"アイ"のある部屋にて








週末の居酒屋の混み具合は異常だ。一旦店に入って席に案内されれば少しは忘れるが、会計の時や店から出る時に再度それを実感させられる。店から出るまでに数回人とぶつかり、その度に謝って入り口に辿り着くとそれだけで疲弊したような気さえした。

「うぁー寒ぃ」

自動ドアが開くと冷えた空気が流れ込んできて留三郎は思わず背を丸めて呻いた。深夜が近いというのに空は黒ではない。都会では本当に夜は無いんだ、と何となく思いながら階段を下ると先に店を出ていたメンバーが留三郎を待っていたかのように見上げた。

「皆いるな?」

会計を担当していた文次郎が人数を確認し、そして歩き出す。ようやく皆がぞろぞろと歩きだし、留三郎も同じように皆の背中を追った。 以前眠っている伊作をそのまま店内のトイレに残した事があったのでそれ以来帰る時には人数を確認するようになり、毎回こうやって店の外で人数を確認するのが文次郎の仕事になっているのだ。
駅までの道を歩いていると、思いの外酔ってしまっている事に留三郎は気付く。普段なら歩く速度は早い方なのに今は皆に着いていくので精一杯だ。

「留三郎、大丈夫?」

前を歩いている伊作が振り返って確認してきたので留三郎は片手を振って「平気」と返した。確かに酔ってはいるものの気持ち悪いわけでもなく、ふわふわと宙に浮いたような感じになっているだけだ。足も覚束ないわけではないし、速度は遅いがちゃんと歩けている。
伊作は留三郎がちゃんと歩けている事を確認すると視線を前に戻し、隣で歩いている仙蔵と会話を再開した。竹谷や不破、小平太と長次は反対側の駅を使うから店の前で別れていた。だから留三郎の前を歩いているのは文次郎、尾浜、久々知、伊作に仙蔵だ。そして皆から遅れるようにし留三郎が歩いている。視線を隣へと向けると留三郎と同じように皆に遅れている三郎がいた。
白いガードレールにぶつかるんじゃないかというくらいぎりぎりに歩いている三郎は視線を車道へと向けている。その横顔を車のヘッドライトが時々照らしていた。

そもそも今日の飲み会に集まったメンバーは学部も学科も違う人が多い。どうやって仲良くなったかははっきりと説明できないが、いつの間にか仲良くなりこうやって定期的に飲み会を開いては騒いでいる。今では毎月の第三土曜日のこの集まりの為に何も言われなくとも皆バイトのシフトなどを開けているくらいだ。

留三郎の一つ下である鉢屋三郎はこのメンバーの中で一番謎の多い人物だ。無口な訳ではなく、良く笑うし話の中心にいる事も多い。けれどふと気が付くと輪から外れて黙っている事も同じくらい多い。寂しそうに独り空を見上げる三郎と、下世話な話題に爆笑して手を叩いている三郎と、どちらも彼なのだろうけれどあまりのギャップに三郎という人間を測りかねてしまうのだ。
彼とよく似た顔を持つ不破に一度だけ三郎について尋ねたことがある。その時不破は「よく分からないけど、優しいですよ」と笑っていた。三郎の事を話す人は皆、「よく分からないけど」と最初に断ってから彼の事を話す。その事が示すように、三郎はあまりにも掴めない人物なのである。

そもそもこいつの家ってこの方向じゃないだろ、確か、前の飲み会じゃ反対から帰っていたような。

ぼんやりとした頭でそんな事を考えながら視線を三郎へと向ける。車のヘッドライトが暗がりに三郎の姿をを浮かび上がらせていた。それなのに瞳だけが暗すぎて、ぞくりと恐怖が走る。

留三郎は一度、自殺の現場に居合わせたことがあった。ホームで立っていると隣にニット帽を被った男が並んだのだ。大きなヘッドフォンをした若い男は大音量で何かを聞いているようで音漏れが酷かった。黄緑色のスニーカーがとても派手で、今風のその男に留三郎の前や後ろに立っている人達は顔を顰めていた。列にちゃんと並ばないその男に確かに留三郎も嫌だなと思ったが、けれどその瞳があまりにも暗すぎて顔を顰めるのも忘れた。明るい色の服を身に着けているのに瞳だけがとても暗く、あまりにもちぐはぐだったので留三郎はその男から暫く目が離せなかった。
男は留三郎の視線が気にならないのか、ただ前だけを見ていた。定刻通りに電車がホームへ滑り込む。あぁ、やっと来たと留三郎が携帯をポケットにしまった時、隣に立っていたその男が何を思ったのか電車に飛び込んだ。さっきまで隣にいた人が、肉塊と成り果ててしまった。それは全て一瞬で、そして留三郎の中に深いトラウマを残したのだ。

