優しい雨が引き連れてきた午後に…








屋根に、地面に、細く優しい雨が落ちる。
その微かな音に意識が浮上したのか長次が目を開けた。窓の向こう側に見えるのは暗く垂れこんだ灰色の雲だ。
普段ならとっくに太陽が昇って眩しいほどの光が差す時間というのに今日は分厚い雲がその光を遮っている為か同じ時間とは思えないほど暗かった。普段であれば既に起床して裏山で朝の鍛錬をしているはずの小平太もまだ布団の中で寝息を立てている。
長次は静かに体を起こすと布団を抜けだして音を立てないよう慎重に戸を開ける。いつもより低く暗い空からは細い糸のような雨が降り続けては草木の葉や花の上に落ちていて、その様や音に長次は静かに笑みを浮かべた。ついに梅雨が到来したのだ。

長次が着替えを終えて布団を畳むとようやく目が覚めたのか隣りの布団がもそもそと動いては「ちょうじー」という声が聞こえてきた。

「今日は休みだよな」
「ああ」

普通の人ならば聞き取れない長次の小さな声を長年同室で過ごしている小平太は聞き逃さない。彼の耳が野生の動物と同じくらい良いという事もあるが、長い間長次の声と付き合っている為に彼の耳は小さな声を拾い上げる事に慣れているのだ。

「私はもう少し寝る」
「ああ、ゆっくりおやすみ」

長次の返事に満足したのか、しばらくすると規則正しい寝息が聞こえ始める。昔から変わらないその寝息に暫く耳を傾けていた長次は彼がもう目を覚まさないと分かると布団を畳む作業を再開させた。




普段の学園だとこの時間なら既に色々な場所から生徒達のはしゃぐ声や笑い声が響いてくる。けれどいつ止むのかも分からない雨が静かに降り注ぐ今日は別だった。学園内はひっそりと、まだ朝が来た事を知らないかのように静まり返っていた。
朝食を取るために長次は食堂へと向かったが、いつもは混み合う食堂も今日は食事を取る生徒もまばらでそして会話もない。時たまひそひそと会話する声もあったが、微かに聞えて来る雨音がすぐにその声を飲み込んでしまう。朝食を食べ終えて食堂を出るまで長次は挨拶以外の会話を誰とも交わさず、窓の外に見える重たい灰色の雲を静かに見上げていた。

食事を終え、歯磨きも終えた長次は細く長い廊下を歩いた。すれ違う後輩達は皆いつもよりぼんやりとした表情をしている。遊びたい盛りの彼らに取ってみればどうやら梅雨は退屈な時期らしく、立ち止まっては恨めしく空を見上げる姿が度々視界に入った。
長次は図書室の前で足を止め、図書室のすぐ目の前で雨に濡れている紫陽花を見つめた。淡い紫色は雨粒越しでもとても綺麗で、長次は満足いくまでその場に留まりその花を見ていた。

図書室というものは総じて書物が多い場所である。そして書物が多いという事は湿気に弱いという事でもある。図書委員会の委員長である長次は図書室の窓を開け、なるべく風を通すように戸も半分ほど開けた。そして毎年雨漏りがする箇所を確認し、漏ってない事が分かると自分用に常に置いている座布団へと腰を下ろした。そして雨音を聞きながら読みかけだった本の頁を捲る。
図書室は静かにするべき場所ではあるが、それがいつも守られているかと問われればそれには中々頷けない。それでも雨が降る今日はとても静かで長次以外の人影も見えなかった。長次の読書の邪魔をするものは今だけは何もない。

長次が本に集中していると廊下の板が少しだけ軋む音がした。不意に視線を上げると図書室の戸に凭れる様にして留三郎が立っている。

「ちょっと此処にいていいか?」

留三郎はそれだけ告げ、長次が頷くのを待って図書室へと足を踏み入れた。

「どうした?」
「ん…ちょっと頭痛くてさ。部屋では伊作が薬煎じててすごい臭いするから避難してきたんだ。長次の傍なら静かだろ?」

そう言って笑みを向けてきた留三郎だったが、その表情はいつもと比べると弱々しい。

「ああ。枕なら座布団を重ねればいい」
「長次、ありがとな」

長次が座布団を幾つか集めると留三郎はそう言って微笑み、そして体を横たえた。
雨脚が少し強くなったようで、屋根を叩く雨音が大きくなる。長次がふと戸の向こうを見るとさっきまでは細い糸のような雨だったのに大粒になっていて雨に打たれる紫陽花が痛そうに見えた。

暫く長次が本へと視線を落とすとむくりと留三郎が起き上がった。枕の高さが納得いかないのか、何度もぽんぽんと叩いて横になっては起き上がるのだ。

「留三郎」

長次が留三郎の名を呼ぶと留三郎はまだ眠たげな瞳を長次へと向けた。そして長次が自分の膝を叩いた事に気付くと座布団をその場に放ってぺたぺたと膝を付けたまま四つん這いで移動してくる。
留三郎は何も言わず、長次の膝へと頭を乗せ、そして横になった。留三郎の瞳が満足そう細められ、留三郎の少し癖のある髪を長次は優しく梳いてみる。長次の少し硬くなった手の平を、髪はさらさらと流れた。

雨は音を、空気を、閉じ込める。

図書室に訪れる人影はなく、長次は本の頁を捲りながら時折留三郎の髪を撫でた。
どれくらいそうしていたのか。長次が一冊の本を読み終わった頃、また廊下の床が軋む音がした。先ほどの音より随分大きく軋んだので長次はそろそろ留三郎に直して貰うべきだろうかと思案する。そんな長次へと来訪者は「やあ」と告げた。

