ジンジャーエールに溶けた夏





蝉が耳障りなくらい叫んでいて、その声を聞きながら首筋に流れた汗を拭う。火の照ったアスファルトはぎらぎらと光を反射して目に痛い。剥き出しのうなじが焼けるじりじりという音が聞えるような気もする。

「あ、垂れた」

齧っていたアイスがすぐに溶けはじめ、指へと垂れてくる。それを舐めとりながら空を見上げると馬鹿みたいに青い空が広がっていた。反対側の歩道を小学生達が虫取り網を振りかざしながら走っていて、それを見送りながら不意に視線を足元へ向けるとひっくり返ったかぶと虫が足をバタつかせている。世間はすっかり夏一色だ。
留三郎がズボンのポケットに入れていた携帯を取り出して開くとディスプレイの時計が昼の二時過ぎを告げていた。陽射しが一番強いこの時間帯に留三郎が外に出ているのにはちゃんとした理由があった。


高校生の留三郎は只今夏休み真っ最中である。受験から解放された高校一年の夏休みは部活にも所属していないので特にこれといった予定もなかった。だからすることといえば友達と遊ぶことくらいで、ここ数日は小学校からの付き合いである伊作の家へと通い詰めていた。

留三郎と伊作は中学までは隣近所に住んでいたのだが、つい最近伊作一家が隣り町に新居を構えて引っ越した。伊作は医者家系の子供で、新居は周りから『善法寺邸』と呼ばれるほど敷地も家も広く、いかにもな金持ち住宅だ。もちろん家の中は毎日クーラーがきいていて涼しいし、薄くて大きなテレビでゲームをするのは楽しい。伊作は全てのゲーム機器を持っているだけでなく、ソフトも色々と揃えていた。それなのに「僕あんまりゲームしないんだよね」というのだから金持ちの考えることはよく分からないと留三郎は思う。それでもただでクーラーがきいた部屋でゲームが出来て、そしておやつまで付いてくるのだから通わないわけがない。

「…ハワイねぇー…」

はずれと書かれたアイスの棒を見つめながら留三郎はぽつりと呟いた。今年の夏休みは『伊作の家でゲーム三昧』と決め込んでいた留三郎の予定はさっき白紙へと戻ってしまったのだ。


夏休みが始まって一週間。八月の頭の今日も当たり前のように伊作の家へと出掛けて夕方くらいまでゲームをしようと思っていたのだが、辿りついた伊作の家は何だかバタバタしているように見えた。伊作に招かれるまま家に上り、暫くはいつもと同じようにゲームをしていたけれど家の中では伊作の姉がやたらと探し物をしていたり、「こっちとこっち、どっちがいいと思う?」とわざわざ洋服を見せに来たりする。

「…なぁ、どっか旅行でも行くのか?」

さすがに大きなカートを持って横切られた時に気になって伊作へと質問すると伊作は「あれ、言ってなかったけ?」と少し驚いたような声を出した。そして「明日から暫くハワイに行くんだよ」と告げる。

「は?聞いてねぇし!」
「えぇー言ったよー。一昨日くらいに、ほら、留三郎がボスと戦ってた時」

そう言われると確かに言われたような気もした。けれど、何せボス戦の時だ。傍で話をされたとしても全ての話題に適当に相槌を打って流してしまう自信があった。

「荷造りとかあるから今日は二時くらいまでしかだめだけど、それは覚えてるでしょ?」

それももちろん初めて聞いたのだが、これ以上話を聞いていないことを知られればさすがの伊作でも怒るだろうと思ったので留三郎は何も言わずに頷いた。

「本当はハワイなんて行きたくないんだけどね。夏休みのハワイなんて混んでるだけでいいことなんてないし。ほんとはね、残って留三郎とずっと遊びたいんだよ?でもお婆ちゃんが来いって言うから断れなくて…ね、留三郎聞いてる?」
「え、あ、うん。二時に帰ればいいんだろ?」

