この感情に名前はつけない





今宵は満月なのか、白い月が西の空中腹にぽっかりと浮かんでいて夜更けだというのに明るい。
夜の鍛錬を終えて部屋に戻ろうとすると、六年長屋の廊下の曲がり角付近に仙蔵と小平太と伊作と長次が集合していた。
こんな夜遅くに何をやっているのだろうかと思わないでもなかったが、声を掛けると巻き込まれそうなので声を掛けずに立ち去ろうと四人に背を向ける。しかしその場を離れる前に襟を背後からぐいっと引っ張られてしまった。

「ちょうどいいところに来たな、文次郎」
「何だよ、離せ」

仙蔵の手を払おうとするともう片方の手で口を押さえられる。
有無を言わせぬその態度に何があったのだろうと仙蔵の顔を見ると仙蔵は楽しそうに目を細めて笑っていた。

「声がでかいぞ文次郎、気付かれるだろう」
「あ?」
「だから声を潜めろと言っているだろ。今、面白い所なんだ」

ぐいっと引っ張られて廊下の曲がり角まで連れて行かれ、そこから先を覗くように指示される。仕方なく覗くと、そこから見えたのは厠の前で立っている留三郎と竹谷だった。

「何?」
「さっき竹谷が留三郎に告白した」

伊作は無表情のまま視線を全く二人から動かさずにそれだけ告げたが、壁にギィと爪を立てている。おいおい、壁に爪痕が付いているぜと思ったが、怖いほどの無表情に声を掛けることは出来なかった。

「それ見てんのかよ…お前ら、悪趣味だな」
「こんな場所でやる竹谷が悪いのだ」

小平太はニカッと笑いながら悪びれずに「なぁ、長次」と長次に話を振り、
長次は少し黙って「…心配だ…」とだけ口にする。
長次が心配しているのはきっと留三郎のことと、こんな場所で告白をしてしまった竹谷の両方のことだろう。
心配そうな表情のまま、長次は壁に爪を立てている伊作の腕を掴んでいた。

「お、竹谷を呼びに生物委員の子達が来たな…あ、竹谷が逃げた」
「へたれだなぁ、まぁ、それが竹谷か!」

仙蔵と小平太が笑いながら俺の背中を叩く。
その音にどうして留三郎が気付かないのだろうかと不思議に思ったが、留三郎は全く気がつかない様子で厠に入ってしまった。

「どうでもいいから、離せ、仙蔵」
「離したらお前逃げるだろう?」
「当たり前だろ」
「此処まできたら道連れになってもらう」
「何で俺まで巻き込むんだよ」

溜め息を吐きながら仙蔵を見やると仙蔵は呆れたような顔をしていた。
どうしてお前が呆れるんだよ、その表情をするのは俺だろうと思い口を開こうとした時、伊作が俺の腕を強く引く。

「…あ、留三郎が厠から出てきたけど虫取り網に気付いたよ…!そんなんどうでもいいから帰ってきてよ、留三郎!」
「伊作、声が大きいぞ」

小平太が伊作の口を押さえて注意を促す。
しかし留三郎は全く気付く様子もなく、厠の前で虫取り網を握りしめたまま立ち尽くしていた。
寒いのか時たま首を竦めて、それでも部屋に戻ろうとはせずに虫取り網をじっと見つめているのだ。
それ以外に動きはどうも見えなくて、どうして寒い中こんな風に留三郎なんか見てなければいけないのかと苛立ってくる。
それでも仙蔵に襟を掴まれているからここから立ち去ることも出来ない。

「あ、留三郎が移動始めたぞ?五年の長屋に行くのか?」

少しだけ浮かれたような声で小平太が告げる。

「よし、先回りして五年長屋の天井裏にでも隠れるぞ!」

仙蔵が嬉々として俺を引っ張りながら歩き始め、襟をぐいぐいと引っ張られる。

「つーか、留三郎なんかどうでもいいから手を離せよ」
「文次郎、六年間同じ長屋で過ごした仲間の事だぞ?全力で面白がらないでどうする」
「…お前の愛情は歪んでいるぜ」
「それはとっくに知っているぞ?」

