( 同じ顔の知らない人 )
放課後の教室で一際大きな笑い声が起きる。視線を向けると教室の後ろの方で隣りのクラスの留三郎が小平太と二人で何やら遊んでいた。肩を寄せてひそひそと喋っているかと思うとすぐに大爆笑が起きて留三郎は机をバシバシと叩いていた。笑いすぎて目尻に浮かべた涙を指で拭い、視線に気付いたようでこちらを見る。
「長次!お前も来いよー」
そう言って手招きする留三郎に俺は首を振った。
バレーボールを抱えながら机へと腰を下ろしている小平太と同様、iPodを片手に笑っている留三郎はどこにでもいる普通の高校生にしか見えない。いや、普通の高校生なんだろう。もうすぐバスが来る時間なので腰を上げるとそれに気付いた留三郎がもう一度「長次」と名前を呼んだ。
「帰んの?」
その言葉に頷く事で返事をすると留三郎は「じゃあまたなー」とひらひら手を振った。細められた目元が西日に照らされた赤く染まっている。その画がこの前雑誌で見掛けた絵に似ているような気がして息をのむ。けれど次の瞬間には留三郎はまた小平太の方を向いてはケラケラと笑っていた。
帰り道、バス停の目の前にある本屋へと足を運んで、先日も手に取った雑誌を開く。それは日本で活躍する画家や陶芸家、写真家などの作品が載る月刊誌で、高校一年生が興味を持つようなものではない。けれど中在家長次は骨董屋をやっている祖父の影響もあって中学に上る前からこの雑誌をよく読んでいた。そして高校生になってからというもの、祖父の雑誌を借りて読むだけではなく、自分用に一部購入するようになったのだ。
その雑誌の巻頭のページを開くと右下のページに一人の画家を紹介する文と、最近の作品として絵が一枚載っていた。その絵が隣りのクラスの食満留三郎によく似ているのだ。
体を壊して出掛けることが出来ない祖父に頼まれてこの雑誌を買いにきた長次はこの絵を見つけて、あまりの衝撃に思わず買わずに帰ってしまった。それほどこの絵は留三郎によく似ていて、そして随分と違っているように見えた。
学校で見る留三郎はジャンプを立ち読みしている高校生と何ら変わらない印象を受けるのにも関わらず、この絵からそんな凡庸さはひとつも見られない。こちらへと向けられたその視線に漂っているのは同い年と思えないほどの気だるさと色気で思わず長次は息をのむ。
これが留三郎なのかどうか、結局何度見たところで長次の中で結論が出るはずもない。同じ顔なはずなのに長次の知っている留三郎とこの絵では身に纏っている雰囲気が違い過ぎているのだ。
結局のところ、長次は今日も雑誌を買わずに帰宅した。
古い町の商店街の隅にある古びた骨董屋の暖簾をくぐって「ただいま」と長次は小さく告げる。この店の品物はすべて祖父が足を使って探し出してきたものであり、あんまり売る気もないのだということを知っている。要するに祖父のコレクションなのだ。その中のひとつ、店の中で一番目立つ場所へと掛けられている絵を長次は見上げた。それは祖父が今現在注目しているらしい画家の絵で、十年程前に最後に描かれた人物絵だそうだ。祖父がこの絵をどれくらい大切にしているか、長次はとてもよく知っている。
「長次、帰ったのかい?」
奥から祖父の声がして顔を覗かせると体を起こした祖父がお茶を淹れながら「買ってきたか?」と尋ねてきた。
「…売り切れていた。今度別の本屋寄ってくる」
「そうか。仕方ないのう」
祖父は長次の分のお茶を淹れると隠してあったきんつばを出して来た。
「吉田さんが今月号には雑渡が載っておるって言っておってな、それが見たくて仕方ないんだよ。明日にでも買ってきてくれると嬉しいんだが、明日は学校休みだろう?」