画面にはさっきは負けてしまった敵キャラが登場して今度こそ倒そうとコントローラーを必死に捌く。伊作が隣りで喋っていた内容は二割くらいしか頭には入っていなかった。

「…そうだけど」

伊作が少し不貞腐れたような声を出したような気もしたが、ようやく倒せた敵キャラにテンションが上ってしまっておざなりにしてしまう。そしてあっという間に時間は過ぎて二時前になり、留三郎は帰る支度を始めた。
帰り際に「お土産買ってくるね」と伊作は手を振った。ハワイの土産を考えたところで出てきたのはアロハシャツくらいでそれは別に欲しくないなぁと思う。それでも買ってきてくれるという伊作に素直に言える訳はなく「おー」とだけ返して伊作の家を出た。


伊作が言うには、帰ってくるのは二学期が始まる三日前くらいだそうだ。夏休み丸々向こうで過ごすらしく、俺の夏休みの予定は全てなくなってしまった。

「あーやっぱり借りておけばよかったかなぁ」

ゲーム機を貸そうかと伊作は提案してくれたけれど伊作の家の薄くて大きいテレビとは違ってまだブラウン管の家のテレビでゲームをしたとしても文字が潰れることが予測できたから申し出を断った。けれど今になって潰れててもいいからゲームを進めたほうが良かったかなとも思う。伊作の家とは違って金持ちではない自分の家にはゲーム機なんて昔のプレステくらいしかない。ソフトも新しいものはなく、夏休みは一気につまらなくなった。

「せめてPSPくらい欲しいなl」

欲しいなと思っても買う金なんてあるわけがない。正月のお年玉なんてもう一円も残っていないのだから買うならバイトのひとつでもしなければならない。

「バイト…かぁ」

つい最近まで中学生だった留三郎にとってみればアルバイトなんて未知の領域でアルバイトに対する知識は「そんな簡単に雇ってもらえるはずがない」と「何か怖い」の二つだった。


伊作の家と留三郎の家の間には小さな店が立ち並ぶ商店街のような通りがある。その通りにある駄菓子屋目当てで留三郎は伊作の家から帰る時はその道を通っていた。
アイスの味が染みついた少し甘い棒を齧りながら何となしに視線を道沿いに立ち並ぶ店へと向けると、古そうな店のガラス戸に貼られた張り紙が視界に入る。

「アルバイト、募集」

足を止めて紙に大きく書かれたその文字を呟いた。それは火に焼けて黄色く変色した紙で、赤い文字もところどころ茶色に色を変えている。今もまだ募集しているのかは怪しい。思わず店名を確認しようと顔をあげると古くて少し斜めに傾いている看板に墨のような色で『黄昏書店』と書いてある。
今まで何度もこの通りを通っていたけれどこんな店があるなんて今日まで全く知らなかった。好奇心が湧いてきて、そっと店へと近付いてみるとガラス戸は半分開いていた。そこから中の様子を窺ってみると、中は薄暗く、古そうな本棚が立ち並んで同じく古そうな本ばかりが詰め込まれている。天井に設置された扇風機がゆっくりと首を振り、その風が鼻先に届いた。舞う埃がキラキラと光りを反射していて、思わずくしゃみをしたくなる。くしゃみを堪えていると不意に後ろから肩を叩かれた。それに驚いて振り向こうとした時、堪えていたくしゃみが出てしまった。

「大丈夫?」

声を掛けられて顔をあげると薄い群青色の和服に身を包んだ見知らぬ男が立っていた。白い包帯が体中に巻かれていて顔の半分は包帯に隠れて見えない。髪は短く、包帯の合間から飛び出しては跳ねていた。
あからさまに怪しい出で立ちの男に留三郎は咄嗟に身構えて硬直してしまった。

「君、私の店に何か用?」
「え、あ、この張り紙見てて…」
「あぁ、バイトね。中入って」

ガラッとガラス戸を開けて男は中へと入っていく。こんなに怪しい男が経営しているんじゃきっと怪しい店なんだろうと思ったのだけれど、男に「やっぱりいいです」なんて言えずにしぶしぶ後に続いて店へと足を踏み入れる。
天井近くまである本棚には彩度の低い背表紙ばかりが並んでいる。近くにあった本を興味本位でぱらりと捲ってみたけれど、くすんだ紙に筆のようなもので書かれたくねくねした文字が並んでいてひとつも読みとることが出来ない。