「留三郎どこにいるかなって探してたけど、やっぱり長次のとこだったんだね」

図書室の入口に留三郎と同室である伊作が立っていて、そして眠っている留三郎を見つめると笑みを漏らした。

「留三郎、随分ぐっすり寝てるね」

伊作が一歩踏み出して留三郎に近付こうとすると長次は視線を上げ、人差し指を唇の前へと出した。

「静かに」

長次のその言葉に伊作は頷き、そしてその場に留まった。

「どうして留三郎が此処に居ると分かった?」

留三郎へと視線を落とし、長次が伊作へと尋ねると伊作は「だって」と苦笑する。

「雨降ると留三郎いつも君の所に逃げて来るだろう?君が近くに居ると頭が痛くても眠れるって確か一昨年くらいに言ってたからね」

伊作が告げた言葉を長次は初めて耳にした。確かにこの時期になるとよく訪ねて来るとは思っていたが、留三郎がそんなことを思っていたなんて長次は知らなかった。図書室が静かだから来るのだとばかり思っていたのだ。

「梅雨入ってばっかりだけど、早く空けて欲しいね」

伊作は空を見上げながらそう呟く。その言葉に長次は「俺は、梅雨も好きだ」と寝ている留三郎を起こさないように返す。

「…でもほら、留三郎に読書の邪魔されちゃうだろ?」

伊作の視線は長次の膝の上で未だ眠り続ける留三郎の上に落ちている。長次も同じく留三郎へと視線を落とし、その髪を撫でながら小さく笑みを浮かべた。
確かに読書は止まっていた。それでも膝の上の温もりが無い方がいいなんては思えない。

「…それでも、好きだ」

長次のその言葉に伊作は返事をしなかった。ただ入口の前で大きく伸びをすると懐から包み紙を取り出して近くの机の上に重しと共に乗せた。

「これ、頭痛薬。留三郎が起きたら飲ませてやって。きっと今日は痛みが酷いだろうから」

伊作は長次が頷くのを待って、そして「邪魔したね」と手を振って図書室を出て行った。残ったのは少し臭う薬だけだ。
未だ眠り続ける留三郎の髪を撫でながら、長次は耳を澄ませて緩やかになった雨音を聞いていた。






「んー…」

そう小さく呻いて、留三郎は目を開けた。まだ完全には覚めてない虚ろな目のまま体を起こし、そしてごしごしとまるで子供の様な仕草で目を擦っていた。そして下にしていた方の前髪が上へと跳ね、いつもは隠れる白い額が露わになっている。
長次はその滑らかな曲線の額へと唇を寄せる。そしてちゅっと音を立てて口付けた。

「おはよう」
「ん…おはよ」

留三郎はまだ夢うつつなのか、ぼんやりと長次の顔を見つめ、ふあああと大きな欠伸をした。長次が額へと唇で触れた事に気付いているのかいないのか、その態度からは分からない。

「…やっぱり長次の隣りはいいなぁ。夜はあんなに眠れなかったのに、ちゃんと寝れた」

伸びをして体の節々を鳴らしながら留三郎は笑う。その笑みはいつもの明るさを取り戻している。どうやら眠れぬ原因にもなっていた頭痛が改善した様だ。

「何か、臭わないか?」

図書室に漂う臭いの変化に気付いたのか、留三郎はきょろきょろと辺りを窺い、そして長次が伊作に頼まれた包み紙を手渡すとがっくりと肩を落とす。

「…これ不味いんだよ」
「伊作が、飲むようにと」
「…分かった分かった。飲む、飲みます」

じいと見られた事で諦めたのか、留三郎は腕を捲り、薬と向きあう。そんな留三郎の前に湯呑みをそっと差し出すと留三郎は勢いよくその湯呑みを掴んだ。そして男らしく不味いらしい薬を飲み干した。

「…うええええええ、苦い」

飲み終えた後にごふっと吐きそうになりながら留三郎は床へと倒れ込む。そんな留三郎の短い髪を長次は指で弾いた。

「ちょうじ」

ぐるりと仰向けになった留三郎は長次の指先に自分の指を絡め、そして長次を見上げた。何も言わず、視線だけ向けられて長次は少し困惑の表情を浮かべる。そんな長次の指先を、留三郎は軽く引いた。
指先を絡め、長次はそっと留三郎に顔を近付ける。留三郎は逃げる素振りも見せず、じっと長次を見上げて視線を逸らさない。その瞳に誘われる様に長次は留三郎の薄い唇にそっと自分の唇を重ねる。

耳に届くのは微かな雨音と、風が本の頁を捲る音だけだ。
そっと顔を離すと留三郎は長次の指先を離し、体を起こしてもう一度ぐいっと伸びをした。

「…苦い」

留三郎の唇に残っていた苦みに長次がそう一言漏らすと留三郎はまるで悪戯が成功した子供のように満面の笑みを浮かべる。

「また来る」

腰を上げた留三郎は振り返ってそう告げた。
図書室を去っていくその背中に「待っている」と告げると留三郎は立ち止まって振り返り、先ほどの笑みとは違って目を切なげに細め、いつもよりずっと柔らかい笑みを浮かべる。

留三郎の後方で、雨に濡れた紫陽花がその綺麗な花弁を広げていた。



(おわり)




あとがき&メッセージ

モモー誕生日おめっとう!!!
前に話してたちょけまで梅雨のお話書いてみました…!
雨の日に片頭痛する留三郎と留三郎の逃げ場になっている長次のおはなしです。
えへへ、気に入って貰えれば嬉しいなぁー…!

うふふ、大好きだよーおめっとう!!

(2011/05/13)