君の言葉が押した心のスイッチ
深夜の厠で偶然出くわした竹谷に好きだと告げられた時、さっきまでの眠気が嘘のように一気に何処かへ行ってしまった。握りしめられた手が熱くて、驚き過ぎて声すら出なくて、真剣な竹谷の目から視線を逸らせない。
聞く気はなかったのだが、部屋で鉢屋と竹谷の会話も聞いてしまったし、その場を逃げ出したのはいいが、追いかけられて結局捕まってしまった。
本気を出せば竹谷から逃げることは容易い。
けれど、その時ばかりは力が入らなくて、また、何故か入れようとも思わなかった。
ただ竹谷の言葉が耳の中へ溶けてしまって、脳みそを痺れさせたみたいに何にも考えられず、黒い瞳の中に映り込む光を見つめていた。
好きだと言われたことは何度もあった。
けれどそれは所詮夜の睦言であり、戯言で、信じるのもアホらしいものばかりだった。
そして俺も、そんな言葉でなら何度も人に告げた事がある。
けれど竹谷の言葉は、そういう類のものとは似ても似つかないもので、言葉に熱があった。
その熱に、どうやら俺は融かされてしまったらしい。
その日から竹谷が脳内に住みついてしまったのだ。
仙蔵や小平太にその夜の事をあまり口外しないようにと念を押したのにも関わらず、翌朝には既に四年の耳には入っていたようで、食堂からの帰り道でタカ丸に呼び止められた。
「あ、留三郎くん〜噂聞いたんだけど〜」
「…何の噂だ?」
「八左エ門くんが留三郎くんにゾッコンラブって」
「ゾッコ…?!誰から聞いたんだよ!」
「え、誰からだっけ?えーと、確かぁ〜あの時居たのは、三木ちゃんだっけ?あれ?」
タカ丸は首を傾げながら隣りにいた綾部の肩を叩く。
「誰から聞いたっけ?」
「さぁ?私は寝ていたので分かりません」
「えぇ〜?嘘だー綾ちゃん目あいてたよ?」
「あいたままでも私は眠れます」
「ほんと〜?今度その方法教えてよ〜!」
「いいですよ。タカ丸さんだけ特別です」
「わぁ〜い!綾ちゃんありがとう〜!!」
にこにこと笑ってタカ丸は綾部の頭を撫でている。
「あの、」
「あ、留三郎くんも綾ちゃんから教えてもらいたいの?」
「…いや、それは別にいいんだが、」
「駄目です。タカ丸さんにだけ教えるんです」
「え、そうなの?じゃあ留三郎くんには悪いけど今回は遠慮してもらってもいい〜?」
「いや、だからそれは別に知りたい訳じゃなくて、だから、俺が知りたいのは、」
無表情のまま空を見上げている綾部とにこにこ笑っているタカ丸に少し声を荒げてそう言いかけた時、食堂の方から「喜八郎!タカ丸さんも早く来てください!!!」と滝夜叉丸が顔を出し、こちらを見ながら怒鳴った。
「あ、滝ちゃんごめん〜!ほら、綾ちゃん!あ、留三郎くん、またね〜」
タカ丸は綾部を引っ張りながら俺に向かってにこにこと手を振り、走り去ってしまった。
「…結局、噂はどこから流れているんだ?」
噂の出所について何ひとつ知ることは出来ず、廊下でひとり首を傾げる。
「六年全員に聞いてみればいいか…」
授業が始まる前にもう一度六年長屋に戻ろうか、そう考えて廊下を歩いていると今度は曲がり角でばったりと竹谷に出くわした。
「あ、お、おはよう」
少し吃りぎみにそう告げると、竹谷はさわやかな笑顔で「おはようございます」と返す。
その笑顔に戸惑いなんかは欠片も見当たらず、あまりにもいつも通りすぎて気が抜けてしまった。
「今日の味噌汁の具なんでしたか?」
「大根と豆腐」
「あ、それはうまそう!」
「うまかったぞ」
「じゃあ、失礼します」
