秘密に愛と傷を重ねて。





太陽が空の真上に昇っているのを影が落ちている廊下からぼんやり見つめていた伊作の視界に、後輩たちと並んで歩く留三郎の姿が入った。後輩を引き連れて歩く彼はとても楽しそうで、腰もとに纏わりつく後輩たちへこれ以上ない笑顔で接している。

「あ、伊作!」

伊作を見つけると名前を呼び、軽く手を振る留三郎に、伊作も笑顔で手を振り返した。笑いながら後輩と去って行った留三郎の背中を伊作は先ほどとは打って変わって苦しげな目で見つめる。

留三郎が空元気だということを、伊作は知っていた。前々から空元気だということは知っていたのだが、ずぶ濡れで帰ってきた夜から更にそれが酷くなった。それでも真夜中に夢でうなされて飛び起きる留三郎に、伊作は声を掛けることは出来ない。ピンと、まるで張りつめた糸のように気を張っている留三郎へ声を掛けてしまったら、留三郎を支えるその糸が切れてしまうのではないかと思っているからだった。

真夜中、月も沈む丑三つ時。またいつもの悪夢にうなされて留三郎は目を覚ました。まだまだ寒さは続いているというのに肌は汗ばんでいる。体を起して座りこみ、留三郎は目の前に広がる闇を睨みつけた。

怖い、なんて思ってはいけない。
痛い、なんて思ってはいけない。
辛い、なんて思ってはいけない。
助けて、なんて言ってはいけない。

恐怖を噛み殺して留三郎は腰を上げる。喉がカラカラに渇いていることに気付いたのだ。伊作がまだ眠っているのを確かめて留三郎は自室を抜け出した。
井戸から水を汲み上げて直接口へと運ぶ。冷たい水が食道を落ちていくのを感じながら留三郎は井戸の中を見つめていた。

相手側の忍者とごろつき達、そしてその雇い主からの接触があったことは学園長に報告済みだった。それから『城を落とす』という言葉を聞いたということも報告していた。
留三郎から報告を受けた学園長は低く呻いた後に暫く考え込み、留三郎がまだ傍らにいることに気付くと「もう下がってよい」と下がらせた。この件については教師達が動いているようで、あれから留三郎が学園長に呼びだされることはない。ほっとするのと同時に、状況が動いているのか動いていないのか分からず不安に思うこともある。現に今、留三郎を襲っているのは不安だった。
また町に行くと顔を合わせてしまうのではないか。この前は後輩から遠ざける為に逃げることはしなかったけれど、果たして逃げようとして逃げられるのだろうか。また捕まったら?頭の中で何度も繰り返す問いに答えをくれる人はいない。
最終的に留三郎は前の出来事を引きずり、未だに怖いやら痛いやら思ってしまう自分を嘲笑する。忍になる為にがんばってきたのにたったこれだけで心が痛いだなんて、と笑うのである。井戸を覗き込みながら、哀しい笑みを浮かべるその姿を誰かが見つけたのならきっと放っておきはしないだろう。それでも留三郎は誰にも見つからない場所でだけそういう表情を出すのである。
夜風が体温を奪い、体が冷えはじめた頃に留三郎はようやく部屋へと戻る。足音も気配も消して部屋に戻ったのだけれど襖を開けると同時に伊作と目があった。

「おかえり」

子供の帰りを待っていたかのように優しく声を掛けられ留三郎は少々驚きながらも「…ただいま」と小さく返した。伊作は体を起していて、じっと留三郎を見つめる。その視線に、あぁ、部屋を出る時から起きていたんだなと留三郎は察した。

「眠れないの?」

伊作は心配そうに声を掛けて来る。心配を掛けてしまっていることを悪く思いながら衝立の向こうの自分の布団へと移動して、留三郎は息を吐いた。

「最近、うなされてるよね、怖い夢でも見たの?」

こう言う時、伊作は絶対に「大丈夫?」とは尋ねない。「大丈夫?」と尋ねられれば鸚鵡返しのように留三郎が「大丈夫」と言うことを知っているからである。

「もしかして毎晩起しちまってたか?悪かったな」

背を丸め、自分の膝に顎を乗せて、視線を目の前の闇に向けながら留三郎は伊作へとそう返した。

「そんなことはないよ、ただ、最近苦しそうだなと思ってたから」

伊作の声の口調は穏やかだ。まるで蝋燭の火のように優しくゆらゆらと揺れていつの間にか心に入ってくる。留三郎は自分が先ほどより震えていない事に気付いた。きっと伊作が声を掛けてくれたからだろう。

「痛いってさ」
「ん?」
「痛いって思うのを止めたいんだけど、どうしてもうまくいかなくてさ」

留三郎は瞼を閉じながら言葉を続けた。

「忍びなんだから、心とか殺さなきゃっては思うし、分かってるんだけど現実はそう上手くいかねぇよなぁ」

はぁと長い溜め息を吐く。あまりにも抽象的な話をしていることには気付いてた。伊作はきっと何の話をしているのか分からないだろう。それでも、細かいことを口にはしたくなかったのだ。

