誰の元にも訪れる春の足音
中庭には木が数本植えられているが、その中でも一際大きな木がひとつある。
その大きな木の上は辺りを見渡すには最適で迷子になっているクラスメイトを探すために三年の富松作兵衛が登ったり、一年の授業で木登り訓練等に使用されたりしている。
夏になると多くの生徒がその木陰で休憩するし、木の上に登り遊ぶ生徒もいるし、生徒に愛される場所のひとつであった。
そしてまた、鉢屋三郎もこの木の上をこよなく愛するひとりだった。
朝から気温が高く小春日和だと思っていが午後になると日差しが強まり、寒さになれてしまった身ではあまりにも暑く感じてしまう。
また自室では雷蔵が大掃除をしていて、戻ると確実に手伝わされてしまうだろう。
一年のよい子たちをからかって遊ぼうかと思って一年長屋へ赴いてみたものの、一年は組はどうやら大人数で海の方へ行ってしまった後らしく学園内には誰も残っていなかった。
行くあてのない鉢屋が向かったのは中庭にある大きな木だった。
冬になっても葉が落ちない木の上は日差しを避けるのには最適で、またこの場所からは多くの物事が見えるのだ。
鉢屋は今日一日枝の上に寝転がり、木の上から下の世界を覗くことに決めたのである。
多くの生徒が中庭を行きかう。
木の上に鉢屋が潜んでいることを知らない生徒たちは無防備に会話を交わしながら歩く。
その会話の端々を聞いて、何が起こっているのかを推測しながら鉢屋は過ごしていた。
例えば今日の昼飯のメニューとか、正門前の穴に保健委員の誰かが落ちただとか、そういう情報を会話の端々から拾い上げるのである。
摘まんだ葉をくるくると回しながら目の前を横切る人達を眺めていると、同じ学年の竹谷が私服姿で通り過ぎた。
木の上にいる鉢屋に気付くことなく、足早に横切った竹谷が向かっているのは六年長屋で食満先輩をデートにでも誘うのだろう。
二人が付き合い始めたらしいということは最近の二人の雰囲気で察していた。
そもそも、鉢屋は竹谷が食満先輩に告白した時にその場にも居合わせていた。
覗いていたと言えば聞こえは悪いが、真夜中とはいえ六年長屋の厠の前で想いを告げる奴が悪いのだ。
夢も浪漫もありはしないし、そして鉢屋だけでなく立花先輩や潮江先輩、中在家先輩に七松先輩、そして最悪なことに善法寺先輩までもが二人のやり取りを覗いていた。
善法寺先輩が同室の食満先輩へと想いを寄せていることを知っていた鉢屋はさすがに冷や汗が出そうになったし、竹谷の間の悪さも実感していた。
そんな大勢が見守る中、竹谷の突然の告白の行方はどうなったかというと、食満先輩の表情は強張ったままで、何より生物委員の孫兵と虎若が竹谷を呼びに来ると竹谷はその場に食満先輩を置いて逃げ出したのだ。
告白した側としてその行動は如何なものだろうと友人として竹谷に言うべきことは沢山あった。
しかし、その時の鉢屋は竹谷の事や食満先輩の事より、告白の一部を聞いてしまったらしい孫兵が見せた表情にばかり気を取られていた。
見ている此方が痛いと思う表情に、「あぁ、孫兵は竹谷を好きなのか」とその事実に行きつく。
しかしその孫兵の想いは、今鉢屋の目の前で報われることがないという結果に行きついてしまったのだ。
まだ子供だと思っていた孫兵が涙を堪えて無理やりに笑顔を作る。
親しい間柄というわけではないのにも関わらず、そんな表情をした孫兵に対して思い入れというものが出てしまった。
他人にたいしてあまりこのような情を湧くことがない鉢屋にしてみれば珍しいことで、きっと孫兵の想いが悲しい結末を迎えた時を目撃してしまったからだろう。
去っていく竹谷の背中を呆然としたまま見つめていた食満先輩が厠に入ったところで鉢屋はその場から離れた。
*:*:*
「お前さぁ、何で先輩に行くんだよ」
部屋で呻いている竹谷に鉢屋は少し呆れてそう声を掛けた。
「…だってはち、へたれじゃん。年上より年下が向いてるって。同性で相手が年上だとお前には気が重いと思うぜ?絶対向いてねぇよ。年下にすれば?ほら、孫兵とか、あいつ美形じゃん、そっちにしなよ」
人の色恋沙汰にふざけて首を突っ込むならまだしも、こんな真剣に口を挟むなんて鉢屋らしくはない。
鉢屋を良く知る人物がこの会話を聞けば驚くことは間違いなかった。
鉢屋自身も気付いてはいたが、それでも口を挟まずにはいられなかったのだ。
食満先輩が竹谷に振り向くより、竹谷を孫兵へと振り向せた方がうまくいくのではないかとその時鉢屋は思っていたのだ。
しかし食満先輩は竹谷の忘れものをわざわざ届けに来たし、竹谷の言葉を聞いた食満先輩は茹で蛸のように顔を真っ赤にして逃げ出した。そしてそんな食満先輩を竹谷も追った。
