呟く。

「じゃあ、どうして…」
「先輩が余りにも無防備だから、のこのこ男に着いてったらどうなるか警告しようと思ったんです」
「…警告ったってなぁ」
「分かっています。さすがにやり過ぎました。ここまでするつもりは本当になかったんです。先輩から甘い匂いするから誘われてしまって……これじゃあただの言い訳ですね。でも、もう覚悟決めました」

竹谷はそう言い終わるや否や、立ち上り先程と同じように真っすぐな瞳で俺を見る。

「冗談ではなかったにしろ、騙すような形で、その、口まで吸ってしまったんです、先輩がしたいようにしてください」

そう言い、竹谷は直角の角度で頭を下げた。その肩は少し震えているように思う。その震えの原因は寒さ等ではないのだろう。

「殴られる覚悟が出来ているってことか」
「はいっ」
「男に二言はねぇな?」
「…はいっ」
「…なら、顔を上げろよ」
「…へ?」

その声があまりにも間抜けで、思わず笑いが込み上げる。先程までの真剣で、こっちの胸まで掻き乱すような声を出していた癖に、今はぽかんと口を開けた間抜けな顔で立っているのだ。

「え、どうして、だって、」

動揺を隠せないのか、竹谷は心臓辺りの服をぎゅっと握りしめている。

「男に二言はねぇんだろ?」
「は、はい」
「俺も男だ、二言はねぇよ」
「え…」
「…恋仲なら口を吸うくらい、普通だろ」
「…え、え?もしかして、本当に俺と付き合って…くれるんですか?」

弱々しい声で、俺の顔色を窺うようにそう尋ねてきた竹谷に「おう、何だよ、嫌なのか?」と尋ねると、物凄い勢いで首を横に振られた。雨水が飛んできて顔を顰めるとすぐに「すみません」と頭を下げられる。先程までの堂々としていた姿は夢か幻だったのかと思うほど、目の前の竹谷はいつもの竹谷だった。

「…雨が上ってるな」

ふと視線を空に上げてそう呟くと、「あ、本当ですね。いつの間に」と同じく空を見上げた。

「帰るか」

軒下を出て歩き出そうとすると、後ろから腕を引かれる。振り向くと、頬を染めた竹谷がちらりと俺を見た。

「どうしたんだよ」
「…あの、その、もう一度」

その後の言葉はごにょごにょと小さく聞えなかった。しかし竹谷が言いたいことはちゃんと伝わり、俺は足を止めて竹谷に向き合う。気恥ずかしいのか、緊張しているのか、顔へと添えられた手はとても鈍い。俺は素早く竹谷の襟を掴んで引き寄せ、バランスを崩して目を見開いた竹谷の唇へ自分のそれを落とすとすぐに手を離す。

「せ、先輩?!」
「やられるばっかは性に合わないんだよ。ほら、帰るぞ」

まだ棒の様に突っ立っている竹谷を置き去りにして歩き出すと後ろから「待って下さい」と竹谷が駆け寄って来て、隣に並ぶと「あの、」と口籠り、「好きです」と告げる。

「さっき聞いた」
「本当に好きです」
「だから聞いたって」
「じゃあ、先輩は?」
「……」
「俺は先輩好きだからいいんですけど、もし無理しているなら、」

竹谷はその後もごにょごにょと、何か言いたげだったけれど睨んだらすぐに大人しくなった。俺の気持ちが分からず、不安なのだろうか。
すっかり悄気てしまった竹谷に、溜め息をひとつ吐いてから口を開いた。

「…俺さ、今日学園長の使いで出てたんだけどさ」
「…はい」
「男ばっかりの寺に女装して行ったんだけど」
「えぇ?!それで、何かされたんじゃ」

急に大声を出し、顔色を変えて狼狽えた竹谷の頭を軽く叩き、「だから聞けって」と言うと竹谷は小さい声で「す、すんません」と謝る。

「…で、俺より三つくらい上の男に尻触られたり、何か言われたりした時は気持ち悪くて吐きそうになったけど、お前は平気だったし、嫌じゃなかった。そうじゃなきゃ自分からはやんねーよ」
「え、それって、先輩も、俺のこと、」
「さぁ、そこまでは分かんないけど」
「えぇー?!分かんないって、そんな、俺は本当に」
「…お前の頑張り次第だろ」
「…頑張り次第、」
「俺を惚れさせてみせろよ」

竹谷の顔を見てにやりと笑うと、竹谷の顔が今日見た中で一番赤く染まった。顔や耳だけでなく、首までもが赤くなっている。

「俺、頑張ります」

竹谷は顔を真っ赤にしながらも、真っすぐに俺の目を見て力強くそう告げる。その瞳は、結構くるものがあるということは竹谷には告げなかった。
道の傍に町が近づいた事を知らせる案内板が立っているのが視界に入る。町に出たら学園まではすぐだ。

「ほら、帰るぞ」

俺はまた竹谷を置き去りにして歩き出し、すぐ後ろから先程と同じように「待って下さいよー」と情けない竹谷の声が聞こえる。隣に並んだ竹谷は、俺の顔を覗きこみながら、「で、その寺は何処にあるんですか?その坊主殴ってきます!」と続けた。



(2010/01/07)