秘密に愛と傷を重ねて。





風がうなじに吹き付けて、あまりの冷たさに留三郎は肩を竦める。そしてそっと自分の左側の鎖骨の上を右手で触れた。
春はもうすぐかと思っていたのも束の間で、また寒さがぶり返し、雪がちらつき始めている。視界を掠めては落ちて来るその白い雪を踏みしめながら留三郎は暗い空を見上げた。
文次郎が留三郎の鎖骨の上に赤い跡を残した日からその跡が消えるまでの間、留三郎は今まで悩まされていた悪夢を見ることはなかった。また、白昼に時折聞えてきた幻聴、夢の中と同じ男達の声からも、その跡がある間だけは逃れることが出来た。それに気付いた留三郎はこうしてまた真夜中、厠の前で立ち尽くしている。

(あと、半刻だけ…)

未練たらしく朝まで待ち続けてしまいそうな自分を嗤いながら、留三郎は時間を決めてもう一度空を見上げた。夜遅くから降り始めた雪が全ての音を吸いこんだかのようで、辺りは物音ひとつなく静まりかえっている。
雪を踏みしめる音が耳に届き、視線を向けるとそこには文次郎が立っていた。文次郎の表情は驚いたように目が見張られていて、それに気付いた留三郎は瞼を伏せた。

文次郎がどういう理由であのようなことをしたのか留三郎には分からなかったが、どんな理由があるにせよ、もう二度としてはくれないだろうと思っていた。そしてそう思いながらも留三郎は文次郎を待ち続けていた。あの夢から逃れる為か、それとも恋しく思う相手に触れてもらいたいからか。雪が降る中、来るかも分からない相手をどうして待っているのか留三郎自身もよく分かってはいなかった。けれど、とにかくもう一度自分の肌にあの赤が欲しかったのだ。

文次郎が留三郎の方向へと足音もなく歩み寄る。それに気付いた留三郎は伏せていた瞳を文次郎へと向けた。辺りは本当に、まるで夢の中かと錯覚してしまいそうなほど静かで、二人の間には沈黙が落ちていた。
文次郎はふと視線を留三郎の首筋へと移し、鎖骨の上に触れていた留三郎の指に気付くとまた静かに留三郎を見つめた。
言葉はなかった。どちらも一言も発することなく、文次郎はまるで留三郎が望んでいることを初めから全部知っていたかのように自然に鎖骨の下へと唇を落とした。暫くして文次郎が顔を上げた時には、そこには赤い跡が残っている。それを留三郎は静かに指でなぞって視線を落としたまま文次郎を見ようとはしなかった。そして文次郎もまたそれ以上その場に留まろうとはせず、逃げるかのようにすぐに立ち去った。
赤い跡は、2日もすれば消えてしまう。だから留三郎は2日置きに深夜自室を抜け出して厠の前で文次郎を待つ。そして文次郎も、必ず顔を出して同じ場所へと口付けた。会話などなく、お互いに名前すら呼ばない。だから留三郎が何故その場所へと口付させるのかを文次郎は何ひとつ知らない。ただ、その場所へ触れることを留三郎に許されたのだと受け取り、歪んだ独占欲と支配欲を自覚しながらも懺悔と想いをこめて跡を残すのである。そして留三郎もまた、文次郎が何を思って跡を残してくれるのか何ひとつ知らないままであった。そして、互いに考えていることを知りたいと思いながらも二人は相手の名前を呼ぶことはしない。

少しでも嫌なことを思い出したり、何かに迷う時、留三郎の指先は自然と鎖骨の下を撫でる。それは新しい癖のようなもので、同室の伊作にもよく指摘された。伊作に指摘されると、留三郎は伊作の問いを曖昧にはぐらかしながらまた鎖骨の下を撫でるのである。その時の留三郎の表情が普段よりずっと柔らかくなることを跡を付けた文次郎は知らなかったが、同室の伊作は知っていた。


留三郎が意識を取り戻してから二週間が過ぎた頃、ようやく留三郎の外出禁止令が解かれた。任務に失敗した罰というよりは敵の忍に顔を見られている為であり、また、留三郎の体力や精神状態をみても安静にした方がいいだろうと教師達が取った措置であった。
外出禁止令が解かれた日はちょうど祝日であり、留三郎は用具委員を連れて町へと下りることにした。楽しそうに支度をする留三郎を、同室であり保健委員長でもある伊作は少々心配そうに見つめる。

「やっぱりもう暫くは外に出ない方がいいんじゃない?留三郎、まだ頭痛やだるさは残っているんだろう?」

伊作の言うとおり、留三郎の体調は全快したわけではなかった。時折訪れる頭痛、そして何よりだるさは未だ完全には抜けてはいない。それでも留三郎は着替える手を止めずに伊作へと微笑みかける。

