"アイ"のある部屋にて








三郎とはそれっきり、というわけではなかった。かといって付き合っているのかと聞かれればそうでもない。セフレというには会話が無さ過ぎて、あれから何度も体を重ねたというのに留三郎は三郎の事がよく分からなかった。
どうしてこうなったのかを考えるだけ無駄だと分かっているので留三郎は最早考えようともしない。考えたところで慰めにもならなかったのだから仕方なかった。
学校で見る三郎は良く喋っておどけるが、目の奥が冷めているような、そんな男だ。けれど留三郎と二人になると三郎はそのポーズすらしなくなった。それが三郎の素顔なんだろうか、と思うと彼の傍若無人な態度も嫌にならないんだから自分はなんと阿呆な類の人間だろうと留三郎は自嘲する。

三郎とは飲み会では当たり前のように一緒だし、たまに生協で会う事もあったが、最低限以外喋らない。それなのに三郎は前置きもなく唐突に留三郎の部屋を訪れる。
三郎が留三郎の家を訪れる時は二パターンあった。
ひとつ目は上機嫌の時。酒や食料を買い込んでやってくるのだ。留三郎の好きな菓子を覚えていて買ってきてくれる事もあった。
そしてもうひとつは機嫌が悪い時。三郎は何も言わないし、なるべく普段通り振る舞っているようだけど身に纏う空気で留三郎は嫌なことがあったんだろうなと分かるようになった。そして三郎も段々と留三郎の前では取り繕うこともなくなり、不機嫌そうな顔を見せる時もあった。そういう時の三郎は留三郎の意志をあんまり尊重してはくれない。頭痛がするという時や微熱がある時でさえ、ベッドに押さえつけられて最後までされた事だってあった。
三郎が家に来る時は二パターンあると言ったが、割合としては後者の方が圧倒的に多い。だから留三郎が良く見る三郎の顔というのは、嫌悪や侮蔑を隠そうともせず、まるで可哀想なものを見るような目を向けてくる彼の顔だった。
何故抵抗しないのか、というのは何度も考えた。けれど結局答えは見つけられなかったし、そして多分どうでもいいのだという事にも気付いていた。三郎が苛ついた時やどうしようもないと思った時、彼は真っ先にこの部屋に来る。その事実以外はどうでもいい事に思えたのだ。

学校の授業でDV被害者の思考回路の話を聞いた時、まるで自分じゃないか、と留三郎は思いかけた。けれど三郎は押さえつけたりなどはするが、殴ったりはしないので当て嵌まらない。むしろ恋人や結婚相手ではないのだから話にもならない、と留三郎は胸を撫で下ろす。
恋人でもない男にセックスを無理強いされる事自体もっとおかしい事である筈なのにそれが日常に組み込まれてしまった留三郎は違和感に気付けなかったのだ。そして彼らの関係は誰も知らない。だからその矛盾に突っ込んでくれる人は誰一人いないのである。


冬が終わって春が来ても三郎は時々留三郎の家に足を運んでいた。一週間以上間を開ける事もあれば、翌日にまた来たりもする。二人で部屋に居ても会話は続かず、並んでテレビを見たり、留三郎が作った夕飯を二人で食べたり、時々はピザを取ったりもした。
初めの頃は三郎は学校と同じように取り繕うとして、そして次に取り繕わなくなった。そして春になったこの頃は、不機嫌な時以外に部屋に訪れる事が増えていた。

「三郎、明日も来いよ」

帰ろうとした三郎の背中に留三郎はそう声を掛ける。来いと言われれば来たくなくなる、という風に顔を顰めた三郎に留三郎は「明日、カレーだから。カレーって量作った方が美味いだろ?だからさ、食ってけよ」と笑いかける。

「…考えておきます」

三郎はそれだけ残して去って行った。
一人になった空間で留三郎は肩の力を抜くようにはぁ、とため息を吐いた。精液独特の青臭い匂いが鼻につく。空気を入れ替えようと窓を開ける。そしてそこから見える曇った空を黙って見上げていた。ふと視線をおろすと階段を降りたらしい三郎がゆっくりと遠ざかっていくのが見える。途中立ち止まり携帯を取り出した三郎が誰かへと電話をかけるように、携帯を耳にあてながら不意にこちらを見上げた。
目があったような気がして思わず息が止まった。そして三郎の足も視線も止まっていた。けれどそれはわずか一瞬で、三郎はすぐにこちらへと背を向け歩き出す。
電話の相手は誰なんだろうか。それが全く想像できない辺り、結局自分は三郎の事など何ひとつ知らないままなのだと留三郎はため息を吐く。イく前に唇を噛む癖があるとか、正常位よりはバックが好きだとか、そういう情報は幾らでも知ってるけど、三郎がどういう漫画を読むのかとか、ゲームはするのかとか、そういう物は一切と言っていいほど知らない。自分が知りたかったのは一体何だったんだろうか。留三郎はもう一度ベットに倒れ込んでそんな事を考えていた。





