
ゴーゴーと地鳴りの様な音を響かせて風が吹きつけ、そして冷たい塊が不定期にぼたぼたと落ちてくる。辺りは既に暗く、背後に何かが蠢く気配を感じてキリマルは思わず振り向いた。
目の前の扉は固く、開いてくれそうにもない。けれど背後にあるのは夜になると誰も足を踏み入れない木々が多い茂った暗い場所だ。空から雪が降るのよりもずっと不定期に獣の立てる音が聞こえてきて、只でさえ寒いのに血の気が引いた。
「…朝まで待ってたら死ぬかな」
ぼそりとそう呟いたキリマルはマフラーをもう一度巻き直し、コートの隙間から風が入るのを止めようとぎゅっと体を強張らせて扉を見上げた。
冬だからそれなりの格好をしているが、それでもキリマルが身に着けているものだけではこの極寒の地で風に晒されていると朝までもたない事は明白だった。賢いキリマルはそれを知っているが、どうしてもこの扉を叩いて中から開けて貰うのは避けたかった。
扉はとても古くからあるようで大きく、分厚い木で出来ている。表面には模様らしきものが細かく丁寧に彫られていて、さながら芸術品だ。この扉を初めて見た人はあまりの壮大さに足を止め、必ず口を開けて見上げると言われている。事実、キリマルも初めてこの扉を見た時にはあまりのスケールの大きさに口をあんぐり上げて暫く見上げていた。そして次に思ったことはこんな大きな扉を作れるような木って樹齢何千年物なのだろうか、ということでそして次の瞬間にはそれらが幾らくらいになるか計算してはチッと舌打ちをしていた。
どの国にも二つとないと言われる扉はキリマルが通う学校の寮の扉である。周辺の国の中でも所謂トップの子供達がいると言われている学園。キリマルはそんな学園の生徒だった。
学園はキチンと隅々まで管理されている。
起床時間や食事の時間、勉強時間まできっちりと決められていて、休日でも夕方5時になると扉が閉まってしまう。けれどキリマルはその時間を時々破ってしまうことがあった。
キリマルはこの学園に籍を置いているものの、下の人間だ。下というものは文字通り下ということである。
この国では一番高い位置に城があり、王族が暮らしている。そして少し下った辺りには上流階級が済む華やかな街があり、この街のかなり外れ、国境の境目にこの学校はある。そこから暫く下ると一般の人々が住む町があり、更にその下に広がるのがキリマルが生まれ育った地域だ。
道端に死体が転がっているのも、貧しさから学校に行けないような子供がいるのも当たり前のようなその地域でキリマルは生まれた。父親とか母親の記憶は探せばあるんだろうが、それを必要とする事はあまりなく、がむしゃらに生きていた。
人を信じる事は、イコールで死んでしまうということ。
キリマルはそんな場所でヒトリで十になるまで生き抜いた。
ある日そんなキリマルを引き取ると申し出た若い男がキリマルの家を訪ねてきた。
よく分からないが父親の遠い知人だと言った男は学校の先生をしているようで、キリマルを引き取るとキリマルに勉強を教え始めた。字が書けるようになると次は本を取りだして幾つもキリマルに与える。
「生きる事に必要じゃない」とキリマルが突っぱねると若い男 ― ドイはキリマルの目をしっかりと見つめ、「奪われるだけの人間にはなるな」と言った。
「この世界では賢い者が勝つように出来ている。ルールを作ったのが賢い奴らだからだ。けどな、それを知っているのは賢い奴らだけだ。そんな奴らにこれ以上何も奪われるな」
それから数年の間、キリマルは与えられる本は全て読み、そして読みたい本を買い与えて貰った。来る日も来る日も本を読み、分からないところは全てドイに教えて貰う。キリマルの質問にドイがたまに困ったように本を開く時があり、それがキリマルは嬉しかった。自分が分からないものをドイも分からないということがお揃いのようで妙に嬉しかったのだ。
ドイはある日、キリマルがとても賢いということをキリマルに告げた。そしてこの学校に通う様勧めてくれた。ドイはギリギリ上流の街に住む家柄で、裕福ではなかった筈なのに気が遠くなる程の金額が掛かるこの学校にキリマルを入れてくれたのだ。
少し前のキリマルならその話を断った。そんな膨大な金を使うなら、商売始めた方が儲かると言っただろう。自分の為に赤の他人であるドイが唯一の資産である土地を売り払うなんて馬鹿げているとさえ思ったかもしれない。けれど、キリマルはもうそんな事を言わない。
前にドイが言った通り賢い方の人間になろうと決めていた。
