ジンジャエールに溶けた夏





長次に話を聞いてもらい、そしてもやもやして何事にもやる気を持てない原因を教えてもらえた留三郎は翌日の土曜日に黄昏書店がある商店街へと足を運んだ。
もうすっかり秋が深まり始めていて陽射しが弱くて風が涼しい。紅葉が始まっていて夏とは違う鮮やかさがある。

「通ったからちょっと見るだけ、偶然偶然」

まるで自分に言い聞かせるように何度か小さく唱え、男から借りた本を背中へ隠しながら留三郎は黄昏書店へとゆっくり近付いた。店は相変わらずひっそりと商店街の端に佇むように建っている。
外からガラス戸を覗こうとする前にガラス戸に貼られていた紙に視線が止まった。

「…何だよ、これ」

思わずそんな声が出た。ガラス戸を見つめたまま呆然とそこに立ち尽くしていた留三郎の後ろを自転車が通り過ぎ、チリンチリンと鈴を鳴らされた。驚いて振り返った道には猫がのんびりと歩いているだけだ。
足早に店の前から立ち去り、留三郎はあてもなく歩いた。何処へ向かっているのかは分からなかったけれど、取りあえず歩いていたかったのだ。

「何だよあれ」

もう一度呟いたその声には怒気に良く似た憤りが含まれていた。
ガラス戸に『バイト募集』の張り紙が貼られていたのだ。紙は真新しく、真っ白で文字もはっきりくっきりとよく見えた。
理屈では分かっている。バイトが辞めたら新しいバイトを雇うのは当たり前の事で普通のことだ。だけどそれがどうしても納得いかない。どうして納得いかないのかが分からないけど納得いかない。
終いにはジンジャエールのシロップを忘れたにも関わらず、連絡を一切くれない男に対しても苛立ってきた。電話番号知っているからかけようと思えばかけられるはずなのに男からの連絡は今のところ一切ないのだ。

「あの人、俺じゃなくてもいいんじゃないか」

もしかしたら諸泉が来るんだろうかと思うとますます苛立ってきて泣き出したくなった。何でここで泣きたくなるのかはよく分からないけど涙が出そうだ。
ずっと足元を見て歩き続けていた留三郎がぱっと顔を上げると見たこともない町並みが広がっている。

「…ここどこだよ!」

当てもなく彷徨った結果だというのにますます泣き出したくなる。
涙が零れそうになった時、目の前の店から木で作られた大きなベッドが箱び出されてきた。運んでいる人達はいかにも肉体労働派という筋肉ムキムキな人達だが、運ばれているベッドはとても細かい細工が施されている。
あまりにも差がありすぎる二つの視覚情報に思わず涙が止まって留三郎はその人達とベッドをじっと見つめた。


*:*:*


ガチャガチャと頭にタオルを巻いた男の人がガラス戸を開けかねていて留三郎はさっとその人の前に立ち、ドアを開けた。

「お、ありがとう」

留三郎の頭を撫でて筋肉質な男が店の中へと足を踏み入れる。そしてその後に2人続いた。

「これか、年季入っているな」
「見ろよ、これあと半年持たないぞ」

店の中で男達は本棚を触りながらそう言い合っている。
留三郎は店の外からその様子を静かに見つめていた。
男達は店内にある全ての本棚を調べはじめ、店の騒がしさに気付いたのかいつもの和服姿でこの店の持主である男が姿を見せた。以前と何ひとつ変わらない顔の半分を包帯で隠した怪しい姿だ。留三郎はその姿を一目見るとすぐに店の壁に一体になるように身を隠す。

「君たち、うちの店に何か用かい?」

本なんて読みそうにもないのだが、と男が皮肉の様な言葉を続けたのが聞こえる。

「いやいや、俺らが用あるのは本じゃなくて本棚ですよ、旦那」
「本棚?」
「そう。古くていつ壊れるか分からないから直してほしいって頼まれたんだ」
「…そんな物好きな人がいるんだねぇ、誰だい?」

男の声が懐かしい。つい1週間ほど前に聞いているはずなのに随分長い間聞いていないような気がした。男の声に聞き入っているとぐいっとシャツの襟を引っ張られ、影から引き摺り出された。顔を上げると頭にタオルを巻いた男が店の中から腕を伸ばして掴まえている。

「え、あの、」

逃れようともがく間もなく男ん前に押し出された。慌てて隠れようとしたけれど男と目が合ってしまった。
もう逃げることはできない。

「…君、」

男の言葉はそこで止まり、それ以上は何もなかった。視線が自分に向いていることは分かる。だから怖くて顔が上げられない。冷めた目で「何しに来たの」なんて言われたら、今度こそ泣くかもしれない。

「前金で払って貰ったので勝手に修理させて頂きますぜ。本には傷を一切付けないようにと言われているんで細心の注意を払いますのでご安心を」

腕捲りをしながらそう言った男は本棚から本を取り出す作業をしている2人に「気を付けろよ」なんて声を掛けて作業を始めてしまった。

「前金って、本当に払ったの?」
「…ん」
「どうして…そんなことの為にバイトしたんじゃないでしょう」
「だ、だって、棚がいつ崩れるのかわかんないし、簡単な本棚なら作れるけど、でもちゃんとしたのは俺も作れないし、アンタは絶対作れないだろう?こんなに高い本なのにアンタは絶対気にしてないんだろうなって思ったから俺が代わりにしただけで…」

そこで一度区切って留三郎は目の前の男の様子を探ろうとちらりと顔を上げた。男の表情からは感情が読みとれない。男が何を思っているのかが全く分からなかった。留三郎は慌ててまた靴の先を見つめる。

