(全ては君を裏切らない2)
薄汚れた窓の向こうに見えるのは灰色ばかりで殆ど毎日この色ばかり見ている。
木で出来た窓枠に収まったその濃淡さまざまな灰色を綺麗だと思っていたのはどれくらい前だったろうか。あまりにも代わり映えしないその色に今では溜め息さえ零れてしまう。
薄汚れたカーテンは淡い影を落としていて、その影が風に揺れるとあまりの寒さに思わず鉛筆を置いた。
視線を室内に戻すと布を一枚だけ肩から掛けるようにして座っていた女性が視線をこちらへと向けた。唇の色が悪く見えるのは気の所為ではないだろう。その指先が微かに震えているようにも思える。
今日はもう終わりだと告げると、すぐさまにストーブの前へ彼女は座り込んだ。カチカチと歯を鳴らして、それでも彼女は明日も来れますと笑顔で告げて来る。その言葉に適当に返事をしてもう一度視線を窓の外へと向けると風で運ばれて来たのか黄色いイチョウの葉が風へ飛ばされて窓ガラスに張り付いた。
この年になると中々新しい言語は覚えられない。
そう分かっているからかあまり熱心に勉強しようとは思わず、喋れる言葉といえば仕事に必要な単語と挨拶くらいだ。
帰り道が一緒だからとモデルを頼んだ女性が着いて来るようになったのは二週間前からで最早気にならず、彼女が話しかける言葉を右から左へと聞き流していた。
少し後ろを歩く彼女は私にも聞えやすいようにゆっくりとはっきりした発音でを話してくれたがそれでも分からない言葉が多く、笑みを浮かべながらさよならとだけ告げて足早に曲がり角を曲がる。
最後に何か言われたような気もしたが、はっきりとは聞き取れなかったので振り返りはしなかった。
パリの冬は思っていたよりも地味だ。
空は常に曇りで晴れる日が少なく、また風が強くてとても寒い。
街中にある色も夏よりはくすんだ色に見え、だからこそここの人達はあんな明るい色の服を着るのだろうかと思ったりする。今通り過ぎた人は夏の空色のスニーカーを履いていた。
南の方に行けばどうやらもう少しマシになるらしいが、フランスに来てから一度もこの街を離れたことはなかった。
象牙色のアパートの前で足を止め、部屋がある最上階を見上げると電気がついているのが見える。きっと彼はもう帰ってきているのだろう。
水色のドアを開けると、玄関には靴が綺麗に並べられていた。
若い人向けのその靴はフランスに到着したその日に一緒に来た彼が買ったものだ。一年経ってもその靴は新品同様で、その靴だけでなく他の靴も同じように大事にされている。
一緒に暮らし始めて分かった事だが彼はかなりの綺麗好きだ。
「おかえり」
ボウルを抱えながら顔を出したのは一緒に暮らしている彼だ。
出会った時は小学校の頃から通っているおなじみの店で切ってもらいましたと言わんばかりのありきたりな髪型をしていたのに、今では長く伸ばした前髪を斜めにわけて耳にかけ、寒いからという理由で伸ばしているえりあしはところどころ色を抜いて小洒落ている。
ただいま、と私が言うよりも早く、彼はすぐに「なー聞いてよ」と言ってはキッチンの方へと歩いていった。
キッチンが広いという理由で決めたこの部屋にあるキッチンは専ら彼の場所になっている。
使い慣れた食器や道具やらを綺麗に並べて、彼はキッチンを城と呼んでいるのだ。
「今度の授業で出す奴なんだけど、イチジクじゃありきたりで他に何か面白いアイディアない?」
テーブルの上には作りかけのケーキが二つ乗っていた。
ひとつはスポンジでもうひとつはタルトにするつもりなのだろう。どうやら新しい商品を作る授業でもあるのか、彼はそのアレンジで悩んでいるようだった。
「そうねぇ、日本らしさを出すのもアリだと思うけどね」
「…日本らしさ」
「まぁ、日本らしいかは分からないけど私は今無性に梅干しが食べたいよ」
コートを脱ぎながら彼へとそう告げると、彼は「梅!それ、すげぇ面白そう!」と急ぎ足で冷蔵庫へと向かった。
彼はまるで子供みたいな集中力の持主で、一旦スイッチが入ると納得がいくまであーでもないこーでもないと何日もキッチンでうろうろしていたりする。その甲斐あってか、通っている菓子専門の学校では中々の成績らしい。
らしいと伝聞系になるのは彼の口から成績などの話を聞いたことがないからだ。たまにこの家に顔を見せる彼の友人や彼の先生である私の古くからの知人からそういう話を一方的に聞かされるのだ。