だからこそこの扉を叩けない。
門限に間に合わなかった事がばれてしまうと反省文や食事抜き、評価が下がってしまうどころの騒ぎではなく、ドイのところにまで連絡が行く。それがキリマルは嫌だったのだ。
いつもであれば同室のランタロウに扉をこっそり開けて貰うことも出来るのだが、生憎今日は委員会で徹夜で作業をしなければならないから遅くならないよう言われていた。
寒さに歯がカチカチとなり、唇同士がくっついて離れなくなりそうで焦ってペロリと舐めるといつの間に切れていたのかピリリとした痛みと血の味がした。鼻水はとっくの昔に凍ってしまったようで、出て来ない。ただ寒さと痛みだけが体を襲う。辛くなったキリマルは体勢を変えようとした。
その時肩に何かが触れた。
背後の森は銃を持っていても怖い獣がたくさんいる。キリマルは更に血の気が引くのを感じながら恐る恐る振り向いた。けれどそこに居たのは血に飢えた獣ではなく、人間だった。それもキリマルと同じようにこの学園に所属する生徒だ。キリマルと同じように腕章をしているからすぐにそれが分かった。
「朝まで待つつもりかもしれないけど朝になる前に凍え死ぬか、食われるぞ」
髪はキリマルと同じように黒く、そして長めの前髪からちらりと見えた瞳はきつく吊りあがっていて獣じゃないと安心した束の間、またヒッと悲鳴を飲み込んだ。
彼のことをキリマルは少しだけ知っている。といっても、噂でしか聞いた事なかったし、遠目でしか見た事がなかったが、今目の前に立っている人物が学園で一番の問題児と言われているケマ先輩だとすぐに分かった。
「…門限破ったこと、見付かるのが嫌なのか?」
不良だと言われているからとてつもなく強く、怖い人だろうとキリマルは思っていたが、実際に声を聞くと意外に高く、そして穏やかだった。ケマの言葉にキリマルが頷くと暫く考える素振りを見せたケマは「ついてこい」と扉に背を向けて歩きだした。
ついて行くという選択肢以外なく(あの場所で待っていても朝になる前に死ぬのは確かだった)、雪の上をさくさく歩くケマの後に続く。
森へと少し下りる時にはさすがに罠かとも思ったが、彼が危険な場所へと自ら出向いてまでキリマルを騙すとは思えなかった。そんなことをしても彼にメリットはないだろうことは明らかだ。
少し下りると左側に小屋が見えた。その小さな小屋のドアの鍵を外すとケマはそのまま小屋へと入った。小屋の中は薄暗く、あまりよく見えなかったが、シャベルだとかそういうものばかりが並んでいた。
確かにこの場所なら寒さも和らぎ、朝まで生きていられるだろう。キリマルがほっと息を吐いたその時、床へ座り込んだ食満が床板を外し、ランプへと手際よく灯りを点した。
温かいぼんやりした光が小屋の中を照らし出し、そしてそのランプを持ったケマは「降りるぞ」と短く告げると地下へと下りて行く。
さすがに薄暗く狭い地下への階段を下りる事は怖かったが、言葉に従う方が賢明だろうと判断して言われた通り床下を戻して、鍵までかけて、キリマルは地下へと下りた。小屋の外から唸り声のようなものが聞こえたのだ。部屋に留まっていても骨になってしまうのなら意味が無い。
下りだった筈の階段がいつしか上りになり、数分後には狭いトンネルになった。壁はしっかり塗り固められて崩れるような心配はなさそうだ。それにしても随分と細く長いトンネルを歩き、闇の中にぽつんと浮かんだ赤い扉をケマは躊躇うことなく開けた。
赤い扉の向こうは部屋のような作りをしていた。狭い部屋ではあるが、真ん中にテーブルがあり、椅子も四つあった。それから時計がカチカチ時を刻んでいる音も聞こえたし、ソファもあった。床には絨毯が敷き詰められている。
ぼんやりと立ち止まり、部屋の中を見まわしたキリマルは反対側の壁にもうひとつ扉がある事に気付く。けれどケマは足を止めてテーブルの真ん中にランプを置いた。
「…早く帰りたいだろうけど、この時間は見回りがいるからもう少し時間潰した方がいい」
ケマのその言葉にキリマルは壁に掛けられている時計を見上げる。その時計の数字は微妙にずれていて、味があるような木で出来た時計だった。時間は就寝時間から一時間と少し経ったくらいで、確かにこの時間だとまだ見張りの奴らがうろうろとロビーやらリビングやらをうろついてて見付からないよう部屋に戻るのは至難の業だ。
キリマルは仕方なく椅子に腰を下ろした。目の前でゆらゆらと光を揺らすランプの光が体も心をも温める。