祖父から出されたお茶を飲みながら長次は静かに頷く。すると祖父が嬉しそうに笑って「きんつばもうひとつあげよう」と自分の分まで長次の皿へと盛った。
『雑渡』と言うのは祖父が今一番注目している画家だ。店の一番目立つところに掛けられたあの絵を描いた人でもあり、そして留三郎によく似た人物の絵を描いた人でもある。
『雑渡昆奈門』それがその画家の名前だった。
翌日、長次は朝から家を出た。祖父の為に雑誌を買う為でもあったが、それとは別に目的があったのだ。都内の小さな店で『雑渡昆奈門』の最近の作品を集めた絵画展が開かれる。その会場にはきっとあの絵もあるだろう。本物を見ればあれが留三郎なのかどうかも分かるかもしれないと思って向かったのだ。
お洒落な町の一角にあるやたらと白いその店には結構な人が集まっていた。絵画展初日の今日は本人が来ると言うことでちらほらと記者の姿も見える。整理券の順に並んで絵画展のオープニングセレモニーが始まるのを待った。客層はかなり幅があったが若い客の殆どが美大生の印象を受けた。少なくとも高校生でこの場所にいるのは自分くらいだろう。
道沿いにある壁はガラス張りになっており、外からも絵が見える。一番手前に掛けられた絵はやはり留三郎に似たモデルが和服を着流している絵だった。
時間になり、会場へと足を踏み入れるとセレモニーが始まった。祖父から何度も話を聞かされていて絵はよく知っているけれど本人を見るのは初めてだった。
『雑渡昆奈門』は包帯を顔や首に巻き、全身黒の服に身を包んで登場した。真っ白なこの店に本人一人だけが浮いている。そして声は意外と若かった。
本人の短い挨拶が終わり、関わった人達が代わる代わる一言述べてすぐにセレモニーは終わった。今回の絵画展には十作品が出展されていてそれらが白い壁に綺麗に掛けられている。十作品中、人物画は四作品でそのどれもがやはり留三郎によく似たモデルの絵だった。そしてその絵の前には人だかりが出来ていて、長次は遠くからその絵を眺めた。
一時間ほどかけて総ての作品を見終わり、一番始めの作品に戻ってくると入口にほど近い場所でインタビューが始まっていた。
本人にこの絵のモデルのことを尋ねようと思って隙を窺っていたのだけれどインタビューは中々終わりそうもなかった。その理由も長次はよく知っている。
十年前に最後の作品を残して人物画をぱったりと描かなくなったこの人がまた人物画を描き始めたのだ。しかもその絵のモデルは全て同じ人物で、そのモデルの事が気にならない人はいないだろう。やはりインタビューもその辺ばかりになっていて、モデルの事を聞かれると雑渡昆奈門はさらりと笑みを浮かべたままその質問を流していた。
これはもしかしたら聞けないかもしれないな。そんな事を思い、もう帰ろうかと外へ視線を向けた時、留三郎を見つけた。すぐ傍の通りを雑誌に視線を落としながら歩いているのだ。
「で、この少年のことなんですけど、何かしらヒントというのは頂けないんでしょうか?」
インタビューというよりもはや質問大会のようになっている記者と雑渡昆奈門の方へ視線を向けると、雑渡昆奈門が付き人を呼んで何やら耳打ちをしていた。その視線は外へと向けられている。その眼が厳しく細められたのを見た時、長次はあの絵のモデルはやはり留三郎なのだと確信した。そしてすぐに店を出て、雑誌を読む為に足を止めていた留三郎の肩を叩く。
「お、長次!どうしたんだ?」
「…留三郎こそ」
「俺は、この辺に新しいケーキ屋出来たって雑誌に載っていたから探してんだ。お前も一緒に行かないか?」
「その店ならこっちじゃないよ」
留三郎の手を取り、店を離れようと足を進める。不意に店の中へと視線を向けると雑渡昆奈門と目が合った。その薄い唇が「ありがとう」と動いたような気がしたが、すぐに見切れてしまい、それが本当かどうかはよく分からない。
