ジンジャエールに溶けた夏





ジンジャエールに溶けた夏





次の日、指定された時間に兄から借りた漫画が入った重たい袋を片手に店へと行くと、ガラス戸に『営業中』という札が掛かっていた。そっとガラス戸を開けようとしたが、突っかかっているのか中々開かない。

「あ、れ?開か、ねぇ!」

漫画が入った袋を床に置いて両手で開けようとしてもガチャガチャと割れそうな音がするだけで中々開かない。

「うおっ?」

急に戸が開き、驚いて目を開けると目の前に自分のものじゃない手があった。振り向くと店長が何やら白い棒を咥えながら立っている。どうやら着物が普段着らしく、今日もまた和服を着ていた。

「この戸、開け方にコツがあるんだよね。ま、慣れればすぐ開けられるようになるから」

片手で簡単にガラス戸を開けて男は店内へと入って行く。俺は地面に置いていた袋を抱き上げて慌てて男に続いた。

「荷物、中に入れていいから」

男の言う通りに和室へと荷物を置いて店内に戻ると男がエプロンの埃をはらっていた。

「埃すごくて服汚れちゃうからバイト中は着ていてね」

そう言って渡されたのは深い緑色をしたエプロンだった。右胸に白い刺繍で『黄昏書店』と入っている。エプロンを身に付けて後ろで紐を結ぶと、男は俺の結び方が気に入らなかったのかわざわざ蝶々結びに直して「似合うよ」と腰を叩く。

「はぁ」

薄汚れたエプロンが似合うと言われてもどう反応したらいいのか分からず、一応頭を下げると男は俺の反応なんかに興味はないようで「仕事について説明しようか」とさっさと店内を歩きだす。
仕事の内容というほどのものではなく、暫くの間任されたのは掃除だった。床を箒で掃いてモップをかける。窓は濡れた新聞紙で拭いた後に渇いている新聞紙で拭く。やたらと溜まった埃を濡れていない布巾で取り除く。こうやって聞いてみれば簡単そうだと思うのだけれど、ざっと店内を見渡すと途方もない作業のような気がした。

「君、」
「え、う、わっ」

急に男が顔を覗きこんできて慌てて仰け反ると本棚に後頭部をぶつけてしまった。後頭部を抑えている俺を尻目に、男は一度奥へと戻っていく。そして何やら手拭のようなものを手に取って戻ってきた。

「前髪長いねぇ、邪魔じゃない?これ使っていいよ」

白地に赤い金魚柄のその手拭をバンダナ代わりに前髪が邪魔にならないようにとあげると視界が広くなった。

「うん。可愛い可愛い」

男は満足気にそう頷き、「さて、私は二階にいるから、客は多分来ないだろうけど、もし来たらすぐに呼んでね。あと、分からないことあればいつでも声かけていいから。頑張ってね、留三郎くん。」

「…はい。わかりました」
「あ、適度に休憩は取るんだよ?」

男の言葉に頷くと、男はひらひらと手を振ってそのまま奥へと引っ込んでしまった。「暇だろうから漫画読んでいいよ」と言っていた癖に、今の俺には暇になる時間が想像もつかない。

「…崩れたりしないだろうなぁ…」

長年重いものを支えていたからだろうか。本棚はどれも微妙に歪んでいた。そっと触れてみると歪んではいるもののまだしっかりしているのでそう簡単に決壊したりはしないだろう。

「よし、取りあえず窓からだ!」

俺は新聞紙を手に取って、キッと顔を上げてくすんだガラス戸を睨みつけた。


窓とガラス戸を拭き終わって顔を上げると、拭く前よる随分と光が入ってくる。やけにキラキラと外が眩しくて思わず目を細めた。床もすっかり綺麗になって光が反射して店内も明るくなった。

