馬鹿な子ほど恐ろしい
秋風がいつの間にか北の冬風に変わっていて、風が吹き付ける度に店の建てつけの悪いガラス戸がキィキィとまるで生き物の鳴き声のような音を立てる。
「寒い寒い」
明らかな独り言を呟きながらこの店の持主である雑渡は着こんだ半纏の前を掻き合わせながら店へと立っていた。本当は奥の部屋にあるこたつで温まりたいのだが、それも少しの我慢である。部屋の鳩時計が一度だけ鳴き、もうそろそろだと教えてくれる。あと十数えて来なかったら奥の部屋へ戻ってしまおう。そんなことを考えているとガラス戸が開いた。
「寒ぃ!」
そう言いながらバイトとして雇っている留三郎が体を縮こまらせながら転がり込んできた。雪にはまだ早いけれど、それでも今日は一段と冷える。こんな日に外を出歩く人の気なんて知れない。どうせ客も来ないだろうからとっとと店も閉めてしまおう。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
声を掛けると留三郎は慌てたように挨拶をする。一度挨拶はきちんとしなさいと注意をしたことがあり、それ以来こうやって守ってくれているのだ。彼は律儀というか、とても素直な子である。
「店長、聞いてくださいよ!」
留三郎はすぐ駆け寄ってくるなり鞄をごそごそと漁り始めた。彼を見る度に子供の正しい姿を見ている気がするのだけれどそれは気の所為だけではないのだろう。
「はいはい。その前に靴脱いで部屋に上がりなさい。寒かったでしょう」
彼を中へと誘い、こたつへと座らせて雑渡は台所へと立った。黒豆を使ったココアの袋を戸棚から取り出し、彼のお気に入りのマグカップへと二さじ分入れる。お湯は既に湧きあがったものがあり、それを少量注いで粉を溶かすと温かい牛乳を注ぐ。この工程を順番よく終えると冬に彼が最も愛するココアが出来上がる。
自分用の緑茶と一緒に盆に乗せて彼がいる居間へと運ぶと彼は鞄から取り出した白いプリントを握りしめてそわそわとしていた。
「はい、ココア。熱いからゆっくり飲みなさい」
「ありがとうございます」
留三郎はまだ湯気が出ているマグカップを嬉しそうに受け取り、「熱っ」なんて言っていた。
ふーふーと一生懸命に冷まそうとしている彼の仕草を可愛らしいと思うのは色目なのだろうか。彼は常に雑渡の心を抑えるツボを心得ていて雑渡は飽きる事がない。
「あ、そうだった、聞いてよ」
彼はココアを一頻り堪能した後、思い出したようにプリントを持ちだした。
「これ、見て」
そう言って渡されたプリントをひっくりかえしてみるとそれは国語の答案用紙だった。そういえば先週まで彼は中間テストでてんてこ舞いだったことを思い出す。バイト中もずっと勉強していてうんうん唸っていたし、分からないところがあると聞きに来るので、結局のところ彼がバイトに入っている時間丸々、まるで家庭教師になった気分になった。
答案用紙には赤いペンで○と×が同じくらい並んでいて、記された点数は六十点である。要するに六割であり、これが果たしていい点数なのか悪い点数なのかが雑渡にはよく分からない。どう反応するのが正解なのだろうかと雑渡にしては割と気を使って考える。
反応が鈍い雑渡がもどかしいのか、留三郎はそわそわした後に「すごくない?」と自ら切りだして来た。
「すごいの?」
「だって、六〇点だよ?」
「そうだね、六割取れてるね」
答案用紙の細かい部分へと視線を落とすと彼の回答がかなり面白い事に気付く。何というか、これが国語のテストの回答でなく、ただ単に面白い事を書くテストならもしかしたら満点かもしれない。脈絡のない回答を見ているとそんなことを思うくらいだ。
「俺、国語で半分以上取れたの初めて!」
そう言って嬉しそうに笑った留三郎に雑渡は思わず「え、そうなの?」と冷水を浴びせるような事を言ってしまった。あ、と思ったと時にはもう遅く、留三郎の表情が笑顔から一転、拗ねたようなものになった。
「どうせ俺はアンタと違って頭良くねぇもん」
そう言って「答案返して」と言ってきた留三郎の仕草や反応が素直すぎて雑渡には新鮮なものとして映る。
「馬鹿な子ほど可愛いって言うじゃない。君の成績じゃ大学は行けないだろうし、そうだね、うちに来るといいよ。家事してくれるなら喜んで迎えるよ」
まるでプロポーズみたいだと雑渡自身思いもしたけれど、でも半分くらい乗り気で本気な自分がいることの方が雑渡にとっては驚くべきことだった。
「あ、でも君、料理出来なさそうだねぇ。いつも私が作っていたし」
考えてみれば彼を甘やかすだけ甘やかしているのは自分であり、それで彼が何も出来なくなっているのではないか。思い当たる事が多く、思わず雑渡はうーんと唸ってしまった。
「料理くらい作れるさ」
馬鹿にしないでよなんて言いながら留三郎はふんと威張っている。何を根拠にとは思いもしたが、雑渡は言葉にはしなかった。
「そう?じゃあ卵焼き作ってみてよ。出し巻き卵の方ね」
「そんな簡単なの、楽勝だよ!」
