( apple pie*** )





雨の匂いが部屋に充満していて息が苦しい。静かすぎる室内では物音ひとつ立てることすら慎重になって呼吸をするという行為すら自然にはいかない。慎重に慎重にと気を付けているといつも思わぬところで手を伸ばされたりキスを落とされる。

「…ぁっ」

舌に甘く歯を立てられただけで首筋が粟立つ。目の前では男が愉しそうに目を細めていて、俺は瞼を閉じた。
男の部屋に泊まった日から一日とあけずに通うようになってしまった。そしてこんな風にキスをしたり体に触れたりしている。さすがに一階で最後までする事はないけれど、いつも際どいところまで流れてしまって一度指を入れられた時は男の耳に噛み付いてやった。

「…よく我慢できるねぇ」
「…な、にが?」
「最後までしないでってこと」
「別に、我慢してるわけ、じゃねぇ、し」
「そうね。君、毎回ちゃんとイってるもんね」
「っ…今日は、も、終、わりって、言った」

首筋を舐められて思わず男の服にしがみつく。先ほどまでの行為の余韻で体にうまく力が入らないのだ。

「いや、さっきまではほんとにそう思ってたけど、君、可愛いから」
「お、れの所為に、すん、なっ…あっ」
「でも、君もこういうことする為に来たんでしょ?」

男の低い声が耳元で弾けてくらくらする。酸欠でぼんやりしてきた思考で男の言葉を脳内で繰り返しても答えが出ない。

「んっ…、せっ、かく、着たの、にっ」
「んー、そうねぇ。また後で着たらいいじゃない」
「さ、いてい」
「今頃気付いた?君のそういう鈍いとこ、嫌いじゃないけどね」

クスっと笑われる。でもそれが嫌じゃないのが嫌だった。
男の指が上から順に下がって行くのを意識で辿る。左手は完全に勃ちあがったものを丁寧に扱いていて、そっちへと全ての感覚が引きずり込まれてしまいそうだ。またさっきみたいに流されると頭で思っていても、男と俺では経験の量が違いすぎて抵抗しても無意味なものとしか思えなかった。

「あっ…やっ…も、くずれ、る」
「そんなに気持ちいいの?」
「うる、さ、っあぁっ」

男の手の平へとまた精を吐き出してその場に崩れ落ちそうになったところを男の手が支えてくれた。俺が出したものをぺろりと赤い舌で舐めとる光景がいやらしくて視線を逸らす。
パラパラと雨の音が戻ってくる。きっとずっと聞えていたのだろうけど俺の意識は男の呼吸音や言葉や心臓の音にばかり集中していて無意識に雨の音を遮断していたみたいだ。目の前で俺のシャツのボタンを締めている男をじっと見つめると「そんなに見つめないでよ、最後までしたくなるでしょ」と笑われる。笑い方がえろい、なんて思ってそっと唇を重ねた。

「君ね、ほんと我慢するこっちの身にもなってくんない?」
「そんなん知らねー」

男の指が最後のボタンをしめて、俺の手はベルトを締めた。

「水と紅茶どっちがいい?」
「水でいい。冷たいのがいい」
「はいはい」

男がキッチンへと戻って行く背中を見届けてから鞄を置いていた椅子へと座り直す。火照った頬が熱くて、カウンターに顔を伏せて男を待っていた。

「お待たせ」

頬に冷たいものが当たって顔をあげると、ガラスのコップを差しだされていた。受け取ろうと手を伸ばすと手を捕まえられ、近付いてくる顔にもう一度瞼を閉じる。
唇が触れる前に、背後でドアが開く音がして驚いて瞼を開く。男も少しだけ驚いたように目を見張っていて、振り返るとドアを開けたまま立ち尽くしている伊作がいた。

「いさ、く?」

驚いて上手く声が出なかった。伊作にはひとりでこの店に来るなと何度も釘を刺されていたし、その約束を破っていたことを知ったなら伊作はきっと怒るだろう。現に今も唇を噛んでこっちを見ている。

