僕らの日常を構成する、愛しさ





小鳥の囀りで目を覚ました。
瞼を開くと視界に入ってくるのは朝の陽ざしに縁取られた家具等で、欠伸をして体を起こす。
日はすっかり昇っており、大きな欠伸を噛み殺しながら縛られていない髪を掻き、
しばらくぼーと座り込んでいたが、物音ひとつしない室内に既に伊作がいないことに気付く。
膝を立てて衝立の向こうを覗くとやはりそこに伊作の姿はなかった。
布団も敷布団もきちんと畳まれてコーちゃんの隣りに並べられている。

「…あいつ今日も補習だっけ?」

休日なのにも関わらずそんな早く起きるなんて、補習以外考えられない。
こちらを見つめているコーちゃんに視線を合わせて「伊作補習なのか?」と尋ねてみたが、いくら尋ねたところで返答が返ってくるはずもない。

「仕方ねぇなー」

そう呟きながら立ち上って襖を開けた。
青い空に太陽が昇り、その光はとても暖かだ。
昨日の朝とは随分と気温が違い、まるで春のような気温で小鳥も嬉しそうに縁側に下りてきては唄を歌う。
その光景を眺めてからぐいっと大きく背伸びをした。
朝にすることは基本的に変わらない。
厠へ行き、顔を洗い、着替えて食堂で朝飯を食べる。
それらをすべて終えた部屋までの帰り道で、此方へと歩いて来る文次郎と遭遇した。
しかし、目が合った瞬間に文次郎はすぐに視線を逸らす。
それはあまりにも早く、挨拶をする暇さえなかった。
文次郎の表情が複雑な色をしているような気がしたが、それはきっと気の所為だと心の隅に追いやって俺は文次郎へと声を掛けた。

「朝から嫌な奴に出くわしたな」

フンと鼻を鳴らしてそう言うのは日常でいう挨拶のようなものだ。
いつもいつもこのようなやり取りをしているのだから、言わないと悪い気がしてしまう。
だからこそ今もわざと噛み付くように挨拶をしたというのに、文次郎は視線を逸らしたまま「そーかよ」と素気なく呟いただけだった。
そして俺の言葉を拾って突っかかってくることなく俺の傍らを通り過ぎる。
いつもとは違う返答と態度に驚いて思わず文次郎の服を掴んでしまった。
服を引っ張られて、ようやく文次郎は足を止めて俺の顔を見た。

「…なんだよ」
「…別に」
「じゃあ離せよ」
「離すけどよ…お前、何か機嫌悪くねぇか?」

俺の言葉を聞いた文次郎は眉間に皺を寄せた。
そんなに嫌そうな顔をすることもないだろう、と思ったが口には出さずに文次郎の返答を待つ。
文次郎はまた視線を逸らしつつ「別に」とだけ呟いた。
手は既に文次郎の服を離していて、引き止める事は出来ない。
文次郎はそのまま立ち去ってしまった。

「…何だよ、俺アイツに何かしたかぁ?」

随分と機嫌が悪そうな文次郎に、最近のことを思い返してみたがやはり身に覚えはない。

「伊作も文次郎も何で機嫌悪ぃんだろ…」

うーむと、首を傾げながら自室へと歩いていると目の前をトイレットペーパーが横切る。

「…伊作?」

トイレットペーパーを山ほど抱えている人物の顔はトイレットペーパーで隠れて見えない。
けれどこの背丈なら伊作だろうとほぼ確信していた。

「…留三郎?おはよ…あ!」

挨拶をしようとした途端にトイレットペーパーの山が崩れかけ、咄嗟に両手で崩れぬように押さえこんだ。

「留三郎、有難う」

ほっとしたような声色で伊作はそう告げ、俺がトイレットペーパの半分を伊作の腕から奪うとようやく伊作の顔が見えた。

「こんな朝から何してんだ?」
「何って…トイレットペーパーの補充?」
「忙しい奴だなー手伝うよ」

ここ数日、伊作は委員会が忙しいようで朝と授業中と寝る前に顔を合わせるだけの生活で、ちゃんとした会話をするのも久しぶりだった。

「いや、大丈夫。六年の長屋で終わりだから」
「…その割にはトイレットペーパーの量が多いな」
「数馬も朝早くに補充に回ってくれたみたいでね、あんまり使わなかったから」
「ふーん」
「しばらく部屋にでも置いておくよ」
「なぁ、伊作」