日本から送ってもらった梅干しと梅酒用に漬けている瓶をテーブルの上に並べてうーんうーんと唸っていた彼のことだからあと数時間はケーキに熱中しているだろう。
彼のケーキが出来上がるまでは仕事でもしていようと自室へと向かった。
夕飯は彼のケーキが出来上がってからだろうし、それまではさっさと終わらせたい仕事でもやっていた方がいい。
8畳くらいの自室にはキャンバスと絵具とその他諸々の道具が溢れている。部屋の広さが物の数に追い付いてなくてごちゃごちゃとして見える。散らかっているというわけではなく、部屋が狭い所為なので広ければもう少し何とかなるのだろう。けれど引っ越しするのも面倒くさいので今はそのままにしている。
綺麗好きな彼はこの部屋を見る度に嫌そうな顔をして、はじめの半年くらいは片付けたらと言ってきたり実際に掃除をしようとしたりしたけど何をしても改善されないと分かってからは何も言ってこなくなった。
この部屋の真ん中に置かれているキャンパスに描かれているのは彼ではない。
先ほど別の場所でもモデルをしてもらった女性に同じように布一枚身につけて窓の外を眺めてもらったところを描いた絵だ。
何度も見ても気は乗らず、これが本当に完成するのか描いている身でさえ分からない。どうしてこんな話を受けてしまったのだろうと何度も後悔したが、結局のところフランスへ呼んでくれた友人の頼みだから断るわけにもいかないのだ。
…まぁ、本当のところ断ったって私は構わないんだけれど、きっとこの皺寄せが諸泉くん辺りに行くんだろうと思うとさすがに気の毒に思ったのだ。
そもそもこのフランスの件も彼が全部手配してくれていたんだし、フランスにいる間くらいはなるべく彼の仕事を増やしたくないと思っている。
脱いだコートをハンガーに掛けてからもう一度キャンパスへと向かい、あと1週間では終わらせようと筆を手に取った。
筆を置くとキッチンからいい匂いが漂っていることに気がついた。窓の外はすっかり暗くなっていて、あれからどれくらい経ったのだろうかと時計を見ると3時間は過ぎていた。
そろそろ彼も終わっただろうかとキッチンへ向かうとすっかり出来上がったケーキを前に彼が携帯を弄っている。彼の後ろにあった椅子に腰を下ろして「終わったの?」と尋ねると彼が「うん」と頷いた。
「今レシピまとめてる」
携帯から視線を逸らさずに彼はそう言い、私はテーブルの上のケーキへ視線を映した。
大きめの梅の実を適度の大きさに切り、それを他の果実と一緒に焼き上げたスポンジはとても美味しそうだ。松の実やくるみなどの木の実をベースにしたタルトには冷蔵庫に入れてあった梅のジャムを使ったようでそれもとても美味しそうだ。
「もう少し色が欲しいんだよね。でもベリー系は何か違うし…もう少し考える必要あるなぁ」
ひとりでぶつぶつと呟く彼は自分が作ったケーキを真剣な目で見ている。
絵を描く時、私もこんな目をしているのかなと何となく思った。考えてみると絵を描く私の傍らで手持無沙汰に寂しく膝を抱える彼を何度も見ていた。もしかして今は私がそんな風になっているのかな。そう考えるとそれがとても面白く思える。
「なに?」
彼の腕を引いて引き寄せると彼は困ったように振り向いた。
その言葉に答えを返さず、腕をもう一度引いて顔が近付いた時にそのまま唇を合わせた。梅の甘酸っぱい味が舌へと伝わる。このジャムは確か私が作ったっけか。
「今、まだレシピが」
そう言って背を向けた彼の腰を抱き寄せて膝の上へと無理やりに座らせると、彼は私の手を一度軽く叩いた。
離して欲しそうにしている彼のうなじへと舌を這わせると体の動きが止まり、シャツの下へと手を捻じ込んで肌へ触れると手が冷たかったのか彼の背筋が震えた。何度か触れるだけで勃ちあがった胸の突起を指先で強めに押し、そのまま首筋へと吸い付いて歯を立てる。
くるりと振り向いた時の彼の瞳は潤んでいて、微かに開いた唇からは大人っぽくなった声で私の名前が紡がれた。
携帯をテーブルへと置く余裕もなかったのか、携帯を床へと落とし、そのまま彼は向きあった私へとしがみ付くようにきつく抱きつく。
何度も唇を合わせ、その間に彼の服を脱がせる。
「ケーキも美味しそうだけどこっちも美味しそうよね」と目の前にあった乳首へと舌を這わせると彼は「美味しくない」と首を振り、私の顔を離そうとする。