「ここ2週間、委員会に中々出られなくてあいつらに迷惑かけたからそれの埋め合わせなんだよ。お前にも土産買ってくるから」

留三郎は楽しそうに笑みを浮かべる。その笑顔を見て伊作は小さく溜め息を吐いた。そんなに楽しそうな笑顔を見せられると、伊作はこれ以上、留三郎を引き止めることは出来ないのだ。

「分かったよ。楽しんでおいで」
「おう」

そんな二人のやり取りが終わった頃、「食満せんぱーい」と可愛らしい声が廊下から留三郎を呼んだ。

「おお、今行く」

留三郎は優しい声と笑顔でそう答えて部屋を出て行く。その後姿を、少しだけ心配そうに伊作は見つめていた。
一年は組のしんべヱと喜三太、そしてろ組の平太、3年ろ組の作兵衛。用具委員の後輩を引き連れて留三郎は学園を出た。風は相変わらず冷たいままだったが、青空が雲間から見え、陽射しがある場所はあたたく感じることが出来る。お出かけ日和だと皆で笑いながら町を目指した。

「食満先輩、体は大丈夫なんですか?」

心配そうに作兵衛が声を掛け、1年の3人も「風邪は治りましたか?」と留三郎へ尋ねた。

「おう、治った治った。心配掛けて悪かったな」

隣りを歩いていた平太としんべヱの頭を撫でながら留三郎は歩く。本当のことは教師や留三郎と同学年である一握りの人しか知らされておらず、それ以外の生徒たちには病欠だということになっているのである。

「委員会に顔出せなくて悪かったな」
「いえ、大丈夫ですよ。ただ、その、仕事溜まりすぎてるんですけど」

作兵衛はちらりと留三郎の表情を窺うようにしながら告げた。1年生たちも「頑張ったんですけど、終わらなくて」と表情を曇らせた。高学年の生徒が留三郎しかいない用具委員では、留三郎が抜けるとどうしても仕事が滞ってしまうのである。

「来週から俺も出れるから、一緒に頑張ろうな」

留三郎のその言葉に後輩たちは安堵の表情を浮かべて相槌を打って返事をした。

かれこれ2週間振りの町は祝日ということもあってとても賑わっていた。昼飯は学園で済ませているので甘味屋にでも入ろうと留三郎が提案すると、「美味しいお店知ってます!」としんべヱが先に走り出す。

「あ、こら、しんべヱ」

慌ててしんべヱの後を皆で追うと、まだ新しそうな店の前でしんべヱが足を止めて振り返り、手招きをした。

「新しく出来たぜんさい屋さんです!美味しいって噂で、ここにしましょう」
「…甘味屋はしんべヱが一番詳しいからな。よし、ここにするか」

留三郎がそう言うと、しんべヱは照れ、喜三太や平太、作兵衛は「はい」とにこやかに笑う。
店内はまだ新しく清潔であり、立ち替わり入れ替わり客が訪れる様子を見ると人気店なのであろう。留三郎は後輩を連れて入口に近い席へと腰を下ろした。入口に近い方が安心するというのはもはや忍者のたまごとして仕方のないことであり、そして店内にいる人達を一通り見てしまうのも仕方がないことであった。
ぜんざいは手軽な値段で、甘さは少々抑えられているものの上品な味で胸やけすることもない。これなら流行るだろうと留三郎は思いながら器を置いた。隣りではしんべヱがもう5杯目のぜんざいを食べていて、美味しそうに食べるその姿に留三郎は自然に笑みを浮かべる。

「しんべヱ、あんまり食い過ぎんなよ。食満先輩が払うんだぞ」
「そうだよ、しんべヱ〜、あんまり食べ過ぎちゃだめだよ〜」

しんべヱに声を掛けた作兵衛と喜三太へ「大丈夫だ」と笑いかけるとしんべヱは「これで終わります」と6杯目の器を手に取った。

「もっと食べていいんだぞ?」
「さすがのぼくもお腹一杯ですよ〜」

しんべヱは餅を頬張りながらそう言い、あっという間に6杯目を完食した。

「お前らもう食べたかー?」
「あ、先輩、平太がまだです」
「お、そっか。平太ゆっくり食べろよ」

申し訳なさそうな表情をした平太へ笑顔を向けて、留三郎を茶を啜った。町は平和そのもので、雑踏から聞える声はどれも穏やかなものだ。


会計を終えて店を出ると後輩たちが留三郎へと「ご馳走様でした」と頭を下げる。そんな彼らを留三郎は穏やかに慈しむような目で見つめた。

「失礼」

留三郎の右側を通過した人物の声に、留三郎のその穏やかな表情は崩れた。声に聞き覚えがあったのだ。それは思い出したくない夢の中でよく耳にする声で、背筋が凍って思考回路が止まった。