翌日の夕方、留三郎が雑誌を読んでいると携帯にメールが届く。メールの送信者は伊作で、久しぶりにどこかに飯食べにでも行かないか、という内容だった。三郎が時々顔を出すようになってから、留三郎は無意識で外出を控えるようになっていた。以前ならよく伊作と二人で夕飯を食べに出かけていたなぁ、と思いながらも断りのメールを送ると、間髪入れずに携帯が鳴った。

「…もしもし」
「もしもしじゃないよ。最近つれないけど僕、きみを怒らせる事しちゃったかなぁ」
「いや、そんな事ないけど。っていうか、そういうの気にしてたのか?」

留三郎は雑誌を閉じ、立ち上がって冷蔵庫の方へと歩きながら伊作へとそう返す。

「最近どこに誘っても断るじゃん」
「んー出掛ける気分じゃねーから。外大雨じゃん」
「じゃあ今から君の部屋に行ってもいい?」
「あ、それは駄目だ」

水をコップに注ぎ、もう一度冷蔵庫へと戻した留三郎は何となくドアの方へと目をやった。

「どうしてさーやっぱり何か怒っているんだろ?言ってよー」

伊作は留三郎の耳元でぎゃんぎゃんと喚く。それに「んー」と適当に返しながら留三郎はドアへと近づいた。そして、ドアを開ける。するとそこには雨に濡れた三郎が立っていた。

「伊作、もう電話切るぞ」

伊作はまだ耳元で「えー待ってよ」等とごねていたが、留三郎は「またな」とだけ言って通話を切った。そして目の前で立っている三郎に「入れよ」と声を掛ける。三郎は何も言わず玄関へと踏み入れ、そしてドアを閉めた。

「そこ、動くなよ」

留三郎はそう言い、箪笥代わりにしているラックから大きめのタオルを取り出して三郎へと手渡した。金に近い髪の色が濡れている今は彩度が落ち、別の色に見える。それが珍しくて何となく髪を見ていると視線を上げた三郎と目が合う。

「あ、もう入っていいぞ。あ、でもズボン脱げ、濡れてるだろ」

三郎は何にも言わなかったが、嫌そうな顔をしながらしぶしぶとズボンを脱ぎ、「どうせならシャワー貸してくださいよ」と言った。

「使っていいよ」

留三郎がそう言うと三郎はズボンだけを留三郎に手渡し、ずかずかと部屋へと上がり込む。そしてラックからシャツを選び始めた。留三郎はその隣にあるクローゼットから封のあいていない下着を取り出し、そしてシャツを選んでいる三郎へと手渡す。

「良かったら使って」

留三郎の言葉に三郎は「返さないけどそれでもいいっすか」と聞く。

「返されたら逆に困るし」
「困るってなんすか」
「困るものは困る」

留三郎は笑いながら三郎を見つめる。すると三郎がふと視線を落として「俺がここに来るのも困ってんじゃないんすか?」と言った。

「え」

それは驚きのあまり出た言葉だったが、三郎はやっぱりな、という顔をしている。勝手に先回りして理解したような三郎のその態度が留三郎は気に食わなかった。

「それは思った事ないけど」
「嘘っすね」
「いや、嘘じゃねーし。嫌だったら断るし、今すぐ部屋からお前追い出すよ。そうしないっていうのは嫌じゃないし、困ってないって事」

留三郎の言葉を聞いて三郎は少し驚いたような顔をしていた。三郎は、留三郎が困っている癖に抵抗していないように思っていたのだろう。留三郎にとってそれは心外だったし、そういう認識をされるのは嫌だったのだ。

「…じゃあ」

そこまでを声にして、三郎は口を閉じた。そして「シャワー借ります。あ、ジャージも借りますね」と風呂場へと向かう。留三郎は「おー」と返事しながら三郎が脱いだダウンジャケットをハンガーへと掛けた。濡れているズボンはそのまま洗濯機に突っ込む。そしてそのままキッチンへ移動すると鍋を火にかけておたまでぐるりと掻き混ぜる。鍋には一人で食べるには多すぎる量のカレーが入っている。米は炊いてすぐに一食分ずつラップに包み、冷めたら冷凍に入れているので常にストックがある。冷凍庫からご飯を二人分出して電子レンジに突っ込んで「あたためる」というボタンを押した。
鍋の底が焦げてしまわないように、時々かき混ぜながら冷蔵庫に入っていたボールを取り出し、そこに入っている生野菜のサラダを小さな皿へと盛り付ける。
三郎が風呂から上がるとテーブルの上にちょうど全ての皿が並んでいた。髪をタオルで吹きながら三郎はテーブルにスプーンと箸を置く留三郎を見つめていた。

