ジンジャエールに溶けた夏
教室のざわめきを廊下側の一番後ろの席で眺めていた留三郎は不意に視線を手元に落とした。ポケットから取り出して手の平に握られているのは諭吉の束だ。それは夏休み明けで普段よりざわついているこの教室には不釣り合いなものである。留三郎はその諭吉の束をじっと見つめ、そしてまたポケットへと仕舞い直す。その動作と留三郎のすぐ隣にあるドアが開いたのはほぼ同時だった。
「お前、それ何だよ」
目が合った瞬間にぶっきらぼうにそう言ってきたのは隣りのクラスの潮江文次郎だった。目の下には薄っすらと隈が縁取っていて留三郎と同い年には見えず、大人びているというよりは老けて見える少年だ。しかし精神年齢は留三郎とほぼ同じくらいで中学から顔を合わせれば口喧嘩する間柄だ。
「…それって何だよ」
見られてしまったかと留三郎が強張ったままそう返すと文次郎はそんな留三郎の態度に眉間に皺を刻んだ。
「何って本。お前が本読んでるとこなんて生まれて初めて見たぞ」
文次郎は留三郎が机の上に開いていた本を指差して「どういう風の吹きまわしだよ、明日には槍でも降ってくるんじゃないか」とまで言ってきた。普段なら売り言葉に買い言葉で喧嘩に発展するのだけれど今回は違った。
高校生にしては高額な金額を、しかも裸のままポケットに入れていることが見られてなかったことに留三郎は安堵して詰めていた息を静かに吐く。
質問されたら上手く誤魔化す能力も、さりげなく話を逸らす術も留三郎は持っていない。
「別に本くらい読むさ」
留三郎は冷静な表情のままそう言い、本を手に取って席を立った。
「何処行くんだよ」
「長次のとこ。っていうかお前は教室に何しに来たんだよ。まさかそれだけ言いにってわけじゃねーよな」
「んなわけあるか。伊作が俺の和英辞書借りたまま返さないから、あ、伊作、お前辞書返せよ」
トイレから戻ってきた伊作を見つけて文次郎は教室の前方へと歩きだす。
「あ、辞書、あの、言いにくいんだけど、」と伊作が吃っているのが聞こえてきた。
3時間目の英語の時間にサッカーボールが開いていた窓から飛びこんできて窓際に置かれていた花瓶を倒し、たまたまその近くの席に座っていた伊作の机の上をびしょ濡れに濡らした事をまだ文次郎は知らない。
そんな文次郎の横顔にご愁傷さまと心の中で呟いてから留三郎は廊下へと出た。そして文次郎とは反対側の隣りのクラスを覗き込む。
どこのクラスもざわめき立っているのは同じだった。その教室の窓側の一番後ろの席で黙々と読書に勤しむ生徒の姿を見つけた留三郎は隣りの席の椅子を引き寄せながら「長次」と声を掛ける。それまで黙々と読書をしていた人物は留三郎のその声に顔を上げた。
「何読んでんの?」
手元を覗き込むように近付いた留三郎へ長次と呼ばれた生徒は本のタイトルを見せた。
「知らないなぁ、面白い?」
「ああ」
「そっか」
椅子をずるずると近付けて腰を下ろした留三郎に長次は何も言わない。物静かなその瞳はただ留三郎を見つめるだけだ。
「あのさ、今俺も本読んでんだけど」
留三郎はたっぷり時間を置いてから話を切り出した。
「ちょっと漢字読めなくてさ、長次なら読めるかなって思って聞きに来たんだけど」
「どれ?」
留三郎は慌ててページを捲り、読めない漢字を指した。
「たしなめる」
「窘める…この漢字、たしって読むのかー」
留三郎は「ありがとー」と言いながら本のページへと視線を落とした。振り仮名がついていない漢字が多くて漢字が得意ではない留三郎は四苦八苦しているのである。
「これ、留三郎が選んだのか?」
「ん…まぁ、そんなとこかな」
「そうか」
長次が本に興味を示し、「見ていいか?」というから留三郎は本を貸した。長次がぱらぱらとページを捲り、奥付のページで手を止める。発売日が今日だということに長次が気付いたのだろうかと少し不安になったが長次は何も言わずに本を返した。
「頑張ってるな」
「でもあんまり進まないんだよな」
「読んでればちゃんと終る」
「…そうだけど」
「ちゃんと読めるよ」
長次は口数が少ない人間でお世辞や社交辞令等はあまり口にしないタイプだ。そんな長次に読めると言って貰えると本当に読める気がしてくる。留三郎は急にやる気が湧いてきた。
「俺、教室戻って読んでくるわ」
「そうか」
「長次、ありがとうな」
留三郎は椅子を隣りの席へと戻しながらそう言い、長次は小さく頷いた。そして留三郎が席を離れると長次が視線を本へ戻すのが見えた。
夏休みが終わり、夏休み前と同じような日常が戻ってきた。学校が始まって、みんな前と同じようにだらだらとくだらない話ばかりしている。1日目と同じような時間が2日目にも流れ、そしてあっという間に一週間が経った。そしてようやく留三郎は男の本を読み終わった。でもだからと言って何もない。
最後のバイトの日に留三郎は店長である男とセックスをしたが、だからといってバイトの期間が延びたわけではなかった。体を重ねた後も男はいつも通りで、いつも通りに優しく留三郎を労り、そして一ヶ月のバイト代を支払った。ただその額は一番はじめに聞かされていたものより少しばかり多く、男は「がんばってくれたからね」なんて言っていたが、もしかしてあれはセックスしたからなのだろうかと今更留三郎は疑っている。だって夕ごはんが付いたのだから減ることはあっても増えるのはどう考えてもおかしい。