「君、こっちこっち」

本に気を取られて足を止めていた留三郎を男が手招きして呼んだ。どうやら店の奥は住居になっているらしく、靴を脱いで畳間へと通される。

「飲み物…炭酸とか大丈夫?」
「はい」
「そう。じゃあジンジャエールでいいかな」
「ジンジャエールは好きです」

男は笑みを浮かべて更に奥へと引っ込んでいく。男の姿が見えなくなると緊張が薄れてきょろきょろと部屋を見渡してみた。
畳の匂いと壁に掛けられた掛け軸、濃い紫の座布団と古そうなちゃぶ台。そしてやたらと大きな音を立てて首を振る扇風機にこれまた古そうな鳩時計。どれもこれも婆ちゃんの家を彷彿とさせるもので、寛ぐ気分になってしまう。

「足崩していいよ」

奥から戻ってきた男が涼しそうなガラスのコップをテーブルの上にそっと置いた。コップの中で氷が涼しそうな音を立てる。

「い、いただきます」
「どうぞ」

そっとコップに口を付けて一口飲んでみる。

「…あんまり甘くないけど口に合うかな」

男は少し心配そうにそう言い、その言葉に俺は勢いよく頷いた。

「美味しい!こんなのはじめて飲んだ!」

ぐいぐいと飲んでしまってあっという間にコップは大きな氷だけになってしまう。

「これも飲んでいいよ」

男は自分用に淹れて来たジンジャエールをそっと俺の方へと寄せてきた。

「え、でも」
「これ、手作りだから気にしないでたくさん飲んでいいよ」
「手作り?」

思わず目を丸くする。確かに市販のジンジャエールとは全く違う味だったけれど、でも本当に美味しいのだ。

「生姜でシロップを作って炭酸水で割るとジンジャエールになるんだよ」
「へぇ…ジンジャエールってほんとに生姜なんだ」

聞いたことはあったけどいまいち信用していなかった俺は驚いてコップの中をじっと見つめる。

「今度お裾分けしてあげようか?」

あまりにも美味しそうに飲むからか、男は笑みを浮かべてそう言ってくれた。

「え、あ、でも」

さすがに悪いと思ってちらりと男の方を見ると男は「簡単に作れるから気にしなくていいんだよ」と言ってくれた。男に勧められるまま二杯目のジンジャエールに口を付ける。甘さが控えめで上品なその味は口の中がすっきりして涼しくなる。さっきまであんなに暑かったのが嘘みたいだ。

「で、君はバイトしたいんだっけ?」

気が付くと男はどこからか紙とペンを取り出していた。

「バイトって言っても店番とか掃除くらいで沢山稼ぎたい人には向いてないんだけど、君はどれくらいお金が欲しいの?」
「お金っていうか、PSP…ゲーム機が欲しくて」
「あー…ゲーム機買うお金ねぇ。ならちょうどいいか」

男が言うには、バイトは週に三、四日くらいで、午後一時くらいから閉店の五時までの四時間らしい。仕事内容は店番と掃除。まだ高校生ということもあってか、バイト期間は夏休みが終わる八月末までということになった。男は「客は殆ど来ないから暇な時は本でも漫画でも読んでていいよ」と笑っていた。
白紙に自分の名前と連絡先として携帯番号、住所を書いて渡すと男はその紙へと目を通す。

「じゃあ留三郎くん、明日から来てくれるかなー?」

男の口調が昼間にやっている生放送番組の司会者そっくりで、思わず「…い、いいとも?」と返すと男は楽しそうに笑う。

「いいね、君。気に入ったよ。明日からよろしくね」
「…はぁ」

男は笑うと目尻に小さな皺が出来て優しい顔になる。もしかしたら怖い人ではないかもしれないとその顔を見て思った。

「えっと、店長さん、明日からよろしくお願いします」

ペコリと頭を下げると男は「また明日ね」と手を振って店先まで見送ってくれた。

『黄昏書店』を出て振り返ると、やはり外からでは薄暗くて店内はよく見えなかった。
家へと帰る道のりで、何度も後ろを振り返って店を探してしまったのは、明日行くと店ごと消えていそうだと思っていたからだろう。
あの店もあの男も、まるで幻のような気がしていた。






(2010/08/24)

雑渡さんが留三郎にちょっかい出す現パロシリーズ第二弾です 笑