「何突っ立ってんの?カレー食いに来たんだろ?早く座れって」

三郎の手を引くと三郎は何も言わず、いつもの場所へと腰を下ろした。白い深めの皿にカレーがよそられているが、三郎はスプーンを手に取る事は無く、じっと皿を見ている。

「…あの、たまごありますか?」
「あるけど」
「あの、俺、カレーには目玉焼き乗っけないと嫌なんですよね」
「はいはい、作ってやるからサラダでも食ってろ」

三郎のわがままに留三郎は苦笑して立ち上がり、冷蔵庫からたまごを二つ取り出した。
留三郎が目玉焼きを作っている間、三郎はテレビの電源を入れ、そして冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出す。

「先輩も飲みますか?」
「うん。あ、コップをそっちから」
「はいはい」

三郎は二つのコップに水を入れるとペットボトルを冷蔵庫へと戻す。隣に立っている三郎に留三郎は「黄身は半熟?」と確認する。

「半熟で。あ、でもちゃんと火通ってないと嫌です」
「これくらい?」
「もうちょっと…あ、これくらいで」
「三郎、皿」

留三郎は火を消してフライパンごと振り返る。そして三郎が差し出したカレーの上へと目玉焼きを乗っけた。
カレーの上に目玉焼きを乗せて二人はもう一度席へと着く。三郎は「いただきます」といってすぐに黄身を潰した。黄身が混ざった方がまろやかで美味いと三郎は言っていたが、確かにそうだなぁと留三郎は舌鼓を打った。

「白身とカレーってあうなぁ」

留三郎の言葉に三郎は頷き、そしてあっという間にカレーを平らげて空になった皿にスプーンを置く。

「そういえば、ドアノブにコンビニの袋下げてたんですけど」
「え、またかよ」
「下げた瞬間にドア開いたんでびびりました」
「お前なー今日は電気ついているからいるって分かっただろ?」

留三郎は呆れたようにため息を吐きながらが玄関へと向かう。ドアを開けて外を覗けば三郎が言った通りビニール袋がドアノブにかかっていた。三郎が訪ねた時に留三郎が留守にしていると、三郎は買ってきたものをドアノブに掛けて帰るのだ。初めて見た時は伊作と一緒の時でストーカーでもいるの?と笑っていた。

「濡れてるじゃねーか」

留三郎は袋から菓子袋を取り出して、ビニール袋に溜まった雨水を零し、そして戸を閉めて鍵を掛ける。

「濡れて困るもんは入ってませんよ」
「ぐちゃぐちゃのレシートは?」
「捨てて下さい。あと、それはアンタにですので」

袋に入っていたのはどれも留三郎が好きなお菓子ばかりだ。

「お前は食べないの?」
「今日はカレーを食べに来ただけだし」
「雨すげーぞ?こんな中帰んのか?」

三郎はちらりと窓の外を見やり、少し悩んでいるようだった。

「まぁ、帰るにしても雨が弱まってからでいいんじゃん?どれ食べる?」

三郎へとお菓子を選ばせると留三郎はそれを三郎へと渡し、留三郎はカレーへと戻る。

「…食っていいんすか?」
「全部じゃねーぞ」
「わかってますよ」

三郎が笑いながら袋を開ける姿に留三郎は思わず見入ってしまった。笑う姿なら時々学校で見かけるが、この部屋で二人きりの時に笑うのは初めてだったのだ。

「なんすか?」
「いや、なんでもない。あ、三郎、サラダ食えって言ったろ」
「生野菜好きじゃないんで」
「野菜も食わねーだろーが」
「カレーで十分取ったじゃないすか。それにサプリ飲んでるんで気にしないでいいです」

はあ、と大袈裟にため息を吐く留三郎に三郎が楽しげに「幸せ逃げますよ、あ、もう手遅れですね」と告げる。この部屋で三郎がこんな風に楽しそうにしているのは珍しいので留三郎も苦笑しながら「うるせーよ」と返した。
三郎は結局そのまま泊まって行き、この部屋から直接学校へと向かった。けれどセックスしたわけではない。三郎がどこからか探し出してきたスーファミをしていたらいつの間にか朝になっていたのだ。

三郎がいなくなった部屋はいつもとは違ってゲームやらお菓子の袋やらで散らかっていた。でもいつよもりずっと穏やかな気持ちでいられたような気がして留三郎は三郎が朝に食べたカレーの皿を片付けながら次はいつ来るんだろうか、とそんな事を考えていた。




 




(2012/03/23)

まだまだ続くみたいです。びっくり。