「…この人達、隣りの商店街の店の人でしょう、高かっただろうに」
「…高かったよ、アンタから貰ったお金殆ど残らなかった。おかげでゲームは買えなかった…だからさ、あの、」

そこで留三郎は言い淀んで唇を開いたり閉じたりしていた。自分が何を言うつもりなのか留三郎自身分からず、言葉がうまく出て来ないのだ。

「…はぁ」

男が呆れたように溜め息をひとつ吐いた。そしてそれ以上は何も言わずに留三郎の隣りを通り過ぎる。
男のその溜め息の所為で留三郎はもう何も言えない。余計な世話だとか帰れと言われるのだろうか、と想像しただけで涙が出てきそうだ。じっとうつむいて見つめていた靴が段々ぼやけて色が滲んでいく様を睨み付ける。そうでもしないと涙が溢れて来てしまう。一度零れたらきっと自分の意志では止めることが出来ないという事を留三郎は知っていた。

留三郎の前に戻ってきた男が無言のまま何かを差し出す。受け取るとそれはバイト募集の広告が書かれた紙だった。ガラス戸に貼っていたものを剥がしたのだろう。
でも何故これを渡してきたのかが留三郎は分からない。

「これ、なに?」
「捨てておいて。もうバイト決まっちゃったからねぇ」

男は唇の端を持ち上げて笑い、奥の畳間へと戻る。
その背中と自分の手の中にあるバイト募集と書かれた紙を交互に見て留三郎は瞬きをした。

「え?…あ…あ、うん、うん!」

男の言葉の意味がようやくわかった留三郎は慌てて何度も頷く。そして振り返って自分を待ってくれている男を見つめた。
自分が全ての言葉を告げなくとも男は全て分かってくれていて、そして欲しかった答えをくれた。それだけでさっきまでの苛立ちや不安が跡形もなく消えていくのが分かる。

「ほら、早く上りなさい。ジンジャエール淹れてあげる。君、好きでしょう?」
「うん!」

男のその言葉に留三郎は大きく頷いて靴を脱いだ。


畳間は何ひとつ変わってなく、鳩時計もテーブルも座布団も扇風機も以前のままだった。そしてそれがくすぐったいような気もする。
ジンジャエールはいつものグラスに入れられて運ばれてきて、炭酸の弾ける音が涼しく、やはり美味しい。

「やっぱり美味しい」

満足そうにそう呟いた留三郎の向かいに腰を下ろした男が頬づえを付きながらにっこりと微笑む。そして「君、わざとシロップ忘れて行ったでしょう?」と意地悪い声で聞いてきた。その質問には答えず黙って俯いた留三郎だったけれど、耳まで赤く染まっている。それが何よりの答えだということを本人だけが気付いていない。

「わ…わざとだって言ったら?」

開き直ったように唇を尖らせてそう言った留三郎の唇を男の唇が塞いだ。突然の出来事に留三郎は驚いて目を丸くしていたけれど、すぐに瞼を閉じる。そして男の舌を迎え入れる為に薄く唇を開いた。

キスを終えて唇を離すと甘い吐息が零れる。
ぼんやりと男の顔を見つめていた留三郎は思い出したように片手に持っていた本をテーブルの上に置いた。

「…読んだの?」
「うん」
「ちゃんと最後まで読めたんだねぇ、面白かった?」

男は文庫本をぱらぱらと捲りながら尋ねてくる。留三郎はうーんと首を傾げながら呻いた後に「アンタみたいだった」とだけ告げた。

「アンタの本、アンタみたいだった」
「…そう、私みたいだったの?」
「うん」

留三郎は頷いてジンジャエールへと手を伸ばす。久しぶりに飲むジンジャエールはとても美味しくて止まらない。もうすっかり中毒みたいになっている。

「他にも本は読んでいるの?学校なら図書館あるでしょう」

男は文庫本を閉じてにっこり微笑みかける。
確かに図書館には本が沢山あった。でも男の本は入っていなくて留三郎は結局一冊も借りなかった。

「…俺、アンタの本以外好きじゃないみたい。何かアンタの本以外の奴には興味なくて読めないんだ」

だからアンタが書いた他の本も貸してよと留三郎が笑うと男は無表情のまま瞬きを繰り返していた。そして唇を開いたかと思うと溜め息を吐く。

「何だよ、駄目なのか?」

そう言って眉間に皺を刻んだ留三郎の髪へと手を伸ばし、さらさらと髪を撫でた男は「君ねぇ、自分が何言っているのか分かってないんでしょう」なんて言う。

「ほんと、君には負けるよ」

そう言って微笑んだ男の表情は今まで見た中で一番穏やかで、そんな表情で笑ってくれたことが嬉しくて留三郎も同じように微笑んだ。


【おわり】






あとがき

『ジンジャエールに溶けた夏』は『名前のない喫茶店』に続き、雑渡さんが留三郎に悪戯しちゃうお話第二段で、これで終わりです。
うちの現パロの留三郎はただの世間知らずのアホの子でして、今回それが特にひどかったので雑渡さんの犯罪感がパネェ…って思ってました 笑
でも何でも知っている大人より何も知らない子供の方が強いことがあるし、このお話で負けているのは雑渡さんだし、だから犯罪じゃないんだと言い訳させて下さい。
…いや、確実に犯罪だけどね!(笑顔)
6月に思いついたお話で、やっと書き終わらすことが出来てほんとよかったです。
此処までお付き合い下さった方、本当にありがとうございました。
何か感想などがあれば拍手やメルフォからどうぞー^^



(2010/09/25)