「いらっしゃい、伊作くん」

男はまるで何もなかったかのように伊作へと微笑みかける。けれど伊作はいつものようには男の名前を呼ばなかった。

「留くんに何してるんですか?」
「何って?あぁ、睫毛ついてたから取ってあげただけ」

男は俺の頬へ指滑らせて、摘まんだ睫毛を床へと落とす振りをする。落としてしまえばそれが本当か嘘か確かめる術がなくなる。この人は俺とは違って随分と頭の回転が速いんだな、と感心してしまった。

「…留くん」

伊作の声がいつもよりワントーン低い。その声に押されてしまって喉が詰まったように声が出なかった。

「帰るよ、留くん」

伊作が足音を鳴らして近付いて、俺の鞄を肩に掛ける。

「え、なんで」

抗議する前に手首を強い力で掴まれた。

「伊作くんもケーキ食べて行けばいいのに」
「いらないです。ほら、留くん帰るよ」

伊作は一度男を睨みつけた後、すぐに俺の手をひいて店から飛び出した。ドアが閉まる前に振り返ると、ドアの小さな隙間から男が手を振っているのが見えた。

「伊作、なぁ、何そんな怒ってんだよ」

伊作の手を振り払うとようやく伊作は足を止めて振り返る。

「あ、ごめん。手、痛かった?」

俺が手を擦っているのを見て、伊作は肩に掛けていた俺の鞄を俺へと手渡しながらそう言った。どうやら二本持っているらしい傘まで手渡されて、伊作が行きあたりばったりでこの店に来たわけじゃない事を悟る。

「痛くはねぇ…っていうか、今日は塾だって言ってなかったっけ?」
「文次郎にさ」
「は?」

文次郎の名前が何故ここで出るのかが分からなくて思い切り嫌そうな顔をしてしまった。

「文次郎も同じ塾なの知ってるでしょ?文次郎がね、留くんがこの路地裏に曲がるの何度も見たって言ってたんだ」
「あの野郎、何勝手に人を見てんだよ」
「…文次郎は心配してたんだよ?留くんが悪い事に巻き込まれてないかって。だから僕に聞いてきたんじゃないか」
「お前はこの道にあの店があるの知ってるだろ?心配しなくていいじゃんか」
「…知ってるから心配だったんだよ」

伊作はキッと俺を睨みつけた。

「…雑渡さん、きっと犯罪者とか悪い人じゃないってのは分かるけど、でも何をしてるか分からない人だから安心はできないし」

伊作のその言葉に、あぁ、あの人が画家だってことを本当に伊作は知らないのか、と思った。
あの二階にある沢山のキャンバスを、そしてあまりにも普通な暮らしをしていることを伊作は知らないのだ。

「…それに、嫌なんだ」
「…なにが?」

さっきまで俺を睨んでいた伊作が今度は悲しそうな顔をして俯いた。

「雑渡さんと留くんが、僕を置いて仲良くなっちゃうの、とても嫌なんだ。我儘だって分かってるけど、でも嫌なもんは嫌だ」
「…俺にあの人盗られたみたいだから?」
「あの人に留くんを盗られたみたいだから」

きっぱりと伊作がそう言って、その言葉に俺は何も答えることが出来なかった。何か言わなきゃとは思っていたのだけれど真実を告げるわけにもいかないし、伊作を納得させられるような言葉なんて思いつかない。こう言う時あの男なら何て伊作を宥めるんだろうか、そんなことを考えていた。

「ね、もうこの店に来るのやめよう」

伊作は俺の顔を覗き込みながらそう言った。提案したというよりは伊作の中ではもう決定していて俺の意見なんて聞くつもりない、という口調だった。小さい頃から一緒にいるからこうと決めた時の伊作がとても頑固だということを俺は知っている。

「ケーキなら、今度僕が買ってきてあげるからさ、ね、留くん、それでいいでしょう?」
「…え、まぁ、いいけど」

伊作に連れて来られた手前、伊作がもう行かないと言えば俺だけ通い続ける理由なんてない。ここに通い続けた理由のケーキも伊作が用意するって言っているんだから後ろ髪ひかれるなんて思ってはいけない。そう思いながらも、無意識で振り向いていてしまったのを前を歩いている伊作には気付かれなかっただろうか。
透明な傘越しに見上げた空はどんやりと曇ったままで、その色に引きずられたみたいに胸の中にもやもやとした雲が生まれた気がした。


