月がくれた始まりの言葉
頭上高くに白い月が浮かび、それを見上げて溜め息を吐くとその息は白く靄のようになり散っていく。「もう少し右を照らして下さい」と孫兵の指示を出す声に慌てて手に持っていた明かりを右へと寄せた。
孫兵はがさがさと草をかき分けていたその手を止めて、月を仰ぎながら「はぁ、」と肩を落とした。
「代わろうか?」
「いえ、代わったばかりなので」
「そうか」
孫兵はにこりと俺に笑いかけてまた手を動かして草の根をかきわけ始める。
委員会で飼っている動物が逃げるのはもはや日常茶飯事なので一年の奴らも落ち着いて二人一組になって捜索をしていた。
冬になると冬眠する動物もいるから夏場よりはずっと楽なのだが、それでも月に三回はこうして捜索している気がする。
眠くて寒いだろうに一生懸命に動く後輩たちを見ると、自分の所為では無いにも関わらず申し訳なく思ってしまう。
「竹谷先輩、代わります」
厠から戻ってきた虎若が駆け寄ってきて俺を見上げた。
「五年長屋の厠の前で久々知先輩が三郎先輩を正座させていて、捕まってしまったので遅くなりました」
「…何でまた、こんな時間に」
「鉢屋先輩が久々知先輩が取っておいた豆腐に勝手に醤油を掛けてしまったらしいです」
「あぁ、三郎またやったのか」
「三郎先輩に『竹谷に助けろと伝えて』と言われました」
「…懲りない奴だな。自業自得だろ。じゃ、六年の厠使ってくる」
「はい、じゃあ代わります」
虎若へと明かりを手渡し、俺は二番目に近い六年長屋へと歩き出そうとしたが、「あ、先輩」と呼び止められて振り返る。
虎若は「忘れ物です」と笑顔のまま虫取り網を差し出した。
今は厠に行くだけで虫取り網は必要ないんだが、折角手渡されたので置いていくのも悪い気がして虫取り網を持ったままで六年長屋へと歩いていく。
夜が更けたこの時間に六年長屋を訪れることなど滅多にない。
六年長屋の殆どの部屋は明かりもなく寝静まっているようでかなり静かだ。
もしかしたら潮江先輩みたいに多くの人がどこかで鍛錬をしているのかも知れない。
ただ長屋の厠を借りるだけなのに何故こんなにも緊張しているか、その理由は十分分かっていた。
彼の姿が一目でも見れるのではないか、そんな邪な気持ちと期待が捨てられなかったのだ。
早寝派らしいと噂で聞いているから、遭遇する可能性は随分低いことは分かっていた。
それでも制服以外の、特に寝巻の彼を見ることなど学園にいてもそうそうある事ではないから期待してしまうことはもはやどうしようもないのだ。
厠に行くまでの道のりで人に遭遇することはなく、半ば肩を落としながら厠に入った。
用を済ませてから窓から見える星をぼんやり眺め、今日は眠れるだろうかと考えながら厠から出る為に戸を開ける。
驚いて声が出なかったのは厠の前に人が立っていて、そしてそれが俺が一目でも会いたいと思っていた人だったからだ。
「…食満先輩?!」
「おお、竹谷か」
食満先輩は少し驚いたような顔をしたけれどすぐに笑顔になる。
「あの、待たせましたか?」
「いや、今来たばかりだ」
「それなら、いいんですが」
先輩はふあっと欠伸をしてから「もしかしてまた動物が逃げ出したのか?」と尋ねてくれる。
「え、あ、はい」
「こんな遅くまで大変だな、手伝おうか?」
先輩は首を傾げながら優しげにそう聞いてくる。
あぁ、可愛い仕草でそんな風に優しいことを言わないでほしい。
脈がないと分かっていても、勝手に付け上がってしまう。
自分の気持ちばかりが深まってしまって、どうしようもないじゃないか。
「あ、いえ、大丈夫で」
そこで言葉が途切れてしまったのは、不意に先輩が手を伸ばして俺の頬に触れたからだった。
真面目な顔をしたまま少し顔を近づけてきた先輩に、息が止まってしまうかと思った。
本当に、驚き過ぎて、そして幸せすぎて、これが夢だと言われても納得するし、夢ならば醒めてしまうことを全力で阻止したいと思う程だった。
「泥、頬についてたぞ」
先輩は笑みを浮かべて俺の頬から手を離そうとした。
先輩の手が離れる瞬間にその手を掴んでしまったのは、本当に勢いだけだった。