「ちょっとぼっちゃん落し物だよ」

また聞き覚えのある声がして、その声はしんべヱへと声を掛ける。視線を移すとそこに居たのは先ほどぜんざい屋にいた客の一人だった。

「あ、ありがとうございます!」

手巾を拾ってもらったしんべヱは声を掛けてきた男へと丁寧にお礼を告げて頭を下げる。

「拾ってもらえてよかったなーそれ、亀子ちゃんから送ってもらったものだろう?」
「そうなんですよ、富松先輩」

しんべヱは嬉しそうににこにこと笑って手巾を広げた。雪だるまの刺繍が入っているその手巾は前からしんべヱが大事にしていたものだった。

「先輩?君たちはどこかの学校に通っているのかい?」

手巾を拾った男がしんべヱへと声をかけ、しんべヱは「ぼくたちは忍術学園の生徒なんですー」とうっかり答えてしまった。作兵衛や平太が慌ててしんべヱの名前を呼んだが、もう遅く、相手の男は「ほう、忍者のたまごか」と意味深長に呟く。

「しんべヱ、忍術学園の生徒だってことは秘密にしなきゃいけないんだぞ。先生方にだって言われてるだろう」

作兵衛のその言葉に、しんべヱは「あ、そうだった」と慌てて口を抑えたけれどもう遅い。男はそんなしんべヱの動作を見て、「ハッハッハ、忍者のたまごと言えど普通の子供だな」と笑った。

「…ぼくは1年生だからまだまだだけど、6年生の食満留三郎先輩はもう強いんです!ね、食満先輩」
「あ、馬鹿」

しんべヱが自分の名前を呼ぶのを止めようとしたが間に合わず、「食満、留三郎ね」と別の男が留三郎の名前を口にし、留三郎の方を窺う。その視線はまるで値踏みをするかのようで、その視線にのまれてしまった留三郎は何も言葉を発することが出来ずに固まってしまった。視線に恐怖を覚えるなど滅多にあるわけではないし、この男達が手練に見えるわけではなかった。ただ、嫌な記憶が留三郎の脳裏を過り、それに対する嫌悪から体が動かなくなったのだ。

「おじさんたち、ぼくたちに何かようですか?」

喜三太が男達を見上げて尋ねると男は薄っすらと笑みを浮かべ、ちらりと留三郎へとまた視線を向ける。

「いやいや、君たちではなくて、食満留三郎くんに用があるんだ」

その声に、留三郎は息を飲んだ。彼らが留三郎を見逃すはずはないのである。

「え、先輩に?本当ですか、先輩?」

疑う様な喜三太の声に、留三郎は無理やり笑顔を貼りつけた。

「あ、ああ。本当だ。ちょっと用があるからお前たちは一足先に学園に戻ってくれ。あ、これで土産でも買うといい」

喜三太に少しばかりの小銭を握らせると平太としんべヱがすぐにその手の平を覗きこんだ。

「わぁい、団子が買える!買いに行こう」

喜三太と平太の手を引いてしんべヱが人混みへと走り出したのを、留三郎はほっとしたような心地で見つめた。

「あ、しんべヱ!」

傍らで立っていた作兵衛がしんべヱ達の背中へと声を掛け、留三郎はその肩を軽く叩く。

「あいつらから目を離すなよ。団子買ったらすぐに学園に戻って伊作にも分けてやってくれないか?」
「あ、はい。善法寺先輩の分も買っていきます」
「おう。頼んだよ。すぐに俺も帰るからさ」
「はい」

作兵衛はぺこりとお辞儀をしてすぐに1年を追いかけて走り出す。留三郎はその背中が遠ざかり、人混みに紛れて見えなくなるのを安堵しながら見つめていた。

不意に肩を叩かれ、耳元で名前を呼ばれる。その声に思い出したくない事を思い出し、鳥肌が立った。

「さぁて、食満留三郎くん。互いに話があるだろうし、移動しようか」

まるで子供へ言い聞かせるような優しいその声を留三郎は鼻で笑った。すると肩へと回された手が留三郎のまだ細さが残る肩を強く掴み、後ろへと回された腕も別の手に掴まれてしまう。それでも留三郎は、後輩たちから男たちを遠ざける為に抵抗などせずに素直に歩いた。