さらっと俺の前から離れて歩きだす竹谷の背中を複雑な気持ちで見つめていると竹谷が唐突に振り返る。
「あ、食満先輩!」
「…な、なんだ?」
「今日の放課後、空いてますか?」
「予定はないが…」
「じゃあ、ちょっと俺に時間ください」
「…ああ、いいぞ」
「じゃあ、放課後迎えに行きますね!」
軽く手を振り、竹谷はそのまま食堂へと去って行ってしまった。
予想とは違って竹谷は驚くほど普段通りで、どちらかというと俺の方が完全に舞い上がってしまっている。
「…俺、だっせー」
年下の男に振りまわされていることに気付き、恥ずかくなり
思わず俯いた。
顔が熱くて、きっと赤く染まっているんだろう。
「あんな風に言われたことねーんだから、仕方ねぇよ」
頬を軽く叩きながら竹谷の背中を探すようにちらりと顔を上げたけれど、そこにはもう竹谷の姿はなかった。
*:*:*
「仙蔵も小平太も、口外するなと言ったのに」
眉間に皺を寄せながらそうぶつぶつ呟きながら寝転がる。
伊作は医務室へと出掛けてしまったので、部屋にひとりきりだった。
朝は結局誰も捕まえられず、昼に仙蔵と小平太を捕まえて噂を流したのかどうか追及したところ、「滝にしか言ってない」「綾部と藤内にしか言っていない」というように二人とも口外していたのだ。
そうなったら噂はどうしても広がってしまう。
問題なのは小平太も仙蔵も、自分が悪いとは思っていないところだ。
二人して「そもそも六年長屋で告白した竹谷が悪いだろう」と言いきり、文句を言う相手は竹谷だろうと逆に叱られてしまった。
「あいつら怒ったら怖ぇしなー」
ごろごろと寝転がりながら、「私達は悪くない」と言い切った二人にそれ以上何も云えず逃げ帰った自分をフォローしていると廊下の足音が部屋の前で止まる。
「食満先輩いらっしゃいますか?」
竹谷の声だ!
そう思った瞬間、無意識に体を起して正座をしていた。
「入っていいぞ」
「失礼します」
襖を開けた竹谷は俺を見るなり、吹き出した。
突然笑いだした竹谷に、どうしたのだろうと思いながら呆然と見つめていると竹谷は涙を拭きながら「すみません」と謝る。
「いや、別にいいんだけど、何で笑ったんだ?」
「だって、先輩、正座しながらカチコチに固まってるから。もしかしてずっとその姿勢で待っていたんですか?」
「んなわけあるか!」
「そうっすよね、びっくりしたー」
足を崩して坐り直すと、竹谷も笑いながら俺の向かいに腰を下ろす。
そして俺の顔を見つめると軽く微笑んだ。
「今からちょっと出掛けませんか?」
「…いいけど、何処に?」
「ちょっとそこまで」
竹谷はそれだけ言うと早速立ち上った。
そしてまだ坐っている俺の方へと手を差し出す。
その手を取って体を起すべきかどうか迷っていると、「ほら、早く」と勝手に手を取られてしまう。
「あ、ありがとう」
「いえいえ。じゃあ行きましょう」
竹谷に続いて部屋を出ると、丁度部屋に戻ってきた伊作と出くわした。
「あ、伊作、俺ちょっと出てくる」
「…そう、いってらっしゃい」
にっこり笑って伊作は手を振った。
伊作に手を振り返しながら、ペコリと会釈をして伊作の傍を通り抜けた竹谷の後を追う。
伊作の声に元気がなかったような気がしたけれど、きっと気の所為だと思う事にした。
そして四方八方に跳ねているぼさぼさの髪を見つめながら、どうしてこんなにもこいつが冷静で俺が動揺しているのだろうと考えていた。
*:*:*
竹谷が俺を連れてきたのは、裏山の更に奥地だった。