少し驚いたような顔をした先輩のもう片方の手も取って握りしめると、自分より少しだけ低いその温度に感情が溢れだしてしまった。
「好きです」
気がつけばそう口走っていた。
先輩は目を丸めて、顔全体で驚いていることを教えてくれる。
「俺、食満先輩のことが、好きです」
ぎゅっと手を握りしめてもう一度そう告げると、先輩が混乱したままの表情で「え、」と唇を開こうとした。
彼に自分の気持ちを告げることなんて本当に予定外だったし、彼から返事を貰うことに関して言えば心の準備が出来ているはずもなかった。
だからこそ「竹谷先輩ー」と俺を探しにきてくれた虎若と孫兵の登場には感謝をしたいと思ったくらいだ。
声のする方を向いて二人の姿を確認してから、慌てて食満先輩の手を離す。
「あ、食満先輩、起きてたんですか?」
虎若がにっこりと食満先輩に笑い掛けた。
「あ、ああ…見つかったんだな」
「はい、兎のゆきです」
虎若はゆきを食満先輩に見せるように高く抱き抱える。
「俺が飼育小屋に入れておくよ、虎若も孫兵も早く寝ろ、ほら、行くぞ!」
俺は虎若と孫兵の背を押し、一度も食満先輩を振りかえらずにその場を逃げるように後にした。
残された先輩が何を想うかなんて考える余裕もなく、ただ、何故告げてしまったのだろうかという自己嫌悪と居たたまれなさばかり胸を巡っていた。
*:*:*
自室に戻って自分の机の前に坐る。
先程の出来事を思い出すと自己嫌悪に頭を抱えて「ああああああ」と呻いてしまうのは最早仕方がなかった。
潮江先輩がするように、机に額を軽くぶつけて「ああああ」と呻いていると唐突に襖が開く。
「お前さぁ、何で先輩に行くんだよ」
三郎は襖を閉めてそのまま軽く襖に凭れかかってそう尋ねた。
「…見てたのかよ」
顔を上げて三郎を軽く睨むと三郎はフンと鼻息で俺の視線を軽くあしらう。
「見てたっていうか、あんな場所で言うお前がおかしいぜ」
「…そりゃ分かってるよ、本音がついぽろっと出ちゃったんだよ」
自分でも馬鹿だなと思い、溜め息を吐きながら肩を落とす。
「何でお前は年上に走るかなー」
「何でって、俺が年上好きになったら悪いのかよ」
「…だってはち、へたれじゃん。年上より年下が向いてるって。同性で相手が年上だとお前には気が重いと思うぜ?絶対向いてねぇよ。年下にすれば?ほら、孫兵とか、あいつ美形じゃん、そっちにしなよ」
「俺は孫兵はそういう眼で見てねぇし、それに食満先輩以上はいねぇんだよ」
俺の言葉に三郎は「へぇ、食満先輩のどこがそんなにいいの?」と挑発するように笑いながら言った。
そもそも、その夜は思いもよらず先輩へ想いを告げてしまった為、気が動転していてまだまだ感情が暴走していた。
だから普段なら絶対言わないことを俺は口走ってしまったのだ。
「先輩すげぇ優しいんだよ。しかも委員会の後輩だけを贔屓になんて絶対しないし、鳥籠とか虫籠壊して直してくれって頼んでも絶対嫌な顔ひとつしないんだ。あと、あの人武闘は確かにすごいけど、俺とは違って骨格が華奢だから俺より全然細いし、あの細さであんなに強いなんて本当尊敬する。あと、笑顔がやばい。俺、笑って名前呼ばれただけで死ねる。っていうか、まじで食満先輩以外見えない。あの人以外いらない」
気がつけば雷蔵が寝ているのも忘れて、大きな声でそう捲し立てていた。
捲し立てた後ではっと、自分がかなり恥ずかしいことを口にしていることに気付いて「もしかして、俺、今、かなり恥ずかしいこと言ってるんじゃね…?」とまた頭を抱える。
今日はほんと予定外で予想外のことばかり起こっている。
だからこれからの展開を俺は何ひとつ予想出来なかった。
起きてきてしまった雷蔵が背後から「…なに?なにかあったの?」と訴えかけるように声を掛けてきて、その声に振り返ろうと顔を上げた時、襖の前に立っていた三郎がにやりと笑った。
「…だってさ、食満先輩」
そう言って三郎が襖を開けると、そこには虫取り網を持っている先輩が顔を真っ赤に染めながら立っていた。
「…けま、せんぱ、い、もしかしなくても、今の、聞いて…」