隣を歩く三郎の顔を見つめながら留三郎は一年前のその記憶を思い出していた。三郎の瞳があの男の瞳とよく似ていると思ったのだ。
クラクションを鳴らしながらタクシーが飛ばしてくる。それが近付いてくる事に留三郎はいいようのない不安を覚えた。ふらり、と三郎の足が車道に近づいたようにも見えたのだ。それに気が付いたら手を伸ばしていた。

留三郎の心配した事は起こらなかった。三郎は車道に飛び出すなんてせず、ただ足を止めて手を掴んで来た留三郎を見ている。
三郎が隣にいる事にほっとして留三郎が手を離そうとしたら三郎が手を握り返してきた。え、と思って三郎の顔を凝視すると三郎は薄く笑い、指を絡める。顔が近付いてきても留三郎は動けなかった。それどころか三郎から目が離せないでいた。
ちゅ、と軽く唇を吸われ、目を丸くしていると黙って立っている留三郎に満足したのか、三郎は留三郎の手を引いて皆から離れるように路地を曲がった。

「え、あ、三郎?どこ行くんだ?」

ぐいぐいと手を引いて歩く三郎に、留三郎は何度も大通りを振り返る。車のライトや電気で飾られた看板などの光が遠ざかっていくのがやけに心細かったのだ。
足を止めて引き返した方がいいっていうのは分かっていた。けど前を歩く三郎の背中がどこか寂しげに見えたので留三郎はもうそれ以上何も言わず、逆らったりは出来ず、手を引かれるまま歩いていた。
一度足を止めた三郎が留三郎へと視線を向けた。身長は留三郎の方が高い。多分、煙草の所為だろうと留三郎は思う。初めて会った時から三郎は煙草を吸っていて、しかもこなれていた。

「ねぇ、先輩の家行きましょうよ」

留三郎の指に指を絡めて体を引き寄せた三郎に留三郎は頷く。耳元で囁かれた時にぞくりとしたのはなんだったのだろうか。測りかねていると三郎が歩き出した。

三郎に近付くとさっきまでは気付かなかったが、酒の匂いに混ざって微かに香水の香りがした。そういえば三郎はとてもオシャレな部類の人で、手首に巻かれたブレスレットらしきものもいちいちオシャレだ。

「どこ?」

三郎に手を引かれながら歩いていても留三郎は時々よろめく。それが見るに堪えなかったのか、三郎は繋いでいた手を離して留三郎の腰に手を回した。そうすれば三郎に凭れかかるような形でふら付くことなく歩ける。
酔いが回っている頭で、この格好は何かおかしいと思いながらも歩きやすくなったので留三郎は何も言わず、ただ三郎の方へ少し凭れて歩いていた。
留三郎の家は居酒屋から徒歩十分もしない場所にある。去年の出来事によって電車にトラウマが出来た事をメンバーは知っている。そして留三郎を気遣って留三郎の徒歩圏内で飲み会が開かれる事が多いのである。

打ちっぱなしのコンクリートの建物を見上げた三郎は「何階?」と尋ねる。

「いちばんうえ」
「最上階か」

少し面倒くさそうに三郎の顔が歪む。気まぐれな奴だから帰るかもな、と留三郎が思っていると三郎が留三郎の背を少し押した。

「何ボーってしてんすか」

くすくす笑う三郎の顔がいつも見ている嘘くさい笑顔とは少し違うような気がして思わず瞬きを繰り返した。三郎はそんな留三郎に気付いたようで笑顔を止める。冷めたような目に心を見透かされそうで留三郎は三郎から視線を逸らした。
真っ赤な手すりを掴みながら留三郎は階段を上り、三郎は留三郎がが階段から落ちる事を防ぐ為か、その少し下をついてきた。
部屋番号はアルファベット順で、留三郎の部屋はIというアルファベットが振られている。留三郎は尻ポケットから鍵を取り出して時間がかかりながらも何とか部屋のドアを開ける。