「留くん、これね、駅前の新しく出来た店のガトーショコラ」

伊作が手渡して来た可愛らしレースの模様が描かれている箱を見ながら「別にもう買ってこなくていいよ」と何度目か分からない言葉を掛ける。それでも伊作は俺の言葉を頑なに拒んで、「僕の我儘聞いてもらったんだから、これくらいするよ。あ、次はね、前に留くんが食べたいって言っていた店にするつもりだよ」と笑うのだ。

「別に、自分で食べたいものくらい自分で買うし」
「店にひとりで入れないのにどうやって?」
「もう入れるよ。普通に買ってる。ほら、」

俺が取り出したのは学校のすぐ近くにあるケーキ屋の袋だった。伊作が驚いて目を丸くしたけれど、俺は気付かない振りして袋からカップケーキを取り出す。
毎日毎日甘いものを食べていた生活に慣れきっていたからか、甘いものを欲しがる回数が以前よりぐっと増えて、伊作がたまに買ってくれる分だけでは我慢出来なくなっていた。だから背に腹は代えられない、と自分でも買いに行く様になったのだ。あんなに恥ずかしくて無理だと思っていたことも、慣れてしまえば何でもなかった。

「そうかぁ、じゃあ僕が買わなくてもいいのか」
「前から言ってんだろ、ほら、今日も模試じゃねーの?遅刻すっぞ」

俺の言葉に伊作はぱっと教室の時計を見て、「あ、やばい」と走り出す。

「留くん、また今度一緒に帰ろうね」
「おー、気を付けてな」

伊作の背中に軽く手を振ってから机の上に並んだガトーショコラとカップケーキへと手を伸ばした。堂々と買うようになってからはたまに女子生徒から貰ったりもするし、何だかんだで毎日甘いものを食べている。それなのにどうしてこうも物足りないと思ってしまうのだろうか。
ガトーショコラは甘くて甘くて、一口食べただけで手が止まった。甘ければいいってもんじゃねーのに、と心の中で呟く。

「あーあ、あの人今日は何作ってんだろ」

教室の窓から見える空は眩しいくらい光っていて、あの人の作ったものが食べたいと思った。俺の為にわざわざ生クリームを多めに添えてくれるあの人のケーキが食べたい。

「あ、留ちゃん、もう帰るの?」

教室に入って来た小平太に「おう」と答えると「残念だ」と言われた。

「今からバレーしようって誘いに来たんだけどなぁ」
「悪いな、あ、食べかけでいいならこれやるよ」

机の上に乗っているガトーショコラとカップケーキに小平太の目がきらきらと輝く。

「いいの?」
「うん。俺、今から食べに行くから」
「うわぁーありがとう!」

バタバタと駆け寄って来た小平太が一口でガトーショコラを食べた。豪快な食べ方に思わず苦笑しながら鞄を肩に掛けて帰る支度をする。

「伊作には内緒にしろよ」
「わかった!」
「食べながら喋るな。じゃあな、小平太」
「またね、留ちゃん」

大きく手を振ってくれた小平太に俺も手を振り返して教室を出た。
雨の季節は終わった。今は太陽がぎらぎらとアスファルトを暖めて上も下も暑くて仕方ない。それでも俺のシャツのボタンは一番上まできっちり閉じられている。それもこれもあの人の所為だった。あの人があんなことをしなければ今頃きっとシャツのボタンは二番目まで開けられて、涼しかっただろうに。それでも俺はシャツのボタンをきっちり閉めたままあの店まで歩くのだ。


路地裏に入るとやはり日差しが弱まって、空気が冷たく感じる。この通りだけ別次元なんじゃないかと思うほど表の喧騒とはかけ離れていて久しぶりに来たのにも関わらずほっとした。すぅ、と息を吸って俺は影が落ちているその道へ一歩を踏み出した。
ドアはいつもと変わらずそこにあって、そしていつもと変わらず簡単に開いた。カランコロンとなる鈴の音が前よりはずっと響いて聞えるのは湿気が少ないからなのだろうか。
相変わらず暗い店内に一歩足を踏み入れて、左側に掛かっている絵へと視線を向けた。それらの動作は以前来た時と全く変わっていなかったけれど、絵は変わっていた。前の月と赤い果実の絵ではなくて、思わず目を見開いてしばらく凝視していた。
背後でカタッと物音がして振り返ると、いつからそこに居たのか、何ひとつ変わっていない男がカウンターの向こうに立っている。