留三郎はそう言って勇みながら台所の方へと消えて行く。それを見送りながら雑渡は楽しみだなぁなんて呟いていた。
「ほら、出来た!」
そう言って出されたのは見事な出し巻き卵だった。きちんと巻かれていて、形は完ぺきと言える。
「あ、きれいきれい」
その出来栄えを雑渡も褒める。留三郎は嬉しそうに「食べてみて」なんて言って箸を渡して来た。
「いただきます」
「どうぞ」
出し巻き卵を箸で切ろうとした時にジャリっとしたものがあったような気がした。けれど食べてみるまでは何ともいえず、それを口へと運ぶと濃いかつおだしの味が口へと広がり、じゃりじゃりとした食感がするばかりだ。出し巻き卵というより、出しだけ卵である。
「…君、これ何を入れて作ったの?」
口の中のじゃりじゃりを噛みしめながら尋ねると彼は「だしの素」と告げた。
「どれくらい?」
「一袋分」
「卵は二個?」
「うん」
留三郎の回答に雑渡は脱力した。卵二個に対してだしの素一袋はいくらなんでも多すぎである。溶けきれなかったものがまだ固形で残り、じゃりじゃりという不快な食感になっているのだろう。
「…美味しい?」
中々感想を言わない雑渡に不安になったのか、留三郎は身を乗り出すようにしながらそう尋ねてきた。
「君さぁ、味見した?」
当たり前の事を聞いたはずなのに留三郎はきょとんとしていた。そして「食べるのアンタだろ?何で俺が食べるの?」なんて言ってくるもんだから益々雑渡は脱力するしかない。
「外見は完ぺきなんだけどねぇ」
「でしょ?俺天才だって思ったもん」
彼はとても自慢げに出し巻き卵を見つめている。食べてみろと言うべきだろうか、と雑渡が悩んでいると益々意気込んだように「じゃあ今日の夕飯は俺が作るよ」なんて彼が言い出した。
「何を作るの?」
「冷蔵庫さっき見たら、野菜結構あったし、うずらもあったから」
「…あったから?」
「中華丼とか?」
どうしてこうも難易度が高いものを選ぶのかなぁと雑渡が考えていると「じゃあ作ってくる!」なんて言って留三郎が腰を上げかけた。
「ちょっと待って。とろみはどうやって出すつもり?」
「とろみ?」
「ほら、中華丼って少しとろってしているでしょう?」
そう言われて初めて考えましたと言うように彼は一度止まって「あぁー」なんて呟く。そして暫くして「ゼリーがあったからそれを溶かせば固まるんじゃない?」なんて言い出した。冷蔵庫に入っていたのは桃ゼリーであり、彼はそれを中華丼に入れようと考えているのだ。
「…君はまだまだ覚えるべき事が沢山あるみたいだねぇ」
しみじみと雑渡が呟いたその言葉に留三郎は首を傾げた。そして「口でするの上手になったって言ってなかった?もっと覚える事あるの?」と聞いてくる。
彼が何の事を言っているのかが分かって雑渡はやれやれと首を振った。その意味が分からないらしい留三郎は「それとも口でするの下手だった?」なんて聞いてくる。
「いや、上手になったよ」
「それでもまだ覚える事あるの?」
「そりゃあ沢山あるよ」
「もっと?」
「もっと」
「そうなんだ…」
「…そうだねぇ。明日は学校も休みなんでしょう?今日、泊まって行く?」
暗に含ませてそう聞いてみると、彼は顔を赤くしたあと俯きながら「別にいいよ」なんて返す。何をされるか、何をするのか想像しては期待を膨らまし、不安を抑えるように頷くその表情は今までとは違って随分と大人っぽい。このバランスの悪さが一種の魅力になりつつあるなぁなんて仕込んだ張本人が呑気に思っているのも可笑しな話ではある。
「じゃあ先にお風呂入ってらっしゃい。その間に夕ごはん作って置くから」
「うん」
彼は自分の衣服が置かれている二階へ行こうと腰を上げながら頷いた。そして何かを思い出したかのように足を止めて振り返る。
「どうしたの?」
「えっと、あの、自分で準備してた方がいいのか?」
声を小さくして、顔を赤く染めながらそう尋ねて来る彼の姿にくらくらした。確かに彼に自分で解す方法を教えたのは私だけれど、それでもさすがにアンバランス過ぎだと思う。自分が何を言っているのか彼は分かっているのだろうか。いや、分かってはいるんだろうけども。
「私がしてあげるからいいよ」
「よかった。俺、あんたにされる方が気持ち良くて好きだから」
去り際にさらっとそんな言葉を残していった彼に、雑渡はひとり溜め息を吐く。
確かに色んな事を教えたのは雑渡である。彼の体に色んな事をしてはそれを覚えさせたし、彼に自ら進んでするように仕向けたこともある。言ってしまえば彼のアンバランスを作った張本人なのである。
それでも彼が知識や経験の数が増えても変わらないのは予想外だった。きっと雑渡に言われた事なら何でも飲みこんでくれるだろうと確信の様に思うと、自分ばかりが翻弄されている気分になり、思わず「馬鹿な子ほど恐ろしい」と雑渡は自分を諫める為の言葉を溜め息と共に吐いてみた。
(2010/11/20)
このシリーズだと強者が留三郎で弱者が雑渡さんだよなぁーってしみじみ思います 笑
がんばれ雑渡さん。