ジンジャエールに溶けた夏
R-15描写があります。苦手な方はそっとブラウザを閉じてね。
構わぬ!という心臓が強いだけどうぞ。
5時のチャイムが鳴り響き、留三郎は腰を上げて店を閉める準備を始める。初めの頃は上手く下ろせずにいたシャッターも今では片手で難なく下せるようになり、ガラス戸も簡単に開閉出来るようになっていた。
「店長ー、もう店閉めますよー?」
奥の部屋へとそう声を掛け、返事は待たずにそのまま店内の電気まで消して畳間へと上った。しゃぶしゃぶを食べた日以来、留三郎はここで夕ごはんまで食べてから帰るようになった。「ひとりでご飯食べるのって結構寂しいんだよね」と呟いた男の言葉を無視出来なかったのもあるのだが、何より想像以上に男の料理は美味かったのだ。
「おつかれさま」
男はそう言ってテーブルの上にジンジャエールの入ったガラスのコップを置く。それを目線で追いかけ、男の気配に視線を上げると男がちゅっと前髪にキスを落とした。どうやら本当に俺の髪を気に入ったらしくよく髪へと触れて来るのだ。
さらさらと流れる髪に触れていた手が耳へと移り、それが頬から顎へと流れていく。その指先が最終的に何処へ辿り着くのかを留三郎は知っていた。
「そんなに硬くならなくてもいいのに」
留三郎を畳へと組み敷いてシャツを捲り上げた男は笑いを含んだ声でそう告げた。その言葉に留三郎が返事を返す前に男の舌が肌を這う。
「んっ」
まだ慣れないその感覚に耐えるように留三郎は近くにあった座布団を握りしめた。
男はいつも恐ろしいほどの速さで留三郎を絶頂へと連れていく。その過程において留三郎が出来ることと言えば声をなるべく殺して男の思いの外柔らかい髪へ指を絡めるくらいだ。
「気持ち良かった?」
くどい質問は毎回変わらない。脳みそが酸欠状態でくらくらしたまま留三郎は返事もせずに男を見つめ、そして顔を寄せた。薄くかさついてい見える男の唇へと自分の唇を重ねた理由を聞かれると「何となく」としか言いようがない。本当に何となく、キスをしたいと思ったのだ。
唇を離すと男は一瞬だけ驚いたような顔をした。その顔にざまあみろと思ったが、何がざまあみろなのか自分でもよく分かってはいなかった。
「何、君キスはしたことあるの?」
男の言葉を脳内で何度も繰り返す。
キス、キスはしたことがある。幼馴染の伊作が幼稚園の時とかよくしてきた。最初は唾がついてばっちいなぁって思ったけど、でも唇と唇がくっつくのがキスならあれはキスだ。一度だけ「やめろよ」って言ったらもうしなくなったけど、どうしてアイツあんな事したんだろう。わかんないけど、でもキスはそんなに嫌いじゃない。
「そうなの、じゃあもう一回しよう。君、舌出して」
どうして心の中で思った事を男が知っているんだろうかと思いながら留三郎は男に言われた通り舌を出した。そして男は留三郎がつきだした舌へ自分のものを絡める。
「ふっ、んっ…」
驚いて舌を引っ込めようとした留三郎を見越して男はそのまま舌を絡ませて留三郎の口腔内へと入り込んだ。そして何度も角度を変えながら口腔内へと舌を這わせ、歯並びや上顎をなぞる。その度ぞくぞくとしたものが背筋を走り、留三郎は男から体を離そうと試みる。それでも結局はそのまま畳の上へと倒されてしまった。
ようやく解放された時には零れた涙で前は見えないし、苦しくて死ぬかと思った。飲み込めなかった唾液が零れたまま必死に酸素を吸い込む留三郎の口元を男の指が拭う。そしてその指が口の中へと入り込もうとしたから留三郎は慌てて噛んだ。
「痛いよ」
男の言葉にその指を離すと男は指先を擦りながら「おー怖」と説得力のない顔で笑っている。それに留三郎はカチンときた。自分はこんなに息が苦しいのに目の前でけろりとしている男に腹が立ったのだ。
「…何だよ、これ」
「何ってキスでしょ?」
「…俺が知ってるのはこんなんじゃない」
留三郎のその言葉に男はくすっと笑った。その笑みにまた苛立って何か言いかけた留三郎の唇を男は人差し指で抑える。指で触れられているだけのはずなのに、留三郎は言葉を発することが出来なかった。さっきまで笑っていた男の顔はどこにもない。そこには真剣な瞳があるだけだ。
「じゃあ覚えなさい」