全ては予想外な方向へ転がりはじめたのだ。
鉢屋はここ数週間の出来事を思い返しながら中庭を見つめ続ける。
「…あれは食満先輩と善法寺先輩か」
遠くに見えた桃色の服に眼をやるとその隣を食満先輩が歩いている。
竹谷はどうやら食満先輩をデートに誘う事に失敗したようだ。
食満先輩は善法寺先輩の少し前を歩いていて、善法寺先輩の視線は真っすぐに食満先輩へと向かっている。
「…善法寺先輩、表情明るくなったなぁ」
竹谷と食満先輩が恋仲になってからというもの、善法寺先輩はいつも張りつめたような表情をしていた。
ピリピリとした緊張感は近くにいる人にも伝染する。
たまたま善法寺先輩の近くに居合せた人にもそれは伝染し、保健委員は息が詰まる思いだったらしいと人伝に聞いた。
さすがに下級生たちは善法寺先輩がピリピリしている理由までは知らないらしいが、原因が分からないからこそびくびくしていたのだろう。
食満先輩の鈍感さに鉢屋は驚いて声も出ないが、それでも今確かに目の前で善法寺先輩は穏やかに微笑んだのだ。
善法寺先輩を苦しめているのは善法寺先輩の目の前を歩いている食満先輩に他ならない。
それなのに少し後ろを歩く善法寺先輩はとても嬉しそうだった。
善法寺先輩の笑顔を見つめる鉢屋の眉間には少し皺が寄ったがすぐにそれも消える。
そして食満先輩と善法寺先輩が中庭を通り過ぎて次に見えたのは竹谷の姿だった。
先程まで私服姿だったが、今は制服に着替えて孫兵と沢山の動物たちを引きつれて歩いている。
兎やら猫やら犬やらまではまだいいが、孫兵は多くの虫籠をぶら下げている。
蟻を散歩させていたこともあるから、きっと団子虫やらカメムシやらも散歩させるのだろう。
虫に夢中な孫兵の後ろを、猫を抱きかかえたまま竹谷は歩く。
その視線はちゃんと孫兵へと向けられていて、時たま笑い声が起こっているのが遠くからも分かる。
前に鉢屋が見た、苦しそうな表情をしていた孫兵はどこにもいなかった。
竹谷の言葉に笑いながらもしっかりと虫籠へと視線を落として歩いている。
またもや鉢屋の眉間に軽く皺が寄ったが、二人の姿が見えなくなるとその皺は消えた。
「…全くわからん」
鉢屋は腑に落ちないと思い、肩を落として独り言を呟いた。
そもそも、他人の感情なんて分かるわけがないのだ。
特に色恋に関わる感情を、鉢屋は読めた試しがなかった。
竹谷が頑なに食満先輩に拘るのも、年下でへたれな竹谷を選んだ食満先輩も、それでも隣りを離れようとはしない善法寺先輩も、想いが届かなかった人の隣りでその痛みも見せず穏やかでいられる孫兵の気持ちも分からない。
「分からないからこそ救われるんじゃないか?」
急に背後から声がして慌てて鉢屋が振りかえるとそこには立花先輩が立っていた。
「…立花先輩、いつからいらしたんですか?」
「さぁ、いつからだろうか」
立花先輩はにやりと頬笑んで鉢屋の隣りへ立った。
その視線は中庭よるもずっと遠くの方へ向けられており、思わず鉢屋もその視線の先を見つめる。
「誰の感情が何処へ向かうか分からないからこそ、希望があるんだろう」
「…そうっすかね」
「少なくとも、あいつらは皆それぞれ満足そうだったろ?」
「…まぁ、それぞれ思うところはあるんでしょうがね…」
「それは誰にだってあるだろう。私にもお前にもな」
「…そうっすけど」
苦笑した立花先輩に鉢屋は溜め息を吐きながらそう返す。
「ところで先輩は先程から誰を探しているんですか?」
「ん?」
鉢屋のその言葉に、立花先輩は視線を鉢屋の方へと向ける。
「同室の馬鹿を探しているんだが、お前見なかったか?」
「…潮江先輩は見ていないですね」
「そうか。傷心のアイツを弄り倒して鬱憤を発散させたかったのだがな」
「鬱憤を発散って…嫌がらせじゃないですか」
「まぁ、気の紛らわせ方は人それぞれだろう?では裏庭の方を探すとしよう」
立花先輩はそれだけ言い残すと木から飛び降りる。
華麗に地面へと着地した立花先輩へと鉢屋は身を乗り出して声を掛けた。
「潮江先輩見掛けたらお知らせします」
「頼んだぞ」
少しだけ寂しさを滲ませたようなその表情に、立花先輩が潮江先輩を探しているのはもしや嫌がらせ以外に理由があるのだろうかとふと思う。
すぐに見えなくなったその背中を鉢屋は見つめながらもうすぐ訪れる春のことを考えていた。
(fin.)
あとがき
「一筋縄ではいかない僕らのシアワセについて」
のオマケお話しです。
三郎と仙蔵のお話です。
蚊帳の外にいる三郎から見たお話でした。
これでこのシリーズは終わりです。
長い間お付き合いくださってありがとうございました!!