血の気が引いていく音が確かに聞えた。
思考回路は完全に止まったままで、ただ、呆然と先輩を見つめるしか出来ない。
「あの、竹谷がこれ忘れてて、俺は渡しに来ただけで…」
先輩の手に握られている虫取り網は、確かに俺が六年長屋に置いてきてしまったものだった。
そのままにしてても誰も盗らないだろうし、気付いてすぐ取りに戻れるものなのに食満先輩はわざわざ五年長屋まで持ってきてくれたのだ。
その事実がどうしてこんなに嬉しく思えるのだろうか。
「あの、これ、こっちに置いておく。じゃ、おやすみ」
先輩はさっと足元に虫取り網を置くと、廊下の向こうへ早足で立ち去ってしまう。
先輩が去っていくのをポカンと見つめていると三郎が「ハチ!」と俺を呼んだ。
「さっさと追っかけろ!」
「え、あ、ああ!」
三郎のその言葉にようやく俺の体は動き、立ちあがって先輩の後を追いかけるために部屋を出た。
暗い廊下の向こうに歩き去り、小さくなっていく先輩の背中が見えた。
今、先輩を捕まえることが出来なければ、朝になってしまえば、先輩はきっと今夜の俺の告白をなかったことにするだろう。
先輩はそういう気の回し方が出来る人なのだ。
でも今夜のことをなかったことにされてしまったら、きっと俺が先輩に想いを告げるチャンスはもう訪れることはないだろう。
先輩がそのチャンスをくれないだろうということは俺でも簡単に予想出来た。
だからこそ今ここで逃がしてしまう訳にはいかないのだ。
早足の先輩に追いつくため、廊下を全速力で音を立てずに走る。
この走りを見たら先生方に普段の実技で使えと言われるくらいに本気を出した。
すぐに先輩に追いつき、気配に気付いて振り向こうとした先輩を壁に押さえつける。
先輩に本気で抵抗されたら、俺なんかはとてもじゃないが敵わないのだ。
それを知っているから手加減なんてしなかった。
「あの、」
先輩の両手を壁に縫いとめて先輩の顔を見ると、先輩はやはりまた驚いた顔をしていた。
「あの、本気ですから。俺、本気で先輩の事が好きです。本当に、大好きです」
もっと気が向いた文句が言えればいいのだが、そういう器用さは生憎持ち合わせていなかった。
ただ馬鹿の一つ覚えみたいに「好き」「大好き」をひたすらに繰り返すことしか出来ない。
それ以上に自分の気持ちを言い表してくれる言葉が思いつかなくてもどかしい。
「…あの…竹、谷…」
先輩の顔が赤いような気がしたが、廊下は暗く色までははっきり見えない。
ただ、困ったような、もう少しで泣きだすような表情をしているのは分かって、その表情に気持ちが掻き乱されてどうしようもないのだ。
「何ですか?」
大きな声を出すわけにもいかないので、先輩に顔を近づけて尋ねる。
先輩はふいっと視線を逸らしながら、「分かったから」と告げた。
「その、お前の気持ちは、もう、分かったから」
もう少しで先輩の言葉に「絶対まだ分かってないです」と返してしまうところだった。
俺が告げた言葉はどれも俺の気持ちを表せてないのだから先輩に伝わっているはずがないと俺は思っていたのだ。
だけどこちらをちらりと見た先輩の瞳があまりに色っぽくて声が出せない。
「あの、だから、手と、その…足をどかしてくれないか?」
「足?」
先輩の腕を壁に押しつけている自分の手を見てから視線を自分の足へと下ろす。
先輩が足をどかせという意味がすぐに分かった。
俺は無意識に先輩の両脚の間に足を捻じ込んでいたのだ。
「あ、す、すみません!」
あまりに慌てすぎて、声を潜めることを忘れてしまっていた。
一瞬で思考回路が混乱して、頭の中で「わああああああ」とばかり叫んで、先輩の手を掴んでいる手も先輩の両脚の間に捻じ込んでしまっている足もどかせることが出来ない。
先輩もどうやら動転しているようで、二人して見つめ合ったまま「すみませ、ん!」
「いや、謝らなくていいから」を繰り返す。
「…何だ、それでもう終わりか?せめて口付くらいはしたらどうだ、つまらん」
急に俺と先輩以外の声がして、反射で声のした方向を見るとそこには六年生が立っていた。