狭い室内は静かだった。ずっと黙っているのも気まずいと思った次の瞬間にはキリマルは口を開いていた。
「今日本当はもっと早く帰るつもりだったんですよ、でもカザマの奴が、あ、カザマってオレのバイト仲間なんですけど、そいつが風邪引いたみたいで仕事出て来れなくて…あ、バイトって言ってもそんなに必死な訳じゃないんです、ただ、ある程度の金額持ってないと不安になる性質でしてね、だからバイトしているってことあんまり知られちゃいけないんですけど、ケマ先輩にはお世話になってしまったし、あ、そうそう、カザマが仕事出て来れなかったんですけど、バイト先の奴がカザマが使えないから切るとか言い出して、確かにアイツ体弱いんです。けどそれは食べるものがちゃんとしてないからだし、仕事だって有り得ない低賃金なんです。それを棚に上げてそんなこと言うから代わりに仕事片付けてたらこんな時間になってて…って、別にケマ先輩は聞いてませんよね…」
ハハッと乾いた自分の笑い声だけが響き、キリマルは話を切り出す前よりももっと気まずさを感じた。ケマは返事をせず、いつの間にか取り出した煙草に火を付けて白い煙を吐き出している。
不良だという噂は本当だったのか、とキリマルが思っていると煙草を吸いながら何やらカチャカチャやっていたケマが突然コップをキリマルの前に置いた。
「ココアで良かったか?熱いから気を付けろよ」
湯気が立ち上るコップの中には甘い香りのするココアがたっぷりと入っている。
「ミルクないから少し味が軽いだろうけど、体は温まるはず」
ケマも同じようにココアの入ったコップを持ち、キリマルの対角線上にある椅子に腰を下ろした。
「あ、ありがとうございます」
キリマルはそう言って手袋を外すとそっとコップへと触れた。指がじんじんするほど温かい。顔を近付けると温かい湯気と甘い香りが鼻腔をくすぐった。フーフーと息を吹きかけ、ちびちびとキリマルはココアを飲む。口の中、食堂、胃までがじんわり温かくなるとすぐに手や足まで温まる。こんなに美味しいココアは久しぶりだと思うくらいだった。
ケマは何も言わず、太い木の枝をナイフで削り、時たま煙を吐く。ゆらゆらと立ち上るそれがキリマルには生き物の様に見えた。
ココアも飲み干し、時間を見るとそろそろ戻れる時刻だった。キリマルが時計を見上げるとそれに気付いたケマが「そろそろ戻るか?」と尋ねてくる。「はい」と短く返事をするとケマは「待ってろ」とだけ告げ、部屋の隅にある棚からなにやら取り出してそれをキリマルへと渡した。
それは上品な色とりどりの包みに包まれたお菓子だった。
「これは、?」
「見れば分かるだろう、菓子だよ。お前キリマルだろ?シンベエから話聞いてたよ。それ、同室の奴らにも分けてあげろよ。確か三人部屋なんだろ?」
「…ひとつ、多いですけど」
「カザマだっけ?分けてあげな」
ケマが話を聞いていてくれた事に驚く。そしてこんな風に気を配ってくれた事にも驚いた。
子供のうちから働いているということは下の連中だってすぐに分かる。この学園ではそういう下の奴らを馬鹿にしたり、まるで虫けらの様に思う奴が多い中、ケマはカザマにもキリマルにも同じような気配りをしたのだ。それは、とても珍しいことである。
「帰り道は、あの扉の向こうを真っすぐ行けばいいよ。暫くすると扉がある。その向こうは、お前が知ってる場所だよ」
「…あ、ありがとうございました」
キリマルはケマから貰ったお菓子をコートのポケットへと詰め込んでからお礼を言う。それにケマは「別に、大したことはしてない」と煙を吐き出しながら答えた。
扉の向こうは暗いだろうけど真っすぐ行けばいいだけだから、とケマに教えられ、キリマルは深い緑色したドアのノブを掴む。突如、背後からぽんっと頭の辺りを軽く叩かれ、振り向くとケマが「何でもない」と言った。キリマルはもう一度礼を述べてドアの向こうへと一歩踏み出した。
そこはケマが言ったように、ただひたすら黒があるだけの空間だった。
天井も低く、幅もない。そんな上り坂のトンネルを歩き続け、ケマに言われた通り数字を100まで数え終えたところ、薄っすらと黒が薄まったのが分かる。四角く光が漏れている場所へ触れると壁が小さく音を立てて動いた。
「…時計の、裏?」
キリマルが出てきたのはリビングの端に置かれている大きな時計の裏側だった。ケマが言っていた通り見覚えのある場所、というか普段よく使う場所だ。そっと息を潜めてキリマルは自分の部屋へと戻る。