そう短く告げるとまた唇を塞がれた。ぬめりを伴って入り込んだその舌の感触に収まった何かがざわつくのを感じながら留三郎は静かに瞼を閉じた。
男とキスをする時はいつも甘い味がすると留三郎は思っていた。一番初めのキスもだったけれどその後か重ねたキスもいつも甘い味がする。けれど留三郎が「何か甘いもの食べた?」と尋ねても男は「ひとりでいるときは甘いものなんて食べないよ」と言うのだからもしかしたらキスの味なのかもしれないと留三郎は思っている。そしてその味が留三郎は嫌いじゃなかった。
そんな風に考えながら男の唇を見つめていたらぐっと距離を詰められて唇を舐められた。そして舌を迎えるため薄く唇を開くと躊躇いなく男の熱い舌が入り込んでくる。
「ん…ふっ」
男の首筋へと腕を回して舌を絡ませる。教えてもらった通りにしてみたのだが、息が続かず逃げようとするとそのままいつものように押し倒されてしまった。
「ご飯はあと三十分くらいで炊けるよ」
男が耳元でそう囁く。要するに三十分くらいで終わらせるという意味で留三郎は男からふいっと視線を逸らして、その腕をぎゅうと掴んだ。
5時のチャイムの音が何処か遠い場所から聞こえて来るみたいで、まるでこの部屋だけ別次元みたいだと思う。だって、チャイムが繰り返し告げる「良い子の皆さんは早く帰りましょう」の良い子に俺はなれない。
「ふふっ、上と下、どっちがいい?」
留三郎は男の言葉に返事はせず、上へと圧し掛かった男の首へと腕を回した。そして男の指がシャツを捲りあげるのを息を殺して待っていた。
「ぁっ…もぉ、む、りっ」
イきそうになって男の髪へと指を絡め、その顔を剥がそうとするけれど力が入らない。
「イっていいよ」とイきかけてピクピク震えるそれを咥えたまま男はいい、それに耐えられなかった留三郎はそのまま男の口へと吐き出してしまった。
「ぁっ…はぁ、はぁ」
乱れた呼吸を整える為、畳へと腕も預けて天井からぶら下がっている丸い蛍光灯を見ていた。電気が点いていない室内は薄暗くなり始めている。5時のチャイムもいつの間にか終わっていて、辺りはシンと静まり返っていた。
「あ、出してってば」
男の口の中に出してしまった事を思い出して吐き出させようとすると既に男は飲み下していた。
「…うー…何で飲むんだよ、汚いのに」
恥ずかしくなって顔を両手で隠しながら留三郎がそう漏らすと男は「いやぁ、だって礼儀見たいなもんじゃない?」と言う。
「礼儀…」
礼儀だと言われてしまえばしょうがないのかなぁと留三郎は思ってしまう。目の前の怪しい男の言葉を素直に飲み込んでしまうくらい留三郎は素直に育っていて、自分がしている事に関して疑問を抱かないくらい鈍くもあった。
ピーピーと炊飯器が自己主張を始め、男は立ちあがって台所へと向かう。その背中を黙って見送っていると男がくるりと振り返った。
「テーブルの上片しておいてね」
男の言葉に「わかった」とだけ返して体を起こす。そしてテーブルの上に置かれているコップを手に取りジンジャエールを一口飲んだ。
はじめて飲んだ時と味は全く変わらず、相変わらず美味しかった。
*:*:*
掃除が終わるとする事はなく、男から借りた本を開いてゆっくり一行ずつ読んでいるとカタッと物音がした。この場所で物音がするのは珍しいと留三郎が顔を上げると入口のガラス戸を知らない人が開けようとしている。
「あ、待ってください」
本をぱたんと勢いよく閉じて留三郎はすぐにガラス戸へ駆け寄ってドアを開けるのを手伝った。ガラス戸はキィと嫌な音を立てて開く。
「坊や、ありがとう」
年輩で白髪の方が多い髪を手の平で撫でつけるようにしながらその人は留三郎へと礼を言う。そしてそのまま店内へと視線を巡らせて傍に置かれていた本を手に取っていく。
この人が客だと気付いた途端留三郎の体はとても緊張し始めた。この店でバイトを始めてもう二週間以上も経つが客が来たのはこれが初めてだったからだ。そして棒立ちになったまま、ひっくり返りそうな声で「い、いらっしゃいませ」と言ってみる。震えた声になったけれどこれが留三郎の人生で初めての『いらっしゃいませ』だった。
「君、店番の子?店長さんはいるかな?」