一番前で立花先輩が仁王立ちしており、その隣でどうやら引っ張られてきたらしい潮江先輩がまだ忍び服のまま胸倉を立花先輩に捕まえられて立っている。
七松先輩は「竹谷は留三郎が好きなのかー」と呑気に笑っているし、善法寺先輩に至っては顔は怖いくらい笑顔なのに「竹谷くん、留三郎から離れてくれるかな?」とクナイを握りしめた手を振り上げている。その手を中在家先輩が止めていてくれてぼそぼそと何かを喋っていた。
俺はようやく食満先輩の手を離し、脱兎のごとく彼から離れた。
食満先輩は俯いたまま手首を擦っていて、その表情は何ひとつ見えない。
「す、すみません」
最早その謝罪は食満先輩へなのか、クナイを振り上げている善法寺先輩へなのか、それともこの場所にいる人全員に対してなのか分からなかった。
「謝られる筋合いはないぞ?面白いものが見れたしな」
「…面白いものって…」
「しかし、これからは背後に気をつけねばな、伊作はかなり汚い手を使うからな」
立花先輩のその言葉を笑うことが出来なかったのは善法寺先輩が笑顔を張り付けたまままだ俺を見ていたからだ。
「…もういいのか?もっと愛を叫んだりしないのか?」
七松先輩は俺の肩を叩きながらそう聞いて来る。
「いえ、あの、もう、十分です…」
「そうか!竹谷の気持ちは私達も十分分かったぞ」
ハハっと笑いながら背中を痛いくらいに叩かれる。
もう恥ずかしくて消えてしまいたいと思いながら「ハハハ」と乾いた笑いを返した。
今この場で弱い所を見せれば、彼等にさらなる餌を与えるだけだとさすがの俺も分かっていた。
「じゃあもう六年長屋に帰るか」
「そうだね、留三郎も帰るだろ?」
「…おう」
「では竹谷、お前ももう寝ろ」
「…竹谷、告白する場所が悪かったなぁ」
「……がんばれ……」
先輩達はそれぞれ憐憫の眼差しや、面白い玩具を見るような眼で俺を眺めてから背中を向けて歩き出す。
その背中が廊下の角を曲がり見えなくなると俺は「あああああああああ」と呻きながらその場でしゃがみ込んだ。
呻く以外どうすればいいのか全く浮かばなかった。
明日になれば噂は尾ひれがついて広まってしまうだろう。
どんな顔して明日から過ごせばいいのだ。
対策がひとつも浮かばなくて情けない呻きしか漏れない。
それに食満先輩のあの様子じゃ俺に脈はないのだろう。
「…消えたい…」
思わずそう呟いて項垂れていると、「竹谷」と俺を呼ぶ声がした。
三郎がからかいにでも来たのかと顔を上げると、そこに立っていたのは食満先輩だった。
「え、あ、食満先輩…!」
「あの…あいつらにはあんまり言いふらすなと言っておいたから…」
「あ、有難うございます」
先輩は本当に優しいんだなぁとつくづく思う。
そしてその優しさに、きっと今此処で俺の告白は受け取って貰えないんだろうなと何となく思う。
先輩は今、振られる俺のフォローをしてくれているのだろう。これが先輩の最後の優しさなのだろうと思い、先輩の次の言葉を覚悟を決めて待つ。
しかし先輩は沈黙を落として、そしてはにかみながら「それと、あの、おやすみ」とだけ告げた。
「あ、はい、おやすみなさい」
「じゃあ、また…明日な」
「また明日」
片手で顔を隠した先輩はくるりと背を向けた。
先輩が去ってしまうと思うとまた無意識に手が伸びて先輩の腕を掴む。
振り返った先輩の瞳が動揺に揺れたのが見えた。
その瞳に、もしかしたらという期待ばかりが膨らんでしまう。
「あの、さっき言ったこと冗談なんかじゃないですから、本気ですから、本気で俺は食満先輩の事、」
「…分かった。分かったから」
掴んだ先輩の手が一度だけ俺の手をぎゅうっと握りしめた。
それに驚いてるとすぐに手を解かれてしまう。
「おやすみ」
そのことだけ残して先輩は今度こそ立ち去ってしまった。
一人だけ廊下に残され、俺はへなへなとその場に座り込む。
だって、今の顔は反則だ。
あんな風に照れたように優しく微笑まれたらどうしようもない。
「はぁ、どうしようもないくらい好きだぁ」
恥ずかしいことを呟いていると、まだ暗い空の何処からか小鳥の囀りが聞え、朝の到来を告げようとしていた。
(2010/02/03)