「悪ぃな、変な話して」

もう寝ようぜ、と留三郎が口にする前に伊作が「僕は」と口を開く。

「僕は医療を少し齧っている人間だから、きっと他の人とは違うことを言うかもしれないけど」
「ん、言えよ」
「痛いって思うには原因があるでしょう?例えば棘が入ったり、怪我をしたり、弾丸を受けたり」
「そうだな」
「その痛みをなかったものにしてもその内、傷は再生して今までと同じようになるんだ。けどね、それは表面だけで、傷が再生した時にその原因、例えば棘だとかが細胞内に残されたままなんだよ。そうするとずっと痛むんだ。他の細胞を傷つけて壊死していく可能性だってある。それくらいの恐怖を内在してしまうんだ。だから、僕はね、痛みの原因を除去することが大切だと思うよ。それに痛いとちゃんと感じることも。痛みをずっと我慢することや心を完全に殺すことなんて、僕等が生きている限り不可能に近いんだから。だから痛いと思った時はちゃんと対処しなきゃ。そうするかどうかが僕達の生死を決めると僕は思っている」

先ほどまで柔らかい声とは打って変わって、迷いを感じられないほど凛とした声で伊作は告げた。

「ごめんね、何か語っちゃったよー恥ずかしいな」

伊作は衝立の向こうで笑っていて、その声を聞きながら留三郎は涙が頬を伝っていることに気が付いた。涙を指先で拭きながら、そっと衝立の向こう、伊作の方へと視線を向ける。

何故だか許されたと思った。痛いと思うこと、弱さを抱えることも生きる為に必要なんだと言ってくれた伊作の言葉に、許された気がした。
忍者としてなら伊作が言っていることは甘い事なのかもしれない。それでも先ほどまで留三郎の胸に救っていた暗い気持ちは確かに消えたのだ。

「いや、でも聞けて良かった」
「…そう?」
「うん。何か、ありがとうな」
「ううん。僕の方こそ、ありがとう」

伊作が何故ありがとうと言うのかは留三郎には分からなかった。けれど尋ねはしない。伊作はきっと、何だかんだ理由をつけてありがとうと言ってくると留三郎は分かっていたからだ。
障子の向こう側に広がっているはずの空が明るくなってきたことに気付いて、あぁ、夜は明けるのだと留三郎は思った。


太陽が東側へようやく顔を出した時間帯、学園の裏庭で佇んでいる人影があった。手にしている手裏剣が、綺麗な直線で的に刺さる。それを何度か繰り返して手を止めたのは文次郎であった。
鋭く的を見つめている瞳の下は隈が縁取っており、その濃さから三日は寝ていないだろうということが分かる。実際、文次郎はここ最近殆ど眠らずに夜は鍛錬をして過ごしている。眠れないわけではなかった。本当に必要な睡眠は辛うじて取っている。ただ、どうしても必要最低限以上に眠る気にはなれないのである。
闇に浮かぶ的を睨みつけているように見える文次郎の視点は、実際には的より遥か後方の闇を見つめていた。
その闇に浮かぶのは、文次郎の想い人である留三郎であった。しかし恋しい人を思い起こすにしては文次郎の表情は厳しく、また文次郎の脳裏に思い起こされた留三郎の表情もとても暗いもので、今すぐにでも泣きだしかねないものであった。不意に、文次郎は自分の手の平へと視線を落とし、手裏剣を強く握りしめる。

「…忍、か」

ぽつりと落とされた声はとても思い詰められたものであり、学園内で一番忍者をしていると噂される文次郎にしては声に迷いが出ていた。不意にあげた右手から体全体を使って手裏剣を投げる。その手から放たれた手裏剣は的に刺さることなく、弾かれて闇に消えた。
背後、正確に言えば学園の門の方から人の気配がして文次郎が勢いよく振り返ると闇に紛れて一人の人間が立っていた。

「やあ、何か切羽詰まってるね」

文次郎は驚きながら、さわやかな笑みを浮かべながら歩み寄って来たその人物の名前を呼んだ。

「利吉、さん」

それは学園の教師、山田伝蔵の息子である山田利吉であった。文次郎達より二、三歳年上であり、今は現役でフリーの忍者をしている。フリーの忍者というのはその腕の確かさと人脈の広さ、更には自分自身を売り込む能力もなくてはならず、僅か数個差でありながらフリーで働く利吉を六年生は尊敬というよりは近い目標として見ている者も多い。

「邪魔するつもりはなかったんだけど、気付かれたら仕方ないね。まだ陽も完全に昇らないのに朝練かい?それとも、夜の鍛錬がまだ続いているのか、まぁ、君の場合後者だろうけども」