老眼鏡の奥の目が優しそうに細められ、留三郎は頷く。そして「す、すぐ呼んでくる」と残してすぐに奥の部屋へと走った。
畳間を通り抜け、二階へと上る階段を見上げる。男はいつも二階の一室に籠っていた。中で何をしているのか留三郎は知らない。まだ一度も二階へと上った事がないのだ。
「て、店長」
声を掛けながら留三郎は階段を上る。一歩踏み出すごとにギシギシと軋む音が静かな空間に響く。目の前に現われた襖は留三郎が手を伸ばすより早く開いた。目の前には紺色の和服を着た男が白い棒を咥えて立っている。
「どうしたの?」
「お、お客さんが来てます」
「あ、そう。わかった」
男は包帯からはみ出た髪をぼりぼりと掻きながら留三郎の隣りをすり抜けて階段を下りて行く。それを横目で見ながら留三郎は部屋の中を見渡した。そこは一階と同じく畳間で、長机がひとつと本棚がひとつあるだけのとても殺風景な部屋だった。
ただ、開け放された窓から見える青がとても眩しいし、窓際に下げられた赤い金魚の風鈴の音がとても耳に心地よい。
長机の上には白い紙が広げられていてそれが原稿用紙だということに気付いた留三郎は足元に丸められて捨てられている紙を拾い上げてその紙を広げてみる。その原稿用紙には達筆な鉛筆の文字が躍っていたけれど、それらは上から大きく罰を書かれていた。
これは何だろうと留三郎が思った瞬間、上から手が降ってきてその紙を奪った。振り向くとすぐ背後に男が立っている。
「紙袋あったはずなんだけど、あ、あったあった」
男はそう言いながら留三郎の足元に転がっていた紙袋を拾い上げて広げる。そして「お、穴開いてないね」と呑気な声で呟いてその紙袋を畳んだ。
「あ、店長、その紙」
男が持っているくしゃくしゃな紙を指差すと男は「だめだよ、留三郎くん」と子供を叱るような口調で言った。
「ほら、お客さんにお茶淹れてきて」
さぁ早くと背中を押されて階段を下りる。振り向くと男が閉めた襖しか見えず、あの部屋は見えなかった。留三郎が振り返っていることに気付いた男が「あんまりあの部屋には入らないようにね」と忠告し、留三郎は小さく頷く。
きっと見られたくないものでもあるのだろう。まだ十五歳の自分にだってあるのだから、あの人に幾つ秘密があってもおかしくはない、というか、あの人に秘密がなかったら物凄くおかしいと留三郎はお茶を淹れながらそんなことを思った。
男と客はまだ店の方で話しているようで途切れ途切れに会話が聞こえてくる。時たま笑い声が起こっているから会話は弾んでいるのだろう。
店までお茶を運ぶと男が振り返って盆の上からコップをひとつ取ると客の前へと置いた。
「暑くて喉が渇いていたから助かるよ」
客はお茶を運んだ留三郎へとそう声を掛けてコップの中のお茶を飲み干して行く。
そしてさっき男が2階で見つけた紙袋を手に腰を上げた。
「毎度ありがとうございました。またご来店くださいませ」
客の背中にそう声を掛ける男の隣りで留三郎はぺこりとお辞儀をした。そして客が居なくなったことを確かめるとレジの隣りに置かれた札を見つめる。
「本売れたの?」
「そう。2冊ね」
「2冊でそんなにするの?」
男が数えている札は全部諭吉で、そして今、男は「十」と言った。まだ指は札を数えている。
「古書だからねぇ。もう絶版のやつとか、世の中に10冊もないような本ばかりだからこれくらいはするんだよ。もっと高いのもあるよ」
「へぇ」
留三郎は口の中でそう呟いた。薄汚れてうねうねとくねった文字が書かれた本がまさかそんなに高いとは思わなかったのだ。留三郎が欲しいゲーム機よりずっとずっと高い。
「あ、そうそう。あんまり光当てるのも駄目だからさ、君も覚えていてね」
男の言葉に声もなく頷いて留三郎はじっと男を見た。
「どうしたの?」
「いや、ずっとお客さんいなかったからどうやって生きてるんだろうと思ってたんだけど、こんなに本が高いなら生きていけるなって」
「あはは。君は素直だなぁ。まぁ、私の本業はこれじゃないけどね」
男は数え終えた札を懐へと入れ、笑いながら腰を上げる。
「え、本業はなに?」
男の背中に声を掛けると男は足を止めて振り向いた。そして口元へと人差し指を運び、「まだ秘密。今度教えてあげるね」と笑った。
(2010/09/11)