(全ては君を裏切らない)
カランコロンとドアが開く音がして顔を向けると少しだけ眉間に皺を寄せた機嫌が悪そうな顔が見えた。
「キッチン借りる」
それだけ告げると彼は大きな袋を抱え込んで部屋の奥にあるキッチンへと向かう。外が暑かったのか、前髪が汗で額に張り付いていた。
「いいけど、」
私のその声を背中に受けて彼はキッチンへと消えていった。
ガラス窓の向こう側に見える小さな四角に切り取られた空は青く、夏の色をしている。
もう季節が変わったのか。何となくそんな事を思って一度ドアを開けると熱気が室内へと流れ込んでくる。じわりと肌に触れて溶けていくような熱気に彼の体温を思い出して思わず笑みを浮かべた。
ドアにぶら下げていた板をひっくり返し、「CLOSE」にしてから鍵をかける。
どうせこんな暑い日にこの店へ足を運ぶ人などいないだろう。
暫くはグラスを拭いていたのだけれど休憩するために手を止め、傍らに置いていたスケッチブックと削ったばかりの鉛筆を持って彼がいるキッチンへと向かった。
足音を消してキッチンを覗き込むと私に気付いていない彼が眉間に皺を寄せたまま無心でボールの中身をかき混ぜているのが見える。
テーブルの上に散乱している材料を見る限りスポンジを作っているのだろう。
ドアを静かに開けてキッチンにある椅子を引き寄せ、彼の横顔が綺麗に見える位置に腰を下ろしてスケッチブックを広げる。それでも彼は無心にボールだけを見つめてかき混ぜていて、私が適当に鉛筆を走らせるとようやく視線をこちらに向けた。
「顔だけでいいから動かないで」
そう注文すると、彼は簡単に止まってくれる。
はじめの頃はじっとするのが苦手で何度も動いては困らされたけれど、最近ではピタリと止まってくれるようになった。そこに時間の流れを見る。
手はずっと動いているにも関わらず首から上だけはぴたりと止まった彼の眉間にはまだ皺が寄っていた。
私はある程度描いて満足すると鉛筆とスケッチブックをテーブルの上に置いた。それに気付いた彼は首を鳴らして眉間に皺を入れたまま生地を捏ね始める。
去年の春辺りにケーキの作り方を覚えた彼は感情が波立つことがあるとこうやってキッチンに籠ってケーキを作るようになった。
はじめの頃は卵割るのさえ危なっかしくて見ていられなかったのだけど一年も経てば中々様になるようになってきた。
色が統一された食器を使う彼の瞳に食器に反射した光が入る。黒い瞳に映り込むその光の色合いがとても綺麗に見えて絵になると思う。
レシピを用意していない様子だったので得意のショートケーキかと思っていたが、携帯をパカッと開いた彼はしばらく携帯を見つめた後に袋からクリームチーズを取りだしたのでもしかしてティラミスケーキかなと思い直した。
最近の子はレシピすら携帯に登録しているみたいで、彼が紙に何かを書き留めるところを見たことはない。
彼は元々器用な性質で、また凝り症でもあった。
ケーキを作るようになってからというもの日々腕を上げ、今では私よりも上手に焼けるんじゃないだろうか。
全ての過程が終わったのだろう。椅子へと腰を下ろした彼はやっと私の顔を見た。そして何か聞いてほしそうにしている。
分かりやすいその表情に苦笑しながら「どうしたの?何か嫌な事あった?」と聞くとよくぞ聞いてくれましたとばかりに彼はこちらへと向き直って椅子の背もたれを前にして腰を下ろす。
「今日、体験入学行ってきたんだけどやっぱりどこもレベル低くてさ、スポンジケーキなんてもうレシピ見なくても作れるっつーの!」
彼はぷぅと頬を膨らませて前に回した椅子の背もたれへと頬を乗せる。
出会った頃より身長は伸びて、たまに大人びた顔を見せるけれどやはりこういうところは変わっていない。
「そうねぇ。君、もうある程度作れちゃうもんね」
「…俺、どこの専門入ればいいんだろう。皆もう進路決めてんのに」
そう呟いて彼はガタガタと椅子を揺らした。
高校三年の夏といえば、確かに進路が決まっている生徒の方が多いのだろう。
彼の友人である伊作君に至っては医学部を受験するらしく、高校一年の頃から塾に通っていたのだから未だ進路がはっきり決まっていない彼は不安なのかも知れない。
「文次郎の奴も大学行くって言うし、小平太だって体育大だってさ。ほんとにみーんな進路決まってて、俺だけ何にも決まってねーの」
「…でも料理の学校行きたいんでしょう?」
「そう思っていろんなとこ見てるんだけど、わざわざ行く必要あるのかなって思う」
彼は少し考え込むような顔をした。
出会った頃は彼がこんな顔をするようになるとは思っていなかったのだが、やはり時間が経つと人間は成長するもんだ。それを少し寂しく思いながら「そうねぇ」と適当な言葉を呟くと、彼は少し期待したような目を私へと向けた。