獣道を行くこと十数分、視界が開けて突如原っぱが出現し、そこからは目の前に随分と低い位置に降りた太陽と、眼下に町が見えた。
「へぇ、こういう場所あったのか」
裏山は授業でもよく使うが、こういう場所があるとは六年間知らずにいたのだ。
思わず感嘆の声をあげると竹谷が「綺麗でしょう?先輩に見せたかったんです」と微笑んだ。
「連れてきてくれて有難うな」
「喜んでくれたらなよかったです」
空は赤く染まり始めており、雲は薄紅色に染まっている。
大きな岩の上に腰を下ろしてその景色を眺めていると、隣に立っていた竹谷が急に真剣な声で名前を呼んだ。
「あの、昨晩のことなんですけれど」
「…何だ?」
「覚えていますか?」
不安そうな表情をした竹谷に、それはこっちの台詞だと思った。
けれどその言葉は声にはならず、俺はただ頷く。
「俺、先輩のこと好きです。大好きです」
「…それは、もう、聞いた」
「それを先輩に知っていて欲しくて伝えました。先輩がそれを知っていてくれれば俺はそれで満足です」
竹谷は本当に満足気にそう口にしながら目の前の景色を眺めていた。
黒い瞳の中に、赤い雲が映り込んでいるのが見える。
「付き合って下さいと言うつもりはありません」
「…え?」
「はは、先輩、俺がそう言うと思っていたでしょ?」
「え、まぁ…」
「先輩、きっと今は俺のこと何とも思っていないだろうし、付きあうって言う形で選択を迫る気はないんです。ただ、俺と一緒にいて楽しいって思ってくれたらいいなぁって」
しみじみとそんな事を言う竹谷に「楽しいよ」と返すと竹谷は本当に嬉しそうに笑う。
「そう思ってくれたら、俺はそれだけで幸せです。だからあんまり深く考えないでください」
「…本当にそれだけでいいのか?」
「はい」
竹谷は嘘を吐くのが苦手なタイプだ。
その竹谷が真剣に俺を見つめながら嘘を吐ける訳がない。
だからきっとこれは嘘なんかではなく、本音なのだろう。
「…竹谷の言いたいことは分かった」
「よかったぁ、俺、後先考えないで言っちゃったから、もう、どうしたらいいかテンパってて、緊張したぁ…」
竹谷は俺が腰掛けている岩の方へと体重を乗せて、力を抜いてへにゃっと笑いながらそう言う。
「嘘だ、お前怖いくらい普通どおりで、俺が逆にテンパった」
「あ、先輩がテンパってるのは分かりました、だから焦ったんですよ、俺。嫌われたらどうしようって」
「…お前の気持ちは嫌じゃない、嬉しいよ」
「先輩のそういうとこも好きです」
「そういうとこって、どういうとこだよ」
「優しいところ」
「…別に優しさで言っている訳じゃ」
「先輩大好きです」
「…それ、あんまり言うなよ」
「どうしてです?」
「どうしたらいいのか分からなくなる」
「嬉しいって思ってくれたらいいんです」
「…嬉しいよ」
竹谷は返事もせずに満面の笑みで俺を見つめた。
その笑顔が眩しくて、さっきから心臓が煩くて仕方ない。
でも、竹谷はそれに気付かないようで、ぐいっと背伸びをして、沈みゆく太陽へと視線を向けた。
迷いがない横顔は随分と男らしく見える。とてもかっこいいなと思うし、そう思うと心臓は更に早く鼓動を鳴らした。
随分と早いスピードで海に呑まれるようにして太陽は沈んでいく。
もうしばらくすると赤い空は黒へと変わってしまうだろう。
「さて、暗くなる前に帰りますか」
「おう」
岩から降りた俺の前に竹谷が手を差し出した。
「手、繋ぐのは先輩的に有りですか?」
「…繋ぎたかったら素直に繋ぎたいって言えよ」
「繋ぎたいです」
素直な竹谷は手を差し出したままそう返す。
