幸福な恋心は限りなく涙に近づく
木の枝に辛うじてしがみついてた最後の枯れ葉が冷たい北風に飛ばされてしまうのを見つめていると「孫兵先輩ー」と泣きつくような声と共に袖を引かれた。
「予備に置いていた鳥籠が壊れていました」
三次郎が手に持っている鳥籠は確かに大きな穴が開いていてこれではまた逃げ出してしまうだろう。
福富しんべヱの父親が外国の人から貰い受けたという洋鵡という種類の鳥はとても珍しいものであり、逃げたところでこの土地では生きて行けるかどうかすら危うい。竹谷先輩はそれを危惧して洋鵡を元居た国へと返すように先生方へと頼んでくれたが、この洋鵡が生まれ育った場所は遥か遠い海の向こうであり、生まれた場所へと返すのは不可能に近いらしいのだ。
先程逃げ出した洋鵡のヨーコは今は私の腕の中で、誰が教えた言葉なのか「アタタメテクレルトイッタジャナイ」とばかり繰り返し、私の首巻の中へと顔を突っ込んでいる。
「三次郎、あとひとつの予備は壊れてなかったよ!」
「虎若、本当に?」
同じように倉庫から鳥籠を取り出して来た虎若は笑顔で頷いている。
「じゃあそっちに入れておこう」
「そうだね、壊れている鳥籠は食満先輩に頼んで直してもらおうか」
「竹谷先輩に聞いてみよう、きっと先輩が持って行くだろうし」
「それより竹谷先輩はどこまで探しに行ったのかなぁ」
孫二郎が山の中を見渡すように背伸びをしてそう呟く。
ヨーコが逃げるのはこれが初めてのことで、どの場所へ、そしてどれくらい遠くまで逃げるのか予想も出来なかった。その為、範囲を広げて捜索することにしたのだが、一年の足だと遠くまで行けないからと竹谷先輩は私を一年と共に探すように言い残し、ひとりで山の奥へと入って行ったのだ。
しかしどうやらヨーコは怖がりらしく、忍術学園の裏山の麓で「アタタメテクレテモイイジャナイ」と喋っているところを虎若と私が発見した。
前より少しだけ小さい鳥籠に、ヨーコは不満らしく「ヒドイワ」と籠の中で繰り返し喋り続ける。
「壊れている鳥籠の方が大きいから直してもらったらこっちに移動しような」
虎若が三次郎が持っている鳥籠を指差しながら籠の中のヨーコにそう話かけたが、ヨーコはそっけない声で「ウソツキハドロボウノハジマリ!」と叫ぶ。
「嘘じゃないのになぁ。ヨーコはどっからそんな言葉を覚えて来るんだろう」
不思議そうに首を傾げる虎若に、一平が「この前竹谷先輩が必死に何か教えてたよ」と笑った。
「ヨーコ、竹谷先輩に何を教わったの?」
「テヤンデェ!テヤンデェ!」
「何それー。竹谷先輩何を教えてるんだよー」
楽しそうにクスクス笑う一年の顔を赤い眼で見つめていたヨーコは突然「スキ」と呟いた。
「スキダイスキアイシテル」
羽をパタパタと動かしてヨーコはそう繰り返し告げる。
「もしかして竹谷先輩が教えたのかな?」
虎若たちは首を傾げて不思議そうな顔をしてヨーコを見つめてた。
私はヨーコが繰り返すその言葉をこのままずっと聞き続けたくはなくて、「三次郎、その鳥籠貸してくれないか?」と三次郎から鳥籠を受け取ってから、「私が食満先輩に頼んでくる」と一年を残してその場から立ち去った。
*:*:*
赤い首巻がひらひらと北風にはためき揺れる。
その首巻に顔の半分を埋めて、壊れた鳥籠を抱きしめて中庭を歩いていた。
竹谷先輩の視線が食満先輩に向いていることに気付いたのは最近の事ではなかった。
夏よりも前、桜が咲いていた季節に初めてその事に気が付いた。
竹谷先輩は食満先輩のことを口にすることなどなかったけれど、先輩の視界に食満先輩が入ると視線は必ずそこで止まるのだ。
最初は偶然か何かだと思っていたし、どうして声を掛けないのだろうと不思議に思っていた。
声を掛けないのではなく、掛けられないのだと知ったのは私が全く同じことを竹谷先輩に思うようになってからだった。
あぁ、私が竹谷先輩を想うように、きっと竹谷先輩は食満先輩を想っている。
自分の気持ちに気付くと同時に私は竹谷先輩の気持ちに気付いてしまった。
初めからこの恋心に未来なんてなかったのだ。