仙蔵はにっこりと笑みを浮かべて俺の襟を引っ張りながら歩き出し、逆らうと面倒なので留三郎には興味ないがそのまま着いていくことにした。


*:*:*


「…竹谷は真っすぐだなぁ」

廊下の壁に留三郎を縫いとめている竹谷を見つめて小平太はそう呟く。

「このまま始めちゃうつもりじゃないだろうな。初めてが野外とは生意気だぞ」

小平太のその言葉に伊作のコメカミがピクリと動く。

「…竹谷はまだまだ青いな。しかしそこがあやつのいい所か」

仙蔵は真面目な顔でそう言いつつもかなり楽しんでいるのがよく分かった。
その証拠に仙蔵は竹谷と留三郎が見つめ合ったまま同じことを繰り返している廊下に降りたのだ。
仙蔵は俺の襟から手を離さなかったから俺も一緒に下りなければならなかった。
廊下に降りても竹谷と留三郎は全く気付かず、互いから視線を外さない。
これ以上進展しないだろうと踏んだのか、仙蔵が二人に向かって口を開いた。

「…何だ、それでもう終わりか?せめて口付くらいはしたらどうだ、つまらん」

仙蔵のその言葉に二人がはっと此方を見た時には小平太と伊作と長次も降りてきていた。
俺達の姿を確認すると脱兎のごとく竹谷は留三郎から離れ、その表情は暗闇でも見てとれるほど蒼ざめて引きつっている。

(可哀想だ…)

そう思ったのはどうやら長次も同じだったらしく、長次は笑顔のままずっとクナイを握りしめている伊作の手を止めてくれていた。
仙蔵と小平太は、怯えた顔をしている竹谷をこれでもかと弄くり倒していてその爽快な笑顔の方が伊作が浮かべている笑顔よりもずっと俺は怖く思う。
竹谷は今にも泣きだすんじゃないかと思うほど小さくなっていて、留三郎は黙ったまま俯いて手首を擦っていた。
その姿が気になって「どうしたんだ?手首痛ぇのか?」と声を掛けると留三郎がはっと顔を上げた。

「…顔真っ赤じゃねぇか」

思わずそう口にしてしまう程に留三郎は顔を赤くしており、耳まで真っ赤にしている。
目には涙すら浮かんでいて、先程の竹谷とのやり取りの何が留三郎をそんな表情にさせたのか聞いてしまいたくなる程だ。
手首を擦る留三郎の仕草が気になって手首を掴んで引き寄せようとしたらその手を強く払われた。

「触んな」

キッと俺を睨みつける留三郎の顔には先程までの表情はなく、俺に対する嫌悪だけが滲みでている。
先程までの竹谷との対応の違いに思わず「何だよ、俺にはその態度かよ」と悪態が口をついて出た。
留三郎は俺の言葉に何も返さずにくるりと俺に背を向けて、また手首を見つめて擦っている。

「じゃあもう六年長屋に帰るか」

そう言ったのは仙蔵で、その言葉にようやく留三郎は顔を上げたが、くるりと竹谷の方を振り返るとまた手首に視線を落とし、繰り返し手首を擦っていた。
留三郎のその仕草が何故か気に入らず、留三郎から視線を外し自分の足元を睨みつける。

「そうだね、留三郎も帰るだろ?」

伊作の言葉に留三郎は「…おう」と小さく頷く。
皆が歩き出し、一人取り残される竹谷に向かって「…竹谷、告白する場所が悪かったなぁ」とだけ残して俺もその場を立ち去った。
残された竹谷はきっと今頃、羞恥と自己嫌悪と恐怖で呻いているだろう。
可哀想だとは思うが、俺がしてやれることは何も浮かばなかった。
さっさと部屋に帰って寝てしまおう、そう思いながら空を見上げる。
月はどうやら西の低い位置に落ちたようで東側の廊下からは見つけることは出来なかった。