強情なその態度が可愛いんだけれどもっと可愛いくなってほしいと思ってテーブルの上に置かれていた小皿を手繰り寄せた。それには余った梅のジャムが入っていて、それを指で掬って彼の胸へと塗りつける。
「あ、何すんだよ、馬鹿」
「何って、これなら美味しいんじゃないかなって」
「やだっ…吸う、なぁっ」
ジャムを舌で舐めとって吸ってやると彼の足が跳ねて髪を痛いほど掴み、軽く歯を立ててあげると何度も小さく彼は喘ぐ。
胸から唇を離して彼を見ると彼はとろんとした瞳で私を見つめて抱きついて、まるでもっと触って欲しいというように彼は体をすり寄せて来る。
猫みたいなその仕草は出会ったときから変わってなく、相変わらず可愛いと思う。
「腰、浮かせて」と言うと彼は素直に従って、ズボンも下着も簡単に脱がせた。
白い肌に吸い付いて歯を立てると彼は震えながら声を上げて首を横に振り、その度に長い前髪が垂れてきて頬に触れてくすぐったい。
完全に勃ちあがって先走りを零す彼のものへと触れて扱いてやると彼の唇から甘い悲鳴みたいなものが零れた。
ぐちゅぐちゅと音を立てて扱くと彼は首を振りながら声を必死に殺そうとする。噛み締めた唇が痛そうで、自分のものを重ねて舌でその唇を舐めてあげた。
「君、生クリーム好きだったよね」
スポンジの傍らに絞られた生クリームを指で掬うと彼は少し驚いたように私を見た。
それに気付かない振りして広げた彼の足の奥へとその指を持って行こうとすると彼が慌てて私の手を掴む。
「どうしたの?」
「塗る、つもりだろ」
「あ、分かった?」
「やだ」
「塗るのは嫌?」
さすがに生クリームを潤滑油代わりに使うのは嫌らしく、彼は私の言葉に素直に頷く。
そんな彼の唇へとクリームのついた指を近付けると何かを察したらしい彼が小さく唇を開いて赤い舌を覗かせ、そしてそのままクリームのついた指先を舐め上げる。
彼の口の中で指を好きなように動かし、もう片方の指で先走りで濡れた入口をつついてそのまま指を挿れてみる。
ゆっくりと二本の指を飲み込んだそこはとても熱く、かき混ぜるように動かすとぎゅうと締めつけてきた。
「んっ…ふぁっ…あっ」
指を増やせば彼の口からは甘い声が零れる。その声まで食べるように口付け、ようやく唇を離すと彼が甘い溜め息を吐いた。満足してるような、まだ足りないと求めるようなその視線が何よりも雄弁で、目の前にあった乳首へと顔を寄せて啄ばむと彼の腰が揺れる。
「君さ、胸だけでこんなに感じちゃうなんてほんとやらしいね。ニックともこういうことしたの?」
私の問いに彼は息を止めた。
そして驚いたように目を見張って見つめてくる。
「な、んで」
「んー?だって彼は君を好きでしょう?この家来る度に私に色々宣戦布告してきたからきっとそのうちそういうことになるんだろうなって。君の場合、ニックに情もあるから流されそうだと思ってね」
指先を動かしながらそう返すと彼は小さく喘ぎながら首を横に振った。
「ちが…んっ…してなっあっ」
彼の弱い場所へとわざと触れると彼の瞳に涙が滲む。
ぎゅうと首筋に抱きつかれて、顔が見えないのをいい事に何度もその場所へ触れては脇腹へと舌を這わせた。
暫く震えてるだけだった彼が私の顔を手で引き剥がし、じっと覗きこんできた。
そして小さく震えるようにした唇が開いて、彼は息をすぅっと吸い込んだ。そして息と同時に言葉も一緒に吐き出す。
「俺は、アンタ以外とこーゆーことしねぇって決めてんの」
涙交じりにその言葉を告げると彼はぎゅうと抱きつき、唇を塞いでは腰を揺らす。
ズボンを寛げて勃ちあがったものを取り出すと彼の喉が鳴ったのが分かる。そして何も言わずに彼は腰を浮かせて自らそれを中へと埋めようと腰を落として行く。
こんな風に自分から動くようになったのはいつからだっけ。
そんな事を考えていないと彼の熱に持って行かれそうだった。
肩へと顔を埋め、熱い息を吐きながら体を摺り寄せてきた彼が「動いて」と懇願してきたのでその額へと口付けを落としてから彼の腰を抱きかかえた。
*:*:*
もうすっかり熱を奪われてしまったケーキを冷蔵庫へと冷やして振り返ると裸のまま椅子の背もたれに縋りつくようにして座っている彼と目が合った。