「失恋…かぁ」
恋を失うと書く癖に、恋は失ったはずなのに、気持ちは中々消えてくれない。
どうすれば楽になれるのだろうかと日々模索しているけれど竹谷先輩は優しい人で、ジュンコが冬眠してしまったからと私にジュンコと同じ色の首巻を用意してくれるような人なのだ。
そう簡単に先輩への気持ちが消えてくれるはずはない。
だからこそ今の苦しみを全部、食満先輩の所為にしてしまう。
だってあの人が竹谷先輩に振り向くなんて、私だって思っていなかったのだから。
春も夏も少し遠くから見てるだけだった竹谷先輩は、今は何かあるとすぐに食満先輩の所へ飛んで行ってしまうようになった。
この鳥籠が壊れていると竹谷先輩に告げるとすると、すぐに竹谷先輩は食満先輩に直してもらう為、飛んで行ってしまうだろう。
そして食満先輩はそれを笑顔で迎え入れるのだ。
そんな簡単に二人で過ごす時間を作れるなんて、ずるい。
鳥籠が二人を結びつける道具になってしまうのも癪だった。
だからこそ奪ってきてしまったのだけれど、自分から食満先輩に直してもらうように頼むことも嫌で、どうしようかと足を止める。
少し大きめのこの鳥籠はどうやら金具が外れてしまっているようで、それさえ付け直せば簡単に直るように思える。
「…自分で直せないかな」
ぽつりと呟いたその言葉に、自分で直そうという決意が湧いてきた。
用具委員室には直すための道具が全て揃っているはずだ。
これくらいなら道具さえあれば自分で直せるだろう。
今日は委員会の日ではないし、作兵衛が先程、三之助と左門を探しながら歩いているのを見たし、きっと誰もいないだろうから見つかる心配もない。
私は踵を返して用具委員室へと足を早めた。
「失礼します…」
襖を開けるとやはりそこに人影はなく、私は壊れている鳥籠を畳の上に置いた。
金具を付け直す為に必要な道具を探すため、棚の前へと移動し棚の中から幾つか必要な道具を見つけ出す。
「これで直せると思うけど…」
必要な道具を探し出して鳥籠の傍へと置き、早速作業に取り掛かろうとした時、唐突に襖が開いた。
そしてそこに現れたのは今一番会いたくない食満先輩で、食満先輩は私を見つけるなり驚いたような顔をする。
「孫兵、どうした?」
「…あの、勝手に入ってしまってすみません」
慌てて頭を下げると大きな手の平で頭を撫でられる。
食満先輩に子供扱いされるのは嫌だが、撫でられるのは嫌いではないと作兵衛が言っていたのを思い出した。
食満先輩の手付きはとても優しく、後輩に対する愛情がちゃんとあることが分かるからとても嫌いになんてなれないのだろう。
食満先輩のその温かな手の平に、私はそんなことをぼんやりと思った。
「構わんよ。で、何をしているんだ?」
食満先輩は私の向かい側に腰を下ろし、私が手に持っている道具と鳥籠を見るなり「壊れた鳥籠を直しているのか」と状況を察してくれた。
「…はい」
「置いておいたら直して持って行ったのに」
「…いえ、でも、あの…」
「ん?どうした?」
俯いた私の顔を覗き込むように食満先輩は視線を合わせてくれようとする。
竹谷先輩が食満先輩のところへ行かないように自分で直そうと思ったなんて、口が裂けても言えない。
何と答えようかと焦っているともう一度頭を撫でられた。
驚いて顔を上げると食満先輩はにっこりと笑っている。
「自分で直そうとしたんだろう?」
「…はい」
「偉いなぁ」
食満先輩は嬉しそうにそう言い、「直せそうか?」と尋ねてきた。
「あの、金具さえ直せればどうにかなると思うので」
「ふむ、ちょっと見てもいいか?」
「え、あ、どうぞ」
食満先輩は鳥籠を色んな角度から真剣な目で確認している。
それからしばらくして鳥籠を畳の上に置くと立ちあがって棚の方に行ってしまった。
どうしたのだろうとその背中を見つめていると先輩は棚から道具をひとつ取り出して戻ってきた。
「これの方が使いやすいぞ」
先輩は私が手に持っている道具を奪い、新しく持ってきてくれた道具を手渡してくれた。
「あ、有難うございます」