「留くん?」

伊作の声に振り返ると留三郎は足を廊下の真ん中で止めていた。
そして「あの、お前らにお願いがあんだけど」とちらりと此方を見る。

「何だ留三郎?」

そう返したのは仙蔵で、小平太も「何だ何だ?」と首を傾げている。

「あの、今さっき見た事、見なかった事にしてくれねぇかな…」
「さっきって竹谷が留三郎に好きだって言ったこと?」

小平太の言葉に留三郎は頷く。

「あんまり言いふらさないで欲しいんだ」
「ほう」
「…竹谷が可哀想だし、その、俺も困る」
「ふむ」
「…で、黙っててくれるんだろうな?」

キッと顔を上げた留三郎の顔を見て、仙蔵と小平太は顔を見合わせた。

「まぁ、留三郎がそう言うなら」
「なるべく言いふらさないように努めるよ」

二人のあまり信用ならない言葉に留三郎は安心したような表情になった。
あんまり信用しない方がいいぞ、と声を掛けようかと迷ったが、「そうか、お前ら有難うな!」
と嬉しそうに言い、「ちょっと竹谷のところ行ってくるから先戻ってくれ。あいつきっと今頃怯えているだろうからな」と走り出した留三郎を呼び止めることなど出来なかった。
俺が触るだけで手を払う癖に、痛むほど腕を掴んだ竹谷には思いやりを見せて心配すらするのだ。
先程から俺と竹谷に対する留三郎の態度があまりにも違いすぎて気に食わない。
留三郎の言動や行動のひとつひとつが面白くないのだ。

「気に食わないという顔だな」

はっとして横を向くと仙蔵が真顔で此方を見ていた。

「…別にそうじゃねぇよ」
「そうか?面白くないという顔だが?」

もうそれぞれ部屋の前に着いており、小平太が「明日なー」と此方へ手を振った。そして長次と共に自室へと消えて行く。
それに手を振り返し、「煩ぇな、あいつが誰と恋仲になろうが俺には関係ねぇよ」と呟くと仙蔵は少しだけ驚いたような顔をした。
その表情すら気に障るのだから、今日は相当、虫の居所が悪い。
その原因は思い当たらなかったがどうせ大した理由もないだろう。

「…お前本気でそう思っているのか?」
「本気も何も、事実だろ?」

俺の言葉に仙蔵は「はぁ、」と大袈裟に溜め息を吐く。
そして俺をちらりと見やると、「まぁ、お前がそれでいいなら私は何も言えないがな…それが気付かない振りなら無駄だと思うぞ?」と意味深長なものの言い方をして襖を開けた。

「お前は他人の事にはすぐ気付けるのに自分の事になると鈍いからなぁ」

そう言いながら部屋へと入っていった仙蔵の背中に俺は「は?」としか返せない。
部屋の近くにある木々の方向から小鳥が囀る声が聞えたが、その時は「寒いからさっさと入って閉めろ」と言われるまで仙蔵が残した言葉の意味を繰り返し考えていた。

「お前、意味分からないことばかり言うの止めろよな」

布団の中へと潜り込む仙蔵にそう言えば、仙蔵は「お前は頑固者だな」と何故かとても悲しい顔をしていた。
その表情に、一瞬だけ仙蔵の言葉の真意が分かりそうな気がして、思わず反射的に頭を振る。

「どうした?」
「…別に何でもない」
「そうか」
「おう」

仙蔵は呆れたような表情をしたまま「おやすみ」と告げ、俺も何もなかったかのように「おやすみ」と返す。
朝はもうすぐそこまで来ていた。
あとどれくらい寝ることが出来るだろうかと対して意味のないことを考える。
そんな事を考えていないと仙蔵の言葉に惑わされてしまい、いらない感情を見つけてしまう予感がしていた。






(2010/02/05)