泣けない僕の乾いた涙





ぴゅうと冷たい風が吹いて枯れ葉がカラカラと乾いた音を立てて転がっていくのが視界の端に写る。
今日はどうも冷えるなぁと廊下を急ぎ足で歩いて部屋の襖を開けると部屋真ん中に留三郎が寝そべっていた。

「おかえり」

留三郎は本から顔を上げずに、ぱらりと頁を捲りながらそう呟く。

「ただいま、留三郎帰ってきてたんだね」
「おう」
「早いね、いつもはもっと遅いのに」
「今日はやること少なかったんだよ、小平太がお使いで二日も留守にしてるしな」
「あぁ」

確かにバレーボールで物を破壊しては留三郎に「直してくれ!」と言ってきたり、塹壕を掘っては放置する小平太がいないとなると用具委員である留三郎の仕事の量は激減するだろう。
被害が少なければ留三郎の仕事はこんなにも分かりやすく減ってしまうのか、と僕は感心してしまった。
そして午後が委員会に当てられている日は毎回夜遅くに帰ってくる留三郎がまだ陽が落ちていない時間に部屋にいることに嬉しくなる。
彼はいつもバタバタと落ち着かずに学園内を修理して回っているので休日でもないのにこんな風に部屋でゆっくりすることはとても珍しいのだ。

「ねぇねぇ、留三郎」

持っていた薬草を自分の机の上に置き、留三郎の傍らに腰を下ろして声を掛ける。
留三郎が顔を上げる前にその背中に倒れ掛かった。

「何?」
「今度町に蕎麦でも食べに行かない?前に留三郎が美味しいって言っていた店あっただろ?」
「蕎麦か、いいな」
「ね?今度の休みにでも行こうよ」
「分かった、行くから伊作そこから退けよ。重い」

留三郎が足をパタパタさせてそう言う。
その仕草があまりにも可愛いから「えーそんなに体重掛けてないのに?」と返して体重を更に掛けると留三郎が「重いって言ったろ!」と言いながらごろりと寝がえりを打った。
本をぱたりと閉じてくれたからもう読まないのだろう。
留三郎が自分の相手をしてくれるのが嬉しくて思わずにやけてしまう。

「お前は委員会もうないのか?」
「うん。今日は終わり」
「早ぇなー」
「留三郎のとこがいつも遅すぎるんだよ」
「俺は悪くねぇよ。文次郎といい小平太といい、破壊する奴ばかり多くてこっちの人数が足りないんだ」

眉間に少し皺を寄せて留三郎はそう言い捨てる。
「いつも御苦労さま」と留三郎の頭を撫でると、「お前だって御苦労さまだろ?」とにこっと笑い掛けて僕の頭を撫でてくれた。まさか撫で返してくれるとは思っていなかったから驚いた後に嬉しすぎてまたにやけてしまった。

「何かお前今日楽しそうだな」
「え、そう?」
「面白いくらいずっと笑顔だろ」

留三郎の手が僕の頬に触れてむいっと軽く引っ張られる。ぷにぷにと指先で僕の頬を摘まんでいる留三郎はどうやら楽しいようで笑みが零れていた。

「だって今日は留くんがいるから」
「一緒の部屋じゃん」
「そうは言っても留くん部屋にいることあんまりないだろ?」
「そうかぁ?」
「穴埋めたり壁塗ったりで忙しいじゃないか」
「…それはあいつらに言ってくれ」

また眉間に皺が寄ってしまったので今度は僕が留三郎の眉間を人差し指の腹で撫でた。

「留くんあんまり皺寄せちゃうと癖つくよ」
「もうついてる」
「なら尚更だめだよ」
「あー…腹減ったなぁーでも夕飯にはまだ早いし」

僕の指先から逃れるように、留三郎はごろりと寝がえりを打って僕に背中を向ける。
その背中を見つめ、抱きつきたいなーでも抱きついたらさすがに怒るかなーとぼんやり思っていると「食満先輩、いらっしゃいますか?」と廊下から留三郎を呼ぶ声がした。