どうして竹谷はこうも直球な言い方が出来るのだろうか。
言われるこっちはこんなに動揺すると言うのに、竹谷は照れもしない。
少し乱暴に竹谷の手に自分の手を乗せると、ぎゅうと握りしめられ、竹谷が嬉しそう笑うのが見えた。
温かいその手の温度に、やっぱり脳がドロドロに溶けてしまっている。
少し前を歩く竹谷の背中を見つめながら、ドロドロに溶けてしまった思考回路でずっと同じことを考えていた。
「先輩、黙り込んでどうしたんですか?」
先程から竹谷の言葉に返事すらしなかったから気になったのだろう。
竹谷が足を止めて振り返った。
その顔を見つめながら、「考え事していた」と呟けば、竹谷は「俺に言えない事ですか?」と少しだけ寂しそうに呟く。
「…お前は傍に居るだけでいいと言ったけど、じゃあ俺がお前を好きになったら俺はどうすればいいんだ?」
「…え、それはちょっと考えてなかった…」
山の中はすでに夕闇に包まれていて、視界は広くなく、先程から竹谷しか見えない。
じっと見つめていると竹谷は少し動揺したようで、黒目が揺らいでいる。
「お前に好きだと言ってもいいのか?それともダメなのか?」
「それは、言ってくれたら嬉しいです」
「…好きだ」
「え?え、それは、ほんとに?!」
顔を真っ赤にして動揺している竹谷は意味もなくキョロキョロと辺りを見渡している。
その腕を少し強めに引いて、肩に頭を乗せながらもう一度「好きだ、と思う」と言えば、竹谷の手がおそるおそる背に回された。
「何か、昨日からお前のことが頭から離れねぇんだよ、ずっとお前のこと考えているし、お前の姿探しちまうし、もう何か、俺、だめだよ。これが好きという感情じゃなかったら、俺、きっと病気だ」
「だったら俺も病気です」
ぎゅうっと竹谷が俺を抱きしめて、その温度に安心して眼を閉じた。
冬の山の中はとても静かで、自分の心臓の音と竹谷の心臓の音しか耳に届かない。
「…どうしよう、先輩が俺のこと好きになってくれるなんて想像していなかったから、どうしたらいいか分からない…」
困ったようにそう呟いた竹谷が何故かとても可愛く思えた。
「そんなの俺だってわかんねーよ」
「ですよねー…どうしましょうか」
顔を上げると困ったように竹谷がはにかむ。
その顔がとてもいいなぁと思うし、好きだとも思った。
まるで何かのスイッチが入ってしまったかのように、今までは何とも思っていなかった竹谷の全てが愛しく思えて仕方がない。くるんと跳ねている前髪すら愛しくて、自分がおかしくなったみたいだ。
「とりあえず、接吻でもするか」
顔を近づけながらそう呟くと、一瞬だけ目を見開いて驚いた竹谷が頬笑みながら「そうっすね」と答える。
瞬きをする音が耳に聞こえる程近づき過ぎて、心臓が切なくて苦しい。
瞼を閉じるのと唇が触れるのは殆ど同時だった。
唇を離すと竹谷は眉を下げて「先輩、幸せすぎて何か怖いです」と情けない声で呟く。
「俺も怖いよ」
「先輩も同じなら、まぁ、いっか」
「お前適当だなぁ」
「お揃いでいいじゃないですか」
「…いいけど、で、いつまでこんなにくっついているんだ?」
鼻先が触れあうほど近づいたままで、喋るたびに二人の間で空気が白く染まる。
「さぁ?とりあえずもう一回」
竹谷が笑いながら顔を睫毛が触れ合うほど近づけてきた。
俺は仕方ないなぁ、と思いながらもう一度目を瞑り、唇が触れ合うのを待つ。
寒さで悴んでいた左手もいつの間にか竹谷の手の平の中で、あまりの暖かさに竹谷は太陽みたいだなぁと思っていた。
(2010/02/18)