「もし分からないところがあれば聞いていいからな」
「はい」
食満先輩はにこにこ笑いながら少し離れた机の前に腰を下ろして本を取りだした。
読書でもするのだろうか、そんなことを思いながら見つめていると食満先輩が此方をちらりと見た。
「あ、もしかして俺がいると集中出来ないか?」
「いえ!そんなことは…」
「そうか?」
「はい、全然大丈夫ですので」
「わかった。こっちで本読んでいるから、何かあったら声掛けてくれ」
食満先輩の言葉に頷き、私は鳥籠を見つめた。
金具は食満先輩が出してくれた道具でどうにかすることが出来るだろう。
早く終わらせてしまおうと私は袖を捲り、深呼吸をして鳥籠に向き合った。
*:*:*
「もう少し締めた方がいいな、うん、そうだ」
「…出来た」
側面の金具が外れているだけだと思っていたのだが底まで緩くなっていたようで、結局自分だけでは直すことが出来ずに食満先輩に指示を仰ぐことになってしまった。
読書を中断させてしまったのにも関わらず、食満先輩は嫌な顔ひとつもせず、丁寧に教えてくれる。
食満先輩が底には木の板を敷こうと言い出し、一緒になって適当な木板を探したり、それを丁度いい大きさにしたりと思いのほか時間は掛かったし、金具は硬くて曲げるには力がいるし、鉄臭いしですっかりくたびれたが、それでも何とか直すことができてよかった。
そう思いながら満足げに鳥籠を見つめていると食満先輩の手が伸びてきてまたも頭を撫でられる。
「すごいなぁ、ちゃんと自分で直せたな」
食満先輩は自分のことのように喜んでくれ、嬉しそうに笑っている。
「孫兵は偉いな」
まるで私のことを誇りに思うような声で食満先輩はそう言った。その優しい言葉に息が詰まりそうになる。
食満先輩が知らないだけで、私は全然偉くなんかないのだ。
自分で鳥籠を直そうと思ったのも、元はと言えば竹谷先輩が食満先輩に会いに行かないようにと思ってのことだったし、偉いどころかとても醜い感情で動いてばかりいる。
それなのに食満先輩は本当に嬉しそうに私の頭を撫でてくれるのだ。
こんな風に、全く共通点のない私にも真摯に接することができる先輩に、屈折した感情で動いてしまう私が敵うわけはない。
必死で堪えようとしてもそれは無駄な努力に終ってしまい、涙がパタパタと畳の上に落ちてしまった。
それに気付いた食満先輩が少し動揺したような声で私の名前を呼び、顔を上げると食満先輩は「どうしたんだ?」と先輩の物と思われる紺色の首巻で私の頬を拭ってくれた。
「どこか怪我でもしたのか?」
「いえ…」
本当に心配そうなその表情に、悪い気がして慌てて涙を拭う。
ごしごしと拭っていると「あんまり擦ると腫れるぞ」と食満先輩は私の手を止めた。
「怪我をしていならいいさ、泣きたい時は泣けばいい」
「…はい」
頷いて俯くとまたぽろりと涙が一粒畳の上に落ちた。
しばらくすると、廊下から足音が聞え、近づいてきた足音が用具委員室の前で止まる。
作兵衛か用具の一年でも来たのだろうかと涙を首巻で拭いていると「食満先輩ーいますかー?」と竹谷先輩が襖を開けて顔を出した。
竹谷先輩は委員会室を覗くなり、「孫兵?!え、どうしたんだ?」と慌てて駆け寄ってきて顔を覗きこんでくる。
「何で泣いてんですか?」
竹谷先輩は私にではなく食満先輩へとそう尋ねる。
「さぁ、怪我をした訳ではないみたいだけど…」
「孫兵どっか痛いのか?」
「どこも痛くないです、あの、これは、食満先輩は関係ないですから」
慌てて首を振り、ごしごしと涙を拭うと竹谷先輩の眉は安心したように下がり、へなへなと畳の上に腰を下ろした。
「びっくりしたー…」
「俺が泣かせてたらお前どうしたんだ?」
食満先輩は苦笑しながら竹谷先輩を見て、竹谷先輩は少し間を開けてから口を開いた。
「そりゃー…いくら先輩といえども、一発殴りますよ」
「ハハッ、そりゃ怖ぇな」
食満先輩はケラケラと笑いながら「孫兵、涙は止まったか?」と尋ねてきて、その言葉に私は小さく頷く。
「あ、そういや鳥籠は?壊れているって一年から聞いたんだけど」
「お前の横にあるだろ」