自分より年上というだけで彼は絶大な信頼を私に寄せている。まるで私なら何でも解決できると思っているのだ。出会った頃から変わらず、彼はまだまだ子供だ。
*:*:*
彼が菓子作りを教えてほしいと言ってきたのは去年の春だった。
人気店のケーキがさほど美味しくなくて、当たり外れが多すぎると嘆いた彼は自分で作れればこんなにがっかりすることはないんじゃないかと思い至ったらしく、菓子作りを教えて欲しいと頼んできたのだ。
モデルをずっとやってもらってたし、今度はこっちが要求を飲む番だと思って快く請け負い、週に2、3回ほど彼と一緒にケーキを作るようになった。
一年も経てばケーキだけでは飽き足らず、マカロンや焼き菓子なども作れるようになった彼は趣味をケーキ屋巡りからケーキ作りへと変え、最低でも週に一回はこの店のキッチンを借りてひとりでケーキを作るようになった。
はじめは単なる自己満足に過ぎなかったケーキ作りも家族にケーキを食べさせて褒められた頃には目標が変わったようで、作るケーキの完成度も上って行き、今では店に出してもいいレベルにまでなっている。
そんな彼が専門学校のレベルの低さにうんざりするのも仕方がない。
日本の専門学校だと今の彼は既に卒業レベルなのだ。
「私に菓子作り教えてくれた人が今菓子作りの学校やってるのよ。そこだと君くらいのレベルじゃ笑われるだろうね」
「…へぇ!」
彼が興味を持った。目がキラキラと輝いたのだ。あまりにも分かりやすくて私はもう一度苦笑を浮かべた。それすら気にならないのか、彼は私の言葉を前のめりになって待っている。
「大きなコンクールも主催していたりしてて結構力入れてるみたい」
「へぇ、その学校どこにあんの?」
彼のその質問に笑顔で「パリ」というと、さっきまでキラキラしていた瞳が一瞬でしゅんと悲しそうな色になった。
「興味ない?」
「…興味っていうか、パリってフランスのパリだろ?」
「そうよ。フランス以外のパリがよかったの?」
「…俺、海外なんて行った事ねーし、金もねーし、フランス語も喋れねーし」
彼は俯いたかと思うとブツブツと小さな声でそう呟いている。きっと今彼の胸の中ではいろんなものがせめぎ合って葛藤しているのだろう。
「私も仕事で暫くフランス滞在しなきゃならなくてね」
「え?」
彼のその声がとても幼く聞えて、一瞬幻聴かと思った。
目を丸くしている彼は出会った頃と同じくらい幼く見える。
「え、まじで?」
「嘘吐くわけないでしょ」
「…フランスに行くんだ」
「そう。だから君もどうかなと思ったんだけどね」
「…」
彼は驚いたような顔から一瞬泣きそうな顔をした後に考え込むように固まった。
暫くは待ってみたのだが5分経っても彼は何も言わない。
「まぁ、色々考える事はあると思うんだけど、まずは自分がどうしたいか決めておくのが大事だと思うよ?」
「…自分がどうしたいか」
「そう。行きたいの?行きたくないの?」
私のその問いに彼は視線を逸らさず、力強い声で「行きたい!」と答えた。
「そう?良かった。あ、そろそろ片付けした方がいいかもね」
散らかったテーブルをちらりと見やると彼がパッと立ち上がって「あ、忘れてた!」と慌てだす。彼のこういう素直なところは私にはもうないもので、だからこそ眩しいのだろうか。
「頼むね」
「あ、うん」
汚れた道具を流し場まで運ぶ彼の背中にひらひらと手を振ってキッチンから出ると店の電話が鳴っていた。店の電話は古い黒電話でジリリリリと鼓膜を揺らす。受話器を取ると聞き慣れた声で『お久しぶりです。教授』と聞えてきた。
「やぁ、諸泉くん。ちょうど連絡しようと思っていたんだ」
『例の件のお返事をそろそろ頂きたいと思って…』
「あぁ、それね。受けようと思うよ」
『え?えぇ?!それ本当ですか?!え、本当にフランスで、あ、』
電話の向こうでコップか何かが床へと落ちる音が聞えてきた後に『熱っ』という声が聞えてきた。
きっとお茶かコーヒーを零してしまったのだろう。
「それで君についでに頼みたい事があるんだけど」
『はい…!何でしょうか』
嬉々とした声で答えてくれた彼へフランスの菓子学校の名前を告げる。
「そこのパンフレットも用意してくれるかな。パンフの日本語訳と、あと語学学校か家庭教師のことも調べておいてくれると助かるよ」
『はぁ』
諸泉くんの少し戸惑ったような声を聞えなかったふりをして「じゃあ頼んだよ」とだけ告げて電話を切った。
諸泉くんは暫く考えた後にすぐに行動に出てくれるだろう。彼なら2週間後には私が欲しい情報以上のものを揃えてくれるに違いない。それらが全て揃ってから彼へとまた話を持ち出してみようか。
受話器を戻して振り返るとキッチンから彼の鼻歌が聞えて来て、たまに半音ずれるその音に思わず笑ってしまった。
(2010/07/10)