あれからは一度も黄昏書店には顔を出していなかった。気にならないはずはなく、授業中も休み時間も、家でひとりでいる時間も男の事ばかり考えている。でもだからといって会いに行くことなんて出来ない。男がやんわりと自分のことを躱すだろうことが安易に想像が出来て行く気にならなかったのだ。だから会いに行く代わりに男の書いた本を読んでいた。だがその本も一週間を過ぎたら読み終えてしまった。
「…どうしよっかな」
ぼんやりと廊下の窓から見える空を見上げていると廊下を通り掛かった長次と目が合ってしまった。長次は廊下を歩く生徒の間を縫うように歩き、留三郎の目の前で立ち止まる。
「…おはよ」
「おはよう」
もう昼休みの時間だというのに2人ともそんな挨拶を交わして見つめ合う。留三郎が長次の話す言葉がちゃんとしていると思うようになったのは本を読み始めてからだ。男の話し方と似てないはずだけどでもやはり芯が一緒なのだとしみじみ思う。今話したいと思える人物は長次だけだった。
「どうしたんだよ、何か用か?」
「いや」
「じゃあ何?」
「…」
長次は黙った。そして黙ったまま留三郎を見つめる。
「…留三郎が何か用があるかなと思って」
長次のその言葉に留三郎は小さく「うぅ」と呻いた。そして「うん、ある」と頷く。
2人は場所を移して図書館の入口から一番遠い席に並んで腰を下ろした。目の前には大きな本棚に色とりどりの背表紙が幾つも並んでいる。
「本は?」
さっきまでの沈黙を破って長次が辛うじて聞き取れる声で尋ねる。
「読み終わった」
「そう」
「うん」
「…他の本は?」
「んー…」
そこで留三郎は言葉を濁した。先日、図書館にあの男の本がないか調べてみたが、今留三郎が持っている文庫本と同じもの一冊だけ入っていて残りの本は入っていなかった。それきり留三郎は図書館へ足を運ぶことはなく、目の前に沢山の本があってもそれらをこれっぽちも読みたいなんて思わない。留三郎はけして読書好きになったわけではなかったのだ。
「あんまり読もうと思わない」
「そうか」
「うん」
それきりまた会話は止まってしまった。昼休みももう少しで終わってしまうだろう。眼鏡を掛けたいかにも図書委員長みたいな生徒が目の前を横切り、その人へと長次が会釈をした。あぁ、そう言えば長次は図書委員だった。
「何か、毎日つまんねーんだ。何もやる気でなくてさ」
「伊作がゲームもやりに来ないって心配していた」
「ゲームもさ、今はやりたいって思わないんだ。何にもやる気ない。何だろうな」
靴下の親指辺りの生地が薄くなってる。あと何回か履けば破れてしまうだろう。
「…燃え尽き症候群」
さっきまで黙っていた長次がぼそりとそう呟いた。
「え、なに?」
顔を親指から長次へと移すと長次は留三郎を見つめながらもう一度「燃え尽き症候群」と呟いた。
「だからそれどういう意味?」
言葉自体は聞いた事あるものの、それがどの状況を差す言葉なのかは分からない。そんな留三郎に長次は一語一語ゆっくり丁寧に音を紡いで教えてくれた。
「何かに没頭した後にやる気がなくなること」
「例えば?」
「…甲子園後の野球部」
長次のその例えが分かりやすくて思わず留三郎は「あー」と頷いた。
「留三郎は何かに没頭した覚えはあるのか?」
長次のその問いに出てきたのはつい1週間前まで続いた日々のことだった。思い当たることがあった留三郎は小さく頷く。
「それは今も?」
「ううん、今は終わった」
「そうか。じゃあもしかしたら燃え尽き症候群かも」
長次のその言葉に留三郎は納得した。自分の中のもやもやとしたものが急に具体的なものに変わっていくのが分かる。
「そっか、そうだったのか」
「でもあとひとつ、」
長次がそう言った直後、予鈴のチャイムが鳴り響いた。図書館が一瞬だけざわついて、本を読んでいた人達が本を閉じて腰を上げる。
「うわ、やっべ、次体育なんだよ」
慌てたように腰を上げた留三郎は振り返って「今何か言った?」と長次へと尋ねる。
「あ、」
「留三郎、ここにいたの?次体育だよ」
長次の言葉を遮って留三郎の体育着を持った伊作がひょこと本棚から姿を見せた。そして長次への挨拶もそこそこに留三郎へと体育着を渡す。
「おお、伊作ありがと」
「早く行こうよ、準備係なんだからー」
ぐいぐいと留三郎の背中を押しながら伊作が急かし、留三郎が伊作へ「分かったから押すなって」と笑いかけていた。
「話聞いてくれてありがとな、長次」
留三郎は長次へ微笑みかけながらそう言うと伊作と一緒に駆け足で図書館から立ち去って行った。
そして誰も居なくなった室内にひとり取り残された長次は図書室のドアを見つめた。
「…恋煩いかとも思ったんだが」
告げたかった人はとっくに立ち去っていて、長次のその言葉を拾い上げる人は誰もいない。溜め息を吐いた長次が教室に戻る為にようやく腰を上げた時に本鈴が鳴り響いた。
(2010/09/25)