『貴方に話せない昔のはなし』 Sample 用具室の戸が閉まる音がして振り返ると誰もいなかった筈の倉庫内にいつの間にか用具委員長である富松が立っていた。彼は戸を閉め、平太の元に歩み寄ると「まだ終わらないのか」と平太の持っている紙を見下ろす。六年になった富松は以前よりずっと背が伸び、同じく背が伸びている平太は未だ彼には届かない。二年という僅かな年の差だけど成長期では圧倒的な差になってしまうのが平太はもどかしかった。 「もう少しで終わります。後は確認だけでいいので」 平太がそう返し、もう一度数え直そうと視線をあげると後ろから「今夜は暇か」と声が飛んでくる。邪魔をするつもりなのだろうかと振り返ると思ったよりも真剣な瞳にぶつかった。 「…明日は半日演習があります」 「平太なら平気だろ。体力、意外にあるし」 富松はそう言いながら平太へと手を伸ばし、耳元から落ちている生え下がりへと触れる。 「…神崎先輩と次屋先輩は」 「あーあいつらは学園長の使いに出て今夜いないんだ」 「…あの二人がお使いって…大丈夫なんですか?」 「平気だろ。もう六年だ。この年になっても迷っている様じゃ忍者になんて到底なれんよ」 富松の指先が離れ、背を向けられる。そして去り際に「夜、来いよ」と告げて富松は用具倉庫から出て行った。一人残された用具倉庫で平太は彼が触れた生え下がりに触れ、自然に視界を足元へ落とす。無意識に零れ出たため息は深く、ごろごろと足元に転がり落ちたようにも思う。 今更何を考えてもどうにもならないからと平太は仕事を終わらせる事だけを考え、もう一度縄梯子の数を数える為に顔を上げる。そしてこの後の事を少し考えてはまた無意識にため息を落としていた。 細く尖った三日月が空に浮かんでいるのを横目に見つつ、平太は六年の長屋で足を止めた。目の前の部屋は六年ろ組である富松と次屋と神崎の部屋だが、富松以外の二人は留守にしている。この部屋に足を踏み込めばどうなるか予想が付きながらも平太はその戸を開いた。 寝巻に身を包んだ富松は酒を飲んでいるようで既に目元が赤く染まっている。そして平太を捉えるとその瞳がどこか歪んだように見えた。 富松の向かいに腰を下ろした平太はただ黙って富松を見つめる。そうすると富松は大きい手を伸ばして平太のまだ薄い肩を掴み、「やっぱり、来たな」と一言呟くと唇に噛みつくように口付けた。富松に押し倒されながら、平太は自分の顔を隠すために両腕で自分の顔を覆い、目を閉じた。 こんな風になってしまった時の事を平太は今でも覚えている。一年程前、平太がまだ三年生だった時の事だ。二年前に卒業した先輩である食満留三郎に平太はまだ憧れていた。同じような髪型をずっと続け、彼の得意武器である鉄双節棍を同じように得意になろうと放課後に練習するようにさえなっていた。 そんなある日、たまたま用具倉庫で一緒になった富松が平太を見つめて「似ている」と言ったのだ。 「初めて会った頃の食満先輩に良く似てるな」 富松のその言葉を平太は嬉しく思った。十歳の頃のたった一年の記憶。それを押し留めておくのは思っていたよりもずっと大変で、だからこそ見た目を真似する事で覚えようとしていたからだ。そして留三郎が好きで好きで仕方がなかった平太は彼のようになりたいと強く思っていた。むしろ彼自身になれたら、それが叶うならそうしたいとすら思っている。そんな平太にとって彼に似ているという言葉は褒め言葉だったし、面影に囚われ続ける自分を肯定して貰える言葉のように聞こえたのだ。 「…生え下がりを作ればもっと似るんじゃないか?」 富松はそう言い、平太へと剃刀と鏡を差し出す。都合よくそれらを持っている事に違和感を覚えたが、断れるような空気でもなかった。そして平太もこれ以上に留三郎に似せられるのならと富松から剃刀を受け取ってしまった。 生えさがりを作るとこめかみや耳元辺りがくすぐったく感じる。鏡で確かめると確かに髪型だけはいつかのあの人そっくりになっていて、平太もその出来に満足出来た。 「…似ていますか?」 平太のその問いに富松は一度頷き、そして平太の目を覆うように手で隠した。大きな手に視界が塞がれたかと思うとすぐに唇が塞がれ、その場に押し倒される。 頭の何処かでこうなってしまうだろうと少なからず予想していたので平太は狼狽える事はなかった。抵抗すれば、腹に一発蹴りでも入れてやれば富松はきっと目は覚ますとも思ったが、結局平太はそうしなかった。 見た目を真似してあの人のようになろうとする自分と、その見た目に慰めを求めるこの人は同じ穴のムジナで、傷を舐めあうのも悪くない様に平太には思えていたのだ。自分のようにあの人の面影に未だ囚われているこの人を慰める事は自分を慰める事にもなるんじゃないかと幼いながらに思っていた。 けれど、多分、それは間違いだった。あの時に二人はやがて沈む泥の船に乗り込んでしまったのだ。 |