『君恋ふる花』 Sample






※平食満成長パラレルです。

 呼吸をひとつすると目の前の闇が白く煙り、そしてまた闇へと戻っていく。冷えた空気は肌から体温を奪っていき、喉や肺を冷やして中から凍りついてしまいそうだった。闇の中に身を隠していた青年がふと見上げた先では闇とは色を変えた空が木々の合間から覗く。深く暗い夜を流れた星を見送り、青年は瞼を閉じた。
辺りは深い森で人の気配はない。風が吹けば木々が葉の少ない枝を震わせるだけで、とても静かな夜だった。
 呼吸を繰り返すだけで意識が霞むほどの痛みが襲ってくる。視界に入っている左足は普通なら有り得ない方向へと向いていた。骨折しているのは確かだが、彼には手当する体力すら残っていない。右手も上手く動いてはくれないのだからこっちも折れてるだろうな、と重体の割には冷静な頭で判断する。
 冬の夜。しかも深い森の中だと寒くない筈はないが、背中がじわじわと燃えるように熱くて堪らなかった。濡れているような感覚もあるから傷を負っているのだろう。けれど痛みは感じないのでそんなに大きな傷ではない筈だと青年は思った。たとえ傷が致命傷となるほど酷くても今の彼にはどうする事も出来ない。ただ呼吸を繰り返すのが精一杯で、最早歩く事も自らの力で立ちあがる事も出来そうにない。
 瞼を開くと目の前にはまだ闇があった。さっきまでは微かに光っていた星を今はひとつも見つけられない。それはもう自分に光が必要ないからなのだろうか。青年はそう心の中で思いながらも星を探す。
 呼吸をする度に痛んだ体から段々と痛みが消えて行くのを感じた時、もう終わりなんだな、と青年は感じていた。こんな森の中で野垂れ死ぬのが自分の最期なのか。そう思うと笑いが堪えられない。可笑しくて仕方がないのだ。
 結われていた黒い髪はほつれかけ、幾束か口元へ張り付いていた。髪はそんなに長くはなく、結える程度だ。頬には血がこびり付き、そしてつり目で冷たい印象を与えがちな瞳は今は虚ろに開かれているだけだった。
 段々と体に力が入らなくなり、意識が遠退いていく。目の前の風景が息で白く染まるのを見つめながら青年は何故か夏を思い出していた。青い空、照りつける太陽の眩しい白い光。思わず項垂れるような気温の高さ。そして雲の白さに目が眩んで立ち止まった先に見えたのは陽の光を受けて眩しいほど輝く黄色だった。
 太陽の花。
 意識を失う瞬間、目の前の闇に彼は花畑を見ていた。



 温かい空気に気付いて瞳を開けるとぼやけた視界の向こうに見覚えのない天井が見えた。まだ頭が混乱しているのだろうかと青年は考える。ふわふわと浮いているような感覚はまだ消えずに残り、夢を見ているのだろうと思えた。声が聞こえた気がして視線を向けると、心配そうな顔が覗き込む。
「食満先輩」
 穏やかな声が心配そうに名を呼んだ。そして名を呼ばれた事に傷を負った青年は驚く。何故なら彼の名は本当に食満留三郎というのである。
優しげな瞳を持つ彼は自分の事を知っているのだろうか。まだ上手く回らない思考回路でそんな事を考えながら食満と呼ばれた青年はゆっくりと瞬きをした。けれどどんなにその人を見つめても、彼が誰なのかは分からない。こんなに優しげな瞳と声を知らなかったのだ。
「薬湯と痛み止めです」
 名を呼んだ青年の声は聞こえていたが、体を起こすなど無理な事だった。そしてそれを知っていた彼は痛み止めを薬湯へと混ぜると口に含む。それから寝ている留三郎の唇へ口付けた。温かいものが注がれ、それを留三郎は何とか飲み込む。苦みがあるその液体はただただ温かくて懐かしかった。
青年は器に入っていた薬湯を全て口移しで飲ませ終えると、留三郎の瞼の上に手を置く。大きな手はとても温かい。気が付けば水底に沈むようにゆっくりと意識が遠退いていった。
 意識が浮上しては薬を口移しで飲まされ、また眠りに落ちる。それを何度も繰り返し、次に目を覚ました時にはいつもの目覚めとは違って意識がはっきりとしていた。
 見慣れない天井。柔らかい布団。誰かが自分を助けてくれたというのは明らかだが、それが誰かは分からない。雪に閉ざされた冬の森の中で一体誰が自分を見つけたのだろうか。それは本当に「人間」なのかと訝しげに思っていると戸が開いて何者かが家に入ってきた。
 家に踏み入れて笠を外し、雪を落とすその人は背がすらりと高い若い男だった。髪は黒く、そして短く切られている。肌の色は随分と白くて顔色が悪いようにも見えた。
「…目を覚ましましたか?」
 彼はまた「食満先輩」と呼ぶ。そしてそれは正しい。しかし名を呼ぶその青年が誰なのかという肝心な事を留三郎は思い出せないでいる。それどころか体中が痛くて言葉を発する事すら上手く出来ない。
「…痛みますか?痛み止めをちょうど調達してきたところです。少し待っていてください」
 痛みに耐えるよう眉間に皺を寄せる留三郎に気付き、青年は背負っていた荷物をすぐに下ろした。そして調達してきたという痛み止めを煎じ始める。
 部屋の中は懐かしさを覚えるほど薬の匂いで充満し、そしてその薬の味も懐かしさを覚えるほど苦かった。
 薬が効いてきて痛みが和らぐと、留三郎は傍らに座っている青年へと視線を向けた。けれど、どうやって彼の名を問えばいいか分からない。留三郎の事を「先輩」と呼ぶからには彼もまた留三郎と同じく忍術学園の卒業生で、そして留三郎の後輩なのだろう。
 何か言いたげな表情に気付いたのか、青年は垂れ目がちな瞳を優しく細めて「覚えていませんよね、」と寂しげに微笑んだ。その悲しげな笑みに留三郎の胸がちくりと痛む。
「食満先輩は六年生の時に用具委員会の委員長でしたよね。その時委員会で一緒だった下坂部平太です」
 下坂部平太と名乗った青年の顔を留三郎は目を丸くして穴が開くほど見つめた。
「…へいた?」
 名を呼ぶと青年は嬉しそうに微笑む。少し太めで垂れ気味の眉と同じく垂れがちな瞳はとても優しげで、よくよく見れば昔の面影がちらりと覗く。
「お久しぶりです。…貴方を見つけた時、死んでいるんじゃないかと本当に心配しました」
 辛そうに顔を歪めた平太に留三郎は申し訳なさそうに瞳を伏せた。
「怪我の理由は聞きません。けれど傷を治すまでここに居て貰います」
 きっぱりとしたその口調に留三郎は小さく頷く。そして「頼むよ」と笑った。怪我の理由はひとつしかない。そしてそれは留三郎と同じく忍術学園を卒業した平太には聞かずとも分かる事だった。