「さぶろ、」

入っていいぞ、と言う前にキスで言葉を遮られた。玄関の壁に体を押さえつけ、三郎は留三郎にキスをする。煙草と酒の所為か、舌がピリリと痛い。

やっぱり、勘違いされている。

幾ら酔っていてもそれくらいは分かった。手を伸ばした時に三郎はその手を別の意味に取ってしまったのだ。今ならまだ引き返す事は出来る。それなのに留三郎は突き放すどころか、三郎のシャツを握りしめていた。
男とキスをするのは初めてだけど、そんなに気持ち悪いもんではないな。つーか、こいつ、キス上手いなぁ。
どうにか誤解を解かなきゃと思うと同時にそんな事を考えていた。

キスを繰り返しているとぞくりと背筋が震え、次第に足に力が入らくなる。壁に凭れているのにずるずる下に下がっていきそうで留三郎は三郎の首に腕を回していた。
唇を離し、唾液の糸を舌で切りながら三郎は目を細めて笑う。そして、留三郎の顔の近くにあった照明のスイッチを押した。
留三郎は部屋に凝っていて間接照明だけで生活をしている。その為、点いたのは蛍光灯の安っぽい眩しい光ではなく、暖かい色をしたオレンジ色の光だ。これじゃあムードを出す為にこんな電球にしているみたいで恥ずかしくて仕方がない。留三郎は頬を赤くしながら顔を隠すように俯く。

「先輩」

耳元で囁かれ、その声が腰に響いた。腰に手を回され、視線を三郎に向けるとそのまま歩かされる。そしてワンルームの隅にあるベッドの上にそのまま押し倒された。安いベッドは男二人分の体重にギシと音を立てる。

「さ、ぶろ」

名前を呼ぶと三郎はまた目を細める。金色に近い茶髪の髪の所為か、狐が人間になるとこんな感じなんだろうかと何となく思う。そして三郎の手が留三郎のコートを脱がし、シャツをたくし上げるのを止める事無くぼんやりと見ていた。

男同士のセックスの方法は曖昧にしか知らなかったが、どうしても止める事が出来なかった。一度止めてしまえば三郎は多分二度とこんな顔を自分には見せない。こんな風には触れてこないだろうし、こんな風に甘い声で名前を呼んではくれないだろう。今までのように接してはくれるだろうけどそこには目に見えない確かな線が引かれてしまう。これを逃すと三郎の本心には触れられそうにもなかった。
恋い焦がれていたわけでもなく、ただの後輩だった筈なのに、どうしてこんな男の本心を覗いてみたいと思ったのか。それが多分俺の敗因だ、と留三郎は思った。

唇を舐められ、つられるように唇が開く。それを鼻で笑われたような気もしたが、三郎はキスが上手いからその内そんな事すら意識から追い出されてしまった。
乳首を弄られた時には恥ずかしくてどうにかなりそうだった。そして段々とそこから腰へと降りていく感覚に今度は死にたくなった。男に胸を弄られて感じてしまうなんて事は一生知りたくはなかった。それなのに速度を増して行為が進んでいくのを、留三郎はやはり止められなかった。
「ローションはありますか?」と三郎に聞かれたが、男とセックスするなんて初めての事だったのでローションなんか部屋に置いてない。どうするんだろうと声には出さずに思っていると三郎はおもむろにキッチンからオリーブオイルを取ってきて手の平に垂らした。電球の所為か赤みがかっているように見えるオリーブオイルを三郎は人の尻の穴に塗りたくる。冷たい感触に体震え、声が出た。

指は意外にあっさり侵入してきた。三郎はキスをしたり胸を弄ったりと、留三郎の意識を後ろから引き剥がそうとしていてそして気が付けばいつの間にか指は三本にまで増やされている。そしてその指は誰にも触れさせずにいた中を我が物顔で触れ回り、そして快楽の場所を暴いていく。

「ね、ゴム持ってますか?」

耳にかかる吐息にくらくらしてしがみ付くように三郎の背中へと手を回し、はぁ、と甘すぎる息を吐く。

「先輩聞いてんの」

耳に歯を立てられ、留三郎は喘いだ。耳が元々弱いのだ。今日の行為で他にも弱い個所があったのだと三郎に教えられる。それは全部知りたくない事ばかりだったのに、蕩けるくらい気持ちがいい。