「おー窓も床も綺麗になったねぇ」

背後から声がして振り向くと男が奥から姿を見せた。手にはコップを二つ持っている。

「疲れたでしょ?休憩しよう」

男の言葉に甘えて奥へと上り、テーブルの前にちょこんと正座をした。冷えたジンジャエールがパチパチと泡を弾けさせて涼しい音を立てる。

「君、甘いもの好きかな?ゼリーがあるんだけど食べる?」

そう言って男が出したのは梅のゼリーだった。梅の実が丸々と透明なゼリーに包まれている。

「やっぱり三時といえばおやつだもんねぇ」
「…おいしい」

ゼリーは冷えていてほんのりと甘かった。梅の実はサクサクとしていて酸味はほとんどない。

「和菓子とかよく食べるの?好き?」
「…あんまり食べないけど、あんこは粒あんが好き」
「最近の子は和菓子は食べないのかと思っていたよ」

男はそう言って梅の実を透明なスプーンで掬い、そして君食べる?なんて笑う。俺は遠慮して首を横に振って残りのゼリーをスプーンで掬った。

「和菓子って中々買ってもらえないから食べないだけ」
「そう。和菓子は送ってもらってたくさんあるから明日も和菓子にしようか」

男は食べおえたゼリーの器を二人分重ねてゴミ箱へと入れる。

「飲み物おかわりする?」
「…お願いします」

男がジンジャエールを淹れる為に奥へと行き、俺は近くに置かれていた本を手に取ってみた。表紙に書かれた漢字がやたら難しくて読めない。首を傾げながらページを捲っていると「読めるの?」と耳元で男の声がした。振り向くといつの間にか男が背後に立っている。

「いや、漢字難しくて」
「旧漢字だから読めないかもね。留三郎くんは本を読んだりするの?」
「漫画は読むけど本はあんまり」
「そう。本は嫌い?」
「嫌いっていうか、面白い本を知らないから」

俺がそう言うと男は「そうか、ちょっと待ってね」と言って店内の方へと消えて行った。ジンジャエールを飲みながら男が帰ってくるのを待つと男は本を何冊か手に持って戻ってきた。男は俺が持って来た漫画の傍に本を並べて「これ、多分読みやすいと思うよ。ここに置いておくから興味あったら読んでみるといい」と言って笑う。

「じゃあ私は二階に戻るからお客さん来たら呼んでね」

客が来ることなんてあるのだろうかと疑問に思うくらい店内は静まり返っているのだけれど、俺は「はい」と頷いた。


男が二階へと戻り、俺は店内へと戻った。残りは本棚の埃を地道に拭いていくだけだ。一番奥の本棚から順序良く拭き始める。埃の所為で何度も大きなくしゃみをしながら作業を続け、二つの本棚が終わったところで五時を知らせる音楽が流れた。

「留三郎くん、もう五時だから仕事終わってもいいよ」

奥から顔を覗かせた男の言葉に素直に腰を上げ、店のシャッターの下ろし方を習って店を閉めた。

「シャッター閉めるまでが君の仕事になるからね」
「わかりました」
「じゃあ、スイカでも食べて行かない?さっき冷やしたんだよ」

男は楽しそうに団扇で仰ぎながら前を歩く。テーブルについて待っててと言われた通り、紫色の座布団の上で正座をしてまた辺りをキョロキョロと見回した。テーブルの上には棒のついた飴がいくつか転がっていて、男が今日の朝咥えていたものは飴だったのか、なんて思いながら手に取る。それはチュッパチャップスとは違って苺やバナナといった果物の形をしている駄菓子屋で売っている飴だ。

「それ、貰いものでね。好きなら持って帰っていいよ」

盆にのせたスイカを運んできた男はにっこりと笑った。

「ほら、冷えてるから食べて食べて」

男は盆を俺の前に置き、自分の前には白く大きな皿を置く。

「まだあるからおかわりしたかったら言ってね」

男の言葉に頷きながら俺は目の前の大きく熟れたスイカを手に取って齧り付いた。
男の家にはクーラーはなく、古くさい扇風機が音を立てながら首を振るくらいだが、それでも縁側を三分の一程を隠している緑のカーテンのお蔭で西陽は直接当たらず、暑くはなかった。むしろスイカを食べた今では涼しいとも思える。
鳩時計が一度だけ鳴いて、時間を確認する為に顔を上げると時計は六時半を指していた。バイトが終わったのは五時なので一時間半もの間この家でだらだらとして過ごしている。

俺が時計を見ている事に気付いた男が「あ、そろそろ帰る?」と尋ねてきて「この飴貰っていいよ」と苺の飴を手渡して来た。

「ありがとうございます」

ぺこりと会釈をしてそれをポケットへと突っ込む。まだ一冊も読んでいない漫画は置いていく許可を貰っていたのでそのまま店の裏口から出た。
太陽は西の空に沈みかけていて東の空は暗くなっていた。アスファルトの道の上には黒い影が長く伸びる。

「留三郎くん、また明日」

ひらひらと手を振って男は俺を見送った。足を止めて振り返り、男へと一度だけ手を振り返してみる。
男が家の中へ消えたのを確認して土産として渡された飴の袋を破って口に咥えると砂糖の甘ったるい味が広がった。






(2010/08/29)