勝手なことをしてしまったのかも知れないと思ったが、やはりあの場で留三郎が見つかってしまうと面倒くさい事になるような気もした。記者たちは答えようとはしない雑渡昆奈門へと何度もモデルの話を聞こうとしていたのだ。そんな場所へ本人がうっかりやってきたら質問責めに合うのが落ちだろう。
「美味い」
目の前でモンブランを食べながら幸せそうな顔をしている留三郎に自分の分のケーキが乗っている皿を寄せて「食べていいよ」と言うと驚いたように目を見開かれた。そして本当に嬉しそうに微笑まれる。その笑顔に少しだけあの絵の面影が見えた気がしてあぁ、やはりモデルは留三郎なのだと実感した。
何をどうしたら留三郎があんな表情をするのか知らないけれど、それでもあの絵のモデルは留三郎に違いない。
納得してコーヒーを飲むと長次は自分がずっと動転していた事に気付いた。きっとあの雑誌に載った絵をはじめて見た時から今までずっと動揺していたのだろう。
「なぁ、今日は何してたんだ?」
「絵。絵を見ていた」
「…へぇ、絵か」
思うことがあるのか、留三郎は少し複雑な表情を見せた。そして何か言いたそうにもぐもぐと口を動かしたが結局言葉が紡がれることはなかった。
「本屋寄って帰るから」
「そっか、じゃあ月曜な!」
留三郎は大きく手を振り、その姿が見えなくなるとようやく俺は足を動かした。まだやっているだろうかと時計を確認して、もう一度絵画展の会場へと向かった。あの絵をも一度見たいと思ったのだ。
閉店間際の店の中はさすがに客の数がぐっと減っていた。自分の他に二、三人しか見ている人はおらず、さっきはちゃんと見れなかった分、ちゃんと見ようと留三郎の絵の前で足を止めた。
この絵を描いたあの人には留三郎がこんな風に見えるのか、そう思うと二人の関係を疑いたくもなる。記者たちがあんなにモデルの話を聞きたかったのは被写体との距離が近すぎるように感じたからではないだろうか。感情のフィルターが掛かっているようにも思え、この人は留三郎のことを好きなんだろうかとふと思った。年齢差があるにも関わらず、それらがちっともおかしく思えないのはこの絵にそれを匂わせる節があるからだろう。
「君」
耳元で囁かれ、振り返ると雑渡昆奈門が立っていた。ぺこりと頭を下げると「君、あの子の友達?」と尋ねられる。あの子、とは留三郎のことだろう。静かに頷くと「びっくりしたでしょ?」と笑われた。
「でも助かったよ。まさかあのタイミングで本人が来るとは思ってなかったからね。お礼に何かしたいんだけど」
何がいいかな、と言われて少し考えた。本来ならお礼なんていらないと言うところなのだけどこんな機会は滅多にないだろうと思ったのだ。
「祖父が、貴方のファンでうちに一枚絵があります」
「へぇ、そうなの」
「絵画展にも今度連れてこようと思っています。祖父に挨拶でもしてもらえないでしょうか?」
雑渡昆奈門は暫く黙って考えた後、「水曜なら来れるよ」と答えた。
「水曜は学校があるので、遅くなります。間にあわないかもしれません」
「それでいいよ。閉店したあと、君とお祖父さんだけ入れてあげる。そこで挨拶でも話でもしようじゃないか。私の絵を買ってくれた人とちゃんと話をするのははじめてだからね、私も楽しみだよ」
雑渡昆奈門は「じゃあ水曜に」と言うとさっさと立ち去って行った。
画家が時間を空けてファンと会ってくれるなんて、と驚いたが、きっとこれもあの人にとって留三郎がかなり大切だからなのだろう。
学校で留三郎には礼を言わないとなぁ、と思いながら俺は黙って絵の留三郎を見つめた。
(fin.)
(2010/07/04)