隣りを歩く伊作に声を掛ければ、伊作は「なに?」と尋ねる。
けれど顔をは此方へと向けられることはない。

「…お前、俺に何か怒ってる?」

そう尋ねると「僕が何で留三郎を怒るの?」と逆に聞き返され、俺はうーんと唸るしかない。
昨晩眠りに落ちるまでそのことを考えていたのだが、思い当たる節が全くない。
なさすぎて俺の気の所為なのかと思ってしまうくらいだ。

「留三郎は僕に怒られるような事したの?」
「いや、してねぇけど」
「じゃあ僕が怒る訳ないじゃない」

そう言う伊作の口調がもう既に機嫌が悪いと主張しているもので、俺はまたうーんと唸る。

「気の所為だよ」

伊作の言葉に「気の所為ならいいんだけど」と返し、厠の前で足を止めた。

「…そういや朝に入った時はトイレットペーパー補充されていたぜ」
「…とりあえず確認してみるよ」

伊作は厠の扉を開けて覗きこんだが、すぐに戸を閉め、「数馬がちゃんと補充してくれたみたいだ」と呟きながら自室へと向かい歩きだす。俺は伊作の背中を見つめながら「仕事する後輩でよかったじゃねぇか」と声を掛けた。

「コーちゃんただいま」
「ただいま」

コーちゃんの目の前に大量のトイレットペーパーを置き、そのトイレットペーパーを並べていると伊作が俺をちらりと見やって「出掛けるの?」と尋ねてきた。

「ん?」
「私服だから、出掛けるのかなって思って」
「あ、そうだ、お前今日補習あるのか?」
「補習は先週で終わりだよ」
「そうなのか」

伊作を見上げながらそう返した時、廊下を走る足音が俺と伊作の部屋の前で止まった。

「留先輩ーいますかー?」
「おー竹谷か、入っていいぞー」

勢いよく元気な声に思わず表情が綻ぶ。
襖を開けた竹谷は私服姿で、俺を見るなり「先輩今日予定あるんですか?」と正座のまま尋ねてきた。

「予定、あるっちゃーあるけど。何か用だったか?」
「いや、一緒に町まで行きませんかって誘いに来たんですが」

竹谷は眉を下げて悲しいという表情をする。
表情豊かな竹谷は犬みたいにころころ表情を変えるからとても分かりやすいのだ。
文次郎も伊作も、竹谷を見習えばいいのに、とそんな事を心の中で思ってしまった。

「行ってきたら?用ってそれ程大事なものでもないんだろう?」

黙っていた俺にそう言ったのは伊作だった。

「いや、でも伊作は今日予定ないんだろう?」
「僕はないけど、」
「だから、一緒に蕎麦食いに行こうって思ってたんだけど」

そう思ってたからこそ私服を着ていたのだ。
伊作は「え、僕と?」と驚いたように告げる。

「蕎麦食いに行こうって言い出したのお前だろう。先週は補習で行けなかったから今日はどうかなって思ってたんだけど…お前、もしかしなくても忘れてただろ!」

眉を顰めて伊作の足を軽く蹴ってみたが、伊作は驚いた表情のまま固まってリアクションを取ってくれない。

「…行かないのか?」
「行く。絶対行く」

伊作がきっと睨みつけるように俺を見ながらそう返したもんだから驚いてしまい、「そうか」としか返せない。
何故睨まれたのかよく分からないまま伊作を見上げていたら「いいなぁー」と竹谷が口惜しそうに言った。

「俺は一緒したらダメなんですか?」
「お前はとは先週出掛けただろ。たまには留守番してろ」
「…ちぇっ、仕方ないっすね。孫兵が動物たち散歩させるのを手伝ってこようかな」
「おー行ってこい。土産は買ってくるから」
「あ、羊羹がいいです!」
「分かった分かった。羊羹だな、ちゃんと買って帰るから留守番してろよ」
「はい!じゃあ気を付けて行って来て下さいねー」

竹谷はにこにこと笑いながら手を振る。
縛られた後ろ髪から飛び出してくるんと重力に逆らった髪の束が手を振るたびに揺れて、まるで犬の尻尾のようだった。
竹谷が去り、ふたりきりになると伊作は少し申し訳なさそうに「留三郎」と俺の名を呼ぶ。