「直してくれたんすか?」
「直したのは孫兵だよ。な?孫兵」
食満先輩の言葉に「はい」と答えると竹谷先輩が驚いた顔のまま固まった。
「孫兵、お前すごいなぁ…ちゃんと直ってるんじゃんか」
鳥籠をくるくると回しながら確認しながらも竹谷先輩はまだ驚いたままで、食満先輩が何故か「すごいだろ?」と自慢している。
「こっちの鳥籠が大きいからこっちにヨーコ移動させようか」
「はい」
「じゃあ、先輩失礼しますね」
竹谷先輩は立ちあがって開いている襖から廊下へと出たので、鳥籠を抱きかかえながら後に続く。
部屋の中にいる食満先輩へ「お世話になりました」とお辞儀をすると、食満先輩はにこやかに「お疲れ」と手を振ってくれていて、首巻に顔を半分埋めながら手を振り返して襖を閉めた。
*:*:*
ずんずんと歩く竹谷先輩の後を追う。
竹谷先輩の吐く息が白く染まっては透明へ変化していくのを視界で追っかけながら背中を眺めていた。
「孫兵が自分で直すなんてびっくりしたなぁ」
竹谷先輩は少しだけ視線を空へと向けながらそう呟く。
「でも、食満先輩が教えてくれなければさすがに直せませんでした」
「あの人、修理に関して言えば学園一だからな」
竹谷先輩の嬉しそうな声に、私はそれ以上何も云えず、黙って鳥籠をぎゅっと抱きしめる。
「…どうして泣いてたんだ?」
「…え?」
「いや、言いたくないなら無理に言わなくていいんだけど」
「…食満先輩って優しい人ですね」
「あの人後輩にはすごく優しいよ」
食満先輩の話をする竹谷先輩の声はとても楽しそうで、嬉しそうだ。
先輩の声がこんな風に優しくなるのは食満先輩のことだけなのだろう。
それでも、私を泣かせたら食満先輩だって一発殴ると言ってくれた竹谷先輩の言葉に偽りはなかった。
竹谷先輩は嘘を吐く時、耳が動くのだ。
これは私しか知らない秘密で、あの時耳はぴくりとも動いてなかった。
だからあの言葉は嘘や偽りではなく、竹谷先輩の本当の言葉なのだ。
私が食満先輩に泣かされたと言えば、きっと竹谷先輩は食満先輩を殴りに行くだろう。
そういう嘘は私は吐かないし、後輩好きな食満先輩は私を泣かせることもあり得ない。
だからきっと竹谷先輩が食満先輩を殴りに行くことはないのだけれど、でもその言葉だけでも私はずっと救われた。
足を止めるとそれに気付いた竹谷先輩も足を止めた。
ぼさぼさの髪が風に吹かれていて、枯れ葉が一枚ついているのが見えた。
先輩らしいなぁ、そういう先輩が好きなんだよなぁ、と思うと心臓の辺りがじわっと温かくなってくる。
「…私、竹谷先輩のことが好きです」
そう告げても竹谷先輩は驚きはしなかった。
きっと私の気持ちなんてとうの昔から気付いていたのだろう。
竹谷先輩は動物の気持ちまで読める人だから、私の気持ちくらい簡単に気付いたのかもしれない。
「だから食満先輩も好きです」
私のその言葉には竹谷先輩もちゃんと驚いたような顔をした。
それから嬉しそうに目を細めて笑うのだ。
「…そっか、」
「…はい」
竹谷先輩は俯いた私の傍まで歩み寄り、食満先輩より幾らか乱暴な手付きで頭を撫でてくれる。
「孫兵はすごいな」
「すごくないですよ」
「いや、すごいよ。強くてかっこいい」
竹谷先輩の言葉に私は何も返せなかった。
本当は強くなんてないし、かっこよくもない。
さっきまで汚い感情でばかり動いていたし、今だって本当は苦しくて泣きだしたい。
それでも竹谷先輩がかっこいいと言ってくれたのだ。
今の私の姿の半分は虚像でしかないけれど、いつかは竹谷先輩は言ってくれたように強くてかっこよくなることは出来るだろうか。
本当にそうなることが出来たらいい。そうなるための努力はしていきたい。
「さて、早くヨーコの所行こうぜ。きっと虎若たち相手に喚き散らかしてるだろうから」
「そうですね」
竹谷先輩が歩きだし、私も隣りに並んで歩きだした。
さっきまでのドロドロとしていた感情は何処かへ消え失せて、今はただ胸を満たすような満足感と誇らしい気持ちでいっぱいで涙を必死に堪えていた。
(2010/2/12)