「お、作兵衛か?入っていいぞ」
「失礼します」

留三郎が体を起こすのと襖が開くのはほぼ同時で、襖を開いた富松くんが僕を見るなり「あ、善法寺先輩もいたんですね。こんにちは」と会釈をしてきた。僕も慌てて会釈を返しながら委員会の用だろうかと勘ぐっていた。

「どうした?」
「あの、竹谷先輩が用具委員室に来てるんです」

富松くんのその言葉に、瞬時に留三郎の顔を見てしまった。
それはもう、反射としか言いようがないもので、そして「え、竹谷が?」と驚いたような声を出した留三郎の顔が一瞬嬉しそうに綻んだのも反射としか言いようがないのだろう。

「虫籠が壊れてしまったらしく、でもそれだけならおれと一年で直せるかと思ったんですが…その、色々あって更に壊れてしまって、もうおれらだけでは直せないので来てくれませんか?」
「すぐ行くよ。竹谷は帰ったのか?」
「用具委員室で待ってますよ」
「そっか。じゃあ伊作、行ってくる」

留三郎は立ち上って僕の頭を軽く撫でた。その手が離れ、留三郎が部屋を出る瞬間に思わず「留くん」と名を呼び引き止めてしまう。

「何?」

留三郎は律儀に足を止めて振り返ってくれたけれど、そんな留三郎の顔を見つめながら、口には出せない事ばかりを思っていた。

「伊作?どうした?」

少しだけ心配そうに首傾げた留三郎に「何でもない」とだけ呟き俯くと、留三郎は「変なやつ」と言いつつ部屋を出て行った。
留三郎の足音が聞えなくなるまで石になったようにその場で坐り込んで、行かないでほしいとか、竹谷の名前を呼ばないで欲しいとかそういうどうしようもない事ばかり思う。
竹谷は悪くないはずなのにそれでもどうしようもなく彼に対していい感情が持てないのだ。
自分の醜さばかりが見えて、苦しくてどうしようもない。
どろどろとした自分の心の奥底から目を背けたくてぎゅうと瞼を強く閉じた。

「せっかく早く帰ってきてくれたのに」

留三郎の足音が聞えなくなってからバタンと仰向けに倒れながらそう口に出してしまうと惨めさがぐっと増してしまう。
ひとりきりの部屋に、隙間風のヒューヒューという音ばかりが耳に届いていた。


*:*:*


「食満先輩、本当に器用ですねー」

竹谷の楽しげな声が用具委員室内から聞こえてきて思わず息を殺した。
入口である戸から一番遠い窓の付近の地面に腰を下ろして、膝小僧に顎を乗っけながら室内の会話を聞いている。
何をやっているんだろうと思わずにはいられなかったが、ひとりきりで部屋にいると不安ばかりが過っては嫌な想像ばかり繰り返してしまうのだ。
自分の妄想だけで傷つくなんて馬鹿げているように思えて、どうせなら確かめてしまおうと気配を消して外から用具委員室の中を窺っている。風が吹く度に体温が奪われていき、また心の穏やかさまでもが奪われていく様に感じた。

「…竹谷は器用そうに見えるのになぁ」

いつもよりずっと柔らかい留三郎の声にぎゅっと手の平を握りしめて目を瞑る。
先程から竹谷と留三郎の声しか聞こえないからどうやら他の用具委員はいないのだろう。
室内に二人きりなのかと思うとそれだけで苦しくなってどうしようもない。
留三郎と一緒に居た時間なら僕の方が多いはずなのに、それなのに留三郎のそんな優しい声は聞いたことがなかった。それが悔しくて、哀しくて、寂しくて、痛い。

「あ、先輩に会いたいからって理由だけで来てるわけじゃないですよ?!自分で直そうと思えば直せるんですが、綺麗に仕上げるのは無理なんです…!」
「…別にお前が来る事を責めているわけじゃないから、そんなこと言わなくていい」
「先輩、もしかして…照れてますか?」
「…調子に乗るな…ってぇ!」