「僕とでよかったの?」
「何が?」
「…留三郎、本当は竹谷と行きたかったんじゃないの?」
「は?蕎麦屋行く約束したのは竹谷じゃなくてお前じゃん。どうして竹谷と行くんだ?もしかしてお前蕎麦屋行きたくなかった?」

伊作の言葉の意味がよく分からず、首を傾げながらそう尋ねると「いや、留三郎がいいならいいんだ。行きたかったし」と伊作は首を振った。

「留三郎、着替えるからちょっと待ってくれる?」
「おう、早くしろよー」

伊作が衝立の向う側で着替え始め、俺は開いている襖から青い空を見上げる。
日が高く昇るにつれて気温はどんどん暖かくなる。
息を吐いてもそれは白くは染まらずに透明なまま空気と混じっていく。
春が近いのだろうか。そう思うと自然に心臓が切なくなった。

「今日はいい天気だなー」

風に流されていく白い雲の行方を目で追いながら独り言のように呟くと「小春日和だね」と伊作が穏やかに答えた。
その声は柔らかく、いつもの伊作の声だった。

「あ、機嫌直った?」

振りむいて笑い掛けながらそう尋ねると、伊作は少し眉を寄せて何とも言えない顔をした。
泣く手前のような、笑う手前のようなその表情に声を掛けられずにいると伊作が唐突に「留三郎、有難う」と告げる。

「何が?」
「えーと…何がだろう」
「何だよそれ」

突然意味の分からないことを言い出した伊作に思わず笑ってしまう。
俺が笑っているのを見て、伊作も笑いだした。

「お待たせ」

着替え終えた伊作が手を差し出してその手を取って立ち上る。
伊作はどうやらもう怒っていないようで、ようやくいつものような穏やかな表情に戻っていた。
いつも通りの伊作を見て安堵を覚えた辺り、結構気にしていたのだなと自分自身のことなのに今更気付く。


正門までの道を伊作と雑談を交わしながら歩いている途中で、鍛錬している文次郎を見かけた。
相変わらず機嫌が悪いようで、その眉間には深い皺が刻まれている。
しかも、俺を見るなり文次郎は背を向けて去ってしまった。

「町に行く頃にはちょうど昼飯時だね」

文次郎に気付かなかったらしい伊作は呑気な声で話を続ける。

「そうだな。あ、帰りに寄り道していいか?」
「分かってるよ、羊羹買うんでしょう?」
「いや、羊羹も買うけど。豆菓子…いや、団子の方がいいのかな」
「誰へのお土産なの?」
「文次郎。アイツ機嫌悪くて、俺何かしたっぽいんだよな。だから詫びに団子でも買おうかと思って」

伊作は俺の言葉を聞くなり小さく笑う。
大人気ないが伊作が笑ったことに対して少しむっとしてしまった。
俺と文次郎が口論している姿を見て、伊作はいつもまるで幼児の駄々っ子みたいだと言うのだ。

「何だよ」
「いや、悪いことしたと思っているなら素直に謝ればいいのに」
「文次郎相手に俺がそんなことできっかよ!」
「二人ともいじっぱりだからなー」

俺と文次郎の事を子供だと小馬鹿にしたように聞えて更にむっとする。

「うっせーな。伊作だってさっきまで怒ってたくせに」
「…!違うよ!僕は怒っていたんじゃなくて、」
「怒っていたんじゃなくて?」
「…その、悲しんでただけだよ」
「…何で?」

思いがけない伊作の言葉にそんなことしか返せない。
しかし一体何をどう悲しんでいたら、俺を避けたりするのだろうか。
伊作の返事を待ってみたが、伊作は「留三郎はきっと分かんないから言わない」と笑うだけで答えてはくれなかった。
伊作は芯が強いので決めた事は覆さない。
それが分かっているからそれ以上問い詰めることはしない。

「まぁ、悲しいのが終わったならいいんだけど」

空を見上げながら告げた言葉に、伊作は少し寂しげな視線を俺と同じように空へと向けながら微笑む。
どうやら悲しいものは終わったわけではなさそうだ。
しかし、俺に話してくれない以上、俺に出来ることは何もないだろう。

「今日は奢ってやるよ」

伊作の方を見て告げた言葉に伊作が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見れただけで今日はいい日だ、とそんな事を思った。




(2010/2/20)