最初の頃は裸になるのを嫌がってすぐに服を身につけようとしていた彼も今ではそんな様子を見せない。寒いだろうからと肩から掛けてあげた薄手の羽織り物の緑が眩しい。
彼の瞳にはまだ涙と熱と甘さが残っていて、視線を向けられるともう一度泣かせてしまいたいという欲が顔を覗かせる。彼は私の劣情を煽る事にかけていえば、世界一だろう。
そんな彼の形のいい薄い唇が小さく開く。そしてまだ甘い余韻を残した声が冷たい空気を揺らす。
「…ニックのこと気にしてたの?」
「…別に?」
それだけ告げると彼はまた唇を閉じてじっと見つめてきた。
そんな顔して男を見るのはやめた方がいいと教えた方がいいのだろうか。こんな顔を見せられたら若いニックの理性なんて簡単に消し飛んでしまう。彼はいまいち自分自身の事を分かっていない節がある。
まぁ、それらは全部私が教えないように、あるいは勝手に教え込んだものなのだけれども。
「俺、知ってるよ」
彼は悪戯っ子のように少しだけ瞳を細め、瞳とは違って唇の端は大人っぽく持ち上げた。
その弧を描いた瞳と口元が綺麗だ。いつの間にこんな表情をするようになったのだろう。
「アンタ俺のことばっかり言うけど、他の奴がいいのはアンタの方だろ?」
彼の言葉は予想外なもので、私は一瞬言葉の意味を考えてしまった。
「ほらビンゴじゃねーか。アンタは俺が邪魔だからニックと俺がどうにかなればいいって思ってんだろ」
「私は君みたいな若さはないよ、何でそうなるのよ」
そもそも現場を見たわけじゃないんでしょう?と問い掛けると彼はぎゅうと唇を噛みしめた。
さっきまでの大人びた表情は消え、まるで迷子になった子供みたいに泣きだすのを堪えているのが分かる。
「見たわけじゃないけど、でも、だって、アンタ他の人描いてんじゃんか」
彼の瞳からぽろりと涙が一粒零れるのがスローモーションで見えた。
真珠みたいにキラリと光ったその涙は頬を伝って、床へと落ちて弾ける。
「…でもそれは私が他の人に入れ込んだ事にはならないでしょ?」
「分かってるけど、でもやだ。アンタが他の人とキスするよりもアンタが他の人描く方がずっとずっと嫌だ」
子供の癇癪みたいに少し声を荒げた彼は今度は寂しそうな声を出して「だから俺以外描かないで」と呟く。
彼が唇を横に結んだ後に部屋に訪れたのは沈黙で、私は彼の表情と寂しそうに揺れた指先を見つめていた。それらを描きたいととても強く思ったのだ。
「…嘘。別に今の、ほ、本気じゃないから」
我に返ったのだろう。彼は慌ててぷいっと視線を逸らして膝を抱きかかえた。長い脚が綺麗に折れ曲がり、小さな椅子に収まっている。こういうのを見る度にやはり人間の体ほど機能的な物はないと思う。
「いいよ」
手に持っていたコーヒーカップをテーブルの上に置くとその音がやたらと響き、彼はピクリと体を動かして恐る恐る顔を上げる。
泣きだしそうな彼へと触れてあげたくて一歩一歩近付くと彼は更に体を小さくする。その様子がとても愛しい。柔らかい彼の髪へと触れ、長めの前髪を掻きあげると大きくて鋭い瞳がよく見える。
「いいよ」
もう一度そう告げると彼は震えたような声で「ほんと?」と尋ねる。
さっきまで膝を抱いていた指先が私の指先へと触れる。さっきまであんなに熱かったその指も今はもう冷え切っていた。
「もう君以外描かないよ」
腰を曲げて彼の唇へと吸い付くと彼の手が私の首へと回る。折角掛けてあげた服が床へと落ちてしまった。それでも彼は何度も舌を絡ませてはぎゅうと抱きついてくる。
ようやく唇を離すと紅潮した頬のまま彼が私の名前を呼ぶ。
「ベッドがいいの?」
私の問いに小さく頷いた彼の額へともう一度キスを落として私は彼の手を取った。
好きだとか愛しているとか彼は一度も告げなかったし尋ねて来なかった。
それどころかこの関係のことについても一度も言及はしてこなかった。
そんな彼の我儘ひとつくらい聞いてやらないとさすがに大人としての立場はない。
まぁ、立場とか本当はどうでもいいんだけども。
好きだとも囁けない彼がくれた「明日は学校休みだから」という言葉が最大の愛の言葉に聞えたのは私が既に盲目になっているからだろうか。
まぁ、何はともあれ、私が彼以外の人を描くことはないだろう。あの絵ももう完成させずに焼いてしまおう。
明日の朝にあのケーキを食べようかと彼へと聞いてみると彼はじゃあコーヒー淹れてよと笑った。
(fin.)
(2010/07/16)