長い廊下に足音が響いた時は物陰に隠れ、その足音の持ち主が去るのを待つ。そうやって自室に戻るとようやく緊張が解けてキリマルははぁ、と盛大に溜め息を吐いた。
同室であるシンベエはキリマルが思っていた通り既に眠っていて、スースーと何とも気持ち良さそうな寝息を立てている。そんなシンベエのベッドの前を横切ると、シンベエが物音にでも気付いたのか起きてきた。
「起こしちまったか?」
「何か、甘い匂いする」
「…お前の鼻は犬並みだなぁ、土産、あるよ」
ケマに渡されたお菓子をポケットからがさこそ出していると「キリマルが僕にお土産?!」とシンベエが大袈裟に驚いている。まぁ、それもそうかとキリマルが思うのは自分よりもずっとシンベエの方が金持ちであり、シンベエに対して何かを上げたりした事が一度もないからだ。
「これ、どうしたの…」
ランプに火を点してお菓子の包みを見たシンベエが驚いたように目をシロクロさせている。
「何が?」
「これ、王室御用達のところのだよ、ほら、マークついているでしょ?」
「へー…これがそういうマークなのか」
「こんな高級なもの、一体どうしたの」
「…ケマ先輩から貰った」
「ケマ先輩?何でまた…」
「まぁ、色々あったのさ」
「ケマ先輩の家がどえらい所って本当なのかもね…でもケマってところあんまり聞いた覚えないんだけどなぁ…」
「…そういうもんなのか。で、幾らくらいなんだ」
シンベエが教えてくれたのは、キリマルが着ているコートが3着は買える程の金額だった。しかもそれが一個でその値段らしいのだ。
「売ろうと思ってもダメだよ。こういう店は誰にどれだけ売ったとか細かく管理しているから、ケマ先輩に迷惑かかるよ」
シンベエのその言葉にキリマルは「グェ」と蛙が潰れたような声を出して項垂れた。恩人に恩を仇で返す趣味はキリマルにはないのである。
「折角なんだから食べようよ、ほら、」
シンベエがキリマルの分をひとつ差し出す。本当ならば売り払いたい。でもそれが出来ないのでキリマルはこんなもの食べても腹は満たないだろ!と心の中で叫びながら手の平サイズのその菓子に自棄になって齧りついた。
「…うまい」
「さすがだよね。これひとつ作るのにどれだけの工程があるんだろうねぇ。仕事がとても丁寧だ」
シンベエが言う通り、思わずため息が出るような味だった。うまいだけでは説明出来ないほどで、味が深いと思う。味に深みあることをキリマルは初めて知り、お菓子一つに感動を覚えた。
「金出せば美味いもん食えるって本当だな」
今までは食に金をかけない生活をしていただけにキリマルはしみじみとその言葉を痛感する。そして大きく溜め息をついて自分のベッドへと横になると思いもしない固い感触を背中に感じた。
「イタッ!何だ?!」
慌てて起き上がったキリマルにシンベエがランプを手に近寄ってきてキリマルのベッドを照らした。ベッドの白いシーツの上に木彫りの十字架がひとつ落ちている。
「十字架?」
「…あ、これ、ケマ先輩の手作りだ」
シンベエはそう言うと、ランプをキリマルに渡して自分の机の中を弄った。そしてほぼ同じような十字架を出してくる。
二つの十字架を手にキリマルは見比べてみたが、その二つは細かい細工は違うものの、同じ人物が作ったと言い切れるものだ。
「フードのところに入れていたのかもね」
「…でも、何で俺に十字架?」
「僕がこれを貰ったのは風邪を引いた時だったけど、キリマルは病気してないよね」
「…もしかして」
そういってキリマルが十字架を注意深く見ると、細かい細工の途中にカザマの綴りが彫られている。それさえも飾り細工のように見えるから探すのが大変だった。職人じゃないんだからここまでこだわらなくてもいいだろうと思いもした。それだけとても綺麗に拵えられていたのだ。
「あんな人でも神さま、信じてんだな」
覚えているのは、煙草を吸いながら椅子に座っていたケマの姿だ。どちらかという無神論者のように見える彼はキリマルに気付かれないうちにあっという間に十字架を彫っていたのだから世の中分からない。
今度こそベッドへと背を預け、高い天井を見上げる。
「カザマ、喜ぶかな…」
きっと一生の内もう口にする機会のないだろう高級な菓子とカザマの為に彫られた十字架を持って今度の休みに会いに行こう。そして次にケマを見掛けたらカザマにちゃんと渡しましたって報告しよう。キリマルはそう心に決めて瞼を閉じた。
あとがき
日記で叫んだ奴を形にしてみました、が、これ、多分ファンタジー…笑
とりあえず、俺得だぁ!と思って、書いてみたよ!
(2011/06/28)