廃寺から逃げられたと聞いた時はまさかこんな近くで身を潜めているなんて思いもしなかったというのに、留三郎が連れてこられたのは町のはずれにある一軒家だった。家としての機能を果たすかどうかすら怪しいこの古い家がこいつらの今の隠れがなのだろう。ここ二週間、学園内から出ていないのだから気付けるはずもなかったはずなのにこんな近い場所に潜伏していたのかと思うと気付かなかった自分に猛烈に腹が立つ。
古いその家の中へと連れ込まれるなり、男は留三郎を壁へと押しつけた。壁の冷たさを左の頬で感じながら留三郎は男達を睨みつけるため必死で振り返ろうと身を捩る。そんな留三郎の腕を掴んでいる男が更に力を込めた。振り解くことが不可能だと分かると留三郎は身を捩るのを止めて傍らに立っている男を睨みつける。

「忍者にしては子供だと思ったが、まだ正式な忍者ではないのだな」

そう言いながら家に入って来た男は相変わらずこの町でさえも浮きそうな綺麗な出で立ちをしていた。狡猾そうな瞳が留三郎を捉えて細くなる。その目を留三郎は無言で睨みつける。

「何か言いたそうだな、言ってみろ」
「…俺を、殺しに来たんですか」

留三郎の声は微かに震えていた。声を出してはじめて留三郎は自分が恐怖を感じていることに気付いた。

「はは、確かに探してはいたが、まさか殺すわけはなかろう。ただ心配でな、頭痛やだるさに悩まされてはないか?」

男の言葉に留三郎は驚きを隠せなかった。確かにそれらの症状は留三郎を襲っていて、また、どんな頭痛薬も効果がなくて困っていたのだ。

「図星というわけか。まだ一人前の忍者とではないと言えどこうも簡単に中毒になるとはなぁ。これは本当に城を落とせるかも知れぬな」

男は笑いながら手拭を取りだして広げる。そしてそれを留三郎の顔へと近付けた。

「…な、に」

顔を背けようとしたが、後ろから顔を抑えつけられてしまいそれは叶わなかった。吸いこんだ空気の中に、甘い香りが漂い、呼吸をするたびにその匂いは肺へと流れ込んでしまう。逃れようとしても逃れられず、留三郎は随分とその匂いを吸いこんでしまった。

「どうだ?頭痛も引いただろう?」
「…これは、何なんだ、よ」

男の言うとおり、頭痛もだるさも嘘みたいに引いていて、かわりに体に力が入らなくなっている。景色が妙にゆっくりと見え、留三郎は自分が揺れていることに気付いた。

「お前は知らなくていい。頭痛が引いて今はいい気持ちだろう?それだけでいいんだ」

背後から留三郎の腕を掴んでいた男が留三郎の胸元へと手を伸ばした。服の隙間から手が入ってきて胸元を弄られる。指先が執拗に乳首へと触れ、留三郎は抵抗しようとしたが体にうまく力が入らない。息を殺すことくらいしか今の留三郎には出来なかった。

「君を探していたのは殺す為ではないよ。こやつ等が君の体をいたく気にいったらしくてな、女なんかより具合がいいらしいじゃないか。私らの計画にその体を貸してもらえないか聞きに来たんだ」

扇で口元を隠して目を細めた男を留三郎は無言で睨みつけた。視線がぶつかる音すら聞こえてきそうな程に室内は静かで、そしてまだ陽が昇っているはずなのに暗かった。

「…交渉決裂か、なら仕方ない。後はお前ら好きにしていいぞ」

男はそれだけ言い残すとそらくは留三郎を昏倒させた忍者である男を連れて出て行く。部屋に残されたのは留三郎と留三郎を抑えている男、そして背後に更に二人の気配を感じる。

「縄抜け出来ぬように腕を縛れ」
「あぁ、これで逃げられねぇだろう」

腕を布できつく結ばれ、床へと倒された。男達は留三郎の周りに立っていて、欲に塗れた目で留三郎を見下ろしている。夢と同じ光景だった。ただ違うのは、男達の顔がちゃんとはっきり見えることと、これが夢ではなく現実だということだ。

「そんな初めてみたいな顔をするのはよせよ」

目の前に立っていた男はにやりと汚らしい笑みを浮かべてそう言った。

「一回交わった仲じゃねぇか。仲良くしようぜ」
「そうそう、お前だってそろそろ溜まってんだろ?」

一人の男の手が留三郎の服へと伸びる。男達から顔を背け、肌に触れる空気の冷たさに留三郎が耐えていると男の手が留三郎の鎖骨へと伸びた。

「何だ、もう他の奴に慰めてもらってるのか」

文次郎が付けた跡に触れ、そんな言葉を吐いた男に留三郎の怒りは一瞬で爆発した。

「…お前らとアイツを一緒にすんな」

噛み付くようにそう言うと、目の前で男達が愉しそうに笑う。

「薬が効いている時は大人しかったが、これはこれで楽しそうだ」
「なぁ、楽しもうや」

男の舌が自分の肌の上を這うのを留三郎は悔しさに唇を噛みしめながら見つめていた。






(2010/04/20)