「いらっしゃい」
「…アンタの描く赤って、えろく見える。前の赤い果物とか、えろいなって思ってた」

男へと言葉を投げかけて、もう一度視線を絵に戻す。

「あながち間違いじゃないよ。アダムとイブに出て来る赤い林檎みたいに赤い果物は禁忌とか背徳とか、時には性行為を表現したりするからね」
「ふーん」

俺が暫くじっと絵を見つめていると、背後から男が近づいて来る気配がした。静かな空間に、男の乾いた足音が聞える。くるりと男の方へと視線を流すと男の足は止まった。俺は男を見つめながら口を開く。

「じゃあ何で俺の目を赤く塗ったの?俺、アンタを誘った覚えは一度もないぜ?それとも伊作の目も赤く塗ったの?」

目の前で男が困ったような顔をした。それが苦笑なのだと気付くには笑い声が抜け落ちていた。

「君、私のことショタコンか何かだと思っているでしょう。勘違いだよ。私、子供に手を出す趣味はないから」

男のその言葉に、俺は「嘘つき」と返した。現に今、指先が顎に触れた。その指先に、意味がないなんて俺にはどうしても思えない。

「嘘じゃない」
「じゃあ、俺のことはなんて説明すんの?誘われたとかでも言うのか?」

もう一度絵へと視線を向ける。
絵に描かれているのは紛れもなく俺なのに、まるで別人みたいだ。自分がこんな顔するなんて、少なくとも俺は今まで知らなかった。

「自分の描いた絵を、あんな顔で見つめられたら誰だって欲情しちゃうよ」

背後から男が抱きしめて来た。耳元で低く囁かれて、背筋がざわつく。けれど男を引き剥がそうとは思わなかったし、離れてほしいなんても思わなかった。

「だから君のことは、最初から子供にカウントしてなくて、ごめんね?」

男の手が一度だけ強く俺を抱きしめる。力が緩むのに気付いて男の手を自分の手で上から押さえると耳元で男が笑う。

「君は、せっかく伊作君が逃がしてくれたのにどうして戻ってきたの?」
「…ケーキ」
「ん?」
「あれから自分でケーキ買ったりしてたけど、どこの食べても足りなくて、やっぱりアンタの作った奴じゃないとだめみたい」
「砂糖やチョコレートは中毒になるっていうしね」
「…それ、マジ?」

初めて聞く話に驚いて首だけで振り返り男の顔を見上げる。

「あれ、知らない?割と有名かと思ってたけど」

男は首を傾げながら曖昧にそう言い、俺は溜め息を吐いて男の目をじっと見る。

「…あーあ、絶対アンタの所為で中毒になってるよ。責任取ってよ」
「…」

男は目を丸めたまま黙り込んで、一言も言わない。俺は男の腹へと軽く肘を入れる。

「なんだよ」
「いやぁ、いつの間にそんな台詞言えるようになっちゃたのかなぁと思って」
「…馬鹿にしてんの?」
「まさか」
「んで、今日は?」

男へと凭れながら尋ねると、男は俺を抱き止めながら「今日はアップルパイ。今ちょうど焼いてるとこだよ」と答えた。
先ほどまでの話を思い出して、よりによって林檎かよと思ったけれど、この男が差しだすものならきっと俺は林檎だってなんだって躊躇わずに食べるのだろう。

「食べて行くでしょ?」

男の言葉に俺は小さく頷く。

「でも、その前に、」

そう言いながら後ろから抱きついて来る男の顔を見上げ、背伸びをすると男の目が細くなるのが分かった。
下から見上げると本当に男の目は三日月の形をしていて、男のシャツをぎゅっと握り締めると男の顔が近づいて来る。ひさしぶりに触れた唇は相変わらずかさついていたけれど、やはり甘い。自分から唇を薄く開いて男の舌を待った。
本当に中毒になっているのはケーキではないんじゃないか。
男とのキスに夢中になりながらそんなことを思っていた。






(2010/03/30)