留三郎の言葉はそこで止まり、声だけで判断するしかない僕は留三郎の言葉と竹谷の言葉を待つしかなかった。

「大丈夫っすか?指腫れてるじゃないですか、先輩ドジっすね」
「お前が変なこと言うから動揺したんだ、お前の所為だぞ」
「…やっぱり照れてたんじゃないですかー」

くすくすと嬉しそうな竹谷の笑い声が聞えてくる。
きっと留三郎の顔は朱色で、耳も首の後ろも赤くなっているのだろう。
そんな留三郎を僕はあまり見たことないけど、竹谷に想いを告げられた時に留三郎はまるで蛸みたいに顔を真っ赤にしていたのだからきっと今もそうに違いない。
もうこれ以上は盗み聞く勇気は持ち合わせていなかった。
これ以上此処にいると簡単に絶望の淵まで引きずり込まれてしまいそうで、早くこの場から立ち去ろうと委員会室の建物の角を曲がる。
するとそこには僕と同じように気配を殺し、息を殺して地面に坐り込んでいる人物が居た。

「伊賀崎、孫兵?」
「…あっ…」

孫兵は僕に気付くなり、顔を蒼ざめさせ、そして僕が何かを言うよりも早くその場から走り去ってしまった。
ジュンコの代わりに巻かれている赤い首巻がひらひらと風になびき、その背中は遠くなっていく。
僕はすぐに逃げ出した孫兵の背中を追いかけた。

「孫兵!」

井戸の前でやっと孫兵の腕を掴むと孫兵は素直に足を止めて俯いた。

「…どうしてあの場所に?」
「善法寺先輩こそ…」
「僕は、その…」

留三郎と竹谷の会話を盗み聞きしていたと正直に口にするのは躊躇われたが、きっと孫兵も同じことをしていたのだろうという予想はついていた。
何故なら、最初に見つけた時に孫兵は泣きだす一歩手前の表情をしていたからだ。
そしてきっと僕も同じような表情をしていた。

「…善法寺先輩、頑張って下さいよ」

ずっと俯いたままだった孫兵は顔を上げて僕の顔を見つめる。
その瞳には涙が湛えられていたけれど、ぎりぎりの所で堪えていてまだ零れてはいなかった。

「善法寺先輩が告白したら食満先輩はきっと善法寺先輩を選びます!だから頑張って下さいよ…!!」

孫兵の声は悲痛なもので、泣くもんかと食いしばっている口元が痛々しい。
白い歯が唇をぎりっと噛みしめていて、切れてしまうのではないかと他人事ながら心配に思う。

「じゃあ孫兵ががんばりなよ。孫兵が告白したら竹谷だって孫兵を選ぶよ」

僕がそう孫兵に告げると、孫兵は項垂れてしまった。
そして首を左右に小さく振り、絞りだすような小さい声で「…私は、私では食満先輩には勝てません…」と呟いた。

「…僕だって竹谷には勝てないよ」

そう返すと孫兵はとうとうしゃくり上げて本格的に泣きだしてしまった。
ひっくひっくと泣き続ける孫兵の気持ちはきっと僕と同じだ。
そう思うと抱き寄せずにはいられない。
手の甲に落ちた孫兵の涙は熱くて、こんな風に素直に泣ける彼を羨ましいとさえ思う。
哀しくて哀しくて哀しすぎて、僕の涙はもうとっくに乾いてしまった。
心のどこを探してももう涙なんて一粒も残っていなくて、泣こうとしても零れてはくれない。
泣いている孫兵に掛けられるような気のきいた言葉なんて思いつかなくて、腕の中で泣き続ける彼の背中を黙ってゆっくり撫でることしか出来なかった。
そしてカラカラに乾いてしまった心のまま、視界の端で揺らめく赤い首巻をただぼんやりと見つめていた。





(2010/02/10)