「ねぇ、早く挿れたいから焦らさないでよ」
「焦らして、なぁっ…も、もって、ないっ」

指を中で動かされ、三郎が暴き出した自分の弱い場所へ触れてくる。そうされると上手く言葉も紡げず、ただただ酸素を欲しがる鯉のように口をぱくぱくと開けてみっともなく喘ぐしか出来ない。
ゴムを持ってないと知った三郎は留三郎の中から指を抜き取り、ズボンの尻ポケットに入っていた財布を汚さないように気を付けながら取り出した。そして中から銀色のパッケージのものを取り出す。汚れていない方の手と歯で器用に包装を開けた三郎はコンドームを取り出すと準備を始めた。
男がセックスの挿入の前に大体やる行為ではあるが、こうやって傍から見ていると間抜けのような気がした。

戻れない。
貫かれる瞬間思ったのはそれだった。
多分、自分達は以前の先輩後輩にもう戻れない。

貫かれた痛みに無意識で涙は零れ、視界はぼやけた。その先にある淡く暖かな光と三郎の顔を見つめながら留三郎はそんなことを考えていた。
痛みを誤魔化すように、三郎は前や胸を弄ってキスを繰り返した。そうやっているうちにゆっくりと腰が動かされる。それに留三郎が慣れて応えるように締め付けると段々と速度が増した。三郎の口から余裕のない息が吐かれる頃には痛みではなく、じわじわと響くような感覚に留三郎は囚われていた。開いた口からは短く喘ぐような声が漏れる。涙は最早自分で止める事は出来ず、達する時には三郎の名前を呼んでいた。



三郎は行為が終わるとゴムを器用に結んではティッシュで包み、近くにあったゴミ箱に投げた。その様子を留三郎はぐったりとしながら見ていた。頭も、腰も、気持ちも、底がない水たまりにずぶずぶと沈んでいくような気がする。
留三郎がベッドに沈んでいると三郎は下着とジーンズ、そしてシャツに袖を通すと留三郎の部屋を勝手に歩き回っていた。

「水、飲みます?」

三郎が突如顔を覗き込んで来て留三郎は視線を上げる。三郎の手には冷蔵庫に入っていた筈のペットボトルが握られている。

「ん」

声の出し過ぎで喉がちりちりとする。頷いたけれど体を起こすのは無理そうだ。それが分かっていたのか、三郎はペットボトルから水を口に含むと留三郎に口付けた。濡れた唇は冷たくて薄く唇を開けると水が流れ込んでくる。それは渇きを潤すには少なすぎて留三郎は三郎の服を握りしめる。それに気付いた三郎が薄く笑い、もう一度ペットボトルから水を口に含み、口付た。
三回ほどそれを繰り返し、満足した留三郎は三郎のシャツから手を離した。そしてそれに気付いた三郎はペットボトルの蓋を閉めると留三郎の側へと置いてくれる。

留三郎がそのままぼんやりと三郎の姿を見つめていると三郎は人のCDを勝手に漁り始め、気に入った物があったのか、許可無しに曲を掛けた。室内には洋楽のバラードが掛かり始め、それを聞きながら三郎はこんな曲が好きなのか、と留三郎は思っていた。
まだ酔っているのか、それとも疲れすぎてしまったのか。瞼がやたら重く、気が付いたら留三郎は寝てしまっていた。




*:*:*




留三郎の意識が浮上したのは朝だった。カーテンを閉めずにいた窓から陽が眩しいほど差し込んでいて、それで目を覚ましてしまったのだ。眩しくて寝返りをうとうとすると鈍く腰が痛む。その事でようやく留三郎は完全に目を覚ました。
室内には昨夜三郎が掛けた曲がまだ流れていた。どうやらリピートボタンを押したようで、曲が終わったと思ったらまた始まる。体を起こして部屋を良く見たが三郎の姿はなかった。
乱れていたシーツ剥がして体に巻きつけながらベッドから降りる。床は随分と冷たくて一瞬歩みを止めた。暖房を入れてなかったから部屋はかなり冷えていた。留三郎は玄関まで歩き、三郎の靴がない事と、靴箱の上に置いてた鍵が消え、ポストに入っている事を確認してもう一度ベッドへと戻る。

疲れてるからもうちょっと寝よう。

体を丸めるようにして留三郎はまた目を閉じる。ずっと同じ曲が流れるこの部屋に、微かに三郎の香水の香りが残っていた。








(2012/03/18)

思いついたはちけまをぽろりと。
タイトルは「ワンルームの実験室」と迷ったけど、雰囲気と言葉の響きでこっちを採用。
不安定な三郎です。ふらふらふらふらしてて、いっその事相手が攻めだったらもう少し安心出来て安定したのにね、っていう三郎でのはちけま。
脳内では続いています。(こら)