喋りながらも歩みを止めない彼は、先ほどの的の方まで歩き、落ちていた手裏剣を拾い上げながら文次郎に視線を向けた。

「迷い、軌道に出てたね」

彼は拾い上げた手裏剣を、軽く投げ、それは的へと簡単に刺さる。

「…君が迷うなんて珍しいじゃないか。何か悩みでも?私で良ければ相談に乗るが、話せないことかい?」

忍者の先輩として、利吉は後輩である文次郎を見つめる。忍の道を行く者の迷いは同じ道を行く者にしかわからないと利吉は知っているのである。

「…忍とは、主君にだけ忠誠を誓う影なる者。主君の命令が絶対であり、その命令は命を掛けても成し遂げなければならない」
「…そうだね」
「…俺は利吉さんみたいにフリーになるつもりはありません。だからこそ、この主従関係に縛られることは分かっています」
「君の場合は地盤がしっかりしている方が力を出せるタイプだろうし、そうだろうね」

利吉は少し笑みを浮かべながら的に刺さっている手裏剣を抜いた。

「分かっているからこそ、あまり大切なものを作らないようにしてきました」

文次郎の声に更に想いが籠るのを利吉は感じていた。まだ自分よりも幼いはずの彼の瞳に浮かぶのは覚悟を決める時の強さと迷う弱さ、その両方が揺らいでは覗く。

「…でも、どうしても捨てたくないものがある場合、それは弱さになるんでしょうか」

忍とは武器である。忍の強さがその城の武力といえるのであり、彼等に求められるものは豊かな人間性などではなく、残酷なまでの強さと、その強さを行使する覚悟である。それを六年生である文次郎はよく理解していた。
だからこそ迷っているのである。想い人である留三郎への気持ちと、忍になると決めている以上、恋慕し続けるわけにはいかないという現実に迷っているのである。まだ世の中を知らない文次郎は、その二つを計りかね、目の前の利吉へと静かに問う。

「…弱さの定義による」

利吉は静かに口を開いた。

「確かに、大切なものを作るのは弱みになりかねない。大切に思うあまりそれが捕らえられたら一瞬でも迷うだろう?その一瞬の隙が弱さになる」

利吉の言葉を文次郎は真っすぐに聞いていた。その真っすぐさに利吉は苦笑を浮かべる。自分が彼くらいの年齢の頃、彼のように忍びの道を理解していただろうかとふと思ったのである。彼は誰よりも真剣に忍びというものを見つめているからこそきっと迷うのであろう。

「でも、私は守りたいものがあるということが一概に弱さだとは思わない」
「それは何故?」
「…君は母の強さを知っているか?」

利吉は視線を空へと向けた。その瞳は優しいもので、まだ空に残っている星を見つめている。

「一度だけ任務で対峙したことがあるんだ。相手は女人で、とっくの昔に引退したくの一だった。簡単に仕事は終わるだろうと思ったけれど、これが苦戦したんだ。一対一なら簡単に勝負はついたと思う。けれど、生憎彼女の子供がその場に居合わせた。たったそれだけで彼女は引退していると思えないほど、それこそ必死に私を殺そうとしたよ。子を守る為に戦う母親の強さ。力が目に見えて強くなるわけではない。あれは精神の強さだ。そしてその強さは簡単には崩れない。私はそれをとても厄介なものだと思った。大切なものがあるが故に、彼女はとても、厄介なほど強くなったんだ」

利吉の言葉に文次郎は息を呑む。利吉の瞳はまるでその時のくの一を見つめるように、鋭く、そして慈しむように優しくなった。

「長所はいつだって短所になりえるんだ。だから私は大切なものを持つことを恐れないほど強くなりたいと思うよ。守れなければ、持つ意味もないからね」

利吉のその言葉に文次郎は自分の手の平を見つめた。その手が誰に触れたがっているのかを、文次郎は知っている。

「まぁ、捨てたいと思えるくらいで手離せる程度なら、捨てるに越したことはないと思うけど、本当にそんなことが君には出来るのかい?」
「…いえ」
「なら、迷う必要はないだろう?」
「そうですね」

目の前で文次郎の背筋をぴしゃりと叩くような言葉をくれた利吉へと文次郎は頭を下げた。

「ありがとうございます」
「いやいや、頭を下げる必要はないよ」

慌てたように利吉は両手を振った。その姿に笑み返した文次郎は「今日は何か用があったんじゃ?」と利吉が学園に訪ねて来た訳を尋ねる。

「あ、そうだった、父上にちょっと報告があって来たんだけど、あぁ、もう陽が昇るなぁ」

山から顔を出した太陽の光が一気に辺りを照らしていき、利吉は眉間に皺を寄せながら東の空を見上げた。

「じゃあ私は行くよ」

利吉はそう言い残し、颯爽と職員達の長屋へと駆けて行った。その姿を無言で見送り、文次郎は的に刺さっている手裏剣を抜く。

「明けない夜はない、か」

目を細めて光を見つめる文次郎は、小さい声でそう呟く。辺りには鳥の声などが聞えはじめ、朝を告げはじめていた。






(2010/04/10)